2-2 立ち位置には主義主張が


 軟弱だ。

 姿見の中で襟を整える自分に向かって叱咤するように言う。

 けれど、そんなことをしても気分が晴れるどころか、口から漏れるのはため息ばかりだった。

「事ここに至ると、自分のちゃらんぽらんさにはあきれるしかないな」

 もう何度も自戒し続けているというのに、俺はいつまでもこのぬるま湯に甘んじてしまう。

 新しく女の子と関係を作るということよりも、彩芽とまたこんな関係を作ろうとしてしまうということが俺にはより罪深く思えた。〝失って惜しいと思うものは作らない〟なんて掲げた主義の字面からすれば、それはおかしなことのように思えるかもしれない。

 でも、このポリシーは本当のところ「俺が死ぬ」ということから始まったわけではないからだ。

 それは彩芽が俺に――

 その時、ばーん、とチャイムも鳴らすことなくドアを勢いよく開いた彩芽が亜麻色のハーフツインを流星の尾のようにたなびかせて、颯爽と入ってくる。

「慎! 準備できた!?」

 いつもより余計にキラキラした彼女はにこにこして、玄関先から俺を呼んだ。

 大した準備もなく、コートを片手に引っ掛けて振り返る。

「ああ、すぐに行く」

 今日の日付は十二月二十四日。

 そして、俺はこれから彩芽とデートに出かけるのだった。



 時間は少し戻り、十二月二十二日。

 再びの始まりの続き。

 シビュラに会うことを拒んだ俺は、午後七時を回って夜と呼ばれる時刻になっても部屋にこもってごろごろと怠惰な時間を過ごしていた。彩芽も一緒だったけれど、別に二人でゲームをするわけでもなければいかがわしい行為に及ぶこともなく、ただ思い思いにぼーっとして、時折「コーヒーいるか」「うん。甘くして」なんてぽつぽつと会話をするだけだった。

 トイレに行く他には出ることのできないこたつ魔力に囚われた彩芽は、寝ころんだまま漫画(俺の本棚に入っていたやつを俺が選んで俺が手渡したもの)を読んでいた。そのうち、それを閉じてパッと起き上がる。

「ねえ、なんか食べにいかない?」

 外食か。一人で食べに行くことはあまりないし、たまにはそういうのもいいかもしれない。例えば――

「……いや、それはなしだ」

「なんでよ」

「そういう気分じゃないっていうか……外に出る気にならないっていうか……とにかく俺は行かない」

「えぇー。さっきまで乗り気だったっぽいのに」

 彩芽は不満げに声を上げる。

 鋭い。

 でも俺が意見を翻した理由は簡単だ。外に出れば、シビュラに出会ってしまう可能性がある。

 あの彼女の死がどんな経緯で起こったかはわからないけれど、俺にはそれが避けられない運命のように見えた。そして、そんな運命がこの街を支配しているのだとしたらそれはきっと俺とシビュラが出会ったときに始まる、そう思えて仕方がなかった。

 運命の輪を回す、なんてそんなロマンティストになった覚えはないけれど、もしもその竜頭が俺の手に握られているのだとしたら、その発条を巻かないというくらいの自由があると信じたい。

 むぅーとこちらをにらむ彼女へ曖昧に笑いかける。その愛想笑いはお気に召さなかったようだが、深く追求してくることはなかった。

「まあ、いいけど」

 彩芽は自分から言い出した話題をどこへやら突っぱねて、きゅっと瞳を絞るような目つきで俺を見つめた。

「それよりもさ……なんかあった?」

「なんかって、そりゃあ三年もあればなんかはあるだろうけど」

「そうじゃなくてもっと具体的で嫌なことよ! クラスに馴染めないとか、三十八度の熱があるとか、ストーカーに家を突き止められたとか!」

「もしかして、心配してくれているのか」

 机の上に身体を乗せた少女は、それが予想外だったのかひゃっと小さく息を漏らして、照れたように目をそらす。

 心なしか頬に朱色が差しているようにも見えて、それが俺には懐かしく、けれど女性らしさを増した彼女の姿は新鮮だった。

「当たり前でしょ。あなたは私の――」

 その続きになにを言おうとしたのか、俺と彼女だけは理解できた。

 目線を逸らして口を止めた横顔は痛ましくも感傷を誘われる儚げな美しさに満ちている。

 少しのシークタイムがあって、止まったままの彩芽はビデオを巻き戻すように元の位置に戻っていった。そして、質問をやり直す。

「結局、なにもないわけ?」

「どちらかといえばこれからあるかもしれないってところ」

「ふーん、まあなんかあったら言いなさいよね」

 気遣ってくれるのはありがたいが、次に幼馴染が口にした言葉もまた、俺には聞き覚えのあるものだった。というか、これにつなげるために(俺が聞き)慣れない気遣いの言葉を発したのだろう。

「もし、その、元気がないとかなら……引きこもってるより外に出た方がいいと思うから、今度遊びに行かない?」

「だから外に出る気にならないんだって」

「だから、外に出た方がいいって言ってるでしょ!」

「って言ってもなあ……十二月だぜ? 人体の六割は水分なのに氷点下の中を歩けるわけないだろ」

「あんただって恒温動物の端くれでしょうが! 体温くらい維持しなさい!」

「無茶いうなよ……」

「くだらないこと言ってないで、私と遊びに行きたくないならそう言いなさいよ」

 さっきまで絢爛たる様子を見せていた笑みに陰が落ちて、言葉に詰まった。

 実際、それが問題なのだ。俺は彼女と一緒にいたくないわけではない。むしろこの状況を幸福だとすら感じている。けれど、主義はそれを危険だと感じている。

 だから、俺の心情を正直に表すのなら、こうだ。

「……別に行きたくないってわけじゃないけど」

「そ」

 幼馴染はいつか見たような勝ち誇った笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がって腰に手を当てて偉そうに仁王立ち。

「じゃあ、明後日の十五時にそこの廊下で待ち合わせ! 来なかったら、銃殺刑だから!」

 バーン、と指で作った銃口が胸を撃ちぬく。

 彼女の笑顔の放つ光が俺に一つの閃きをもたらした。

 もしもシビュラが死ぬ条件が俺とクリスマスイヴにデートへ行くことだとしたら、恐らくその原因は俺が彩芽の誘いを断ったことだ。あそこで誘いを断ったから、シビュラの誘いを断れなかった。それなら、その逆を行けばあるいは変わるのかもしれない。

 もしかしたら、これがあの運命を避ける方法なのか。それとも、自分への言い訳に過ぎないのか。それとも、ループしているのなら少しくらい遊んでもいいという甘えなのか。

 そのどれだとしても、ただ、俺の主義と未来の彼女に頭を下げる。

 俺だって彩芽と昔みたいに遊びたくないわけじゃないんだ。

「ああ、わかったよ」

 それに、まだ死にたくはないからな。

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