第8話
オリヴィエは待っていた。エヴァランが自分をどう責め苛むのかを。
エヴァランは戸惑っていた。オリヴィエが純粋に自分達を悼むのを。
明かりの少ない夜は静かで、よい目を持つ夜行性の鳥が、時折、鳴いたり、飛んだりする音が遠く聞こえるだけだった。
永遠に続くかに思われた沈黙は、エヴァランが苦しげによろめいたことで破られた。オリヴィエは、反射的に立ち上がったものの、美しすぎるユニコーンに、父たちが散々傷つけてきたユニコーンに、触れていいのかわからず、上げた手をそのままに躊躇った。
みるみるうちに、エヴァランの呼吸が荒くなり、ついには脚を追って腹を地面につけてしまった。先ほどまで、鋭くオリヴィエを射抜いていた目は、辛そうに瞬きを繰り返している。
いったいどうしたのですか? どこかに怪我を? 私、簡単な癒しの魔法なら使えます。
申し出たオリヴィエを、エヴァランは苦しい息のもとで眺めた。何かを推し量るような目だった。
どうして逃げ出そうとしない? いまの私の様子なら、逃げ切れるかもしれない、とは思わないのか?
そんな資格はありません。私は、あなたの人質です。
はっきりと言い切ったオリヴィエに、エヴァランは初めて笑みを見せた。
まさか、そんなことを言う人間がいるとは、思いもしなかったぞ。
言うなりエヴァランは、痛みを押し切って立ち上がった。じっとしていたほうが、と抑えようとしたオリヴィエを振り切り、弱々しくも歩きはじめる。
思いやりを持つ人間の乙女よ。そなたになら見せてやろう。私の身の内に食い込んだ、いびつな魔法の傷を癒すところを見せよう。
そして、エヴァランはまるで惹かれるように、水辺へと歩き出したのだった。
オリヴィエにとって、この暮れかかった日のもとで、エヴァランの後ろ姿を見ながら歩いているのは、まるであの夜の再現のようだった。
ウィルたちが、本当になんて見つけられるのだろうか、と不思議がっているのも、あの夜の自分の気持ちそのものだ。
はたして、予定されていたようにエヴァランの行く先に、わずかながらも確かに湧いている水があった。
「泥水だ」
水を見るなり、ウィルは言った。その通りだった。水の湧く勢いはあまりに弱く、むしろ土から水がじりじりと滲み出ている、といった方がふさわしいくらいだ。そのせいで、水は土色をして、とても飲めたものではない。清らかな水を必要とするユニコーンが飲む水とは思えなかった。
「……人間の乙女よ、そなたたちならこの水をどうする?」
ふと小声で言ったオリヴィエに、ウィル、レイラ、シルヴィアが怪訝な顔で振り返る。エヴァランは、ちらりと笑みを浮かべた。
「あの日、私が水を見つけたときに問うたことだ。覚えていたのか」
「忘れるはずがないわ。何があっても」
一瞬、エヴァランと目を見交わしたオリヴィエは、ウィルたち三人に向き合った。
「エヴァランが私に向けた問いを、今度は私が殿下方に問いましょう。私たち人間なら、この水をどうしますか?」
「それはもちろん、歌を歌って汚水を飲める水に変えるわ」
当然、といった表情で答えたレイラに、オリヴィエは少し悲しげな顔をして頷いた。
「そうです。我々人間はそうするでしょう。でも、ユニコーンは違うのです」
オリヴィエは、再びエヴァランに目を向けた。
「エヴァラン。どうか、歌って」
それから、三人にむけて唇に人差し指を当てた。
「どうか、しばらくの間は、ほんの少しも音をたてないでください。身動きもどうか我慢してください」
エヴァランは、少し首をもたげて、風の吹く方向を確かめた。さやさやと草原の草が音をたてる音に耳をすませ、自分の毛が風に吹かれて流れるのを感じる。
そうして、風の切れ目に、一声を発した。
その声は、遠くまで響く鳴りを持ちながら、大きな音ではない。届けるための声ではなく、まるで何かを確かめるかのような声の出し方だった。
一声発しては、その響きに耳をすませ、また一声を発する。くりかえし、くりかえし。
いったい何をしているのか、という疑問と、いっこうに何も変化が現れないじれったさが、ウィルたち三人の間で積りに積もったそのとき、エヴァランの声が、今までとはまったく違う響きを見せた。
それは、風の音と同じだった。吹き渡る風を受けて、ざわめく草の音と同じだった。
見事な調和。
エヴァランは目を閉じると、その一音を今度は長く発した。今までのように途切れ途切れの、か細い声ではなく、今度は思いっきり声を伸ばして。
空気が震える。それを、ウィル、レイラ、シルヴィアは確かに感じ取った。空気だけではなく、同じ空間に立っている三人の身体を、内側から揺さぶるような声の音だった。
エヴァランは声を発しながら、そっと汚水に歌う口を寄せる。すると、ゆっくりと、ほんの少しずつ、泥が消え始めた。
にじむようだった水が、ほんの少しだけ吹きあがる力を得、泥を振り払い始めたのだ。刹那、水の勢いに押されて舞い上がった細かな砂や泥は、ゆっくりとたまった水底へと沈んでゆく。
エヴァランが歌うのをやめると、そこにはまぎれもなく透明の、清い水があった。
「どうして!?」
エヴァランの歌の緊張から解き放たれたシルヴィアは、驚愕から叫び声をあげた。
「魔法を成立させるには、魔力と、呪文と、歌声。この三つが必要なはずよ。魔法を正しく発動させるには、正しい音律で、正しく呪文を歌いあげなければならない。これが基本なのに。いまのエヴァランは、ただ声を出していただけで、水を変えてしまった」
「変えていないのです」
混乱を極めたシルヴィアを静めるように、ゆっくりとオリヴィエは言った。
「エヴァランは、この空間への鳴りを利用して、自然本来の力をほんの少し促して、水を清めたのです。水はもとの水のまま、何も変わっていないのです」
レイラが顎に指をあてて、しばらく考えたのち、「つまり、」と口にした。
「ユニコーンの魔法は、自然の働きの範疇に留まるということ?」
「そうです。人間のように、外からの力を働かせた水は、ユニコーンにとっては水ではないのです。清らかな水とは、そういう意味なのです」
「そうか……」
ウィルが納得した声を出した。
「僕は、どうして魔法をつかってあの厩舎の柵を壊して、逃げ出さないのか不思議だった。でもそれは、あくまで人間の魔法の考え方で、ユニコーンの魔法は、そんな不自然なことはしないんだ」
「人間は恐ろしい生き物だ」
ウィルを見据えて、エヴァランは言った。
「思いのままに、何もかもを改変し、時には破壊する。それらが自然の営みに反することであっても。我々の命は、自然から生まれ出たものにすぎないのを、とうの昔に忘れ去ったのだ。だから、そのような所業ができる。歌声を与えられながら、その与えた主を傷つけ続けているのだ」
歌声を与えられながら、その与えた主を傷つけ続けているのだ。
ずしり、と響いたエヴァランの言葉が、ウィルの頭の中でわんわんと鳴る。そんなウィルをしり目に、エヴァランは湧き出た水への敬意をこめて、恭しい動作で首を垂れ、清らかな水を飲み始めた。
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