第9話
レイラとシルヴィアは、冒険の旅にでる興奮で、ウィルの病気のことをすっかり忘れてしまっていた。
シルヴィアは、コンパートメントの外側に人が通っていく気配を感じてふりむくと、今まで気にもしていなかったドアの窓が、けっこう大きく、中がよく見えてしまうことに気が付いた。
「レイラ、私、いまから魔法をかけるわ!」
シルヴィアはそういうなり、大きく深呼吸をして、歌い始めた。
「もういいよ」
「もういいよ」
野山の、野山の、白うつぎ、
白うつぎ、
どこかで、あの子が、呼んでいる。
「もういいよ」
「もういいよ」
きのうの、きのうの、かくれんぼ、
かくれんぼ、
いまでも、どこかで呼んでいる
「もういいよ」
「もういいよ」
月夜の、月夜の、白うつぎ、
白うつぎ、
そこらに、あの子が、かくれてる。
「懐かしいわ。これ、かくれんぼをして遊ぶときによく使ったわね」
レイラの感想に、シルヴィアは「子供だましだと思う?」と不安げに尋ねた。
シルヴィアが使ったのは、人の気配を他人に気付かれにくくさせる魔法だ。どこかに隠れるのにはぴったりで、気配が希薄になるので、よほど注意深くなければ人は気付かず目の前をすっと通り過ぎて行ってしまう。
「普通の乗客にしてみたら、ここは空き室のコンパートメントに感じられるでしょうね。だから、ドアの窓からこっちを見ることはまずないと思うわ。ひとつ、心配なのは、切符を見に来る車掌さんね。うわの空でお仕事をしてくれていればいいのだけど」
「そのときは、ウィルの頭に、私の上着をかけておくことにするわ。すっぽりと。眠いのだけどまぶしいっていうから貸しています、って言うの」
シルヴィアが真面目な顔で言うと、レイラはうっとりとして笑った。
「私、シルヴィアのそういう頭の回転のはやいところ、大好きよ」
レイラとシルヴィアが見守るなか、ウィルはしばらくの間、青白い顔をして苦しそうに目をつむっていた。それからふと、うっすら目を開けた。
「なぁに? なにか欲しいものでもあるの?」
さすがに同情したシルヴィアが優しく声をかければ、こくり、とウィルは頷いた。
「二人に歌ってほしいんだ」
レイラとシルヴィアは顔を見合わせた。
「あのね、ウィル。いま、気配を感じられにくくする魔法を使っているから、あんまり目立つようなことはしたくないのだけど、やっぱり苦しいの?」
シルヴィアが確認すると、ウィルは「そうでもないけどね……」と強がってみせたものの、でも、と言葉を続けた。
「小声でいいんだ。短い歌でいいし。お願い、できないかな?」
「歌いましょ、シルヴィア」
レイラは、姿勢を正しながら言った。
「誰かに気づかれたなら、この目立つ頭に、私たちの上着をかけちゃえばいいんだもの。平気よ」
シルヴィアはちょっとしり込みしたものの、元気のないウィルの顔を見つめたあとで、レイラと向き合い、頷いた。
まず、レイラが一声発した。それが、コンパートメントの中で、ほんのわずかに鳴る。それから、シルヴィアが続いて一声。また、レイラの声の名残に被さって、今度はコンパートメントにより強く響いた。
二人は、交互に声を発しながら、ゆっくりと「歌の場所」を整えていく。これは、二人が勝手に名付けている作業なのだけれど、彼女たちは歌うとき、いつもこうしていた。
声の響きかたは、その日の天気や、歌う場所によってまったく異なる。二人はいつも一緒に歌っているから、互いの声には慣れきっているけれど、この「歌の場所」づくりで、声の響き方をはからないことには、本当には二人の声は伸びてゆかないのだ。少なくとも、レイラとシルヴィアはそう感じているのだった。
やがて、コンパートメントの中での声の響き方をすっかり覚えてしまうと、レイラとシルヴィアは、静かに目を合わせた。
「歌の場所」が整ったのだ。それだけで、ウィルの呼吸は、少し楽になったようだった。
そうして、レイラとシルヴィアのハーモニーが、ゆっくりと流れ出した。
薄らあかりにあかあかと
踊るその子はただひとり。
薄らあかりに涙して
消ゆるその子もただひとり。
薄らあかりに、おもひでに、
踊るそのひと、そのひとり。
これは、魔法を発動させるための歌ではない。だから現象としてはなにも起こらないのだけれど、レイラの華やかな声に、シルヴィアの麗らかな声の重なりは、それだけでどんな芸術品よりも美しい、と人に感じさせる。
その二人の歌声はいま、ウィルを癒すためだけに発せられていた。そして事実、とても不思議なことに、ウィルは先ほどよりも落ち着いた顔つきになっていた。
レイラとシルヴィアは、自分たちにもわからないその効果を、あらためてまじまじと眺める。
ウィルが魔法の勉強中、発作を起こして倒れたある日、二人はお見舞いに訪れていた。そうして、ウィルの持病を知る、わずかな大人たちが群がって、王子を心配しているなかで、まだ幼かった二人は、退屈してしまった。
その頃、発作を起こしたウィルに医者がしてやれることは少なく、ありとあらゆる魔術をほどこしても、かえって副作用を引き起こすばかりで、ウィル自身の力で魔力の回復を待つ以外に、回復の方法がなかったのだ。
そうとはわかっていても、ウィルほどに大切な子どもが倒れたとあっては一大事で、その度に仰々しい肩書をもった大人たちは、にわかに浮足立つのだ。
それを傍目に見ながら、幼かったレイラとシルヴィアは、お歌を歌いましょう、とどちらからともなく言いだし合って、さっそく「歌の場所」づくりを始めた。
どちらかの母親、つまり国王の妹であり、ウィルにとっても叔母である人がたしなめたところ、それをいきなり、医者が止めた。ウィルの呼吸にわずかな変化を見出したのだ。
それで医者は、周囲の大人に静かにするように注意した。それはレイラとシルヴィアにとって好都合だった。あんまりぺちゃくちゃとしゃべって雑音ばかりだと、なかなか「歌の場所」は整わないからだ。二人は、大人たちが自分たちに注目しているのにこれっぽっちも気付かず、純粋に歌うことを楽しんでいた。
不思議なのは、一人で歌う時よりも、二人で歌う時の方が、ずっと深い没我状態に入ることだった。二人が歌っている間、世界はお互いの歌声とその響きだけで満たされて、そのほかはきれいさっぱりと消え去ってしまうのだ。
それがなんとも心地よくて、レイラとシルヴィアは、会えばしょっちゅう二人で歌っていた。そうして、いつも通り好きなだけ歌ったところではじめて、大人たちが固唾を飲んで自分達を見つめていることに気が付いた。
その直後だった。医者の驚く声がして、ウィルが気持ちよさそうに伸びをしながら起き上がったのは。
レイラとシルヴィアの母親は、たしかに国王の妹である。しかし、貴族に嫁ぎ、その家で生まれた以上、血縁上はウィルのいとこであっても、身分としては一貴族の子女に過ぎない。だから、本来ならば、他の貴族の子供たちのように家庭教師がつけられるか、高名な学園に通うかするところを、特別にウィルと一緒に教育を受けている本当の理由は、二人しかウィルを癒すことができないからだった。
どうして二人にそんなことができるのか、本人たちをふくめて誰も知らない。ただ、二人が声を合わせれば、ウィルの調子がよくなるという歴然とした事実があるだけだ。
思ひ出は首すぢの赤い蛍の
ふうわりと青みを帯びた
光るとも見えぬ光?
レイラが歌った。
あるひはほのかな
暖かい酒蔵の南で
ひきむしる鳩の毛の白いほめき?
シルヴィアが歌った。
医師の薬のなつかしい晩、
薄らあかりに吹いてるハーモニカ。
二人の声が出会い、ともに手をつないで散歩をするように流れ出した。
匂ならば
道化たピエローの面の
なにやらさみしい感じ。
熱病のあかるい痛みもないやうで、
それでゐて暮春のやうにやはらかい
思ひ出か、たゞし、わが秋の
歌い終えると、二人の息はほのかに上がっていた。それに反して、ウィルの顔色はすっかりよくなり、すやすやと寝入っている。
レイラは、シルヴィアの肩に頭を持たせかけると、ふふ、と笑った。
「まったく、お騒がせ者なんだから。気持ちよさそうに眠っちゃって。……でも、まだ腕輪の宝石の色は薄いわね」
「レイラ、歌い疲れたでしょう。少し、眠っていてもいいわよ。私、見張っているから」
あら、とレイラは身体をゆったりと起こした。
「私が、あなた一人にそんな負担を押し付けると思って? 私の大切なお友達、シルヴィア」
気を張り詰めていたシルヴィアは、レイラのその言葉で、ようやく少し笑うことができた。
「ただね、私が望むのは、あなたの肩をほんの少し貸してほしいってこと」
「そのくらいなら、もちろんどうぞ。私の大切なお友達、レイラ」
レイラとシルヴィアは静かに笑い合うと、レイラはシルヴィアの肩に頭をもたせかけ、シルヴィアはそのレイラの頭に頬を寄せた。
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