第3話 VSゴブリン


「誰かいるの!?」


 コータの呟きが大きかったのだろうか、東雲によく似たサーニャが切羽詰まった声を上げる。

「サーニャ様、そんなことを仰ってる時間はありませんよ! 早くここから離れることを考えなくては」

 メイド服の女性は眉間に皺を寄せ、恐怖を体現した声音で告げた。

「ウル、あなた私に命令するの!?」

 そう叫ぶサーニャの声もかなり恐怖に満ちており、今にも押し潰されそうになっているのが分かる。

「しかし! 居もしない助けを期待するより、逃げる方法を考えなくては」

 客車の中へ入ったり、出てきたりを繰り返しながら馬車を囲むゴブリンの動向を確認する。


 ここにいるゴブリンは無能、という事ではなさそうだ。サーニャたちが隠れた時には、行者を襲いながら客車の窓ガラスに向けて木槌を投げる。木槌を投げ終えたゴブリンは腰に巻いたボロ雑巾のような布キレに手を当てるや否や、どこからともなく木槌を取り出す。

 8体いるゴブリンのうちの1体が、木槌を地面へと投げつけた。そして、布キレに手を当て木槌ではなく細い荒削りの木の杖を取り出した。

「グボボボ、グギャギャ」

 決して人では理解できない穢らわしい音をこぼした。瞬間、ゴブリンたちは1つの意思を得たかの如く、木槌を持った7体のゴブリンは同時に天へと木槌を投げすてた。

 放物線を描いた木槌は頂点に達するや、重力に引っ張られるようにどんどんと落ちていく。

 そして全ての木槌は客車の真上に落ちた。ガシャン、という大きな音とともにまだ割れていなかったらしい、コータから見える反対側のガラスが割れた音が轟く。さらに、天井部が抜けたらしく甲高い女性の声と砂埃が舞い上がる。



「逃げましょう、サーニャ様!」

 黒を基調としたメイド服を身にまとった女性が、砂埃で服を汚しながら声を上げる。

 だが当のサーニャが声も出ない程にゴブリンに恐怖し、動けなくなっていた。

「サーニャ様! サーニャ様!」

 メイド服の女性が幾らサーニャを揺らしたところで、サーニャの目は恐怖で支配されたそれで、徐々に攻めてくるゴブリンに屈服してしまっている。


 ──助けて!


 悲痛の悲鳴の如く、救いを求める声が森中を駆け巡る。その場からピクリとも動くことが出来なくなってしまったサーニャの、最初で最後の悪あがき。

 武器の類を何も手にしていないコータ。しかし、自分が想いを寄せている人の苦痛の紛れた、悲哀の叫びを耳にしたコータは物陰から飛び出していた。


 脚が勝手に動いている、そう表現するのが正しいだろう。

 コータは「やめろー!」と叫びながらゴブリンへと向かっていく。その声に反応した木の杖を持ったゴブリンは、細く釣り上がった目を卑しく妖しくさらに細める。

「グギャハハ。男ニ興味ハなイ。消エロ」

 鼓膜を嫌に震わせる、耳障りの穢い声がコータに向けられる。妙に威圧感のある声に、少し気圧されながらもコータは走った。

 

 一直線に走った先にいるゴブリンは木槌を持っている。対してコータには何も無い。剣があれば、槍があれば、そう思っても無いものは無い。歯がゆさ、救いたいという強い気持ちを右の拳に込め、裂けた口の端からヨダレをこぼすゴブリンの顔面にパンチを食らわせる。

 同時に全身に衝撃が走った。日本にいる時には、人すら殴ったことがなかった。人生初パンチの相手がゴブリンになるとは微塵も思って無かったであろうコータは、想像以上の衝撃に表情をゆがめる。

 殴られたゴブリンは数歩後ろへ退くも、倒れるまではいかない。

「グボ」

 どうやらこのゴブリンはアホらしい。コータに殴られたことに怒りを覚えたらしく、木槌を振り上げコータに向かって駆け出す。


 だが、その瞬間──

 木の杖を持ったゴブリンが吼える。同時に、コータに襲いかかろうとしていたゴブリンはビクッ、と怯えたように体を震わせ動きを止めた。

「何なんだ」

 じんじんと痛む右の拳を、左手で撫でるように覆いながらつぶやく。

「そこの君! 早く逃げて!」

 サーニャは勇気を振り絞り物陰から出てきたばかりのコータにそんな声をあげた。切羽詰まった声だと言うのは誰でもわかった。しかし、コータは逃げなかった。

 今ここで逃げたら、もう瑞希の前に立つ資格がないと思ったから。瑞希に瓜二つのサーニャから逃げても良い、という免罪符を貰った。でも、ここで逃げれば告白なんて出来ない。コータはそう考えたのだ。

 だからこそ、コータは右脚にグッと力を込める。入口付近とは違い、この辺りの地面には水分が多く含まれているために、力を入れても泥濘に足を取られ、その力の半分近くは分散してしまう。

 だが、そんなことに気を回す余裕もなく。コータは木の杖を持ったゴブリンの怒号と共に駆け出してきたゴブリンの一体に蹴りを喰らわせる。


 入った場所はゴブリンの腹部。だらしくなく出たお腹に入れば、多少なりともダメージは与えられる、コータはそう考えたのだ。だが、実際にダメージを負ったのはコータだった。

 だらしなく出たお腹は鉄の如く硬く、脚に想像を絶する衝撃が走り、ミシッと骨の軋むような音までした。

 あまりの衝撃の強さにその場で倒れ込むコータ。その機を逃さんとばかりにゴブリンは、手に持った木の杖を高々と突き上げて咆哮を挙げる。

 木槌を持ったゴブリンたちは水を得た魚のように、コータに向かう。

「殺セ」

 体の芯にまで響くようなドスの効いた音が放たれた。瞬間、コータは人生最大の恐怖が全身を蝕んでいく。


 怖気が全身を走り、それに触発されたかのように全身の毛が逆立つ。歯はしっかり噛み締めることが出来ず、奥の方でカチカチと音を立てている。1歩1歩、確実に距離を縮めてくるゴブリンの集団に対し、コータは何も出来なかった。

 いや、違う。何も考えることが出来なくなっていたのだ。

 ただ真っ白になった頭で、ぼーっと最初にコータが拳をヒットさせて数歩分だけコータに近寄ったゴブリンが間近に迫ってきているのを眺める。その様子は本当に他人事。自分に降り掛かっている災いなどと微塵も感じていないような。そんな様子だ。


 しかし、コータが殴ったゴブリンが木槌を振り上げた瞬間。コータの目にはハッキリとした恐怖が浮かび上がってきた。


 死ぬのは嫌だ。死ぬの──嫌だ。


「早く、逃げて!」

 サーニャの必死の叫びがコータに届いた。何とかしなければ。コータはそう考えた。しかし、それは少し遅く振り上げられた木槌は真っ直ぐにコータの脳天に振り下ろされる。

 鈍い音が轟き、コータの額からは鮮血が流れる。

 ズキズキとした痛みがコータを襲う。しかし、その痛みのおかげか、コータの目から恐怖は薄れていた。顔の半分が血に染ったコータは崩れていたその場から立ち上がり、ゴブリンたちから距離をとる。ゴブリンたちはコータの動きを予想していなかったためか、コータはゴブリンたちから距離をとることに成功する。


 鮮血に染った視界で、コータは周囲に目をやった。


 ポイゾ草。ソーリア草。ソーリア草。ポイゾ草。


 鑑定スキルを駆使し、使えるものが無いかを調べても見える表示はそれだけ。

「くそっ」

 大事な場面で役に立たない自分に苛立ちを覚えるコータ。

 だが苛立ちだけではゴブリンを倒せない。先ほど辺りを見渡した時に、視界に入った唯一武器になりそうな物を手にするためにコータは駆け出した。

 ゴブリンたちに背を向け駆け出す姿は、一見敗走しているようだ。だが、コータは違う。額から流れる血に痒み覚えながらも、それを思考の端に置き去りにして先端が少し尖った石を手に取りゴブリンたちと向き合う。

「逃ゲヌノカ」

 木の杖を持ったゴブリンはコータが逃げ出すと思ったらしく、石を片手に向き直ったコータに感嘆にも似た声を洩らす。

「もうやめて!」

 落ち着きを取り戻せない馬がいるためにこの場を離れられないのであろうか。サーニャは少し奥へと移動はしているものの、この場から逃げていない。スキなら幾らでもあったにも関わらずだ。

「なんで逃げてないんだよ」

 顎へと滴り落ちた血を石を持っていない方の手──左手の甲で拭いながら吐き捨てる。

 国を背負う者、と自らで言っていた点から見てもサーニャは多分かなり位の高い人だということは推測出来ている。

 日本で言うところの、大臣や官僚くらいだろうか。


 そこまで考えた所で、コータは「大臣や官僚なら我が身1番で逃げてるだろうな」と呟き泥濘む大地を蹴りつけた。

 向かってくるのは7体のゴブリン。その一体に飛びかかる。

 同時に木槌が飛んでくる。それを左肩で受けながら、ぐっと歯を食いしばり鋭利な石を持った右手を振り下ろす。石の先端がゴブリンの左目に刺さる。

 ぐちゅ、という穢い音とともにおびただしい量の血が噴出する。

 コータの血よりも幾分かドス黒い血。

 それに伴いそのゴブリンはその場に倒れ込む。コータはそれを飛び越え、残り6体と相対する。

 仲間が1体殺られたことにより、ゴブリンたちには少しの恐怖が与えられた。与えられた恐怖により、ゴブリンたちの動きは少し鈍る。コータはそこを付く。

 石のため、リーチは短く間合いを詰めないと攻撃は当たらない。動きの鈍ったゴブリンとの間合いを詰め、コータは石を振る。

 鉄のように硬かった腹部にかすり、傷が生まれる。

「人間ゴトキガ」

 先ほどまでの蔑むようなニュアンスは無い。ただただ憎くて仕方がない。そう感じさせる木の杖を持ったゴブリンの台詞。

 だがそれに耳を貸すほど、コータに余裕はない。腹を切りつけたゴブリンに目がけて飛び出そうとする。しかし、そう上手くはいかない。

 残りの無傷の5体のゴブリンがコータを取り囲んだのだ。


「くっそ!」

 最初に目を殺れたのはたまたま。だから次は致命傷を与えられる箇所にダメージを与えることが出来なかった。

 なぜならコータは戦闘初心者だから。現代日本でリアルの戦闘に触れることは皆無と言っても過言ではないだろう。戦闘、というものに触れるとすればそれはゲームや漫画などの中だけ。そのわずか、としか言いようのない知識でコータは体を動かす。

 1歩、また1歩とゴブリンたちが迫るたびに後退を余儀なくされる。5歩ほど下がったところで、コータの足は止まった。

「行き止まり?」

 ぼそっと零れた呟き。しかし、そこから読み取られるコータの心情は穏やかではない。焦燥感に溢れた瞳が動き、背後を捉える。

 そこには先程コータが目を穿ったゴブリンが倒れていた。

「なんで……」

 自分の不運を呪うように、コータは吐き捨てる。それを見た木の杖を持ったゴブリンは、裂けた口の端を持ち上げ、不敵に微笑む。

「人間フゼイガ調子ニ乗ルカラ」

 やっとこの人間をぶちのめせる、そんな期待の孕んだ声にコータはただただ歯噛みをするしかなかった。


 ここで終わり──

 コータがそう結論づけ、勝負を捨てた瞬間。

「フレイムアロー!」

 コータのよく知った声が、厨二臭い台詞を恥ずかしげもなく吐き捨てるのが聞こえた。

 勝負を捨てた瞬間に下がっていた顔を上げると、眼前には木槌を振りかぶったゴブリンがいる。そこへごぉぉ、と大気さえき切り裂くような轟音とメラメラと燃ゆる焔を纏う矢が飛んできた。矢はゴブリンが反応するよりも早く、ゴブリンの脳天に突き刺さった。

 綺麗に刺さった矢。そこから一筋の血が零れるも吹き出すようなことは無い。

 へなへな、と力を無くしたゴブリンは振りかぶっていた木槌をポロッとこぼし、その場に倒れ込む。

 コータはその間に零れた木槌を手にした。


 ゴブリンの木槌 状態:普通 レア度:2

 木の幹から作られた槌。筋力+1%


 瞬間、流れる血で赤くなったコータの視界にそんな表示が現れた。鑑定スキルが発動したのだ。

「遅せぇよ」

 役に立って欲しい時に役に立たなかった鑑定スキルにそう独りごち、木槌を体の前で構える。木槌の構え方など見たこともなければ、聞いたことも無いコータはとりあえず、すぐに攻撃が出来るような構えをとる。

「女ヲ襲エ」

 木の杖で地面を打つや、5体のゴブリンはコータに背を向け、先程ゴブリンの脳天に矢を打ち付けたサーニャに狙いを定める。

 それに気づくまでに幾分かのラグがあったコータ。僅かに泥濘に足を取られながらも、瑞希と酷似した彼女──サーニャを救うべく足が動く。

 ターゲットを自分に向けさせなければ。

 そうしなければサーニャはゴブリンに蹂躙されてしまう。そんな気がしたコータは手に残っていた鋭利な石を投げつけた。運良くと言うべきだろう。石はコータが腹部に傷を負わせたゴブリンの額に突き刺さる。

「グゴゴ」

 ゴブリンは木槌を落とし、両手で額を抑える。流れる血はたちまち、地面へと流れ落ちていく。

 絵に書いたように暴れ、慌てるゴブリン。だが、傷は浅いのか絶命する様子は見られない。

 一気に勝負をつけたいコータは意を決し、石の刺さったゴブリンに向かって駆け出す。途中、ゴブリンの木槌に腹部を殴られ、軽く嘔吐をしたが奴を片付ける。それだけを掲げ、木槌で石を叩いた。

 瞬間、額からヒュー、ヒュー、と血が吹き出し、ゴブリンはそのまま倒れた。


 【レベルアップ1→2

  体力100→200 筋力10→15 魔力2→5

  耐久15→20 敏捷8→10 器用4→5

  知力1→3 運0→0

  スキル:鑑定Lv1→Lv2『植物』】


 ゴブリンを2体、自力で倒し切ったコータはシリアスな戦闘シーンとは似合わない軽快なファンファーレと共に自身のレベルアップが表示される。

「運無さすぎ」

 その文字を一瞥したコータは、レベルアップして尚0のままの運の悪さを愚痴りながら向かいくる4体のゴブリン視線を向けた。

 同時に木槌が投げつけられる。それを間一髪で避けたコータは、木槌を投げる、というアクションをしたせいでスキが生まれたゴブリンへと駆け、脳天めがけて木槌を振る。

 脳天に木槌がクリーンヒットする。ゴブリンの目が一瞬白目になるも、頭を一振りすることですぐに元通りになる。石を使えれば楽だが、石は倒れたゴブリンの額の奥深くまで綺麗に刺さっており、抜き取るのに少々時間を要しそうだ。

 1、2歩後退をしたゴブリンに拳を喰らわせ距離をとる。

 まだ4体、自分を取り囲むゴブリンがいる状況。考えても考えてもこの状況を打破できる術は見つからない。辺りを見渡しても武器になりそうな石などもなく、あるのは手にしている木槌だけ。しかし、木槌での攻撃では筋力の少ないコータがゴブリンを仕留めることは出来ない。


 自分にできることの限界が見えた時だった。

「大丈夫!?」

 そんな声が背後から飛んできたのだ。

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