2-3 逢引きする回り道

 ひゅうっと冷たい木枯らしが目の前を通り過ぎた。

 ぽかぽかと暖かい陽光が降り注いでも、こんな風に風が吹けば陽気は吹き散らされて俺たちは身体を震わせる。コートの襟を立てて風を避けるが気休めにしかならない。日が落ちればもっと寒くなるだろうし、マフラーでも持ってくるべきだったと後悔する。

 でもそんな十二月の外気の中でも、彩芽はいつも通り賑々しい覇気を振りまきつつ、軽い足取りで先導するように歩いていた。

 まあ、いつも通りというほど最近の彼女を知っているわけではないのだったが。

 少し前を歩く彩芽が弾んだ声で話を続ける。

「つまりね、タイムスリップものっていうか、でももうちょっとオカルティックな感じで、タイムスリップってSFになりがちだし――って、聞いてる?」

 彼女は振り返って、上の空の俺を引き戻すように袖を引いた。

 膝上まであるブーツの踵が道に敷かれたタイルを叩いて、たかたかと音を立てる。短めのスカートがひらひらとブーツの際を揺れていた。

 ここ二日ラフな格好で家にやってきてこたつでゴロゴロしている姿しか見ていないものだから、おめかしして出かける彼女は俄然かわいらしい。

 彼女とデート、なんて起きるはずもなかったのに……俺は絆されているのだろうか。

 頭の隅ではやっぱり別のことを考えながら返事をする。

「ああ、聞いてるよ。ニーチェをモチーフに取り込んでるんだろ」

 話題はこれから見に行く映画について。

 話を聞いていて、そういえば、彼女は結構な映画好きだったことを思いだした。三年前は一通りパンフなんかをそろえるという程度だったけれど、今じゃすらすらと監督の意図まで話し始めて完全にオタクって感じだ。

「そうそう、永劫回帰とループものの照応が――」

 さらにディープな語りに入ろうとしたところで、ある場所に差し掛かった俺の足は止まった。

 そこは、隣町の駅前広場。

 前回、俺とシビュラが待ち合わせた場所だ。

 もちろん、そこには不自然な人だかりも、お茶を汲むヤンキーも、じゃれつく子供も、茶飲み話をする老人も、それらに分け隔てなく接する白髪赤眼の女性も存在しなかった。

 あれは夢だったのか、それとも実際にあってなくなってしまった泡沫の出来事なのか。

 俺にとっては別に良い思い出だったわけではないけれど、もしも俺の選択したことが、あるいは俺なんかがここに存在することが、彼らからその出来事を奪ってしまったのだとしたら、と想像すると、シチューの中に溶け残ったルゥのように気持ちのよくないしこりが残った。

 そんなことを考えてもしょうがないのだけれど。

 そうやって歩みを止めた同伴者を見て彼女は首を傾げた。

「ん、どしたの? なんかあった?」

「いや、なにもないよ」

 もうここにはなにもない。

 なんの変哲もない冬の憩いがあるだけだ。

「行こう。上映時間に間に合わなくなるぞ」


 彩芽とのデートはそんな風に始まった。

 そのまま駅前のショッピングモールに入った俺たちは軽く店を冷かしてから、彼女おすすめの映画を見て、夕飯にはそんなに敷居の高くない洋食屋を選んだ。レストランで彩芽はオムライスを吹き散らすような勢いで「あの映画ではモブに至るまで一貫した論理で生きている」ということを力説していて、俺はステーキの筋を切るのに四苦八苦しながらそれを聞いていた。それから、夕食を食べ終えると、決めていたわけでもなかったけれどどちらからともなく帰り道についた。

 高校生として恥じることも誇ることもない普通のデートで、シビュラの時とは違ってびっくりするほど気が楽でいられた。

 最初からこうしていればよかったんじゃないか。

 そもそもあの時のお前の判断が間違っていたんじゃないか。

 そう思ってしまうほど、ただ彼女と一緒に出掛けるというだけのことが純粋に楽しかった。

 でも、だからこそ、これはいけないことだ。

 自分が楽しくなって、それで本当に大切なことを見失ってはいけない。

 自分なんかのために誰かがツケを支払うということだけは間違っている。それをわかっていながら見過ごすのは残酷ですらある。

 彩芽には一体なんと言って謝ればいいだろうか。今日のことも、あの時のことも。

 けれど、そうであればなおのこと、まずお礼を伝えよう。今日のことも、それからあの時までのことも。

 今までこうして楽しい思いをしてこれたのはきっと彼女のおかげなのだから。

「彩芽」

「ん、なに?」

 一階までつながる長いエスカレーターをのんびりと下る。その最中、騒がしい盛り場の中で俺たち二人にだけ降りていた緩慢な沈黙を破って、彼女に話しかけた。

 気の利いた言葉は見つからなかったから単刀直入に。少々気恥ずかしかったけれど、それでも、彼女にかけるならこれ以外にはありえない。

「今日、ありがとうな。楽しかったよ」

「……なっ……!」

 不意打ちに彩芽は言葉を失った。

 ぎゅぎゅぎゅーっと素直な幼馴染の顔の上で照れと喜びと恥ずかしさとその他もろもろの感情がのぼり巡っていく。感情の負荷で処理落ちした彼女はほっぺたを真っ赤にして、酸素を求めるようにぱくぱくと口を動かした。

 それから、最後にエスカレーターの終点で躓いて、さらに羞恥で赤面して、ようやくきちんと彼女らしい言葉を見つけた。

「あ、当たり前でしょ! 私が楽しかったのに楽しくなかったなんて言ったら一緒に歩く資格もないわ!」

「うん、彩芽も楽しかったのか。それは良かった」

「なっ……ななな、なななな……!」

 またも言葉を失った彩芽。今度は恥ずかしそうに百八十度そっぽを向いたまま、どこかに向けて言葉を放った。

「…………慎が楽しかったなら、私も……その、楽しいに決まってるでしょ」

 そのあたりで限界に達したのか、彼女はだだだっと俺を置いて一足先に屋外へ走り去っていく。

 良かった。

 少なくとも、今この瞬間についてだけは彼女を悲しませずに済んだ。肩の荷が降りたような気持ちでほっと息を吐く。

 そのままの歩調でのんびりとモールの自動ドアをくぐる。

 建物の外では白い息を吐きながら、彩芽が手招きしていて、近づくと駅前の方向を指差した。

「見て見て! イルミネーション!」

 ショッピングモールから駅前広場につながる道はずっと光の装飾で彩られていて、その下を何組ものカップルが闊歩していた。

 彩芽は興奮したようにずらりと並ぶLED装飾とその間をつなぐクリスマスツリーやサンタとトナカイのオーナメントを眺め、たかたかと慌ただしく足音を立てながら、道を歩いていく。

 そんな風に飾り付けを満足いくまで目にした彼女はサイドテールを靡かせつつ、くるりとターンして、後ろをついてくる俺の方に振り向いた。

「慎! 私、手がかじかんできたわ!」

「ったく、この寒いのに手袋つけてこないからだぞ。俺のがあるから――」

 手袋を取り出そうとポケットに差し入れた左手首を彼女の右手が掴む。しなやかな指が腕の動きを止めて、驚きに顔を上げる。

 するとすぐ目の前には、いたずらっぽい笑みを浮かべる彩芽がいて、俺の心臓は二倍速で回転を始めた。冬の夜だからか、いつもは感じない彼女の体温が冷気を押しのけて伝わる。

「ちーがーう。こうでしょ?」

 するりと、俺の手首に張り付いていた手がポケットの中に侵入する。狭苦しいコートのポケットの中で二人分の手のひらが絡み合う。彼女の手は言っていた通りひんやりと冷たくて、しかし、すべすべとした肌の感触が五指に伝わって、どうしようもなくどきどきした。

「彩芽、これ……」

「寒いから手をつなぐことを許してあげる。この方が効率いいでしょ?」

 にっこりと楽しそうに笑う彩芽を見ればそれを振り払うことなんてできるわけもなくて、俺たちはポケットの中で手をつないだまま再びイルミネーションの下を歩く。

 こんな状況で話すことなんて思いつくわけもなくて、俺も彼女も黙ったままだったけれど、不思議と彩芽は無暗に楽しそうで、どぎまぎしっぱなしの俺はその微笑みにさらにドキリとさせられたりした。

 来た道を戻っていき、俺たちは光の道の終着点である広場に辿り着く。

 広場はここまでに比べればぐっと光量が低く、薄闇の中で中心に立つ時計台の文字盤がぼんやりと光っていた。

 二本の針が示す時刻を見て、俺は息を呑んだ。

 今の時刻はもう、最初の夢の中で見た爆発の時刻も、前回彼女が死んだ時刻も、そのどちらをもとっくに過ぎていて、それでもなにも変わらず続いている。

 ただ世界が続いているということがどうしようもなく喜ばしくて、俺は大きく息を吐く。

 もしかしたらもうこれで終わりなのかもしれないと考えればはっきり嬉かったけれど、しかしその時彩芽が隣にいることは正しいのか間違っているのか、ひとまず彼女の存在を確認するようにポケットの中でぎゅっと手を握り合った。


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