ピーちゃん 三

 翌日は平日、定時出社を義務つけられた社畜は会社に向かう。


 ただし、本日は少しばかりその様相を異にしていた。


「本当に一瞬で移動できるのかい……」


 ピーちゃんが呪文を唱えたら、こちらの足元に魔法陣が浮かび上がった。その直後、周囲の光景が自宅玄関から、勤め先に面した裏路地に変化していた。僅か一瞬で十数キロという距離を移動である。


 おかげで本日は満員電車を回避。これほど嬉しいことはない。


 日頃から席の奪い合いでバトっていた一回り年上の壮年男性。彼との決着を不戦敗で見送るのは悔しいが、ひと足お先にネクストステージに立てたと思えば、これはこれで喜ばしい出来事である。


『だから、そう言ったであろう?」


「いや、それはそうかも知れないけれど、やっぱり驚くでしょ」


『そもそも貴様は昨日にも経験している筈だ』


「あれはほら、別世界に行くための手立てだと思っていてさ」


『基本となる考え方は同じだ』


 肩に止まったピーちゃんと、ボソボソと言葉を交わす。


 幸い周囲に人の姿は見られない。


 魔法を使えば会社まで一瞬で移動できるというから、ものの試しに頼んでみたら、本当に移動してしまった。おかげで年甲斐もなく興奮している。とてつもない可能性を感じさせる魔法ではなかろうか。


「これって僕にも使えるのかな?」


『現在の貴様は我の魔力を得たのみで、行使に必要な力こそあれど、魔法を使うことは不可能だ。だが、日々の鍛錬を忘れなければ、いずれは同じように行使できるようになるだろう。ただし、ものによっては時間がかかるやもしれん』


「あ、それもう少し詳しく知りたいんだけれど……」


『仕事から帰ってきたら教えてやる』


「本当? ありがとう、ピーちゃん」


『我は貴様の家で待っていよう』


 俄然、退社後のひとときが楽しみになった。


 今日はなるべく早めに仕事を終わらせて家に帰ろう。


「トイレはちゃんとケージのトイレでしてもらえるよね?」


『大丈夫だ、承知している』


 短く呟くと同時に、ピーちゃんの姿が魔法陣と共にどこへとも消えた。


 トイレまで即日で覚えてくれて、なんて賢い文鳥なのだろう。


 これで一羽三千円なのだからお買い得だ。


 他の子よりも若干お値段が安かったのが、未だに気になっている。




◇ ◆ ◇




 職場の風景はいつもどおりだ。


 これといって名前が売れている訳でもない、どこにでもある中小企業の商社である。おかげで売上もパッとしないし、給与もパッとしない。当然、残業代も出ないから、生活は就職当時からカツカツだ。


 それでも転職できないのは、気づけば三十路を越えていた自身の身の上の問題。就職氷河期を経験した自分にとって、社会はとても恐ろしいものだった。おかげでこの歳まで扱き使われている。


 そして、これからも死ぬまで使われ続けるのだろうと考えていた。


「先輩、この決裁なんですけど、ちょっと見てもらっていいですか?」


「んー?」


 隣の席の同僚から声を掛けられた。


 入社から四年目の新人だ。


 高専を卒業してすぐに就職したので、今年で二十四とのこと。


 他所の会社だと四年目ともなれば、十分に戦力として数えられることだろう。弊社でも仲間としては申し分ない。しかしながら、彼より上の年代が一回り近く離れている為、未だに新人と呼ばれている可愛そうな青年だ。


 個人的な意見だけれど、フロアで一番仕事ができると思う。


「……あぁ、それならここの文面がちょっと気になるかな」


「あ、やっぱり気になりますか?」


「あの部長は面倒くさいからね。もう少し説明を入れたらいいと思うよ」


「ありがとうございます」


「こんなどうしようもないことで君の時間を使うことはないから、気軽に聞いてくれて構わないよ。むしろ自分に丸投げしてくれてもいいから。その代わり君には、もっと仕事的な仕事をしてくれたら嬉しいかな」


「仕事的な仕事ってなんっスか」


「それはほら、他所でも通用するような仕事とか……」


「…………」


「……どうしたの?」


「いえ、先輩の言うことは尤もだと思いまして」


「でしょ?」


 まだ若いんだし、彼にはもっと他に活躍できる場所があると思う。


 こんな草臥れた会社の冴えない担当で時間を重ねることはない。


「ちょっとタバコ、行きません?」


「いやいや、僕はタバコを吸わないから」


「それだったらジュースでもいいっスよ」


「まあ、それなら……」


 誘われるがままに席を立って移動する。


 普段なら同じフロアに設置された自動販売機の下に向かったことだろう。しかし、彼の歩みはその正面を通り過ぎて屋外へ。一体どこへ向かうつもりかと疑問に感じつつも、素直にその背中を追い掛ける。


 やがて辿り着いた先は、弊社が収まる建物の裏路地だ。


 道幅は二、三メートルほど。


 自動販売機も見当たらない。


 人気も少ないこのような場所で何を話そうというのか。


 疑問に思っていると、同僚は真剣な面持ちで語り掛けてきた。


「先輩、俺と一緒に独立してもらえませんか?」


「え?」


「来月でこの会社を辞めるつもりなんです」


「……なるほど」


 思ったよりも重い話だった。


 詳しく話を聞いてみると、半年前から起業の支度を始めていたとのこと。既に幾つか、彼が抱える取引先とも話は進めているらしい。チームとしては、学生時代の知り合いにも声を掛けており、それなりの人数が集まっているのだとか。


「先輩のような経験豊富な方に、是非お力添えしてもらいたくて」


「…………」


 ただ、全体的に年齢が若いため、一人くらい年を取った人間を入れておいた方がいいだろう、みたいな感じで自分に声が掛かったらしい。誘ってくれたことは非常に嬉しいけれど、かなり急な話だったのでびっくりした。


「お願いできませんか? 今より待遇も良くなると思います」


「そ、そうだねぇ……」


 流石にこの場でお返事はできないでしょ。


 昨日にはピーちゃんをお迎えしたことで、割と時間にも余裕がない。


「少しだけ考える時間をもらってもいいかな?」


「はい、それはもちろんです。なんだったら一年くらい、外から様子を見ててもらっても大丈夫です。やっぱり俺らみたいな若いヤツが起業だなんて、不安になりますものね。それが当然だと思います」


「いや、そういう訳でもなくて、今はプライベートが忙しいっていうか」


「え? あ、もしかしてご結婚されるとか……」


「……いいや、それも違うけど」


「そ、そうッスか? すみません、なんか変なことを聞いちゃって」


「でも誘ってくれたことは嬉しいよ。ありがとうね」


「滅相もないです。前向きに検討してもらえたら嬉しいです」


「うん」


 なんでも代表を務めるのは彼だという。前から優秀だとは思っていたけれど、この若さで起業だなんて大したものである。そんな相手から、こうして直々に声を掛けてもらったというのは、存外のこと嬉しい出来事だった。


 もしも役に立てることがあったら、改めてお返事させて頂こうと思う。

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