第18話『広がる世界、二つ』

 月曜日の放課後、僕はまた瀬海さんと練習に励んでいた。

「ちょーっと速いかなぁ……」

「えっ……!」

「うーん、遅いですね……」

「……っと」

 一つ指示が出される度に、僕は慌てて修正を図る。その修正でまたタイミングが狂う。ずっといたちごっこで、お世辞にも捗っているとは言えないありさまだった。

「……」

「……?」

 カツン、カツンと足音が近づいてくる。しかも速い。

 僕の指が止まったことに、少し眉をひそめている。

 ふたり顔見合わせて黙り込みながら、その『誰か』を待った。


「失礼しますわ」

 自信に満ち溢れた声で音楽室のドアを開けたのは、委員長こと一条香織だった。

「い、委員長!」

「……っ!?」

 瀬海さんは顔を強張らせた。拳を握って、僅かに身構えてすらいる。

「失礼、二人の時間を邪魔したのなら、謝罪しますわ」

「あの……勘違いしないでください。高島くんは私の生徒なんで。それ以上でもないしむしろそれ未満——————」

「それ未満ってなにさ! 今日は一段と当たりが強いね!」

 僕が突っ込むと委員長は咳払いをする。

「話の腰を折らないで頂けます? 単刀直入に言いますわ、瀬海琴」

 そうして委員長は瀬海さんの前まで来て、人差し指を突きつける。

「私と、一曲勝負して頂けませんか?」

 一曲勝負って、ピアノ……?

 いや、でもそれは。

「——————」

 瀬海さんの表情は、後ろにいる僕からは窺い知れない。

「分かりました。良いですよ」

 ハッキリとその挑戦を受けた。でも、握りしめられたその拳は、僅かに震えていた。


「曲は……『BRILLIANT WINTER』で構いませんわね?」

 委員長は椅子に座り、横目で僕らに尋ねてきた。

「それは良いんだけど、いったい誰が勝敗を決めるんだよ。公正な判断ならそれこそ僕じゃなくて―――――――」

「誰が、あなた一人だけと言いました?」

「っ!」

 その言葉に瀬海さんの体がブルッと震える。その反応で、僕も真相が理解できた。

「まさか……」

「ええ。さぁ、お入りくださいな」

 ドアが勢いよく開き、次々に人が入ってくる。最初は委員長の友人から見たことない人たちまで。

「って、なんだなんだ! おい、雄介これって……」

 最後に入ってきたのは僕の友人、孝昌。この事態を見かけて慌てて飛んできてくれたらしい。

 委員長も流石に予想外だったのか目を丸くしたあと、あなたも、と十数人の観客に孝昌を組み込んでしまった。

「こんなの出来レースだ! 委員長がかけ集めた人の判定なんて、こっちが不利になるに決まってるだろ!」

「ええ。だからなんですか?」

 彼女は悪びれもしない。

「瀬海琴はピアニスト、そうでなければならない。私以上に才能がある人間が、この体たらく。……許せない。許せないからこそ、ここで引導を渡します。この私が。私以外にありえませんし、私以外許さない。もっとも、――――――」

 勝敗なんてどうだっていい。

 彼女はその先を口にせず、ニヤリとする。


 そうして、委員長の指が鍵盤を叩く。

 空気が微かに、でも確かな震えを以って、耳に届く。

 その第一印象は、世界が違う、だった。

 『私を見ろ』と叫んでいる。小節が進む毎に、指が音を奏でる毎に、その声は強く耳に届く。聞くもの手を掴み、引きずり込もうとする世界。


 は、認識を、自分を拡張する世界。優しく包み、手を取って連れて行ってくれる世界。でも、寂しい世界だ。


 静と動。とでも表しておこう。それほどまでに、決定的に違う世界だった。

 

「——————」

 瞬間の静寂。その場の誰もが圧倒されていた。

「……」

 瀬海さんでさえも。

 椅子を引く音で我に返る。

 次は彼女の番だ。

「——————っ」

 拳をグッと握りしめ、僕の隣を抜けていく。

 心配からだろうか。瀬海さんの一挙手一投足、風に翻る髪が、僕のモノクロの視界に焼き付いて離れない。

「瀬海さん」

 咄嗟に後悔した。言うべきでは無かったんだ。

 僕が声を掛ければ、その声のわずかな震えで、不安を悟られてしまうかもしれなかったのに。

「高島くん。大丈夫ですよっ。うん、大丈夫……」

 瀬海さんは、少しだけ顔をこちらに向ける。こちらから見えるのは口元だけ。

 目を合わせてくれないことが、今の僕にとって、堪らなく恐ろしかった。

 そのまま彼女は椅子に座る。少し口元が緩んだように見えたけど、すぐに引き締まる。

 その目は何を、誰を捉えていたのか、僕にも、もちろんこの場の誰にも分からなかった。


 張り詰めた緊張の糸が限界まで引き延ばされたとき、その空間を弦から生じた一音が叩き割った。

「……」

 それは奔流だった。音の、奔流。

 一音それぞれ、僕らを包み込んで、その音は自然と心惹かれる。

 暖かい。その音で、凍り付いた僕が、昔の僕がフラッシュバックする。

 僕が前を向けたのは、心を溶かしてくれたのはこの音だ。彼女が作り出す音なんだ。瀬海琴という少女が作り出す音。 


 でも、思い出は美化されるのだから。

 今聞いている音は、暖かくも、どこか寂しさを含んでいた。


「……なんだ?」

 誰にも聞かれないように、声をほぼ出してないレベルで呟いた。

 どんどん泥沼に嵌っていく。


 テンポ? 

 

 いいや、違う。音やテンポに、寸分の狂いも生じていない。

 それは忌々しげに彼女を見つめる委員長が証明している。


 彼女の演奏にどこかズレを感じている。

 その原因は、彼女自身にあるんだと、今になって僕は気づいた。

 

***


『私と、一曲勝負して頂けませんか?』


『曲は……『BRILLIANT WINTER』で構いませんわね?』


 一条さんのその言葉に、私は凍りついた。

 

 母が死んだ。その出来事は、とても衝撃的だったけれど、影響は出ないと思ってた。

 精確無比に弾いていくのなら、感情を表現するわけではないのだから、大丈夫だろうと。

 でも弾けなかった。母が亡くなったことより、そのことが私の心にどす黒い影を落とした。


『私はもうマトモに弾いてない』


『逃げてしまえば良い」


 そう、逃げればよかったんだ。私は別にプライドが高い訳じゃない。

 それに、逃げたって誰も責めない。父も、母も、工藤さんや叔父さんだって私を責めたりはしなかったと思う。


『嫌だよ』


 それでも他ならぬ私がそれを許さない。私の半身を、どうして切り捨てることができるだろう。

 雁字搦めだった。進みたくても、心に身体が追いついていかない。いや、ひょっとすると心さえも。


 出だしは順調だった。

 不安は大きかったけれど、指が鍵盤を叩いた瞬間から、気持ちは羽毛のように軽かった。まるで昔のように、弾けるかもしれないって思った。


でも、


どうして、


どうして……


どうして、そんな目をするんですか?

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