解けない魔法10
イーサンの気分は高揚していた。
五年前、女性が悲鳴をあげたことから、彼は好奇の視線にさらされた。
誰も好意などとはほぼ遠い表情であり、怯え、侮蔑、そのような感情がひしひしと伝わるものだった。
しかし今日は確かに好奇の視線ではあるが、女性からは憧れの目を向けられ、恥じらい気味にダンスに誘われる。
隣のジャスティーナは微笑みを浮かべたままだったので、大丈夫かと気軽に誘いに乗る。ダンスは五年前に社交界に出るために練習したっきりだったが、体は覚えており、女性をうまくリードして踊り続けた。
彼はハンクに、普通の男性としてジャスティーナと夜会に参加したいと言ったのだが、そのような気持ちは、高揚感によってどこかに追いやられていた。
そうしてどこか夢心地で踊っていると、イーサンはある女性に気がついた。
結婚適齢期を過ぎつつある二十代の令嬢、くすんだ金髪に茶色の瞳。ドレスは流行の形で、色はジャスティーナがきているものより、明るい赤。
彼女の年齢にしてはあまりにも派手で明るすぎる。
五年前より、かなり老け込んだ印象はあるが、顔立ちは同じで間違いなかった。
気がつくと、イーサンは彼女のところへ歩き出していた。
視界の端でジャスティーナが動いたのがわかった。けれども、彼はその女性へ誘いをかける。
彼女の名はオリヴィア・ヘルナンデス。
子爵令嬢であり、五年前のあの時、彼女もイーサン同様初めての夜会であった。
美青年であるイーサンが名乗った時、オリヴィアは戸惑っていた。
だが、彼の蕩けるような笑顔にほだされ、その手を取る。
「あの時は本当にすみませんでした。驚かせてしまって」
すこし低めの落ち着いた声、今の容姿と相まってイーサンの言葉は令嬢にとっては、とても刺激的で、オリヴィアは頬を赤らめ、小さな声で答える。
「私こそ、申し訳ありませんでした」
イーサンがあの時の昆虫男爵であることはもちろん理解しており、五年前に仮面を取った彼の顔を見て悲鳴をあげたことも覚えているはずだった。
通常なら、そんな相手が再び踊りに誘うなど考えられない。
そう考えるはずなのが、イーサンの変化した姿は魔法のように彼女の判断力を鈍らせていた。
体を密着させ、甘い言葉をかける。
イーサンは、どろどろと自分の中の黒い感情が形になっていくのを感じていた。
――あの時、こいつは俺の顔を見て悲鳴をあげた。けれどもどうだ。顔を変えた俺に対する態度は?ならば、俺は、復讐すべきじゃないか。あの時、俺が受けた痛みを彼女に与えるべきじゃないか。
オリヴィアは彼の思いに気がつかないまま、うっとりと見とれている。
――大勢の前でこっぴどく振ってやる。今の俺にはそれができる。
「オリ、」
オリヴィアの表情が急に変化する。
それは、あの時と同じ。
腹部が突然圧迫されたような痛みが走る。
――悲鳴を上げられる!
「イーサン様」
悲鳴よりも先に、愛しい女性の声がして、柔らかい感触が体を包んだ。
☆
その女性のことをジャスティーナも知っていた。
以前モリーに教えてもらっていたからだ。
だから、イーサンが彼女に向かって歩き出した時は、意味がわからなかった。
体を密着して踊り続ける二人。
だが、ジャスティーナには、イーサンの表情が暗いことに気がついた。
そうして、目で追っていると、急にイーサンの顔が元に戻った。
周りがざわめく。
ジャスティーナは反射的に駆け出していた。そして驚愕の表情を浮かべた彼女とイーサンの間に入り、彼を抱きしめた。
「ごめんなさい。この人は私の婚約者なの。なので、あなたには渡さないわ」
ジャスティーナはイーサンから離れ、彼を守るようにオリヴィアの前に立つ。
「な、何を言っているの?誰が、こんな昆、」
「オリヴィア様でしたか?あなたにはこの人の魅力がちっともわかっていないわ。だから、そんな年齢までお一人なのね。おかわいそうな方。さあ、イーサン様、参りましょう。こんな方相手にするだけ時間の無駄だわ」
「な、なんてこと。そんな醜い顔の男のどこがいいの!」
「醜い?どういう意味ですか?醜いっていったら、あなた様の格好ではないですか?年甲斐にもなく、その派手なドレス。化粧。お化粧は厚すぎてひびが入ってらっしゃるわ」
「この子!言わせておけば」
オリヴィアが激情に駆られたのか、その手を振り上げる。
ジャスティーナは痛みを覚悟して、目を閉じるとぎゅっとイーサンの服の裾を掴んだ。
「オリヴィア様」
イーサンが彼女の名を呼び、ジャスティーナは彼の背中に追いやられる。視界の端で、彼がオリヴィアの振り上げた手を掴んでいるのが見えた。
「俺の婚約者に失礼なことはしないでくれ」
「し、失礼なのはあなたと、その婚約者よ!」
オリヴィアは、イーサンの手をまるで汚い物に触れたように振り払い、睨み付ける。ジャスティーナは何か言い返してやろうとしたが、イーサンが彼女を守るように手を回し、身動きがとれなかった。
「オリヴィア様。随分な物言いですね。確かに俺はあなたの仰る通り、昆虫のような醜い顔をしている。だが、それがどうした?顔が変わったくらいで態度を変えるあなたの方がどうかしている」
「な、な、な!」
先ほどまで青ざめていたイーサンは、背をすっと伸ばし、オリヴィアと真正面から対面していた。
――震えている?
しかし触れた彼の手が小刻みに揺れているのがわかり、彼女はぎゅっとその手を握った。
「俺は試したかったんだ。顔が変わった俺にどういう態度をとるか。あなたは、あの時と同じで何も変わっていない。仮面をつけた俺には尻尾を振ってついてくる。だが、仮面がなくなると、とたんに手の平を返す。あなたにとって、顔がすべてなんだ」
「そ、そんな昆虫顔だから、当然でしょ。皆様もそう思うでしょ。こんな顔の人と誰が付き合いたいと思うのかしら」
ジャスティーナはオリヴィアの言葉聞き、イーサンの手を振り切り、言い返そうとした。
けれども、彼女はそうする必要がなかった。
「私は、その昆虫顔の男爵と今後も付き合いたいと思っているよ。彼はとても魅力的な男だ」
声をあげたのは、ウィリアム・ハンズベル伯爵だった。
その後、次々と同意の声が上がる。
「ふん。男性は気にしないものね」
オリヴィアは負け惜しみとわかっているのに、そう言い募る。
ジャスティーナはその態度にもう我慢ができないと思ったが、見覚えのある光が走り、目を奪われる。
一瞬でオリヴィアが石の彫像に、その姿を変えていた。
「メーガン様!」
そのすぐ傍に現れたのは森の魔女で、広間の人々が一気に騒ぎ始める。
森の魔女は魔女の中の魔女で、王にも一目置かれるとても貴重な存在だった。
ジャスティーナは知らなかったが、貴族の中で有名な話で、興奮した人々が次々と彼女の周りに集まる。
「ええい、うるさいのう。今後、わしに用があるなら、このイーサンを訪ねるといい。それじゃ、わしは森に帰るぞ」
「メーガン様」
突然現れ、何か余計なことをした感たっぷりで、ジャスティーナもイーサンも非難を交えた声で彼女を呼ぶ。
「心配ないぞ。その小娘はもう少ししたら元の姿に戻るだろう」
――そういう問題じゃないの。
メーガンは意地悪い、けれどもとても美しい顔で笑うと現れた時と同様一瞬で姿を消してしまった。
その後、イーサンの顔のことなど誰も触れることなく、メーガンに取りついでくれと人々が殺到し、ジャスティーナはイーサンの隣で、その騒ぎを収める手伝いをすることになった。
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