2 向こう側の結論

 その問いに答えを出す前に、俺の耳に聞き慣れた音が届いた。

 カツン、カツンと金属をブーツの底で叩く音。すぐに、俺はそれがなんの音なのか判別がついた。真剣なまなざしを向けるシビュラから目を逸らして、廊下の先へ視線を向ける。

 アパートの階段を踏むその音が止んだ時、そこには彼女が立っていた。

「彩芽……」

 俺の言葉に、シビュラは慌てて振り返る。

 彩芽は俺たちを見るなり目を吊り上げて、大声を上げた。

「この泥棒猫。さっさと慎から離れなさい!」

 ずんずんと怒りを感じさせる足取りで廊下を進んだ彩芽はあっという間に部屋の前までやってきて、シビュラが握っていた俺の手をぐいっと引きはがす。

「やっと追い払ったと思ったら人がいないうちにこそこそ告白なんて、卑怯者もいいとこね。さすが長く生きていると狡いまねを思いつくわけ」

「あなたには言われたくありません!」

 悪態をつく彩芽に我慢ができなくなったシビュラが言い返す。そのままつかみ合いにでもなってしまいそうな雰囲気で、二人は視線で火花を散らした。

「私がなにしたっていうの?」

「嘘をついて慎を騙そうとしたでしょう?」

 彩芽は反射的にこちらへ目を向けた。それから俺と目が合って、眉を顰める。

 きっと彼女ももう騙せないということに気がついたのだろう。観念したように目を伏せる彩芽に俺は端的に尋ねた。

「彩芽、やっぱり嘘なのか?」

「……その様子じゃ、やっぱり気づいてたんだ」

「なぜ、そんな嘘を?」

 でも、俺にはもうその問いの答えがわかっていた。

 彩芽は最初からずっと一貫していた。一度だってブレたことはなかった。彼女の行動はそれが殺人であれ嘘であれ、たった一つの原理に基づいて動いていて、俺もそんなことはきっとわかっていたのだろう。でも認めたくなかったのだ。だって、彼女といるのは心地よくて、もしそれを認めれば、俺は彼女と一緒にいられなくなるから。

 俺と彼女の関係は引っ越してきて初めて顔を合わせたあの時から、未来から来たということを知った今までなにも変わっていない。

 彼女は何度だって繰り返し、俺は幾度も拒絶して、それなのに傍に置いた。

 目も当てられないほど最低な俺に、彼女もこう言ってくれるのだ。

「決まってるでしょ! あなたが――慎が好きだからよ……!」

 そんなことを言わせる俺に怒ったように、けれど、切実な思いを込めて彩芽は俺の胸倉を掴む。鼻先が触れ合うほどの距離で、吐息が混じりあうほどの近さで、彼女は自分の想いを言い聞かせる。

「本当なのは私があなたを好きだっていうことだけ。あとは全部嘘よ。戦争なんか起きない。五十六億人の人は生きてるし、タイムマシンは争いを起こさない。あなたは原因じゃない。私はあなたの知る纐纈彩芽じゃない。でも、私は、遠野慎が好きなの」

 それ以外の事柄なんてすべて無意味だと言わんばかりに、彩芽はただ俺を見つめた。琥珀色の瞳がきらきらと涙に包まれながら目の前の男を映す。虚実に彩られていながらも彼女の心はまさにこんな風に俺だけを映し出していたのかもしれない。初めて自分で見た俺という男を。

 歌うように彼女は自分の気持ちをぶつけて、俺に思い知らせようとする。

「本当は私が耐えられなかっただけ。慎のいない世界で行きたくなくて、慎に会いたかっただけよ。ただ、あなたと――生きたかっただけなの」

 彼女の声が、吐息が、香りが、表情が、俺に彩芽の存在を伝える。ただ彩芽はそこにいる。そして、彼女は同じように俺がそこにいることを望んでいるのだ。

 俺がここに、そして彼女の隣に存在すること。

 つまり、俺が生きることを。

「だから、慎。私と生きなさい」

 さっきまであんなにも対立していたのに、彩芽とシビュラはまったく同じ結論を俺に示す。まるでそれが、唯一の正解であるとでもいうように。

 俺の顔を見た彼女は、一旦襟から手を放して、自分の胸に手を当てる。

「実はね、私、あなたの十歳か十一歳かそのくらい年上なのよ」

「それは……そうだろうな」

 いくつ年上なのかはわからないけれど、未来から来たのであれば、当然年上なのは間違いがない。しかし、彼女は十七歳の彩芽にそっくりで、まるで老けた様子はない。俺が感じていた疑問に今彼女は答える。

「私もシビュラの肉を食べているの。だから永遠の十七歳ってわけ。本当に不老不死なのかはわからないけど、彼女の肉にはそういう力があるわ」

 肉を食べるという言葉に俺は顔をしかめざるを得なかった。

 だが、それ以上に気になることは、それが――誰の肉かということだ。

「それは……彼女のじゃあ、ないよな」

 俺がシビュラに視線を移すと、彼女は心当たりがないというように首を振った。そして、彩芽は反対に、俺の考えを肯定するように頷く。

「もちろん。私の世界のシビュラよ。彼女はタイムマシンとして今も私の部屋にいるわ」

 俺は思わず隣室のドアに目を向けた。思えば、彼女が俺に自分の部屋を見せまいとしていたのはそこにシビュラがいたからだったのか。

 しかし、驚くにはまだ早かった。彩芽の続きの言葉に俺は耳を疑う。

「そして彼女も、あなたが自分の心臓を食べて、生きることを望んでいる」

「心臓を……食べる……?」

 彼女の口から飛び出た言葉を俺はすぐには理解できなかった。心臓を食べるなんて、そんなの間違いなく殺人だろう。

 さらに、それを聞いたシビュラは血相を変えて彩芽に詰め寄った。

「彩芽さん! あなた自分がなにを言ってるかわかっているのですか!?」

「当たり前でしょ? タイムスリップとはアレフを分けること。世界の併置。中心の両立。それともシビュラ、あなたは欲しくないの? 自分と同じ存在が」

 見透かされたようにシビュラは口を噤む。ぎゅっとコートの裾を握り、そわそわと目を泳がせる様子は、彩芽の提案の魅力に惹かれているようだった。

「彼女の肉を食べれば不老不死になる、それは聞いたわよね? さらに、心臓を食べれば彼女のアレフを受け継ぐことができる。あなたが、世界の中心になるのよ」

「そんなこと、まともな人間にできるわけないだろ!」

「そこのそいつだって、どこかの誰かの心臓を食べて、その地位にいるのよ?」

「なっ……!」

 俺が驚いて目を向けると、シビュラはバツが悪いというように目を逸らす。本当に、彼女もそうだというのか。だが、俺が彼女に説明を求めるより先に、シビュラは決心したように華奢な手を握りしめる。

「もしも、慎が私とともにアレフを背負ってくれるというのなら、私はこれ以上なく嬉しいです。そんなこと、望むべくもないと思っていましたから。でも私は、あなたが生きてくれるのであればどちらでも構いません」

 希望を見出したように、シビュラは真紅の瞳で俺を見つめた。

 決意を固めたように、彩芽は真剣な視線で俺を射抜いた。

「私と生きて、慎」

「慎、あなたの生を生きてください」

 二人が言うことは、まるで長い時間を共にしてきた友人のようにシンクロする。

 ただ同じ思いを共有するというだけで、彼女たちのつながりは他にないはずなのに。

「あんたが私たちを拒むのはこの先死んでしまうからでしょ? だったら、病気が治って死なないなら、拒否する理由なんてないはずだわ」

「あなたが自分の生を生きられないのは死んでしまうことで周囲を悲しませたくないからでしょう? だったらせめて、病を治して自分が幸せになれるように、生きてください」

 きっと彼女たちの言うことは正しい。そして、俺は間違っている。

 それなのに、間違いを認めることはできても、それを受け入れることはできない。

 彼女の言う通り、俺はたぶん今、辛くて、苦しくて、そして不幸だ。それなのに、俺は自分が選んだあの選択を否定できないでいる。

 あの時受け入れた死を、手放しがたく思っている。

 俺の生とはなんだ?

 俺が生きるべき生とは、いったいどこにある?

 俺はどうすれば、しあわせになれる?

 俺は生きるべきなのか? それとも死ぬべきなのか?

 生きていいのか? 死んでいいのか?

 生? 死?

 生死。

 死。

 死。

 死死死死死死。

 死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死。





「ああ、わかった」






 俺は――死にたいんだ。

 俺は俺の受け入れた死を誰にも奪われたくない。俺以外の誰のものでもないこの死を、外野からごちゃごちゃ言われて手放したくない。

 あの時俺が手にしたものはきっと他人を傷つけないなんていう自戒ではなくて、俺の死そのものだったに違いない。

 これは俺が選んだ不自由で、それを選ぶことこそが俺の自由だ。

「ありがとう。俺がなにをしたいのか、やっとわかったんだ」

 シビュラと彩芽が、同時に俺を見る。そして、俺は自分の部屋の扉に向き直った。

「俺は自由になりたい」

「俺は俺の死を独占したい」

「俺は俺のためだけに死を使う」

「俺が死ぬのは俺が最低だからじゃない」

「生きるのが苦しいからでもない」

「俺が死にたいから、死ぬんだ」

 歌うように繰り返しながら、俺は土足のまま自分の部屋に上がっていった。

 他人を傷つけないように生きて病に殺されることが間違いなんだとするなら、俺は、他人を傷つけながら自ら自分を殺す。

 それがきっと俺の生だ。

「シビュラ、彩芽、お前たちがいてお前たちが惜しんでくれる中で死ねる。それが俺にとってなによりの幸いだ」

 二人を視界に入れながら、俺は包丁を手に取る。

 使い慣れた調理道具は俺の手に馴染む。これがこのために用意された切腹用の脇差しだったならこうはいかないだろう。彩芽とシビュラが、慌てたように駆け寄ってくるのが妙に遅く感じた。走馬燈というやつかもしれない。あるいは相対性?

 もしも、この世界が何千何万回と繰り返したとして、そのすべての記憶を俺が持ち続けていたとしても、何万回目の今日、俺は俺以外のなにをも救えなかったことに、慟哭するだろう。

 何度繰り返しても、最善を、大団円を、ハッピーエンドを見つけられなかった俺を許してくれ。

 きっと俺は狂っているんだろう。

 けれど、狂ったとするのならば、それはどこだったのだろうか。

 最後の問いかけに答えを出す前に、俺は自分の首に刃を突き立てた。

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