意気地なしの昆虫男爵

「明日、ジャスティーナ様はルーベル公爵邸で、沼の魔女にお会いになります」

「確かな情報なのか?」


 夜半過ぎ書斎で、イーサンはニコラスから報告を受けていた。

 ハンクもニコラスからの連絡があるまでは書斎で待機する、と言い募ったが、無理やり部屋に返し、休むように伝えている。

 待ちにまった報告が来たのはやはり遅く、イーサンはハンクを先に休ませたことに安堵していた。


「沼の魔女との面談を求めたのは、ジャスティーナ様だと聞いております。その上、モリーから、ジャスティーナ様の様子がおかしいとも」

 

 ニコラスの口調は淡々としているが、その視線は何かを訴えるようなもので、イーサンはまじまじと彼を見る。


「何があったのか、わかるだけでいいから教えてくれ」

「本日、シュリンプ様はジャスティーナ様に口付けしようとされたそうです」

「なっ、」


 怒鳴り声をあげようとして、イーサンは天井を仰ぐ。

 己がその立場じゃないことを自覚したのだ。

 それを半ば呆れたような顔をしてニコラスが見たが、言葉を続ける。


「手を掴み、無理やりしようとしていたらしく、ジャスティーナ様が悲鳴をあげ、助けも求めたとか」

「なんだと、それで!」


 イーサンは、小柄な体で震えている彼女の姿を想像してしまい、ただ怒りで声を上げる。


「モリーが駆けつけてどうにか阻止したそうです。ジャスティーナ様は青ざめて震えていたそうです」

「それは、モリーに感謝しなければな」

「それだけですか?」

「どういう意味だ?」

「旦那様。ずっと我慢してみましたが、言わせてもらいます。あのホッパー家は最悪です。父は妻ではなく、その姉のことをずっと想っている上、家柄にへつらうしか頭にない。母は、血は繋がっていなくても、娘として育ててきたジャスティーナ様に、愛情の欠片すら表さない。使用人は、まあ、ジャスティーナ様にも落ち度があったとしても、あの態度はいただけない。そんな家に好きな女を送り返して、幸せになるなんて考えているあなたは、どうかしてます!」

 

 いつもへらへらしているニコラスだが、本当に怒っているらしく、彼はたれ目の瞳を鋭くして、イーサンを睨む。


「しかも、あの公爵令息。ボンクラもいいところですよ!あれは!」


 最後にトドメとばかり怒鳴られ、イーサンは完全に言葉を失う。

 ニコラスの言うことはすべて本当だ。

 己が普通、いや、人間の顔をしていたら、絶対にあのホッパー家などに彼女を帰しはしなかった。


「イーサン様。あなたは馬鹿ですよ。まったく」


 ニコラスは口調を砕けさせ、首を横に振る。


「ニコラス。俺は、」


 ――この顔であの美しい彼女と過ごすのが怖い。いつか、冷たい目、あの夜会の奴らと同じ目で見られる日が来るのかと思うと、耐えられない。

 

「意気地なし、ですね。あなたさえ心を決めていただければ、それだけで済むことを」


 ニコラスは黙ったままのイーサンから目を逸らすと背を向ける。


「ジャスティーナ様の決断は彼女のものです。なので、俺は邪魔しませんがね。まあ、イーサン様はずっと森の中で一人静かに暮らせばいいのです。それもあなたの決断。俺は邪魔しませんよ。ただ、モリーに一生詰られるのが耐え難いですがね」


 首を竦めるとニコラスは扉を開けて出て行った。


 ――ジャスティーナ。


 書斎に一人取り残されたイーサンは薄い唇を噛み、天井を仰いだ。


 ☆


「それでは行ってくる」

 

 馬車に乗り込んだのは、ホッパー男爵とジャスティーナのみ。

 母はまだ体調が優れないと部屋に篭っていた。

 モリーが何か言いたげな表情をしていたが、ジャスティーナはただ笑顔を向ける。


 ――沼の魔女イザベラ様に取引を持ちかける。あちらから最初に持ちかけられた話ですもの、拒否はされないわ。


 馬車の中では、父がひっきりになしに、彼の考える今後の計画を話す。式はいつ、どんな式にするか、ドレスはどこに発注すればいいのか、など。アビゲイルが無関心を装っているので、代わりにホッパー男爵が母親のように、計画を立てている。


――顔がまた変わってしまったら、父はまた怒鳴るかしら。もしかしたら追い出されるかもしれないわね。でも、私は絶対に森には逃げ込まない。


 世間を知らないジャスティーナは捨て置かれた貴族の娘の末路を知らない。

 想像するに良いものではないが、森に逃げないと覚悟を決める。


 ――イーサン様。本当はもう一度だけでも会いたかった。でも、もう、駄目ね。私は決めたから。


 父と対照的にジャスティーナは無言で、窓に目を向けていた。 

 娘の様子がおかしいことに、少しも気がつかない愚かなホッパー男爵はただ話し続け、遂に馬車はルーベル公爵邸に到着した。

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