第6話 黄昏
「あ〜! すみません、ご足労いただいて!」
ドアを開けた瞬間のこのテンションにも慣れてきた。このテンションを許せてしまうのは、慣れたからというだけではなかった。今日はここに臨む心持ちからして違う。
「おかげさまで、室外機問題が解決しました」
予期していた。そのかどで呼ばれたのだ。だが実際に言葉として解決したと聞かされると、感慨深かった。
「まず問題設定を確認しますね。あなたは102号室に住んでいます、と。で隣の101号室と103号室のエアコンの室外機がうるさい。101号室のものは5分で『うるさい』状態と『静か』な状態を繰り返し、103号室のものは7分で繰り返す。この2つの室外機に囲まれた102号室が静かになるのはどれくらいの割合か? ……という問題で間違いないですよね」
頷いた。今日もその102号室からやってきたし、その102号室に帰らねばならない。せめて割合さえわかれば、我慢のしようもあると思ったのだった。
「では不肖わたくしが解説させていただきたいと思います。くれぐれも、この解決のほとんどの部分は数学士たちによるものであることはお含みおきください」
それは理解していた。事務所で交わされたあの熱い議論を間近で見ていたからだ。
「はじめに、室外機Aの運転時間をm分、Bのをn分とします。このmとnとは、互いに素まで帰着させても一般性を失いません。つまり、50分周期の室外機と70分周期の室外機とのことを考えることは、5分と7分の室外機のことを考えるのと同じです」
これはわかる。前者の単位時間を「10分」にすれば同じ話になるからだ。
「また、片方が偶数のときも考えなくていいです。前半と後半が同じ形をしていて、前半は『両方うるさい』、後半は『Aがうるさい』から始まるので、すべての『状況』が同数になるので全体の割合としては1/4になる」
これもわかる。図を見れば明らかだ。
「ということは、考えればいいのは『互いに素な、二つの奇数』のときのことだけです」
少しずつ解決していって、問題が小さくなったわけだ。両脇の側近を倒してはじめて攻撃が当たるラスボスみたいだ。
「この2つの室外機の状態が最初の状態に戻ってくるのは2mn分後です。ですが、2mnのことを考えるのはあとにして、まずは全体の半分、mn分のことだけを考えます。5と7なら前半35分ですね。そしてそのmn分を0からmn−1までの番号がついたブロックに分けます」
(図:https://twitter.com/motcho_tw/status/1210404932991369216)
テーブルに置かれたシートにスラスラと図が描かれる。
しかし、このシート便利だな。こんなのあるんだ。
「そうなんですよ! これホワイトボードシートっていうんですけど、気軽にいろいろ書けて便利なんです。
……でですね、ここに『このブロックの数字をmで割った余り』と『nで割った余り』とを書いていくんです。いまは5と7ですね。
そうやって出てきた数字のうち、『偶奇が一致しているもの』を数えます。そうすると、2つの室外機の状態が一致しているブロックの個数が出てくるんですね。
つまり『両方うるさい』と『両方静か』の個数が出てくる。これは両方を奇数に限っているからなんですね。運転の状態が変わる時点で、この数字の偶奇が変わらないのでこういうことになります。
あとはそれを半分にすれば、『静か』の個数が手に入る」
「そこちょっと思ったんですけど、0と1じゃだめなんですか? うるさいときに1、静かなときに0とでも書いておけば単に2つの数字が一致するときの個数を数えればいいことになりません?」
以前ここに来て、「偶奇」の話を聞いて以来ずっと気になっていたことだった。有坂は言った。
「そこなんです」
もし「ドヤ顔」というものを知らない人がいたら、この顔を見せれば一発でその意味を理解しただろう。
「ここまで考えて行き詰まってたんです。どうにも糸口がなくて。いやぁ、ありがとうございます。あなたのアイデアに助けられました。鍵となったのは、カレンダーでした」
そう。カレンダーだ。月が変わって気づいたのだ。5と7との繰り返し。7つの曜日に、5つの週。これはまさに室外機問題そのものではないか。
だが、それ以上のことはわからない。「なにか使えるのではないか」という単なる思いつきだ。それが本当に解決の鍵になったとは嬉しかったが、だったらそのドヤ顔は自分のものだろ、と思わないでもなかった。
「大事だったのは、『格子』です。5で割った余りを縦に書き、7を横に書く。すると、このような格子が出現します」
(図:https://twitter.com/motcho_tw/status/1210405576506658816)
「このマス目の一つ一つがですね、mn分の運転時間のうちの、どこか一つのブロック状態と一対一対応してるんです。これは、互いに素なmとnに対して、mで割るとa余り、nで割るとb余る数がmn以下にただひとつ存在する、という数学的事実に支えられています。これこそ、中国剰余定理です」
電話の向こうから聞こえてきた「中国! 中国ですよこれ!」という叫びは、きっとこのことを指していたのだろう。
「これはカレンダーで言うならば、『第m週のn曜日はその月の中に一日しかない』ということに相当します。それだけ聞くとあたりまえですが」
今月の第二水曜日は三回あります。そんなことはありえないだろう。確かにあたりまえだ。
「そして、この『格子』の中で、偶奇の一致している箇所に色を塗るんです。いいですか、そうするとですね、なんとこうなります」
(図:https://twitter.com/motcho_tw/status/1210405771134959616)
そこまでもったいぶられては驚く気もしなくなるというものだが、これには少なからず驚いた。
「きれいでしょう」
……きれいだった。
「この黒い部分が『U』と『S』です。あとはこれを数えて、半分にして、全体、つまりmnで割れば、『静かな割合』が求められます」
いよいよクライマックスの様相を呈してきていた。有坂の口調に熱がこもる。
「まずmとn−1の範囲での黒を数えるんです。この例だと5と6です。そうなんですよ。5と6なんですよ。mとnは両方を奇数に限っているので、n−1は必ず偶数になります。
片方が偶数だと、図からわかるように黒の部分がちょうど半分になるんですね。これを数えるには、縦と横をかけて2で割ればいい。『m×(n-1)割る2』個です。
そしたら、残った一列の黒を数えます。この一列のうちの黒の部分はちょうど『一列の中にあるマス目に一個マス目を足したものの半分』になっているので、『m+1割る2』で計算できますね。
ここまでで何が起きたのか。この図の中の『すべての黒いマス目の個数』がわかったわけです。『m×(n-1)割る2』足す『m+1割る2』でmn+1割る2個ですね。5と7との例で言うなら35+1割る2で18個。
そして、黒いマス目とは、『U(両方うるさい)』と『S(両方しずか)』を足し合わせたもののことだったので、Sだけを求めるにはこれを半分にします。9個ですね。
これではまだ答えではありません。求めたかったのは『割合』です。この9個が全体の何分の一なのかが知りたい。というわけで全体のマス目の個数、mnで割ると、答えが出てくるわけです。
5分周期でうるさくなる室外機と、7分周期でうるさくなる室外機に挟まれた部屋に訪れる静寂の割合は、9/35です。これは、後半のmn分まで考えても、つまり全体のマス目の数を2mnにしても変わりません。割合なので。
この答えをより一般的に書くと、こうなります」
有坂は、いつにも増して仰々しい手付きで、ここ何週間かずっと求めていた式を描いた。
(図:https://twitter.com/motcho_tw/status/1210406073896538112)
「これが全体のうちの静かな割合なんで、うるさい方の割合が知りたければ1から引けばいい。5と7だったら26/35ですね」
これで、室外機問題の答えが求まったわけだ。
「なるほど……」
答えが求まって、感慨がないかと言われれば嘘になるだろう。だが、それよりも強い気持ちがあった。
「なんか……寂しいですね」
そう告げると、有坂は目を輝かせた。
「ですよねぇ。わかります」
室外機問題には、愛着があった。自分で思いつき、ここ最近はずっとそれのことばかり考えていた。だからだろうか。「問題が解けて、寂しい」。自分にそんな感情が存在しているとは思わなかった。
未園空での数学は、学校の数学とはどこか違う。そう思った。数学とは問題を解くためだけのものであると思っていたら、この感情を味わうことができていただろうか。
大仕事が一つ終わって、静かな時間が流れていた。心地よかった。たまには数学も悪くないな、と思った。
外はすっかり暗くなっていた。そろそろ帰らなければならなかった。
「今日は本当にありがとうございました」
本心からそう言った。
「いえいえ。またいつでもお越しください。新しい問題なんてなくてもいいですから、気軽にフラっと寄ってください。トランプでもしましょう」
トランプって数学なのかな、と思ったが、ここの数学士たちにかかればトランプからも数学を見出してしまうのだろう。
「はい、ぜひ」
またここに来るのが楽しみになっていた自分に、もはや驚きはなかった。
(続)
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