水際に没する ~下~

「おややのや、随分と大人しくなってくれたね!」

「……ほざけ、まだ終わったなどと思うなよ」


 水に溺れ、意識を失う直前に元の場所へ戻ってくる。正に悪辣、正に狂気。人の首を真綿で絞める行為を味わいつくす人でなし。それが目の前の女だった。


「苦しいよねぇ、苦しいんでしょう?」

「……殺す」

「やれるものならぁん!」


 こいつの動きは変だ。変すぎる。動きが完全に素人という点では

 先日邂逅したマスク姿の星座の本所持者と同じだが、決定的に違うのはこいつが回避のみに専念していることだ。妙に滑るような、滑らかな動きでひたすらおちょくるように回避のみを行う。


「ほーらほら、捕まえてごらんなさい!」


 女は手で壁の突起を掴み、器用にそれを上っていく。


「待て――ムグッ……」


 視界が青く、暗く染まる直前に息を止める。次に視界が元に戻るのはいつか、もしかして自分はこのまま死ぬのではないか、そんな考えが浮かび、あぶくとなって水面へ浮かんでいく。

 どこかもわからない水の中を上へ上へと泳ぐ。だが果ては見えない。だが他にやることもないのが事実だ。

 ほの暗い水の真っただ中。あぶくはますます増えるのみだった。


 ❖


「あ、消えた」


 赤い点滅が消え、地図が反応を無くした。


「キャンサーの携帯の位置情報ってことだよね。電源でも切ったんじゃないの? 本格的にこっちと顔合わせるのが嫌だ、みたいにならなければいいけれど」

「ああ…」


 紫暮は少し考えこんでから携帯端末をしまい込んだ。


「あいつは電話の仕方もろくにできないほどの機械音痴だ。電源を切るなんてマネできるか……?」

「……敵かな」

「や、わからん。だが一応急いで見に行くか」

「念には念を、ね』


 ◇


「最後に反応があったのは――こっちか」

「襲撃を受けてるとして、端末の反応がなくなってるのを見ると……」

『衝撃で壊れたか、あとは機械に異常が起こったかね』


 魔導書へと姿を変えたスコーピオンは私の手元で冷静に状況を分析する。


「衝撃だったら一気に壊れることが多いはず、今回はその前兆として位置情報のバグみたいなのがあったから敵の能力は機械異常――電気とかかも」

「あいつの人間態に能力はねぇが、小柄なうえにあたしなんかよりもよっぽど“やる”やつだ。それが苦戦してるっつうことは厄介そうだな」

『電気……軽い電磁波ならまだいいけれど電撃を飛ばす、とかだったら相性最悪ね』

「いや、そうでもねぇよ。キャンサーが鎧になりゃ電撃くらいなら地面に拡散できる」


 ――安心感が違う。共に戦う仲間がいる、考察しながら作戦を立てることができる。今まではほとんど遭遇戦だったため、こんなに準備できる時間はなかった。それが、時間的猶予と頼れる仲間、この二つで大きすぎる安心をもたらしてくれるではないか。

 私は半ば感動しつつもその裏で脳みそを巡らせる。


「おっけ、なんにせよ一番はキャンサーの回収だね」

「ああ、そうしないとあたしも戦闘に参加できねぇ」


 動きは決まった。状況の想定もできた。あとは実践するだけだ。


『推測はしたけどそれが現実だと思わないようにね。魔導書の能力は“何でもあり”よ。基本自分たちの考えは外れると考えてちょうだい』

「肝に銘じとくよ」

「だな」


 まばらに人のいる表通りを走る。


「こっちだ。あそこの右!」

「私が先に行く!」


 片刃剣を構えながら、私はその角を曲がった。

 その先には階段があり、下った先はごみ捨て場だった。湿った地面とまばらに置かれたビニール袋の山。そしてその上に立つ女――


「おやや、ややおやや! こんにちは!」


 女は笑顔でこちらに変わった挨拶を放つと、こちらへ向かって一歩踏み出した。それをとがめようと私も一歩踏み出す。


「それ以上こっちに来ないで、私は簡単にあなたを殺せる」


 それこそ一太刀で。だが女は表情を一切変えず、以前笑顔のままもう一歩踏み出した。


「近づかないでって言ったでしょ、それ以上近づいたら――」

「それ、星の本だよね?」

「は?」

「星の本だよね? あの凄い奴! わぁ! 初めて見た!」


 女はまじまじと私の持つ片刃剣を見つめる。


「なんだ、こいつ」


 紫暮も遅れて顔を出し、その異常な女を観察する。


「すごーい…いいなぁ――ほしくなっちゃう」

「――!」


 私は一歩後退してから、一番聞きたいことを女に投げかける。


「ねえ、ここらへんで女の子を見なかった? 白髪で仏頂面の」

「白髪……仏頂面……ああ!」

「やっぱり知ってるんだよ、ね? どこにいるの?」


 そう聞くと女はますます笑みを深め、


「今友達になってる!」

「ええっと……?」


 敵意はなさそうだが。


「つまり、どこにいるの?」

「会いたいの? ここにいるよ」


「――ゲホッ、う、ぐぇ」


 突然、中空から少女姿が出現した。現れたスコーピオンは地面に手足をつき、しきりにえずく。


「――お前!?」


 私は女に剣を向けた。紫暮がすぐにスコーピオンへ駆け寄る。


「大丈夫かよ、おい!」

「く……ふ……うぇ、おえぇ」


 息を荒げ、なにかを吐き出したがるように口を開けるキャンサーはかなり辛そうに見えた。そして、その原因は――


「彼女に、なにをした」

「なに? なに……なになに、あははははは!! 面白い!」


 問答無用だ。


『留雨十』

「わかってる。行くよ」


 片刃剣で切り上げる。が女は予想以上に素早く、すんでのところで躱された。


「ややっとややの優しいね?」

「うるさい!」


 女の挑発をはねのけて、私は続いて剣を振り下ろした。女は笑いながら跳躍し――


「ゲッホ……上を、取られるな!!」


 キャンサーの言葉に、とっさに女の肩を掴む。


「およ」


 そしてつかんだまま一気に力をかけてその身体を引き戻した。


「ありゃりゃりゃのりゃ。ざんねーん跳びたかったのに」


 キャンサーは顔を真っ白にしながらもかろうじて立ち上がり、女を指さす。


「奴の能力は人を溺れさせる……おそらくはあいつより下に行ってはならないのだ。まあそれがわかっていることと止められることは別だがな」


「……溺れる?」

「理解力のない奴だな、水の中に入れられるのだ。わあぷ? だかなんだかと似ているやもしれん」

『なるほど、それが端末が破損した原因ね』

「スクナ湖……転移か!」


 これで合点がいった。あの場所情報は間違いなかったのだ。キャンサーはスクナ湖に転移させられては戻され転移させられては戻され、それを繰り返した結果があの赤点点滅というわけか。


 キャンサーは、自身の刀を杖代わりにして紫暮へ手を差し伸べる。


「行くぞ」

「大丈夫なのか?」

「無論だ。我の思う強敵とは少し趣向が違うが――それもまた良し」


 死にかけてもなお、とは。彼女の根底にある強敵と戦いたいという意思はどうやら相当強固なようだ。とはいえこういう初見殺しのような能力なら、一度見破ってしまえばあとはかなり楽になるはず。


「よっしゃ行くぜ! あたしの相棒の借り、100倍にして返してやるよぉ!」

『全力で殺す』


 魔導書となったキャンサーをつかみ取り、紫暮の口角が吊り上がった。


「うぉらぁ!!《身の内に刃抱きし巨蟹宮ゾディアック・ キャンサー》!!」


 先手必勝と言わんばかりに紫暮の身体が風になる。一瞬のうちに女に接近した紫暮は刀で――両横の建物を、切断した。


「ほよ?」


 女が素っ頓狂な声を上げる。


「――これでいいんだよな、キャンサー」

『……ああ、これにて奴は――』


「上を取る方法を無くしたぁ!!」

『上を取る手段を失った』


 ギギィ、という鈍い音と共に両横の建物があっけなくつぶれる。建物の一階部分が全て切断され、屋根からぺしゃんこになったのだ。


『その使い方デタラメすぎるでしょ……』


 あきれ半分感嘆半分の声色をスコーピオンが上げる。声は出さないが私も同じ気分だ。


「上がれる他の場所を探すんだな。もっともそれはあたしが、あたしたちがさせない」


 紫暮が階段の上へあがってきた。私たちは手の平と手の平を打ち合わせるが、その間も女の姿を見つめて逃さない。


「おわっ、わわわぁぁぁ!! 星の本が!! 二冊も!?」


 しかし、残念なことに女の悔しがる顔を見ることはできなかった。奴は満面の笑みを浮かべていたのだ。花が咲いたような――ただしその蜜は甘くあっても毒性だろう。


「友達になりたかった娘が星の本だったなんて! 何たる幸運強運大奇跡! ますます友達にならなくっちゃ!」

「ほざけ、おめぇはもう終わりだ」


 ぴょんぴょんと飛び跳ねる女に紫暮が宣告する。だが女は不思議そうに首を傾げ――


「終わりって終わり?」


 女は歩きながら首を横に曲げることを止めない。そして私は、彼女の足がマンホールを踏んでいることに気が付いた。


「紫暮っ――」


 次の瞬間、マンホールがはじけ飛んだ。水流は天を向いて一気に放出される。そして――


「あっははは!! これがわたしの滝登りぃ!! これが私の――《溺死者のパレヱドアンダーウォーター . D E A D》!!!」


 女の身体はその水流に背を打たれ、一直線に登っていく。上空へ、私たちの上へ。


「しまっ……」

「このっ!」


 私はただ茫然とそれを見ていることしかできなかった。だが紫暮は違った。動きを止めた私を後ろへ置き去り、上昇を始めた女に接近する。だがもう手は届かないかに思えた。


「――《身の内に刃抱きし巨蟹宮ゾディアック・ キャンサー》ぁ!」


 一閃。切断されたのは女ではなく、マンホールのある、今まさに水流を吐き出している地面一帯だった。

 タイルが割れ、その下のコンクリートが丸見えになり、さらにその奥の下水道まるままあらわになるほどの切断。

 女が上に行けていたのはマンホールの穴という一点に水圧が集中していたからだ。ここら一帯が大穴――というより一つの亀裂になってしまえばかかっていた水圧はなくなる。


 辺り一帯は水没した。足が膝までつかるほどの水が通りへと広がっていく。今のここは下水道の真上になんとか点々と陸地が浮いているような奇妙な状態だ。


 女は皮肉的なほどゆっくりと、勢いが収まっていく水に受け止められながら再び地にその身体を触れさせた。


 しかし、自らの立つ大地を割った紫暮を受け止めるものはない。


「紫暮!!」


 でこぼこの隙間だらけになった地面を踏み、紫暮に向って手を伸ばす。だがその手は届かない。


「――留雨十!」


 紫暮は何かを私に向けて投げつける。微光を発するそれは少女へと姿を変え、私は慌ててそれを受け止めた。

 キャンサー。紫暮は自らの星の本を投げつけたのだ。私に託すように。

 そして彼女の姿は――消えた。一瞬にして、跡形もなく。


「――」


 呆然、唖然。何もつかんでいない手を開いては閉じ、開いては閉じる。なんどやってもそこには何も現れない。なんど願ってもその手は二つ目の手を掴んではいなかった。


「あっは……あっははーはのはぁ!!」


 私の目の前、大きな亀裂を挟んだ離れ小島のような場所で女が笑った。


「あーあ、泣いた笑った! 綺麗な彼女は水の底! でも私の好みじゃないんだよね……友達にはなれないからこのまま天へゴー、かな残念だけど」


 女は目を細めた。あくまで笑顔は消さず、あくまで余裕は崩さない。勝てるのだろうか。残るは私とキャンサー、相手がまだ奥の手を隠しているかもしれない、魔導書は何でもありだ、もし私が思っている通りの能力でないとしたら? もし――


「おい」


 見ればキャンサーがこちらを見据えている。その眼は武人の目、戦う人間の目だ。


「貴様がほおけているのは勝手だが、戦う気がないのならそこを退け。邪魔だ」


 そう言ってキャンサーは一人女と視線を交わす。


「ま、待って! 一緒に戦お――」

「戦う?」


 私が初めて見たキャンサーの笑顔は冷徹で、こちらに一切の期待を寄せていない。蔑みと嘲笑、それがめいっぱい詰まったものだった。


「お前が? 目はよどみ手は震え、暗闇に一人取り残された子供の用だな」


 紫暮がいる。それが今の私には大きすぎた。逆にいなくなれば――


「――っ」


 私の手が震えていることに気が付いた途端。紫暮と初めて会ったあの日のように――いやそれよりも深い恐怖が湧き出てくる。


『そんな言い方!』

「事実だ。今の貴様では戦えん。紫暮にあれだけ言っておきながら結局皮がはがれればこの程度、いるだけ邪魔だ。その隅で震えていろ……哀れなドブネズミのようにな」


 自分の両手を見る。震えていることにも気が付かなかった自分の手を。

 自分の足を見る。小刻みに震え、あまりにも頼りない。

 自分の心を――


 自分の根底には恐怖が根付いていた。ただ、それだけだった。

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