序章の終わり:戦いの始まり

 文庫本を捲る。紙の上で物語が展開される。その繰り返し、何度も読んで、台詞もページも全て覚えた。だけど未だに胸が躍る。次どうなるか分かっているのに、ドキドキが止まらない。


「ん……むぅ……」


 ベッドに腰掛ける私の膝を占拠する頭がもぞり、と動いた。


「……あったかい」


 ゆるみ切った顔でそんなことをいうものだから私は少し笑ってしまった。子を持つ親の気持ちとはこんなものなのだろうか。

 私はそんな彼女に小声でささやいた。


「おはよう、紫暮」

「…………おはよ、留雨十」


 呼び方はかわらない。でも昨日までのそれと、今の呼びかけは完全に違うものだと断言できる。変わったのは内側の真ん中。一番大切なところだ。


 ◇


「忘れてくれ」


 意識が完全に覚醒した紫暮が、真っ先に行ったのは土下座だった。なんだか出会いを思い出すな、なんてことを思いながら――


「マジで昨日のあたしはどこかおかしかった。だから忘れてくれ、せめて記憶の奥底にしまっておいてくれ」

「そんなこと言われてもねー、怖くて寝れないから一緒に泊まってーなんて言われちゃ、そうそう忘れられるもんじゃないわよ」


 スコーピオンの言葉で昨日の自分の行動を思い出したのか、紫暮の顔が真っ赤に染まった。


「なっ、この! 節足動物風情がっ!」

「キャー、乱暴者が来るー!」


 スコーピオンがわざとらしい悲鳴を上げて紫暮から逃げ回る。いつの間にこんなに仲良くなったのやら。


「私は昨日のことよりも、紫暮がホテル暮らししてるって事実のほうに驚いたけどね」


 自宅にはだいぶ帰っていないらしく、かといって1つのホテルにずっといるわけでもなく、点々とする生活。ストレスのたまりようは尋常じゃないだろう。


「なに読んでるの?」


 後ろからスコーピオンが私の肩に頭を置いて尋ねた。先ほどまでスコーピオンを追いかけていた紫暮はと言うと、隅の椅子でぜーぜーと息をしている。


「小説」

「いやそれは見ればわかるわよ、題名、見せてくれない?」


 私は本を閉じてスコーピオンへ差し出した。


「スコーピオンって本とか読むの?」

「いいえ、ほとんど読まないけれど。自分の所有者が持っている本を読んでみようという意欲くらいはあるわ」


 私から受け取った文庫本をまじまじと見つめると、スコーピオンは背表紙のあらすじを読み始めた。なるほど、そこから読み始める派なのか。

 少しうれしくなってしまった。私がスコーピオンについて知っていることは驚くほど少ない。魔導書であることと大まかな性格は分かるが、好きなものなどの情報はさっぱりなのだ。過去についても、私と出会う前にはどこにいたのかなど気になることはある。こんど尋ねてみようか、なんて考えていると、


「“羽虫の皇様”、ね。随分と怖いタイトルしてるじゃない」


 廃墟の床が映し出されただけの表紙を叩いて、スコーピオンがそう言う。


「中身はそうでもないよ。ミステリー……っていうより冒険活劇的な」

「ふーん……」


 スコーピオンがぺらぺらとページをめくり始める。何を話しているのか気になったらしい紫暮がこちらへ歩いてきた。


「なに読んでるんだ?」

「留雨十のよ。読んでる途中っぽいから今返すつもり」

「いいよ、私はもう何回も読んでるから――って言っても強要はしないけど」


 何ページにどの場面が載っているかを覚えるくらいには読み込んでいる。だから正直読みかけでやめようとかまわない。


「へぇ、留雨十って本読むタイプだったのか」

「そういう紫暮は読まなさそうだけど」

「まあそうなんだがよ」

「そういえばキャンサーは?」

「早朝の鍛錬だよ。あいつは毎朝日の出前から素振りとかしてんだぜ?」


 それはなんともイメージ通りだ。昨日の一件があってからキャンサーとやり取りを交わしていない。主人を泣かせた、として恨まれてなければいいが。


「その心配はなさそうだけどね」


 あの性格だ。紫暮が散々貶されたとしても反応するかどうか。

 キャンサーは特に何を考えているかわからない人物の一人だ。未だにこちらへの敵意は消えていないようだし、たびたび私を叩き切ることを紫暮にオススメしているが、冗談かどうかもわかりにくい……多分冗談じゃないんだろうなぁ……


「ほいよ、朝飯」

「おわっ」


 考え事をしていた私のほうに突如ビニール袋が投げられた。とっさにキャッチした私をみて紫暮が笑う。


「わりぃわりぃ、ちょっと急だったな。そん中から一個選んどいてくれ」


 袋の中には菓子パンがいくつか詰められていた。


「いつの間に買い物なんて」

「ちょっと真夜中にな」


 紫暮の視線がスコーピオンのほうへ向く。スコーピオンはそれに軽く微笑み返すと、自分のパンを選び始めた。

 なるほど、この二人の仲が急激に深まったわけはその真夜中の買い出しが大きく関係しているらしい。二人の秘密の会話でもあったのだろうか。……ちょっと疎外感。


「安心しろ、別に悪口なんか言っちゃいねぇよ」

「それどころか紫暮はべた褒めだったのよ?」

「ちょっ、その言い方は言い方で結構恥ずかしいっての!」


 わちゃわちゃじゃれつく二人を見ているとなんだか心の芯があったまるような、そんな不思議な感覚に襲われた。これは――


「どうしたんだよ留雨十、お前も混ざりたいのか?」

「もう、すぐ茶化す」


 そう言いつつも、私は立ち上がった。別にじゃれ合いたいというわけでもないが、理由らしい理由も見つからない。なら、そんな理由でもいいだろう。


 ❖


 時刻は真夜中までさかのぼる。


 ――「ん……」


 意識がまどろみから少しずつその身体を出した。ホテル特有の妙に沈む枕から頭を起こす。未だ暗く、月明かりが差し込むホテルの一室、隣のベッドに眠っている留雨十の顔が照らされて青白く浮かび上がった。


「……ああ、そっか」


 あたしは泣いたのだ。散々留雨十の胸の中で。


 恥ずかしいという気持ちは沸いてこなかった。まだ泣いてから数時間もたっていないからかもしれない。どうせ朝には散々恥ずかしくなるだろうが。


「さすがに一緒に泊まって、は やりすぎだったかな……」


 でもあの時はそれしか考えられなかった。不安を、孤独を自覚したまま眠りたくなかった。


「2時半、草木も眠る丑三つ時、か」


 一度冴えてしまった目は簡単に閉じてくれそうにない。あたしは諦めて夜の散歩でもしようかとベッドから身を起こす。その目の前で。


「おはよう……って言うのもなんだか変よね。この時間の挨拶ってなんていうのかしら」


 スコーピオンは、そう言って首を傾げた。


 ◇


「……」

「……」


 無言。お互いにつかず離れずの距離で歩く。真ん中に留雨十という緩衝材が無ければこんな風に気まずくなるのはわかっていたが、中々にものがある。友達の友達とたまたま一緒になったときのような感じだ。


「……よくあんな時間まで起きてたな」

「魔導書に睡眠はいらないもの、娯楽と心を休めるだけよ」

「そうか……」


 会話が止まる。一応近所のコンビニへと向かうルートをたどってはいるが、どこへ向かっているのか自分でもわからない。


「……あなたは留雨十のことをどう思ってる?」


 そう、唐突にスコーピオンは聞いてきた。いくら話のタネが無いとは言え、そんなやぶれかぶれな話題があってたまるかとは思うが、他に話すこともない。


「正直、舐めてたよ」


 だからあたしは真っ向から、思っていることを口にした。


「あたしより力は弱く、直感も鈍い、圧倒的に弱い。負けたのだって偶然、そう思ってた」


 そう、勘違いしていた。


「……じゃあ、今は?」

「多分、力量を競えば勝てる。でも、それ以外の土俵で負ける」


 単純な力の差なら負けない。でも、それだけだ。


「凄い奴だよ、あいつは」


 わけのわからない殺し合いに巻き込まれて。殺されそうになって。自分を殺しそうになった相手を許し、ともに行動し、そして見事に心の内をあけっぴろげにされた。


「自分が巻き込まれた元凶に“私も頼るから頼って”だぜ? イカレてるっての」


 スコーピオンは目線を一切こちらに向けず、じっと話を聞いていた。


「狂ってんだろ」


言葉とは裏腹にあたしの顔が形作ったのは笑顔だった。


 スコーピオンは小さく同意の頷きをする。また無言。音がなくなった夜道に2人分の靴音のみがBGMだ。


「――私は」


 次に口を開いたのはスコーピオンだった。


「私は留雨十が怖いわ」


 冗談でも言っているのかと思った。だが、その顔を見ればそれが本心に相違ないことを示していた。


「簡単に順応して、簡単に剣を取って、覚悟を決めたらもうそのまま進むだけ」


 小さく唇を噛んで続ける。


「留雨十はこの先どんなに死にそうになっても、逃げたくなっても、きっとあなたを頼って、そして頼られたら駆けつけるわ。それは保証する。心配しないで」

「心配なんぞしてねぇって」

「留雨十は簡単に一歩踏み出す。踏み出しちゃうのよ。私はいまでもあの時彼女に剣を抜かせたことを後悔してるの」


 スコーピオンは下を向きながら、


「剣を抜く前、彼女にはまだためらう人の意思があった。それが――いまはもう、消えてるのよ。きっと今の留雨十は何かを救うために簡単に崖下へ一歩踏み出せる。それは美徳じゃなくて危うさよ」

「そんならあたしが責任をもって見張るさ。元をたどればあたしのせいだ」

「いいえ、私のせいでもある。彼女に出会ったのは私、剣を抜かせたのも私だもの」

「――そんならあたしたちが悪い、どっちも極悪人だ」


 ここでそれを否定し、あたしのせいだと言い張ることもできる。それが正しいと私は今でも思ってる。だが、やられたほうはツラいだけだ。浅い慰めはたとえそう聞こえただけだったとしても凶器になりえるのだから。


「……ええ、そうかもね」

「同じ穴のムジナ同士仲良くやろうや」

「……しないと留雨十が悲しむだろうし」


 あたしたちはこつんと拳を合わせた。


「幸せになって、ほしいよな」

「そしてその幸せにはきっと、私たちも入ってるんでしょうね」

「死なせたくねぇし、死ぬわけにゃいかねぇってわけだ」


 夜空の月は大きく、私たちを見下ろしている。ふと、コンビニの明かりが目に入った。


「朝飯でも買ってくか」

「そうね」


 留雨十はあたしの堅牢な扉を壊した、それは良いことなのか。悪いことなのか。それはわからない。だが、大事なのは良いか悪いかじゃない、壊されたとき、あたしは嬉しかった、それだけだなんだ。


 この後、買い出しから帰った紫暮が思わず深夜のテンションのまま留雨十の布団にもぐりこみ、そのまま眠ってしまったりもするのだが、それはまた別のお話――。

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