いくひさしく


私はある女性に恋をしている。

彼女はいつも昼食後に、日当たりいいロビーで何やら本を読んでいる。

その視線は穏やかで、優しい笑みを浮かべゆっくりページをめくる。

今日こそは声をかけるぞと朝起き顔を洗い気合を入れるが、つい見とれて1日が過ぎる。


それに、こんな年の私がという恥ずかしさもあった。

私は、85になる老人だ。

彼女はいくつだろう、同じホームに入りながら、まだ名前も聞いていない。


ここは有料老人ホームで各個室なっている。

ロビーや食堂などは共有だが、それなりに快適に過ごしている。気になる女性もいることだし。


いつものごとくロビーの端で新聞を開いているが、彼女の姿をおっていた。

若い男性職員が話しかけてきた。


「どうしたんです?あのご婦人、いつも見てますね。男らしく話しかけたらどうです?」


生意気な、と思いながらもつい聞く。


「あの方は、なんという名前かね?」


「それはご自分で聞いてみたらいかがですか?ご婦人も話し相手が欲しいとおっしゃってましたよ。」


考えてみれば、いつも本に目をやり、誰かと話してる姿を見ていない。


「なかなかけしかけるな、見てろ。私も男だ、今日こそは。」


適当に新聞をたたみ、片付け、ゆっくり窓際のテーブル席に向かう。


「読書中に失礼ですが、あの、なんという本ですか?あ、いやいつも同じ本みてられるので。」


彼女は少し照れながら、本をゆっくり閉じて答えた。


「実はね、もうこの本何度も読み終えてしまって退屈してたんです。よかったらお話し相手になって下さい。どうぞ、こちらに。」


と、向かいの空いた席を勧めてきた。

私はすぐさま席につき、嬉しくてたまらなかった。


「いや私も話し相手を探してたんです。まわりのヤツもいい友達ですがね、趣味が合わんのですよ。」


適当なことを言い、名前を聞いた。


「さゆりと言います。母が百合の花が好きだったので。まぁ、私の髪も今じゃ百合のように真っ白になりましたが。」


とコロコロと笑った。

可愛らしい方だ。

お名前は?と聞かれた。そういえばまだ自分の名前を言っていなかった。


「ああ、私の名は・・・」


「茂さんね、スリッパにお名前書かれてますよ。」


足元に目をやると、はっきりそこにあった。


「お恥ずかしい、よく自分のスリッパ無くすもので、あそこにいる職員さんが書いてくれたんです。」


そう言うと、さゆりさんはあの男性職員を見て、軽く会釈しつつ微笑んだ。


「ねえ、茂さん。お庭に行きません?今花壇のアジサイが綺麗に咲いてるの。」


私は困ってしまった。ホームでも個人個人で外出範囲が決まっており、私の場合は職員が付き添わないと許可が出ない。

様子を見てた先ほどの男性職員が来て、さゆりさんとご一緒なら大丈夫ですよ、ただしさゆりさんの注射の時間までですよ、と。

どうやらさゆりさんは、持病持ちらしい。

2人で一階の庭に行き、薄紫色のアジサイを見てまわった。花を見る彼女は少女の様で、楽しそうに話しながら歩く。


「ご主人も花が好きなんですか?」


つい出た言葉にしまったと思った。嫌な思い出を思い出すのではないかと思ったが、心配をよそにさゆりさんは主人は花にはそう興味ないみたいで、写真を撮るのが好きなんです、とまたコロコロ笑った。


そしてアジサイをじっと見つめると、たまに遠くまで行ってしまうことがあるんです、一瞬を撮り収めて。そう言うと、私の手をとり時々でいいので、ココに来てくださいねと、ロビーまで手を引いて戻った。

小百合さんの手は小さく、けれどとても温かかった。

ロビーに帰り、また取り留めない世間話をした。


さゆりさんの注射の時間だというので、話の途中でごめんなさいね、と男性職員とさゆりさんはロビーを出ていった。

私は少し歩き疲れ、個室で休む事にした。

部屋に戻って会話の余韻に浸っていたが、片一方のスリッパに名前が書かれていない事に気づいた。どうやら他のと間違えたようだ。

ロビーだろうと取りに戻り、いくつかあるスリッパから名前の付いた片一方を見つけ履きなおした。



なにか異様にだるい、部屋に戻ろうと個室にむかった、すると処置室から声が聞こえた。


「たかし、ありがとね。お父さん今日は長い時間そばにいてくれたわ。」


誰か面会に来たのかと、私は部屋のベットでゆっくり休んだ。





天気のいい朝だ。日当たりいいロビーへ向かう。

そこにはいつも本を読んでいる女性がいる。

私はその女性に恋をしている。

今日こそは声をかけてみよう。


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