魔法

 その日の晩は、自宅でピーちゃんから魔法の講義を受ける運びとなった。


 帰宅後に夕食とお風呂を終えて、心身ともにサッパリとしてからのこと。デスク正面の椅子に腰掛けたこちらに対して、部屋の隅に設けた三段ボックスの上、ケージから外に出て金網の上辺に止まった彼、といった配置だ。


 手狭いワンルームなので、当面はこちらの位置関係が、自分とピーちゃんの距離感になりそうである。


「……なるほど、呪文を唱えてイメージをすると出るのかい」


『貴様には我の力を分け与えた。なので魔力については心配する必要はない。大半の魔法について、魔力が不足することはないだろう。適切な呪文を唱えた上で、十分なイメージを描くことができたのなら、魔法を使うことができる』


「意外と普通だね」


『何が普通だ?』


「ああいや、気にしないでいいよ」


 そうなると問題になるのは呪文の取り扱いである。原稿用紙一枚分とか言われたら、とてもではないけれど、そう幾つも覚えられる気がしない。ファンタジーゲームの詠唱と同じくらいだとありがたいのだけれど、そこのところどうだろう。


「詠唱ってどのくらいの長さがあるのかな?」


『ものによりけりだ。短いものがあれば長いものもある。最も短いものでは数言の単語の連なりに過ぎない一方、長いものでは本一冊分に相当するものもある。後者については、暗証することはまず不可能だろう』


「かなり幅が広いんだね」


 想像した以上だった。


 学生の時分、国語の授業の音読を思い出す。先生に指名された直後、教科書を正面に構えながら、声高らかに流行りのアニメに登場する魔法の呪文を詠唱し始めた大河内君、彼は今も元気でやっているだろうか。


 見事に滑った後始末、授業終了を知らせるチャイムが鳴らなかったら、きっと大変なことになっていた。


『慣れてくれば詠唱を省略することも可能だ。ただし、その場合はより鮮明なイメージが必要になる。この辺りは言葉で説明することは難しいが、数百、数千と繰り返し使っていれば、段々と身体に染み付いて使えるようになる』


「こうして聞いてみると、思ったよりも技能的なお話なんだね」


『うむ、故に魔法の習得には時間が掛かるのだ』


 もう少し技術的なものだと考えていたので、これは大変そうだ。


 要はイラストの制作みたいなものではなかろう。初心者はアタリを十分に取ってから下書きを始める一方、プロは目分量で下書きを書き始める。場合によってはいきなり主線を入れ始めることもあるかもしれない。


 それが詠唱であり、その省略ではなかろうか。


 このように考えると、なかなか先の長い話のような気がしてきたぞ。


「個人的には今朝やってもらった場所を移動する魔法が使いたいんだけど」


『あれはそれなりに高度な魔法となる。詠唱はそこまで長くないが、一方でイメージを確立することが非常に難しい。魔法を学び始めて最初に習得する魔法としては、あまり勧められないな』


「なるほど」


 それでも自分は瞬間移動の魔法が使いたかった。


 満員電車をスキップできる、通勤時間をゼロにできる。それは都内で働く社畜にとって、他の何事にも代えがたい価値である。夏は北海道、冬は沖縄に格安の家賃で住まいを確保しつつ、都内の勤め先に勤務する。そんな夢さえ叶えられるのだ。


 是が非でも手に入れたい。


 ちなみにピーちゃんには本日、事前に地図アプリで会社の位置と周辺の景色を確認してもらった上で、現地まで送って頂いた。一度訪れた場所でないと向かうことが難しいという話ではあったが、意外となんとかなるものだとは、彼も驚いていた。


 恐るべきは衛星写真と魔法の合わせ技である。


「それじゃあ、二つの魔法を同時に学んでいきたいと思うんだけれど、それでも構わないかな? 一つはピーちゃんが一番覚えやすいと思う魔法。そして、もう一つが場所を移動する魔法。どうだろう?」


『なかなか意欲的ではないか。貴様は魔法に興味があるのか?』


「魔法にというよりは、場所を移動する魔法に興味があるよ」


『そうか、ならば精進するといい。呪文については教えよう。また、当面は会社とやらまで我が送ってやってもいい。あの魔法は自ら術を体験することによって、そのイメージを確立しやすくなるだろうからな』


「ありがとう、とても助かるよピーちゃん」


 そんなこんなで夜の時間は過ぎていった。


 魔法を使うのに必要な呪文については、ピーちゃんが口頭で教えてくれたものを手帳に書き出した。場所移動の魔法が原稿用紙半分ほどである一方、もう一つの魔法に関しては、俳句ほどの長さであった。


 これらは仕事の合間にでも確認しながら覚えるとしよう。


 何事もコツコツとやっていくのがいい。慣れないことを急に頑張ったりすると、すぐに息切れを起こしてしまうからな。地道に頑張っていくのが性分にあっている。ただ、それでも場所を移動する魔法については、急ぎたくなる魅力を感じていた。




◇ ◆ ◇




 問題は翌日、自身の勤め先となる職場フロアで発生した。


 原因は魔法だ。


 昼休み、手帳を片手に早速呪文の一つを呟いてみた。場所移動ではなく、ピーちゃんから簡単な魔法だと説明を受けた方だ。なんでも詠唱とイメージが成功すると、指先に小さな炎が灯るとのことである。要はライターのような魔法だ。


 場所はトイレの個室。


 すると思ったよりも大きな炎が立ち上がった。


 ライターというよりは、ライターの火に対して可燃性のスプレーを吹きかけたような勢いがあった。おかげで前髪が焦げてしまった。ただでさえ寂しい頭髪が殊更に寂しくなって、軽くショックを覚えた。


 直後に火災報知器が作動して、それはもう大変なことになった。まさかバレては問題なので、大慌てでトイレを脱した。そして、賑やかになったフロアに戻り、騒ぎ出した周囲の面々と合流、素知らぬ顔でトイレを眺めていた。


 幸いにして犯人は不明のまま、誰かがトイレの個室でタバコを吸ったのだろう、ということで話はまとめられた。タバコを吸う習慣のない自分は真っ先に候補から外されて、事なきを得た次第である。


 帰宅後、その話をピーちゃんにしたところ、嬉しいお言葉をもらった。


『どうやら貴様は、我が考えていた以上に適正があるらしい』


「適正?」


『一発で成功するとは思わなかった。大したものだぞ』


「こうしてピーちゃんに褒められると、なんだか嬉しいね」


『誇ってもいい。いつか我を超える日が来るやもしれん』


「場所移動の方も、頑張れば可能性があるってことかな?」


『どれだけ早くても数年は掛かるだろうと考えていたのだが、この調子であれば期間はグッと縮まることだろう。ただし、それでも数日でどうにかなるようなものではない。地道な精進を忘れぬことだ』


 高校入試に大学入試、各種資格試験と、試験と名のつくものに囲まれて育った現代人であるから、一つの物事に数年スパンで挑むことには慣れている。趣味のギターも気が付けば、かれこれ始めて数年が経つ。


「早速で申し訳ないけれど、他の魔法を教えてもらってもいい?」


『そうだな、ならば次は……』


 ピーちゃんは気前よく呪文を教えてくれた。


 おかげで自宅のパソコンには綺麗にフォルダ分けされて、攻撃魔法だとか、回復魔法だとか、炎属性だとか、水属性だとか、とてもファンタジーなファイル群が作成される運びとなった。まるで小説家にでもなったような気分である。


 当面はこれら呪文の暗記が日課になりそうだ。


 なかには原稿用紙一枚超えの代物もあった。


 ピーちゃんってば、よくまあこんなに沢山覚えていたものだ。

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