第5話 糸口

 未園空数学事務所での経験は、鮮烈だった。数学というものをあんなにも楽しそうに議論する人たちが存在するとは、思ってもみなかった。

 だって、「数学」なのだ。それは苦しい計算をした後に、決まりきった一つの答えが出てくるというものではないのか。サインコサインタンジェント。辛かった思い出でしかないそれらの言葉を、あんな笑顔で口にする人がいるなんて。

 「創造的クリエイティブ」。おおよそ数学のイメージとはかけ離れたその言葉が、なぜかあの場には似合っている気がした。


 有坂から電話で連絡があったのは一週間後だった。

「行き詰まってます」

 その言葉は、意外にも自分を落胆させなかった。あの数学士たちでもなかなか解けない問題を作れるとは、むしろ誇らしい気分だった。

「そうですか……。ありがとうございます」

「いやあ、申し訳ないです。行けそうな感じはあるんですけどねえ。どうも糸口がなくて。また進展がありましたらご連絡差し上げます」

「わかりました。こちらでもなにか考えてみます」

「! ありがとうございます。助かります。では。はい。失礼します」

 ……そうは言ったが、どうしたものか。

 偶奇の一致……。5分と7分……。ブロックにつけた番号を5で割ったあまりと7で割ったあまりとを並べて、偶奇が一致している箇所を数えると「U」と「S」との個数になっている……だったかな。

 

  ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥー……ン


 意識したくはなかったのに、考えが途切れたところで意識してしまった。今日も暑い。それは、今日も元気に室外機がうるさいことを表す。

 そういえば、もう七月になっていた。ただでさえもう暑いのにこの先さらに暑くなることを思うと気が滅入る。

 忘れてた、と思った。やるべきだったことを思い出してを見た。

 全く予期していなかったから、自分でも戸惑った。「それ」を見た瞬間、脳内で一つの理解がはじけたのだ。室外機問題が解けたわけではない。これは使えるのではないか? というレベルの思いつきだ。だが──。

 有坂は「糸口がない」と言っていた。これはまさに、「糸口」そのものではないのか。5分と7分。5と7。周期5と周期7。これだ。これしかない。

 興奮が冷めやらないまま、電話を手にしていた。

「はい。未園空数学事務所です」

 有坂の声だった。自分の「発見」を伝えると、いったん飲み込むような間があってから、昂ぶった声が返ってきた。

「あ〜なるほど〜! いや、これ、すごいです。いや〜すごい。これはすごいなあ。あ〜すごい。考えたな〜。あ〜。これ、数学士たちにも伝えてみます」

 電話の向こうですぐに議論が始まったが、しばらくは電話をつないだままでいてもらった。

 何分か経った後、「あっ中国! 中国ですよこれ!」という誰かの声が耳に届いてきた。


(続)

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