平行線の交わる明日

1 今際の崖に永遠に


 了一と別れてからどうやって家に帰ったのか、あまり覚えていない。

 彼のたった一言でこんなにも自分が動揺して、打ちのめされてしまったことがなによりも堪えた。結局のところ、俺は一から十まで嘘つきで、なにもかも間違っていたということだった。

 俺はかつん、かつん、と聞き慣れた音に自分を浸しながら、夕焼けに照らされた鉄骨の階段を昇っていく。早く家について、なにも考えずただ眠りたかった。自分がなにかを考えているということがすでに嘘をついているような気がして、耐えられなかった。

 それなのに。

 ポケットから剥き出しの鍵を取り出して錠前の穴に差し込んで、小気味よい手ごたえが返ってきたその時、俺の足元に影がかかった。

「忘れもの、ですよ」

 なにか落としでもしたのかとなんの気なく俺は顔を上げて、驚きに支配される。

 そこにいたのは、ここにいないはずの人物。

 ここにいてはいけないはずの人。

「……シ、ビュラ…………」

 いっそ他人の空似であったらいいのに、とすら思った。でもそんなはずがない。こんな人間がそうそういるはずがないのだから。

 驚きに言葉が出せずにいる俺を見て彼女は微笑む。

「慎、あなたとデートをしに来ました」

 俺の心に触れる彼女の柔らかな声が、ぐるぐると目が回るような感覚を連れてくる。

 落ち着け。

 彼女の来訪を受け入れるにしろ、彩芽に見つからないうちに追い返すにしろ、まず彼女の話を聞くべきであることに間違いない。

 俺は回らない頭を必死に動かして、なんとか言葉をひねり出す。

「どうして、ここに」

「最初に言った通りです。忘れものを届けに来ました」

 なにか心当たりを探すものの、そんなものは見つからず、俺はオウム返しに彼女の言葉を繰り返した。

「……忘れもの?」

 シビュラは、笑みのまま告げる。

「あなたが私の相談を解決してくれたら、もう一度やり直すっていう約束でしょう?」

「……あ…………」

 そういえば、そんな約束をした。

 彼女から突拍子もない話を聞かされたすぐ後に。

 その約束があまりにも些細で、他に起きたことがあまりに大きすぎたから、さっぱり頭から消えてしまっていた。

 でも、そんなことで……、と言い返そうとして俺は彼女の表情の変化に気がついた。さっきまで余裕ぶって微笑んでいた彼女が、まるで母親に取り残された幼子のように切なげな表情を浮かべて夕闇の中に立っている。

 そんな彼女を目の当たりにして、俺は彼女を拒むことが出来なかった。

 また俺は、弱さを理由にして間違いを積み重ねる。

「そう、だったな……シビュラ」

 たったそれだけの言葉で、彼女は慰められたように熱を持った視線で俺を見つめる。飛び出してこようとする心を抑え込むように、彼女はぎゅっとコートの第二ボタンを握りしめる。

「慎……」

 あまりに感極まった彼女を、俺は拒絶することもできなければ受け入れることもできず、曖昧に笑みを浮かべる。それから、できる限り優しくシビュラの絹糸のような髪に手のひらを乗せた。

「……慎……!」

 彼女は目尻を濡らしながら、ようやく出会えた喜びに堪えられなくなったように、力いっぱい俺の身体を抱きしめる。

 残酷な仕打ちをしているような気がした。だって、俺は彼女を受け入れられないというのに、今日まで彩芽と日常を過ごしてきたというのに、まるで俺がシビュラを待っていたかのように振舞うのが、一体どんな幸せを招くというのか。

「ごめんなさい。ダメなのはわかっていわ。私が殺されるかもしれないことも、あなたがそれを望んでいるということも」

 謝らないでくれ。

 きっとこれは全部俺のせいなんだ。シビュラが俺をこの世界に引きずり込んだんじゃない。最初から最後まで俺が中心で、シビュラは俺に巻き込まれたに過ぎない。

 だから、謝らなきゃいけないのは、俺なのに。

 彼女は甘い喜びと苦い葛藤に身を浸すように、涙を流しながら、切なさを感じさせる声音で心情を吐露する。

「でも、私は……あなたと会えないくらいなら殺されたほうがいいの」

 それが、彼女の立場ゆえの言葉であることは理解できる。彼女にとって死は終わりではない。やり直しできる死の重さは普通の人間とは違うだろう。

 けれど、彼女は、俺に言ったのだ。〝殺されるのを止めてほしい〟と。少なくとも彼女は死を厭っていて、何度だってやり直しできる無限の時間の中で、どうしてそんなにも俺にこだわる?

「私、今までずっと忘れていた。人と出会って、些細な会話をして、ありのままの自分が受け入れられることが嬉しいって、そんな簡単なことを」

 そっと寄り添うように俺に身体を預けていた彼女は俺を見上げる。いつかもそうしていたように、身体を抱いていた右手を俺の指に絡めた。

 距離は少し離れたのに、向き合うと彼女のことがもっとよく見えた。しっとりと濡れた瞳が、心を射抜くようにじっと俺を見つめる。

「あなたと会って思い出したわ。あなたは私をシビュラだと知って、それでも受け入れて、一人の人間として扱って、同じ時間を共有してくれた。あなたにとっては当たり前のことだったかもしれない。でも、私にとって、ずっとずっと大きなことだったの」

 人知を超えた存在で、無限にも等しい時間を生きていても、彼女はどこまでも人間らしかった。

 むしろ、だからこそ、だろうか。

 人と同じ形で積み上げてきた彼女の生が、きっとその心を作っている。

「……シビュラ……俺は…………」

 なにか言おうとして、口を噤んだ。

 俺はこんなにも簡単に俺を裏切ろうとして、それなのに彼女は、彼女たちは俺に寄り添おうとする。それが彼女たちの生で、彼女たちの自由だ。でも俺はそれに応えることが出来なくて、ただ不誠実に彼女たちを慰めることしかできない。

 シビュラはそんな俺をどう思ったかわからない。彼女は再び俺の胸に頭を預けた。心臓の鼓動の上に彼女の重みを感じて、彼女がそこにいることを感じた。

 しばらくの間、俺たちはそうやってお互いの存在を確かめ合うように、触れ合っていた。

 シビュラはある時口を開く。

「ねえ。彼女の言うこと、信じてる?」

「どういう意味だ?」

「あなたの、幼馴染の話」

 俺は答えない。

 でも、シビュラはきっとそれだけで俺の答えを察してしまうだろう。

 たぶん、最初は信じていた。

 でも、彼女と一週間を過ごして、わからなくなった。戦争の話なんかはそういうこともあるかもしれないと思うしかない。ただ、少なくとも、本当にそれだけが目的だったならば、俺と暮らしているのはきっとおかしいのだ。

 ただ、たとえそうだったとしても、俺の行動いかんで彩芽がシビュラを殺すことは確かで、俺の目的は最初からそれだけだった。

 彼女は慎重に、俺の反応を探るように問いを重ねる。

「そうなら、慎は、彼女と一緒にいる必要があるの?」

「そうしたら……元の木阿弥だろ」

 俺の答えに、シビュラの身体に硬く力が入るのを感じる。彼女が俺の反応を敏感に探っているように、俺にも彼女の気持ちを容易に感じることができた。でも、俺はそれを無視して、続けるほかなかった。

「今、こうして丸く収まっているのに、そんなリスクを冒す必要こそないんじゃないか」

 弾かれたように彼女は俺を見上げる。それから、顔をくしゃくしゃにして泣きそうになりながら、両手で俺を押しのける。

 彼女は瞳に感情の炎を燃やして、喉から血を吐くように心を聞かせた。

「わかってるくせに! 私は――私が、あなたと一緒にいたいの!」

 悲痛な金切り声が耳を打つ。

 彼女の心は、重くて、それでいて軟らかくて、まるで鉛のようだった。俺にぶつけるたびに心は凹み、けれど、俺はそれを受け止める器を持っていない。

 そう言われることこそ、俺は恐れていたというのに。認めないようにして、見ないふりをしていたのに、真正面から、それを言われてしまった。

 頭が真っ白になってもう取り繕うこともできない。

「……やめろ」

 口をついて出た俺の本音は、吐き気がするほど卑怯な言葉。

 それなのに、シビュラはまだこう言ってくれるのだ。

「慎、好きよ」

「やめてくれ!」

 わんわんと鉄骨の廊下が振動を伝えていく。思わず飛び出してしまった怒鳴り声に、俺は荒い息を零す。興奮と罪悪。葛藤はなにも産まず、拒絶だけが運び出されていく。

 そんなことをいわれたって俺にはどうしようもない。

このまま誰も傷つけずに死ぬと決めたあの時から、俺の居場所はこの世のどこにもない。あってはいけないんだ。

 また静かになったアパートの廊下の上で、彼女は決心したように口を開いた。

「一つだけ、教えてください。……もし生きられるとしたら、慎はどうしますか?」

「え?」

 突然の話題転換に俺はついていけなくて間抜けな答えを返す。シビュラは一見真剣な様子で続ける。

「もしも、慎が病気で死なず、生きられるとしたら?」

 どうして今更そんなことを。

 病気が治るとしたら、なんて生産性のない妄想もいいところで、でも、彼女はどちらかと言えば夢のような存在であることも確かだった。

 まさか――

「前に話したでしょう? 私がかつて八百比丘尼と呼ばれていたこと」

 八百比丘尼。

 人魚の肉を食べて不老不死となった尼僧。

 八百比丘尼の伝説の中には、比丘尼を殺し、不老不死になった女が次の八百比丘尼となり、やってきた自分に殺されるという結末をたどるというものもある。

 閉じられた円環、回帰する運命。永遠を延々繰り返すその伝説は、死ぬたびに再び世界を繰り返す彼女そのものだった。

 さらにシビュラは俺に言い聞かせるように、その伝説に補足を加える。

「そう。私の肉を食べた人間はこの世界において、不老不死となって死ぬことはない」

「な……」

 嘘だろ……?

 しかし、同時に了一がそれに関してなにか含みのある様子を見せていたことを思い出す。もしかしてあの時あいつ、気がついていたのか。

 彼女は俺の手をとる。懇願するように俺の手を握り、潤む瞳で訴えた。

「――だから私の肉を食べて、私と永遠の時を生きて。お願い」

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