第19話『不倶戴天の―――』
彼女と最初に会ったのは、10歳の頃だったと思う。
親からの強制と、自分にも多少興味があったから、ピアノを弾き始めた。
才能は元からあるものなんかじゃなくて、見つけ出し育んでいくものだと、幼いころに読んだ本に書いてあった。
その言葉が、当時から私の脳裏に存在していた。
平日は6時間近く、休日は半日以上、指が白い舞台の上を踊っていた。
褒めてくれる誰かがいるわけでもなく、幼少期特有の無我夢中さで、弾き続けていた。
私を高揚させるものと言えば、コンクールで一番を取ること。
それだけが、私を私たらしめるものだった。
でも、そのアイデンティティーは流れ星が降ってきたせいで、粉々に砕け散った。
『お母さん、お母さん! ほら、一番取れたよ!』
初めて負けた。完敗だった。
苦労を苦労と思わない、次元が違う、天才。
私と彼女のどこに差が存在したのかと言えば、親の存在と、本人の意識。
ピアノを弾くのが楽しい、半日以上弾くことだってヘッチャラ。
賞なんて、それこそ『楽しく弾く』行為のその延長線上にある。いつも弾くのと変わらず、鼻歌でも唄うみたいに奪っていった。
私は初めて、自分でもハッキリと自覚できるくらいに、他人に嫉妬した。
嫉妬も憎しみも、全部飲み込んで、私は練習に明け暮れた。
彼女は越えるべきものだ。なんとしてでも、自分の手で撃ち落とさないと。
焦る気持ちは空回りをして、自分自身を蝕んでいく。
そうして、数年が過ぎた。
あの頃から万年二番手で、自分のやっていることに嫌気が差していた。
変化は唐突だった。栄枯盛衰は世の習い。永遠なんてこの世のどこにも存在しないのだから。万年二番手なんて終わりが来て当然だった。
でもそれは、私が一番望まないエンディング。
彼女は逃げた。私は残った。それでいいじゃない。
『いいわけないだろ』
目標を見失い、私も彼女の後を追うように表舞台から姿を消した。
「お久しぶり。また会いましたわね」
私たちは運命の赤い糸で結ばれていると、そんなオカルトをこの時ばかりは信じたくなった。
放課後の廊下、運動部員たちの号令が閉め切った窓を通して聞こえてくる。
オレンジ色の夕焼けが眩しく光るこの場所で、私は仇敵と再会した。
とにかく二人きりになりたかった。誰にも邪魔されないタイミング、それは今しかない。
「お母さまのことは残念でしたわね」
「……」
彼女の目が驚きで見開かれる。まだ一部の人間しか知らないはずの情報を私が持っていることへの驚き、そして怒り。
「ピアノは弾かないのかしら」
「……あなたに関係ありますか、一条さん」
「ええ。あなたに追い抜かれたあの日から、私はあなたに勝ちたいと思って、ずっと練習してきたのですから」
「私は、あなたのサンドバッグじゃない……」
「あなたがどう感じようと、知ったことではありませんわ。私が聞きたいのは、もう一度ピアノを弾く気があるのか。それだけ」
心の弱みに付け込んで、間髪入れずに捲し立てる。
少しだけ、自分でも嫌な女だと思ってしまう。
「あなたに、言うことは何もありません」
「そう」
ここまでは想定通り。だから。
「——————私には、一生勝てません」
そのささやかなすぎる抵抗に、頭の中が真っ白になった。
「あなたはッ」
「……ッ」
「私に勝ったんでしょ、才能が有るんでしょう! なら、あなたは何をしているの!」
「——————え」
目の前の彼女が呆けたような顔をする。それからバツの悪そうな顔をして呟いた。
「だから……あなたにはなんにも関係ないんですよ……」
その舐めた口調が癪に障る。
「う、ぐっ……」
その日、私は初めて人を殴った。平手打ちをされたはずの彼女だけじゃなくて、私の手も痛みを発していた。こんなにも心が痛いだなんて、私……知らない。
「……気に入らないですわ、貴女のその態度が。その口調が。どれだけ余裕ぶって……私を惨めにすれば気が済みますの!?」
口から出た言葉は絶叫に近かった。誰に聞かれていようと、もうどうでも良かった。
「私のことが、そんなに妬ましいんですか……?」
「ええ、それはもう! 貴女は何度も、私の前に立ちはだかって、私の上に立ち続けてきた! ……でも、今の貴女にはこの手は必要ありませんものね!!」
その手を踏みつけるために足を振り上げて……
「っ……」
「あっ……」
呆けた顔をする彼女を置いて、その場を走り去る。
迂闊だった。この時間なら誰もいないと思っていた。でも、今日が必ずそうだという保証はどこにもない。乱入者が誰なのか、確かめる暇もなかった。
——————たぶん大丈夫、誰も来ないと思う。
そう思うと、急に心が楽になってきた。
「私って、なんてバカ……!」
やってしまったことは仕方ない、なんて言葉で許されない。彼女に手を上げてしまった。
真っ黒に煮詰まった心を解き放って、返って来たのは後悔だけだったなんて。
「ぁ、あああ、っ……」
必死に声を押し殺すけど、涙だけは止まらなかった。
私のすすり泣く声が、夕暮れのオレンジ色の空に溶けていった。
***
「いやぁ……、思わず手が出ちゃったのは分かるんだよ? でもやりすぎっていうか……」
私の目の前には外見50代くらいの男性。彼の名前は、瀬海修一。確か実年齢は40代半ばだったはずだけど、白髪交じりの頭がその外見を老けて見えさせた。
あの子を殴ったその翌日にこうやって呼び出された。学校から徒歩20分のところにある、駅前の喫茶店。
時刻は午後8時を回り、客の入りも上々。夜は長いとはこのことかも、と思った。
「琴さんの件は、本当に申し訳ございません。私が彼女にしたことは、弁解の余地もありません。何なら……」
「ああ、いいんだ。別に慰謝料を取ろうって、キミを脅しにきたわけじゃない。そうだね……一条さんから見て、琴はどんな風に見える?」
「何ですか、急に」
「いいから。あの子の印象を、他の人から聞いたことがなかったから」
印象って、そんなの決まってる。
「天才です。私以上の努力を、あの人は事もなげにやり遂げてしまう」
それを聞いて、修一さんは静かに目を閉じてゆっくりと呟いた。
「……キミにとって、琴はどういう存在なんだい?」
どういう存在?
私の心の中に、一滴、何かが落とされた。
それは毒のように思えた。
「あ……そう、ですね」
「うん」
俯く私を、目の前の人は急かしたりしない。本当にこんなことを言わせる気なのか。
たぶん、お見通しなんだ。経験の差ってやつ。
「不倶戴天の『友達』……ですかね」
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