第8話
紳士の金貨のおかげで、無事にアギタリア行きの切符を買うことができた。どろぼうを捕まえる一部始終を見ていた販売員の女性は、ますますウィルに惚れ込んで、再び窓口に寄ったときには、ほとんど恍惚の表情を浮かべていた。
お釣りは、たくさんの銀貨になって返ってきた。となると、空腹を抱えた三人は、さっそく食べ物屋さんが並ぶところへ出かけて行った。
三人が選んだのは、列車に乗る旅行客に向けて食べやすいように、半月型に焼き上げたパイを売る店だった。バターと小麦の生地からはなたれるこうばしい香りが、くらくらするほど魅力的に誘い込んできたのだ。こんがりとしたきつね色の生地と、ほんのりと甘くあたたかなにおいは、お昼はこれを食べてこそ正解だと思わせる力があった。
ウィルは、お肉とカボチャのパイに、シチューのパイ。シルヴィアはお魚とエビのパイとアップルパイ、レイラはチェリーパイとストロベリーパイを買い込んだ。
温かい包みを抱えて、列車の止まるホームに向かう、うきうきわくわくとした気分の幸せさといったら、言い尽くせないほどだった。三人は、ただ歩いているだけなのに、笑顔になってしまうのをどうしても止められなかった。
そうしてたどり着いたホームでは、輝く魔法の文字でアギタリア行きと書かれた列車が、堂々たる貫禄を備えていまは静かに休んでいた。
何両もの車両をつらねた列車の最前列の上部には、大の大人の男性が腕を広げても抱えきれないくらいに巨大な筒が取り付けられている。運転手がうまく風の魔法を機関に当ててやると、荘厳な音色があふれ出す。それはたちまち列車全に魔法を行き渡らせ、各車両の車輪に活力を送り込むのだ。
宮廷の吹奏楽団とはまた別の音色に包まれて列車が動き出すと、いよいよ旅に出たのだという気分が高まってきた。
「さあ、はやくパイを食べようよ。おなかぺこぺこだ」
「だめよ!」
シルヴィアは、厳しい声を出したが、窓にはりついたまま振り向きもしなかった。
「もっと窓の外の景色に、緑が多くなってから食べるの」
えー、とウィルは声をあげたものの、シルヴィアは徐々にすばやく後ろへ流れていく街の景色に心奪われて、気に留めない。
「ウィル、いまのシルヴィアには何を言ってもだめね。あきらめなさいな」
コンパートメントに入るなり、窓際に座ると宣言し、列車が出る前から窓の外を見つめ続けているシルヴィアに、レイラは座席の背もたれにゆったりと身体をあずけた。
「シルヴィアはいま、冒険小説の中にいるのよ」
「それ、レイラも読んだの?」
待ちきれない顔でパイの紙袋を見つめながらウィルは尋ねると、レイラは笑った。
「わたしは作り物のお話には興味ないもの」
ウィルは、紙袋からちらりとレイラに視線を移す。
「レイラってさ、意外と現実主義だよね。シルヴィアは夢想家だし。どちらかっていうと、二人とも見た目の印象は逆なのにね」
ウィルが急に大人びたことを言ったので、しばらくレイラはまじまじとウィルを見た。
「あなたって、いつもは子供っぽいくせに、意外と見ているところは見ているのよね。もしかして、販売員さんを口説いていたのも、そのうちの一つ?」
「ああ、あれね。オーウェンの真似だよ」
オーウェンの名前がでて、シルヴィアがぱっと振り向いた。つま先を揃えて、きちんと座り直すと、不満そうにウィルの方へ身を乗り出した。
「あれがオーウェンさんの真似? まさか。あんな軽薄なことをする人じゃないでしょう」
「それが違うんだなぁ。オーウェンってば、よくあんなことして、侍女の顔を真っ赤にさせたり、手に持ったものをぶちまけさせたりしているよ」
「嘘よ!」
シルヴィアは、大きく頭を振った。
「だってあの人、近衛兵の中でもダントツにかっこいいという噂の一方で、浮ついた話が出てこないって有名だって聞いたことがあるもの」
「だからよけいに、タチが悪いんじゃなくて? シルヴィア」
レイラは、ひじ掛けに優雅にもたれながら、苦笑を浮かべた。
「特定の恋人をつくらないで、あちこちで程よく、思わせぶりなことを言って回っているのよ。もちろん、相手が本気にならないところでうまく調整してね」
「そんなことをして、オーウェンさんになんの得があるっていうの?」
「そりゃあ、いくらでもあるよ。たぶん、王宮内のことで、オーウェンの知らないことの方が少ないんじゃないかな」
無言でまばたきをするシルヴィアに、レイラはすり寄った。
「あのね、シルヴィア。侍女や召使の女性っていうのは、どこにでもいるのよ。けれども、要人ではないからものの数には入らない。だけど、耳はきちんとついているから、聞こえるものは全部聞こえているってわけ」
レイラはだいぶ迂遠な言い方をしたが、それだけでシルヴィアにとっては十分だった。
「ああいう戯れの言葉で、オーウェンさんは情報収集をしているってこと?」
「そうでもなきゃさ、僕が悪戯をしようってタイミングで、毎回ああもうまく登場できないと思わない?」
くちびるを尖らせたウィルは、次の瞬間、顔をしかめて頭を抱えた。レイラとシルヴィアが、「ウィル!」と叫んだ途端、ぱぁんとはじける音ともに、ウィルが突然もとの姿に戻ってしまった。
シルヴィアはすばやく座席を立つと、ウィルの腕輪を確認した。いつもなら夕陽のような真っ赤なルビーが、いまはたよりない薄いピンク色にかわってしまっている。
ウィルは、青白い顔で、えへへ、と笑った。
「やっぱり、変身魔法って強すぎたみたい……」
レイラとシルヴィアは、しばらくのあいだ声を出せずにいた。
――魔法を発動させるための、条件は三つ。魔力と、呪文と、そして歌声。
たしかに、呪文がなければ魔法はかからないけれども、呪文をただ唱えるだけではなんの力も起こらない。大切なのは、歌うこと。歌い、あたりの空気をふるわせ、反響させることではじめて呪文は、効果を生じさせる、と、魔法学校では基礎中の基礎として、最初に教わる。
魔力が強ければそれだけ、たくさん魔法をつかったり、強力な魔法をつかいこなしたりできる可能性を持つということだけれど、歌うことが下手だと、なんの意味もない。実際、生まれつき魔力が強く、呪文もよく覚えているのに、歌うことだけが苦手で、うまく魔法をつかいこなせない大人が大勢いる。
正しく魔法を発動させるには、きまった音、リズム、テンポできちんと歌わなければならない。どれかひとつが少しでもずれてしまうと、失敗したり、効果が弱かったりする。
王の一族は、代々魔力が強いなかで、ウィルはひときわ歌がじょうずな子どもだった。歌うことが好きで好きでたまわないという様子で、しゃべるよりもはやく先に歌っていたらしい。レイラとシルヴィアの思い出のなかでも、ウィルが歌っている姿は多い。呪文を歌っているわけでもないのに、ウィルが歌うと、よくちいさな風がまきおこったり、近くのものがふるえたりした。
実際、初めて教育を受けることになった日、大臣から呪文と歌が書かれた、呪譜を手渡されたとき、たった一度でウィルは見事に歌いこなしてみせた。
ただ一つ、魔法が発動しなかったこと以外は。
国王は大慌ててで、秘密裏に王国の最高の病院に、ウィルを検査させた。その結果、ウィルの魔力は、現国王をしのぐほどだということがわかった。
そしてウィルには、歌の才能がある。呪譜もかんぺきに歌いこなすことができる。けれども、たったひとつ、身体の欠陥があった。それは、歌声と呪譜の効果が結びつかないことだった。
ウィルが歴代の王の中でも偉大な魔法使いになると信じて疑わなかった国王は、どうにかしてウィルの病気を治そうとした。けれども、それはついに叶わなかったのだ。
ただひとつできたのは、歌声と呪譜を無理やりつなげる補助具をつくることだった。それが、ウィルがいつも肌身離さず身につけている、腕輪なのだ。しかしそれも、その場しのぎにすぎず、魔法を使いすぎたり、強い魔法を使ってしまったりすると、ウィルの具合が悪くなってしまうという、欠陥があった。
だから、ウィルはたくさんの魔法を使うことができない。
国王は、ウィルの病気を隠すことにした。知っているのは、レイラやシルヴィアなど、王族と、国王の信頼厚い一部の臣下だけだ。
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