ページを開けて、表紙を閉じて -中-

「魔導書……」


 私は改めて目の前に立つ少女を見つめる。その瞳は宝石のようで髪は絹、肌は陶磁器――人間離れしていることは事実だ。しかし。


「そんないかにも驚いたって顔されると、少し面白いわね」

「人間じゃ、ないの?」

「ええ、正真正銘、魔導書――つまるところ本ね」

「ほ、本……」


 いくら目をこすろうと目の前の少女はただ少女のまま。彼女が本当に本だとでも言うのだろうか。


「魔導書には個別に能力がある。例えば物体の切断とかね」


 それには思い当たる節があった。先ほどの公園の出来事、鉄でできた街灯が簡単に切断されたのだ。


「待って、ということは君にもあるの?」

「能力がという意味なら、返事は肯定ね」

「それなら私が――」


 それを使えば、あいつも倒せる? 倒せなくってもいい。戦って逃げる隙をうかがうことさえできれば――


「駄目よ」

「なんで!」


 間髪入れずに答えた少女へ、私は反発する。これはチャンスだ。私が逃げられる、生き延びることができる。


「立ち向かう、という選択肢を選んだのは称賛するけれど、私が嫌なの。だってあなた無いでしょう? 願いが」


 そこで私は少女が最初に発した言葉を思い出した。「願いはあるか」私はそれに無い、とそう答えたのだった。


「でも――」

「でもじゃないわ」


 少女は頑ななまでに私の提案を却下した。意地でも私に戦わせないつもりだ。


「私を手に取ったが最後、あなたはもう、抜け出せなくなってしまう。後悔だけじゃ済まない、死んでから絶望することになるわよ」

「でも、ずっとこうしているわけにも……」


 いつ見つかるかわからない。そんな状況で身をひそめるだけなんて、それはただ迫ってくる死に抗わない自殺願望者じゃないか。


「大丈夫、あなたは私が逃がすわ。だからそんなことを考えないで」


 少女の視線が泳いだ。思考して思考して思考して……答えはしばらく出そうにない。そのとき、小屋の壁に大きな斜線が走り、その斜線に従って小屋は上半分が切断される。


「鬼ごっこ終了。さあ、どうする?」


 呆然とする私の前で、砂埃の中からその姿を現した少女は口元の笑みを消すことなく、刀を軽くぬぐった。


「見つかった――」

「……ねえ、願いなんだけどさ」


 私はゆっくりと口にする。


「この状況から抜け出したい――いや、“生き延びたい”じゃダメかな」

「どうしてあなたは戦いたがるの、死にたいの!?」


 幼い少女が声を荒げる。その声に合わせて真っ青な髪の毛が揺れた。

 その返答なら答えは否だ。私は生きたい。生きたいからこそ――


「行きたいからこそ、戦うんだ。それにもうなりふり構ってられないでしょ?」


 少女の顔をじっと見つめる。


「……後悔はない、のね?」


 少女はしばらく逡巡した後、あきらめたように腕を下ろした。


「最後になるかもしれないから聞いておくわ。あなたの名前は?」

「留雨十、依紅瀬 留雨十いくせ るうとだよ」

「オーケー留雨十、私はスコーピオンと呼んでちょうだいな」


「おいおい、あたしを無視するたぁいい度胸だな」

「――ごめん、待たせた」


 私は深く息を吸った。落ち着け、緊張を殺せ、気丈に、自信たっぷりに――気がおかしくなったと思うなら笑え、無謀と思うなら目を背けろ。私は――


「行くよ、スコーピオン」


 目の前の刀を持った少女がそうしたように、私は少女――スコーピオンへ声をかける。一歩踏み出すと、背後の少女に、スコーピオンに向けて手を伸ばした。


「――ああもう、どうにでもなれよ!」


 スコーピオンが私の手を取って立ち上がると、刀を持つ少女はその笑みを濃くする。


「おお、やっとかよ。待ちくたびれたぜ」


「……準備はいい?」

「いつでも!」


 スコーピオンは私と手をつないだまま目をつむる。柔らかな光が私を包み、そしてすぐにそれは消えた。


「――よし」


 光はすぐに収まる。スコーピオンの姿は消えていて、代わりに私の手には一冊の本が握られていた。

 なにか暖かいものが流れ込んでくる。知識と記憶の隙間に見知らぬ名前と法則が流れ込んで固まった。


「そんじゃらま、おっぱじめるとしますかぁ!」


 女が刀を片手に突進してくる。それをゆっくりと目にとらえた私は、右手の青い本の表紙をゆっくりと開く。


「――やってやる」


 その言葉は自分への鼓舞。か細い心を奮い立たせる洗脳――。

 手を、表紙の開けられた本へ。文を、文字をすり抜けて私の手は奥へ進み、そして――なにかをつかんだ。


「ブチ切れろ!」


 声とともに女の持つ刀が眼前へと迫る。

 私は手を勢いよく引き抜き、宣言する。発動を。魔導書の権能、その開放を――


「――《蝕みと穢れ振りまく天蝎宮ゾディアック・ スコーピオン》!」


 本は開かれたまま私の周囲を円を描くように漂い、光の線を残す。

 金属と金属がぶつかり合う音。女の刀は、私の持つ巨大な片刃剣に受け止められていた。

 青く、そして荒い片刃剣。岩を無理やり削り取ったような、なにかの鱗のようなそんな剣だった。


「ぅぐ――」


 他者と力をぶつかり合わせたことなどない。が、ここで押し負けていけないのはわかる。全力で手に力を入れ、そしてその均衡がはじけた。お互いが体勢を崩し、後ろに大きくのけぞる。


「逃がすかぁ!」


 少女の刀が振られる。だがその切っ先は私をかすめもしない。代わりに背後の壁が両断された。


『セーフってやつね』


 スコーピオンの声が剣を持つ手から伝わってくる。なるほど、こうして話せるのか。


「なんとか行けそうだよ」

『私の――今は実質あなたの能力、存分に使ってちょうだい』


 人知を超えた力を使うとはこういう感覚なのか。頼もしいことこの上ない。


『素人に命運を任せるなんて私もヤキが回ったかしら』


 ――少女の切断のように、私が今使っている魔導書にも固有の能力というのはある。この魔導書を手にし、使用した瞬間にそれは理解した。しかしこれは――


「直接は使わない」

「……でしょうね。まったく、本当に生き残る気があるのかしら」


 でも、この能力を使って生き延びて見せる。そして――勝つ!


 壁の亀裂から外へ飛び出した瞬間。私が飛びだした壁を細切れにして女が突撃してきた。


「おらぁ!!」

「うわっ――と」


 勢いよくたたきつけられた刀の衝撃を受け止められきれず、私は吹き飛ばされる。なんとか自分の背丈ほどもある片刃剣を突き立ててその勢いを殺した。


「蠍座、その能力見せてみろよ」

「……あいにくと、そんな高等テクは持ち合わせてないんだ」

「そうかい……その余裕が続くことをせいぜい祈ってるぜ!」


 少女が刀を振ると、その背後に存在していた蛇口が切断、爆発した。水流が一時的に彼女の姿を隠し、視界を奪う。


「マズ――」

『右へ跳んで!』


 声に従って、私は右へ一歩踏み出す。そのすぐそばを刀の軌跡が通過した。


「……危なっ」

『できる範囲で私が情報を伝える。あなたはあいつを倒すことを考えて』


 水しぶきから逃れる。しばらくするとその中から少女が現れた。


「お前、戦いに慣れてねぇな。本の身体能力向上に身体が付いてってねぇ」

「今日が初めてなもんでね!」

「初めて……ほぉ、だとしたら話は別だ。初めてでそれはかなり将来有望だぜ」

「そんな将来有望のよしみで、見逃してくれるとありがたいんだけど……」

「……あいにくそんなわけにはいかねぇ」


 私は精一杯強がって、余裕のある態度を表に出そうと努める。緊張が、恐怖が、私の感覚を鈍らせる。なら私はそれを押し殺し、気が付かなければいい。


『いい? ピンチになったら能力を使うのよ。ためらわずにね』

「……わかってる」


 私は片刃剣を構えなおした。


「そんじゃらまあ再開と行くか」


 ◇


「さっきまでの威勢はどうしたぁ!?」


 あれから何分たったのだろう。時間がたてばたつほど私の体力の無さ、そして経験の差を思い知らされていた。少女の一撃一撃はそのたびに地形を裂き、壁を両断する。余裕をもって避けられていたのは最初だけで、今はもう紙一重が続いている状態だ。


『一旦距離をとりましょう』

「――うん!」


「させるかよ!」

『撤退は許さん』


 気迫に満ちた声と、持つ刀から響く白髪の少女の冷静な声。それと同時に突き出された刀身は、後退ぎみだった私の脇腹に見事に追撃を決めた。


「――いっ――」


 僅かな赤が飛んだ。戦闘ゆえの緊張か、痛みはないに等しいが自分が出血したという事実がダメージを与えてくる。


『大丈夫?』

「大丈――」


「まだまだぁ!」

「おわっ……と」


 さらに刀に追い立てられ、私は半壊した小屋へ再び逃げ込んだ。


「終わりだぁ!」


 とどめとばかりに振られた刀を避け、私は小屋の床を転がる。片手剣が私の手から離れ、カランという音を立てた。


「……案外苦戦させられたな」


 少女はゆっくりとこちらへ進んでくる。


「終わりだ。蠍座の主人さんよ」


 私はその言葉に返す台詞を持ち合わせていなかった。


「恨むなら自分の運を恨んでくれ」


 少女は刀を振りかざし――


「――そうだね。恨むなら、自分の運を恨まなきゃ」


 ――私はそう、笑って見せた。

 その瞬間、女が切断した柱が、屋根を支え切れずに折れる。そのまま支えを失った屋根は女の身体に覆いかぶさった。


「なっ――」


 女の声はすぐに崩れた屋根に飲み込まれ消える。私の身体はギリギリその被害から抜けていた。小屋の床を転がったせいだ。


「……よ、」


 崩落から逃れた私は一息つく。とっさの作戦ではあったがどうやらうまくいったようだ。

 崩れかけの天井。女の切断能力を受ければ一気に倒壊するであろうそれを、頭上に落とすというこの作戦。懸念点は私が小屋に入り、少女がそれに続くことだったが、それも上手くいった。私は賭けに勝ったのだ


『すごいじゃない!』


 スコーピオンの声が頭に響いてうるさいくらいだが、今はその余韻に浸るのも悪くない。


「瓦礫の下敷きだからしばらくは入院コースかも……まあ襲ってきた報いってことで一つ」


 私は携帯端末を取り出す。さすがにこのまま彼女を下敷きにしたまま、というのは良心がとがめるので、救急車くらいは呼んでおこうという考えだ。


『最初戦うなんて言ったときは正直狂っているのかと思ったけれど、頭は回るし機転もきかせられる――あなた、向いているんじゃない?』

「戦いに向いてるっていうのは褒め言葉なの……?」

『もちろんよ。さ、手っ取り早くここを離れましょう。この疲れ切った状態で敵に出会ってもう一戦というのは嫌でしょう?』


 確かに。正直早鐘のように鳴っている心臓を沈めたいが、この状況をかぎつけてまた刀少女のような奴が来たなら流石にもう厳しい。


「とりあえず帰ろう……聞きたいこともたくさんあるけど、それは帰ってからで」


 私は携帯端末を操作して119番の数字を叩く。ワンコール、ツーコール――そして、音は消えた。


「……?」


 頬で誤って通話を切ってしまったのかと、端末に目をやる。そこには、上半分が切断され、端子と銅線をむき出しにした端末だったものがあるだけだった。


「――!」


 気配。とっさに背後に片刃剣を振る。それは緑の光を帯びた刀を受け止めた。


「――なぜ」

『うそでしょ……あの瓦礫よ!?』


 傷一つない少女は私から距離を取る。その顔に先ほどまで浮かんでいた笑みはもうどこにもなかった。


「――ここまで、ここまで追い詰められたのは初めてだ」

「……しっかり瓦礫に埋めたと思ったんだけどね」


 奴の能力は切断。果たしてそれだけで瓦礫の雨をかいくぐり、山からはい出せるだろうか。そんな私の疑問はすぐに払拭されることになる。


「こっからは全力だ。もう手加減も、油断もしねぇ。全力で殺す」


 女は流れるように移動する。右、左、そして目の前へ――


「早――」


 何とか一撃目ははじき返すが、私がもう一度片刃剣を構える前に二撃目がやってくる。それをむりやり身をかがめ避けた私は、片刃剣を少女の身体に――

 駄目だ。まだ、駄目だ。


「――」

『ちょっと、今チャンスだったのに――』


 私はまだためらっている。人に刃物を向けること自体もそうなのだが、それ以上にこの本に秘められた能力。それは人に使うにはあまりに過ぎた力で――


 スコーピオンの声を無視して私は少女の懐からその背後へ回り込む。片刃剣は反対に持ち、その腹で首筋を思い切りたたく算段だ。

 命中した。そう思った。なのに――


「甘ぇよ」


 深い緑色を湛えた手が、それをつかみ返した。

 緑の鎧。女がいつの間にか身に着けた鎧の手が私の片刃剣をつかんでいる。


『――よろ、い?――』


 スコーピオンの驚愕の声。女は片刃剣をつかんでいた腕を勢いよく振る。剣を握ったままの私はそれと一緒に吹き飛ばされた。


「――あたしの相棒の能力は切断、それともう一つ」


 鎧で顔を隠した女は、くぐもった声で自身の鎧をコツコツと叩いて見せる。


「相棒――刀にして鎧。刀はあらゆる物体を切断し、鎧はあらゆる物理的なダメージを防ぐ」


 女は自身の手を握り、勢いよく開く。


『なによ。それ』


「これがあたし、そして相棒の《身の内に刃抱きし巨蟹宮ゾディアック・ キャンサー》だ」

『いざ、覚悟』


 少女の声は妙に腹に響き、鎧となった白髪少女の声は殺意を放つ。私はこの状況を打開する方法を持ち合わせていなかった。

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