昆虫男爵の傷痕
「イーサン様」
ジャスティーナを馬に乗せ連れ出すと、彼女はとても喜び子供のようにはしゃいでいた。イーサンはそんな彼女が眩しくて目を細めてしまう。
彼はただそう思っていただけなのだが、ジャスティーナは黙ったままのイーサンを何度か不安そうに見上げた。その度に彼は気にするなと言っていたが、彼女は最後には「もう戻った方がいいかしら」と寂しげになってしまった。
そんな風に不安にさせてしまった己の不甲斐なさに頭にくるが、イーサンは女性とまともに話したことがない。あるのは家族とも言える使用人のモリーとマデリーン、そして母であるシャーロットだ。
五年前に初めて参加した夜会は、ハンクが気をきかせて仮面をつけて参加する趣向のものだった。イーサンも最初は仮面をつけていたのだが、婚約、結婚を踏まえ、仲良くなった女性には素顔をさらしたほうがいいのかと、顔の半分を覆う仮面を外した。すると女性は悲鳴をあげ、助けを求めた。
人々が集まり始め、イーサンの顔を見ると罵る者、悲鳴をあげる者が出てきて騒動になった。主催者にはあらかじめ事情を話していたので、騒ぎはすぐに収まったが、人々の侮蔑と嫌悪の視線はイーサンの心に深く刺さり、彼の社交の場はそれで最初で、最後になっている。
「イーサン様。ごめんなさい。お屋敷に居座ってしまって。いつかこのお礼はしたいと思っているから」
考え事に没頭しており、彼はジャスティーナが泣きそうな顔になっていることに気がつくのが遅れた。
「ジャス嬢。お礼なんて必要ない。俺の屋敷だ。ハンク達はちょっと賑やかすぎだが、いつまでもいてもいい」
「ありがとう」
ジャスティーナはお礼を言ったあと、明後日の方向を見る。視線を辿るとそれは湖に向けられていた。湖上に何かいる様子もなく、彼女が考え事をしているのだとわかる。
「呪いのことは俺に任せろ。魔女には知り合いがいる」
「知り合い?」
「ルーベル公爵のお抱えのやつではないぞ。代々うちのデイビス家が付き合っている魔女がいてな」
「あの、」
「なんだ?」
言葉を遮るように声をあげ、イーサンは彼女にしては珍しいことだと聞き返す。
昨日会ったばっかりだが、彼女の性格を少しずつわかるようになっていた。
「イーサン様。あの。もし嫌なら答えなくてもいいから。もし怒らせたらごめんなさい」
そんな前置きをしてから、ジャスティーナはじっとイーサンを見上げた。
湖のほとり。
二人は湖を正面に、横並びに立っていた。
「その、顔。もしかして呪いですか?」
恐る恐る、こちらを窺うように彼女は質問する。
――それなら、どんなにいいことか。
そう答えそうになったが、イーサンは口を噤んだ。
「ごめんなさい」
答えないイーサンにジャスティーナはすぐに謝る。
「謝る必要はない。今日は謝らせてばかりだ。こちらこそすまん。この顔は呪いではないんだ。呪いのような血だけどな」
彼が自虐的に答え、彼女が今度は黙る。
「気にするな。俺は血筋でこんな顔だが、あなたは呪いのせいだ。しかも解け始めている。すぐに完全に解ける時がやってくる」
彼女を慰める意味で言ったのだが、ジャスティーナはただ頷いただけだった。
乗馬ができないジャスティーナを前に乗せ、抱えるようにして手綱を操る。過度に密着するため、イーサンは変な汗をかくことになった。
馬をゆっくりと進め、話ができるように、そう小声でハンクに言われ、イーサンは実行していた。
執事のいうことを聞く必要もないし、彼女は一時屋敷に滞在するだけ。
そのはずなのだが、家名ではなく、名で呼ばれたいと思ってしまうあたり、イーサンは嫌な予感を覚えていた。
――異性を好きにならない。好意をもたないようにする。
そう決めていたのに、イーサンは自分に嫌悪感を抱かず、その上笑顔を向けてくれるジャスティーナに好意を持ち始めていた。
☆
「おかえりなさいませ」
帰りも同様にイーサンの馬に相乗りして屋敷に戻ってきたジャスティーナを、ニコラスが外門で待っていた。そしてまずは彼女を馬から降ろす。黒犬は側にいたが、あれから彼女に向かって吠えることはなかった。
イーサンが降りた後、ニコラスが馬を引き取り、馬舎へ連れて行く。
「お茶でも用意させよう」
彼はそう言うと歩き出し、ジャスティーナはその後を追った。
「旦那様!」
ハンクは一人で先に屋敷に足を踏みいれたイーサンを叱るように玄関先で声をあげる。
「ジャス様。おかえりなさいませ」
そうして、イーサンではなく、ジャスティーナに微笑みかけた。
なぜかハンクが怒っているようで、彼女は首を傾げてしまう。
「モリー。ジャス様のお着替えを。それからお茶の準備を頼む。私は旦那様と話があるから、頼んだぞ」
「話?なんだ?」
イーサンは戸惑っていたが、ハンクは強引に彼を引っ張るようにして連れて行く。
小柄なハンクにどんな力があるのか、ジャスティーナは二人が屋敷の奥へ消えていく様子を驚きながら見守った。
「ジャス様。お疲れになったでしょう。湯浴みでもされますか?」
「湯浴み?お願いできるの?」
昨日は着替えるだけで終わってしまい、体がベドベトしていて気持ち悪かった。湯浴みができるのであれば、断る理由はなかった。
「もちろんです。まずは客室へ戻りましょう。それからお湯を張った桶を持ってこさせます」
モリーに促されるまま、ジャスティーナは客室に向かう。
先ほど聞かされた話、昆虫のような顔が呪いではなく、血筋ということ。それを自虐的に語るイーサンの様子。そして、なぜか怒っていたハンク。
何を話しているのか気になったが、ジャスティーナには関係がない。むしろ触れてほしくないのだろう。そう考え、彼女はイーサンの己をせせら笑うような自嘲の笑みを、頭から消そうとした。だが、それは脳裏にこびり付き消えることはなかった。
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