3 カートリッジ・ジェミニ


 二十四の梅雨。

 私が自分の幼馴染の死を知ったのは、母親からだった。

「遠野さんちの慎くん、亡くなったんですって」

 他人事みたいに言われて、私はもう最後に彼と話したの十年前であることに気がついた。そして同時に、彼と話したあの放課後がまだ私の中で生きていることにも、私はそれまで気がつかなかったのだ。

 もう十年も会っていないただの幼馴染が死んだというニュースに一瞬呼吸ができなくなるほどの衝撃を受けた。

 そうか。私はもう彼と仲直りすることも、もう一度何事もなかったように話すことも絶対にないんだな、なんて自分の冷静な分析にびっくりするほど傷ついた。

「なんで? 事故とか?」

「なんでも自殺とかって。長患いだったらしいわよ」

 あいつ、病気、だったんだ。

 いつからそうだったんだろう。いくら考えても、私に思い浮かべられる彼の姿は街ですれちがったり偶然見かけたりしたときのものか、最後に話したあの時のものくらいで、なにもわからなかった。

 私、なんにも知らなかったんだ。

 あんなに好きだったのに。

「それっていつ?」

「昨日とかじゃない? お父さんももうやつれちゃって大変ねえ」

 今さらこんなことをしても意味なんかないかもしれない。辛くなるばかりかもしれない。私の知らないあいつのことを知って、きっと私は幻滅するだろう。

 でも、私はたぶん今この瞬間まで、彼のことが好きだったのだ。

「ねえ、私の喪服ってどこだっけ」


    ――――


 お通夜に参列した経験はあんまりなくて、だから最初は緊張した。

 しとしとと小さな雨粒が傘を滑り落ちていく。斎場までの道のりが灰色に見えたのが、雨のせいなのか私の気持ちを反映していたのかはわからない。ただ、ぽつぽつと黒い人影が見えるたびに、私は胸が締めつけられるように息が苦しくなった。

 斎場に入ってからは反対にするすると物事が進んだ。そこがあいつの通夜会場であることを示す文字が私の頭を殴打して、私はずっとくらくらと揺れる頭を抱えて、現実感の薄いお通夜は進んでいった。

 お坊さんが入場して、順繰りとお焼香を行う。私は自分の順番が来るまでの間、ずっと彼の遺影を眺めていた。

 高校を卒業した時の写真らしい。私にとってはもうほとんど知らない人のような気もして、でも彼の面影に懐かしさを感じるところもあった。しかし、どうにもそこには違和感が付きまとって、お通夜の間中、私はずっともやもやとしていた。

 全部が終わって、私は付きまとってくる違和感を振り払うために、あいつのお父さんに声をかける。申し訳ないが顔を見せてくれないか、と。

 彼は私のことを覚えていて、承諾してくれた。斎場の方に声をかけて棺桶の窓を開けてもらうまでの間に、あいつの父親は「傷があるから少し注意してください」と言った。聞けば、あいつは自分の首をかき切って自殺したそうだった。

 それから、あいつは中学の時から重い病気だったと、父親は言った。

 それが意味することにどきりと心臓が跳ねる。怖がりの私はそれ以上詳しく聞くことができなかった。私が具体的にそれの意味することを知るのは少し後のことだ。

 それからガラス越しに、私はあいつと――遠野慎と相対する。

 十年ぶりに彼の顔を見て、さっきまで感じていた違和感がすべて吹きとび、そして、私は、気がついてしまった。

 あいつの訃報を聞いた時に感じた気持ちは間違いであったことに。

 そうなんだ。

 違った。

 ――私、今も、好きなんだ。

 それがわかって、ようやく、私は泣けた。

 あの時の悲しさとなにもしなかったことへの後悔と、それから大好きな人間がもうこの世にいないことの寂しさを一緒くたにして、私は子供みたいに声を上げた。

 涙があふれ出て止まらなくて、私は斎場から駆け出る。霧雨の中、濡れるのも構わずに、わんわん泣き続けた。いい年した大人が道の端で膝を抱えて泣いているなんて、きっとみっともない。でも私は、そんなことも考えられなかった。

 十年来のわだかまりに、私はなにもかも終わってからついに向き合うことができた。いや、なにもかも終わってからじゃないと向き合えなかった。

 抱え続けてきた思いに私は押しつぶされてしまいそうで、ただ自分の身体を抱きしめるしかなかった。

 そんな時に、私は彼女に腕を掴まれた。

 私と志を一にし、その後の生涯を共にすることとなった彼女。

 なにもかも終わったこの状況をやり直すと私と約束したデルポイの巫女。

 それが、私――纐纈彩芽とシビュラの出会いだった。


    ――――


 雨空の下でシビュラは私に言った。

「慎を、救ってくれませんか」

 私は彼女のことを知っていた。彼の隣にいる白髪赤眼の女。あんな目立つ風貌の人間が街にいれば知らないはずもない。

 最初は、彼女の手を振り払おうとした。だって、そうでしょ。たぶんずっと彼の隣にいて、最後まで彼のそばにいて、それなのに自殺を止められなかった彼女が、どの口で私にそんなことを言うの? ってそう言って突き放してやりたかった。

 でも、シビュラの目は真剣そのもので、その頬を伝う雫が彼女の涙であることが私にはどうしてかわかってしまったのだ。

 きっと彼女は私よりもずっと深く悲しみ、ずっとたくさん傷つき、ずっと多く涙を流した。

 私がその悲しみを感じていないことが私は辛くて、私がその痛みに震えていないことが私には悔しかった。

 私はシビュラに嫉妬した。シビュラが羨ましかった。

 シビュラは慎を愛していて。

 私は慎を愛せなかった。

 だったら私は、この行き場を失った慎への愛ゆえに、シビュラに応えるべきなんだろう。

 ばかばかしい感傷だと思う。でも私にとって、それが一番大切な感情だった。

 この傷をそっと撫でることが今の私にできる精一杯。そして、彼女の手を握り返すことが私にできるただ唯一のことだった。


   ――――


 そうして、私は彼女の話を聞いた。

 彼女の話は最初、まるで信じられなかった。当たり前だ。突然自分は世界だとか神だとかそんなスピリチュアルなことを言われても信じようがない。シビュラは「信じなくてもいい」と言った。「大切なのは慎が生きられる世界を作ることです」とも言った。たとえ騙されてたとしても、私にとって重要なことは他になかったから、それでもよかった。嘘でも私に慎が生き返るかもしれないという夢を見せてくれるなら、それ以外は些細な問題だった。

 それから、シビュラは私に三つのことを話した。

 彼女を使った時間遡行の研究が行われているということ。

 彼女の肉を食べれば人は不老不死になるということ。

 そして私に、タイムスリップして過去の慎に彼女の肉を食べさせる作業を手伝ってほしいということ。

 彼女の言うことを盲目的に信じさえすれば、話はシンプルだった。私は彼女と一緒にタイムスリップして、慎の病気を治す。

 ただそれだけ。

 でも一つだけ、気になることがあった。

「どうして、私に声をかけたの?」

 私は彼女のことを知っていたけれど、彼女が私のことを知っているはずもない。もしかしたら慎が話していたかもしれないけれど、何年も前の幼馴染のことを彼女が気に留める理由なんてなかったはずだった。

 しかし、シビュラはわかりきったことだとでも言うように微笑む。

「あの場所で、あなたが一番彼のことを愛していたから。私も含めて、ね」

 私は彼女のその答えに、笑うしかなかった。

 シビュラも私と同じことを考えていたということが無性におかしくて私は笑ってしまった。そのことを彼女に話すと、彼女も笑った。彼女は笑うと不思議と子供っぽくて、私は少しだけ驚いた。私たちはたくさん笑いあって、二人きりの部屋で必ず彼を救うと誓い合った。


    ――――


 しばらくして、私はシビュラにある大学の研究室に連れていかれた。そこは私がかつて通っていた大学の研究室で、ある奇人の住処として有名だった。

 奇人というのはつまり、水谷了一だ。

 在学中はほとんど関わりがあったわけではないけれど、学年中で有名だったから私も名前くらいは聞いていた。そんなヤツとこんなところで顔を合わせるとは思わなかったけれど、もっと驚いたのは彼が慎と知り合いだったということだ。

「高校時代から付き合いがあってね。慎は大学には行かなかったけれど、僕と一緒にこの研究室に遊びに来ることも多かったんだよ。君は幼馴染らしいけれど、知らなかったのかい? へぇ、そうなのか」

 ぶん殴った。

 こいつと大学時代に交流を持つことがなくて本当に良かった、と心から思った。彼を殴ったことに後悔はなかったけれど、それから私と対面した緒方さんがびくびくしていて、彼女を怖がらせたことだけは反省した。

「ええと、君が纐纈彩芽くんだね。私は緒方華。シビュラから話は聞いている。話と違って……その……少し、おてんばなようだ」

 彼女も慎の知り合いのようだった。彼女は個人的に超能力を研究していて、水谷はそのお仲間で、慎はヤツに連れてこられた、そんな形のようだった。そしてシビュラは超能力者としてここを訪れ、緒方さんは彼女を使ったタイムマシンを思いついた。

 二人がタイムマシンの研究をしているということを最初に聞いた時は、自分の母校でそんなことがと驚く反面、水谷の評判からすれば当然だとも思った。けれど、彼らが私とシビュラの計画を知っていて、しかもそのためだけにタイムマシンを作っているということを知った時は素直に驚くしかなかった。

「シビュラの話を聞いて、タイムマシンの理論はすぐに思いついたよ。だが、思いついただけだ。シビュラの方法で時間を遡れば即ち世界を作り直すことになる」と緒方さんは言った。それから水谷は続ける。「それを実際に作ることができたとして、世界を作り直す機械っていうのはさすがに手に余る気がしたよ。でも、生憎僕は世界が大嫌いだからね。世界と友人なら、友人を選ぶさ」

 私はシビュラを見た。私は彼らのことはなにも知らない。でも、シビュラは彼らのことを知っていて、私はシビュラの真剣さを知っている。

 シビュラはまっすぐ私を見た。

 私は軽やかに彼らにあいさつする。

「それじゃ、これからよろしくね」


    ――――


 それから、しばらくの時間が経って、私は一報を受けた。

「完成した」

 設計段階では何度も研究室には足を運んでいたものの、もうその連絡を待つのみだった私は急いで研究室へと向かった。そこにはすでにシビュラ、水谷、緒方さんの三人が勢ぞろいしていた。私はすぐにでも始めようと言って、全員がうなずく。

 タイムマシンは繭型をしたポッドのようなものだった。そこに私とシビュラが寝そべるようにして入る形だった。私は事前に用意していた荷物をポッドの中に入れた。シビュラが言うには、もしも失敗しそうになった時はあちらの時代のシビュラを殺せばもう一度やり直せるらしかった。この荷物はそのために3Dプリンタで作った狙撃銃や注文した劇薬などだった。

 いよいよとなって私とシビュラはタイムマシンの中に入った。暗い繭型のポッドに私たちは向き合いながら横になる。目の前に瞼を閉じたシビュラの顔がうすぼんやりと浮かんだ。自分がこれからもう戻ってこられない長い旅に出るという高揚感に胸が痛む。くすんだ色の内壁に目を泳がせると、長い計画が実行段階に入るというプレッシャーに手が震えた。

 私はこれから違う世界へ出かけるのだ。それが恐ろしくないはずがない。

 そっと震える手に柔らかな温もりが重なる。シビュラが私の手を握っていた。宝石のような目が私を見て、彼女は「やっと、慎に会えるのね……」と口にした。

 なにを怖がっていたのだろう。私はこれから違う世界に出かける。でも、その世界に慎はいて、この世界に慎はいない。恐れるとするならば、私は慎のいないこの世界を恐れるべきだろう。

 セッティングを終えて、最後にハッチを閉めようとした水谷が、私を見下ろして口を開いた。「最後に一つ。教えておいてあげよう」なんてもったいぶった言い方で、彼は私に最後の言葉を告げた。

「君が救おうとしている慎のことだよ。彼は中学の時から重い病を患っていた。そのことはさすがに知っていると思うけどね、いつからかは知っているかい? それは、ちょうど中学二年の冬。君が彼と喧嘩したあの頃さ」

 私は言葉を失った。暗いポッドの中でハッチの外から見下ろす水谷の無表情が妙に胸に突き刺さった。いつものニヤニヤ笑いが消えた彼の顔は、私を責めているように思えて仕方なかった。

「彼はいつか病で死んだだろう。それは間違いない。でもね、彼が自殺という行動を選んだ原因は、纐纈彩芽、君だ。彼は言っていたよ。『あの時彼女が流した涙を、俺のために流れる最後の涙にしたい』とね」

 水谷のそんな声を私は聞いたことがなかった。平坦で、強いて感情がこもらないようにしているのに、無色透明の怒りが支配していた。

 彼は糾弾しているのだ。無知で蒙昧ゆえに自分の友人を殺した、この私を。

「覚えておくといい。彼は君に残した傷を想って、同じ傷を負い続けようとした。結果として、慎はこの世に居場所をなくしたんだよ」

 吐き捨てるように言って、彼はバタン、とハッチを閉めた。彼はずっと抱えていたのだろう。もういうことができなくなるこの瞬間まで、言わずにいて、でも我慢できなかったのだ。

 ハッチが閉じられることでポッドの中に薄く灯りがついて、シビュラの顔がよく見えた。私は震える手で彼女の手を握り返す。そうすると不思議と安心した。

 私にとって、彼女は憎むべき恋敵だったはずなのに、いつの間にか最も信頼する友人になっていた。私の中の最も大きな部分を占めるものを私と彼女は共有していたから。

「絶対に成功させよう」

「うん」

 顔を見合わせて頷きあう。一蓮托生の運命を背負って、たった一人の男の子のために私たちは世界を作り替える。

 緒方さんのオペレーションが聞こえて、私はぎゅっと目をつむった。

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