明日、また屋上で。
冴草優希
第1話
二学期が始まって数週間が経ったが、相変わらず屋上は静かに時間が流れていた。穏やかな風が、暑さを和らげる。
ご多分に漏れず、うちの高校の屋上もフェンスが張り巡らされていた。といっても、僕の腹ぐらいまでしか高さが無いので、乗り越えようと思えばいくらでも乗り越えられる。
――飛び降りようと思えば、いつでも飛び降りられる。
そして、そのフェンスの向こう側。いつものように、屋上の縁に足を乗せ。
生と死の境界の上に、彼女は、いた。
「すっかり、涼しくなったな」
「そうね」
こちらを振り返ることもなく、空を見上げたまま彼女は応える。つられて空を見上げると、雲一つ無い青空が広がっていた。
それこそ、一歩踏み出せば空を飛べそうなくらいの、綺麗な空。
「強い風が来たら、危ないだろ、そこ」
「大丈夫よ。バランス感覚いいの、私」
くるり、と右足を軸に彼女が回る。グレーのカーディガンが、空気を包んでなびいていた。胸まで伸びた黒髪が風に揺れて、とても綺麗だと思う。
「月島くん。あなた、どうして、私にそんな世話を焼きたがるの?」
「……ほっとけないだろ。目の前で、死のうとしてる奴なんて」
君のことが好きだから。なんて言えるほど、僕は度胸が無い。
「……そういうの、偽善って言うのよ。別に、死にたくてここに来てるわけじゃないもの」
そう言って彼女は、いつものようにフェンスを乗り越える。
向こう側から、こちら側へ。
「森下――」
「私みたいなのにいつまでも構ってると、先生たちに嫌われるわよ」
こちらを見ないまま。彼女は、非常階段の方へと歩いていってしまった。追いかけるかどうか迷って、結局、しばらく屋上に留まることにした。
後を追いかけて、彼女に追いついて。その後、僕はどうすればいいのか。その答えを見つけあぐねて、1年以上が経過していた。
◆ ◆ ◆
高校の図書室というものは、試験前や受験直前以外には基本的に閑古鳥が鳴いているものだ。特に昼休みともなれば、大抵の生徒は食堂に走るか次の授業の課題をせっせとこなすものだから、必然的に図書室にいるのはよほどの本好きか図書委員、或いはその両方を兼ねている人物、ということになる。
うちの高校も例に漏れず、昼休みの図書室には僕と先輩の二人しかいなかった。
……もっとも、僕が図書室に来ている理由は普通のそれとは少し異なるのだけど。ポニーテールをカウンターに垂らし突っ伏す先輩に眺められながら、僕は貸出簿のチェックをしていた。
「キミも暇だねえ、雫」
「何度だって訂正させてもらいますが、僕の名前は栄治です。いい加減ちゃんと覚えてください」
「だってさー、図書室に毎日のように通って、名字が月島だろ? 月島栄治なんで普通すぎてつまらんし、雫でいいじゃんか」
僕は別に小説を書く予定もなければ、そこまで本が好きなわけでもない。そもそも性別が違う。
「まあ、いいです……森下は?」
「さっきそこを通っていったよ。一時間目が終わった頃に来てたから、滞在時間としては二時間半くらいかな」
つまり、先輩はその前からここに居たということなのだが、そのことに言及する前に予鈴が鳴り響いた。先輩はまた授業には出ないのだろうが、僕はそこまでして図書室に残る理由もない。
「ああ、そうだ。放課後、またここに来ること。どうせ他にすることもないだろう?」
「分かりました。じゃあ、放課後にまた」
ひらひらと手を振る先輩に見送られ図書室を出ると、古びた金属製の扉が目に入った。現在この扉を使用しているのは、おそらく二人だけだ。
他の高校は知らないが、うちの高校の図書室のいうのは東棟の最上階東端に存在している。廊下の端には非常階段に出る扉が設けられているのだが、どういうわけかこの非常階段が立ち入り禁止のはずの屋上に続いているのだ。先輩の話では、用途が用途だけに閉鎖するわけにもいかなかったのだろう、とのことだった。
そのことに、どうやって気づいたのか定かではないけれど。去年の夏、吸い込まれるように非常階段へと歩く森下結花を、僕は図書室の中から見てしまったのだ。
彼女に心を奪われてしまった、と言ってしまってもいい。
◆ ◆ ◆
放課後。図書委員会の仕事はあまり好きではなかったが、部活に入らない代わりに所属しているようなものなのでサボるわけにもいかない。森下に会ったのも委員会に入ったおかげではあるし、そのくらいは恩を返しておくべきだろう。
先輩は、貸し出しカウンターの中でぐっすりと眠っていた。どうにか揺り起こすと、先輩は大きく伸びをした後で「待ってたよ、雫」なんてこともなげに呟いた。
「図書室で寝るのも教室で寝るのも、あまり変わらないと思いますけど」
「馬鹿言っちゃいけないよ。私は静かな場所じゃないと安眠できないんだ」
学校で安眠しようとしている時点で何かが間違っている。今更なので、わざわざ突っ込むことはしないけど。
「それで、今日は何を読んでたんですか」
いつものように、話の枕として先輩に本の話を振る。昨年度のうちに図書室にあった本はほぼ読破し、最近は購入して読み終えた本をそのまま図書室に寄贈しているという話だったが、なぜか先輩は不快そうな表情を見せた。
「キミがそうであるように、図書委員がみんな本好きで、年がら年中暇さえあれば本を読んでると思っているとすればそれは大間違いだね。私は眠くなれば本を枕にだって寝るし、お腹が空けば食べ物を口に入れるさ。性欲が溜まれば自慰だってする」
「学校で自慰なんてしないでください」
「いや、あれはあれで中々趣があっていい。誰かに見られたらと思うと非常に……そんな目で見るなよ、冗談だ」
「……だといいんですが」
先輩の冗談は、本気で言ってるのかそうではないのかの区別がつきづらい。おそらく、全体的に冗談だと思って構えておくのが正解なのだろうけど、残念ながら僕はそこまで人間ができていなかった。
「まあ、キミが私の痴態を想像して劣情を催すのは勝手だが」
しねえよ。
「キミ、彼女のことをどうしたいと思ってるわけ?」
「……はい?」
唐突に。先輩がそんなことを聞くので、僕は思わず面食らってしまった。
「私がキミに『彼女』と言ったら、森下結花のことだろう。それともなにかね、まさかキミは複数のルートを同時に攻略に掛かっているのかい?」
「攻略、って。別に、今のところ何も」
「ふーん。あっそ」
告白するどころか、まともに話もしていない。一緒にいる時間はそれなりに長いはずだが、昼間のようにある程度会話の体裁をなし始めたのは、確か六月に入ってからの話だ。
「口説き落とすつもりが無いなら、彼女からは手を引くべきだ。今すぐにでもね」
「……どういう、意味です?」
「雫はさ、自分が結構残酷なことしてるって気づいてる?」
この人は。いったい何を言っているのか。僕の行動が鬱陶しいと思われているというのなら、まだ分からないでもない。それでも最近は、少しずつ打ち解けてきてはいたのだ。それが、残酷な行為とまで言われる理由なんて、どこにあるというのか。
「やっぱり、何も分かっていないか」
先輩が立ち上がる。目で着いてくるように促され、そのまま例の非常階段を登っていった。校内にいると分からなかったが、遠くの方で、吹奏楽部や野球部辺りが練習しているのだろう音が響いていた。
彼女は、来ていないようだった。
「前にも話したと思うけど」
手すりに手を乗せ、先輩が話し始める。夕日が逆光になっている所為で、先輩の表情はよく見えなかった。
「昔、ここから生徒が飛び降りたんだ。まあ、当時はよくあったことといえばそれまでだけど」
確かに、何度か聞いたことがある。それが原因で、校内から屋上に出る扉は封鎖され、今となってはあの図書室の隣の非常階段だけが屋上に繋がっているという話だった。
「それが、彼女と何か関係あるんですか?」
「そんなに結論を急ぐなよ、雫。彼女なら生徒指導室に呼ばれていたから、もうしばらくはここには来ないって」
ため息を一つ吐いた後。彼女から聞いたわけではないが、と断りを入れて、先輩は再び話し始めた。
「……栄治くんはいわゆる普通の生活をしてきた人間だから、分からないかもしれないけど。世の中にはさ、どうしても普通の社会に合わせられない人間ってのがいるわけ」
私みたいな社会不適合者がね、と先輩は軽くおどけて見せる。
「彼女の人生に何があったかなんて、私はキミと違って興味は無いけど。毎日ここに来ることで、彼女は自分自身を保っているんだろうさ。だけど、その彼女の居場所に最近、イレギュラーが現れ始めた。森下結花のテリトリーに、侵入者がやってきたわけ」
「……僕、ですか」
「そゆこと」
先輩の影が頷く。心当たりが、無いではなかった。
「森下にも、言われました。偽善だって」
だけど、なら僕は……いったい、僕にどうしろというのか。
「偽善でもなんでもいいです。罵られても構わない。僕は、このままじゃ彼女がいつか消えそうな気がして……でも拒絶されてしまったら、もうどうすることもできなくなりそうで。先輩……僕は、どうするべきですかね」
「知らんよ。私はカミサマじゃないし、月島栄治でもなければ、森下結花でもない」
大きく、息を吐く音が聞こえた。
「答えなんてさ。どうするべきかなんて、動いてから見つけるものなんだよ。神様はサイコロを振らないが、私たちはどうしたってサイコロを振るしかない。最適解を見つけてから選択肢を選ぼうだなんてやるだけ無駄さ」
そう言って、先輩は手すりから離れる。
「時間が無いわけじゃないんだ。悩めよ若人。いろいろ考えるといい」
大きく伸びをしながら、先輩は非常階段の方へと歩いていく。残ったのは僕と、先輩が置いていった言葉だけだ。
彼女のために、僕は何ができるのか。それを考えようとして、僕は今更、彼女のことを何も知らないことに気づいてしまった。
ふと、柵が視界に入る。……手探りでもなんでもいい。先輩の言う通り、とにかく今は行動をとるべきだろう。
だから、僕は――境界を、乗り越えた。
こちら側から、向こう側へ。
途端に、今まで意に介さなかった微風が、死神のように僕の肌を撫で始める。この風に押されて、すとん、と前に踏み出してしまうのではないかという恐怖。気が付けば僕は、無意識のうちに両手で柵にしがみついていた。
柵を握り締めたまま、上半身を乗り出しゆっくりと下を見下ろす。思わず、地面に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥りそうになる。背筋が、凍った。両足はもう、さっきからがくがくと震えて収まる気配を見せない。
これが……彼女の、見ている世界だとでもいうのか。こんな脆くて崩れてしまいそうな場所が、彼女の拠り所だっていうのか。
こんな場所にすがりついている彼女の手を……僕は、引き上げてやることができるのだろうか。
いや――そもそも。
僕の差し出した手を……彼女は、握ろうとしてくれるだろうか。
何もかも怖くなってしまって、僕は震える体を無理矢理動かして柵の内側へと戻った。コンクリートの床に尻餅をつき、大きく息を吐く。
どれほどの時間、あの柵の向こうにいただろうか。一分にも満たないようにも思えたし、一時間は震えていたようにも感じる。時間を確認しようとして、携帯を図書室に置きっぱなしにしていたことを思い出した。
「……いったい、どうしろって」
しばらくぼんやりと考えてた後に、僕は逃げるようにして非常階段を駆け下りた。
今彼女に会ってしまったら。僕は彼女に、どう声をかければいいのか分からない。
先輩と目を合わせずにカバンを取り、図書室をあとにする。吐きそうになる何かを必死に抑えながら、僕は家へと自転車を走らせた。
◆ ◆ ◆
それからしばらく、森下は屋上へ姿を現さなかった。会って何を言えばいいのか。そのまだ答えを見つけられていないから、彼女と会うことがないのは時間を稼ぐという意味ではありがたいのだけど……顔を見れない、というのはそれはそれで寂しいし、心配になる。僕としてはもう、森下を待ち構えるしかない。
「お困りのようだね、雫」
「放っておいてください」
だから、こうして今日も図書室に顔を出しているのは、仕事というのが半分、惰性のようなもの半分といったところだ。どうすればいいのか糸口を見出せず。柄にもなく、暇を見つけて恋愛小説だの哲学書だのを読んでいた……結局、解決には至らなかったけど。
「恋愛小説なんてものはね、結局参考書でしかないよ。模範解答集にはなり得ない」
「……そういう、ものですか」
「小説の主人公の通りに行動すれば、相手も登場人物のように返してくれるのなら……世の中はもう少し分かりやすくて、とてもつまらないものになっているだろうさね」
チョコレートをつまみ、SFらしきタイトルのハードカバーを読み進めながら、先輩はそう言って笑った。
「大体、フィクションの中のカップル共にはトラブルが多すぎるんだ。私はもう少し、穏やかな関係の方がいい」
「先輩の恋愛感は別にどうでもいいですが」
「お? 言うじゃないか根性なし」
「ぐ……」
言いたいことは、なんとなく理解できる。「こういうときはこう動く」なんて明確な答えは、人生においては存在しないということなのだろう。
なら、結局僕は僕の考えで動くしかないのだ。
「そういえば、彼女だけど」
お菓子の袋をくしゃり、と丸めてゴミ箱に放り込み、先輩は思い出したように呟く。
「噂だと、どうも学校自体をそもそも休んでるらしいね」
……図書室に引きこもっているはずのこの人は、いったいどこからそんな噂を仕入れたのだろうか。
「病気……ですか?」
「さあ? 私はそこまで興味が無かったから、話半分でしか聞いてないんだよ」
これ以上は自分で確かめろ、ということらしい。とりあえず軽くお礼を言っておくと、先輩は鬱陶しそうに手を振った。
彼女のクラスは、以前本人に聞いたことがあった。これで本人が居たら恨みますよ、と思いつつ記憶を頼りに教室へ向かうが、放課後ということもあって人影はまばらだった。それでもどうにか残っていた女子を捕まえて話を聞くと、理由は分からないがしばらく休んでいるのは確かだ、ということだった。
「あの……森下さんと仲いいんですか?」
「そういうわけじゃ、ないんだけど……彼女が学校に来たら、図書委員の月島が返却期限の過ぎた本を返すように言っていたと、伝えてくれると助かるかな」
「はあ……」
怪訝な表情を浮かべる女子生徒に愛想笑いで応えつつ、教室を出る。彼女が図書室に来たことなんて一度も無いから、返却期限の過ぎた本なんて存在するはずはないのだが、こうでもしないと彼女は屋上に来てくれないような気がしたのだ。
僕は図書室の方に戻り……鉄製の重いドアのノブを、握った。
◆ ◆ ◆
そうして、週が空けた。土日の間の大雨にはやきもきさせられたが、今日の朝になると雨はあがり、昼過ぎには雲ひとつない青空が広がっていた。
彼女は学校に来ているだろうか。もし会えたら、どんな話をするべきだろうか。いろいろなことが頭の中を巡り、固まらないままの状態で、僕は非常階段を登っていく。
放課後の屋上には、今朝までの雨でいくつか水溜りができていた。グラウンドの土も乾ききってはいないらしく、運動部は活動がやり辛そうなのが遠目で見てもわかった。
そして。僕はまた、柵を乗り越える。恐怖心はまだ残ってはいたが、それよりも、なによりも、いつも彼女が見ていた景色を、僕も見ていたかった。
片手で柵を掴んだまま、彼女と同じように屋上の縁へと足を乗せる。高鳴る心臓を、深呼吸で無理矢理なだめる。
この前よりも余裕ができているのが、自分でも分かった。ゆっくりと視線を動かすと、紅に染まる西の空が目に入る。雨上がりで空気が澄んでいるのか、燃えるような赤と山の緑が合わさり、絵画でも見ているかのような錯覚に陥る。
こんな景色を独り占めしていたのか……彼女は。最後の拠り所に選ぶのも、なんとなく頷ける。
「ちょっと、何やってるの!」
声の方向に顔を向ける。
彼女が。森下結花が。
僕が今一番会いたかった人が、そこにいた。
「や。久しぶり、森下」
「危ないでしょ、早く戻りなさい!」
彼女の表情からは焦りが見て取れた。今まで見たことのない彼女の表情に、僕はなぜだか無性に嬉しくなっていた。
「大丈夫だよ。バランス感覚はいいんだ、僕」
「なに、言って……」
くるり、と体の向きを変える。雨で濡れた足場は思いのほか滑りヒヤリとしたが、なんとか表情に出さないようにした。
「森下はいつもこうしてたのに、僕がここにいるとそんな風に怒るんだな」
「それとこれとは話が別でしょ。目の前で誰かに死なれるなんて、夢見が悪いわ」
「……そっくりそのまま返すよ、その言葉」
とはいえ、このまま柵を挟んで彼女と話すのはなんだか心の壁を示しているようで心苦しい。僕は柵を乗り越えようと身を乗り出し、
「あ――」
「月島くん!?」
足を滑らせ、体が浮くのを実感した。はっきり言って、まずい。体重のかかり方次第では、このまま、落ちる。
僕は空中でもがき、そして――空いた左手を、彼女の右手が掴むのが、はっきりと分かった。
◆ ◆ ◆
「……死んだかと思った」
「それはこっちのセリフよ」
バランスを崩しながらも、僕は彼女に手を引かれたこともあり、屋上の上へと自由落下した。骨は折れていないだろうが、コンクリートにぶつかった身体の節々が痛む。
水溜りに飛び込んだせいで二人とも制服はびしょ濡れだったが、それでも、どちらも生きていた。体力はともかく気力はかなり消費しているようで、互いに仰向けになって水溜りの海に浮いていた。
「ねえ月島くん。本当に、どうしてそんな私の世話を焼きたがるの?」
「それは……好きなんだよ、森下のこと」
「なっ……!?」
彼女が、上半身を起こしてこちらを見る。目が合いそうになって、僕は慌てて視線をずらした。先輩が見たら情けないと笑うだろうが仕方がない、僕だって何で自分がこのタイミングで告白したのか訳が分からなくなっているのだ。
「好きって……えっと……え?」
彼女は彼女でだいぶ混乱しているようだった。正直、かなり申し訳ない。
「あー、いや、うん。すぐに答えは出さなくていいというか、こっちもちゃんと心の準備ができてないというか」
何を言っているんだ僕は。
「一目惚れ、だったんだ。それで森下のこと、ちゃんと知りたくなって……だから、屋上に通ってた」
「そ、そう……」
気まずいやら恥ずかしいやらで頭がおかしくなりそうだった。こんなことならさっき死んでおけばよかったと、一瞬思ってしまう程度には混乱しているらしい。
「ごめん、突然こんな話して」
「……いいよ。好きだって言われるのは……嫌じゃ、ないから」
どうやって話を繋げていけばいいのか分からず、思わず立ち上がってしまう。手を差し出す前に、森下の方も自力で立ち上がった。こんなに甲斐性なかったのか、僕。
「そ、そういえば……最近、来てなかったよな、ここ」
「ああ……うん。風邪引いてたのよ、私」
「……」
「……その、本の返却がどうって話って……」
「えーと……ごめん。森下と話がしたくて、嘘ついた」
「そう。よかった」
「うん……」
会話が止まってしまった。小説の主人公ならこういうとき、スラスラと歯の浮くような言葉が出てくるのだろうか。
「あの、月島くん」
「……うん」
「私今日、これから塾なんだけど……」
「ああ……そっか、うん。呼び出したりして、悪かった」
塾に行く前の、病み上がりの女子生徒の制服を、濡らしてしまった。もしかして今の僕、うちの学校で最悪の男子と化していないだろうか。
「じゃあ……また明日、ここで会いましょう、月島くん」
「……え?」
聞き返す間もなく、彼女は非常階段を駆け下りていく。その表情が微笑んでいたように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。
空を見上げると、薄暗闇の中で夏の大三角が輝き始めていた。
◆ ◆ ◆
次の日の昼休み。
気が付けばもう九月が終わろうとしていたが、相変わらず屋上は静かに時間が流れていた。穏やかな風が、体を通り抜けていって心地がいい。
例によって例の如く、屋上にはフェンスが張り巡らされていた。僕の腹ぐらいまでしか高さが無い、ひどく曖昧な生と死の境界。
そして、そのフェンスのこちら側。胸まであった長髪を肩で切りそろえ、風になびかせながら。
僕の存在に気づき、彼女は笑顔で手を振ってくれた。
明日、また屋上で。 冴草優希 @yuki1341
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