【第五章 虚実の道化】
襲撃未遂事件から3日後。事後処理に追われる政治秘書の佐々木は忙しい日々を送っていたが、日本を舞台にした盛大な脚本劇は概ね成功を収めていた。
「あの、困ります。面会できるのは弁護士だけで……」
都内にある拘置所の職員が申し訳なさそうな顔をする。しかし佐々木が無言で雇い主の政治家の名刺を取り出すと、目をそらし無言のまま扉が開く。
八神聡はその奥の面会用の小さな個室の中にいた。ガラス越しに座っているのは、こちらが手配しておいた弁護人の年寄りの男だ。八神聡は佐々木を見るなり、気軽そうに手を挙げた。
「あれ? 佐々木くんじゃん? なんでいんの?」
塀の中にいるというのに、ほとんど代わり映えのしない八神の態度に佐々木は少し面を食らった。連日厳しい取り調べを受ければ、どんな人間でもやつれて疲弊するはずだ。だが八神の表情はそれとはむしろ正反対の、安堵ともいえるものだった。
この男は頭のネジが飛んでいる。初めから分かっていたことだが改めてそう思わずにはいられない。
「約束を違えるなと、伝えに来た。法廷で政府との繋がりを臭わせてみろ。報酬の二十億も貴様にまつわる全てを破滅に追い込むぞ」
「何? そんな悪役みたいなセリフ吐きに来たわけ? つまんないなあ」
佐々木自身もこんな言葉に意味がないことくらいは分かっている。だが八神聡の異常さを何も知らない上層部は、逮捕されいつ裏切るとも分からないこの男に少なからず怯えているのだ。もっとも政府との繋がりの物的証拠と呼べるものはどこにもないのだが。
「差し入れは?」
「そんなものあるわけないだろう」
「気が利かないなあ。ところで街の様子はどう? 俺のことなんて言ってるの?」
「あまつさえ国を裏切り、八洲共和国出身者を騙した悪辣なテロリストと」
「へえ。悪くないね」
八神聡は極悪非道で国家反逆を試みた犯罪者である。カルト教団めいた方式で〈FOLKS〉をまとめあげ、十六人もの政治家や起業家、研究員を殺害。内部の裏切者を粛正と称し自らの手で五名を殺害、未成年に対し暴行を働いた。そう伝えられている。
しかしその一方で、彼の素性も注目を浴びた。特に八神聡が資産家の家に生まれ、春霞大附属に初等部から通っていた筋金入りのエリートだったことは、世間に大きな衝撃を与えた。しかし実際には中学生のころから荒れ始め、ほとんど通っていなかったらしい。彼の最終学歴は春霞大学卒となっていたが、それは八神の両親が対外的に使っていた方便で、実際には高校一年生のときに退学している。
『優等生の変貌』『移民労働者の心につけ込んだ元天才少年』世にも恐ろしいサイコパス像が昼のワイドショーにより練り上げられ形を得る。けれども現実はその恐ろしい怪物とはどこか似つかわない、陽気で能天気そうな若者が目の前にいるだけだった。
弁護士としての矜持や熱意とは無縁そうな初老の男が、自分の額をガシガシと掻きながらめんどくさそうに言う。
「死刑は免れないと思うけど、どうする? 精神鑑定とかどう思う?」
「無理でしょ。俺、責任能力あるし」
「……だよねえ」
まるで老いぼれ教師と奔放な中学生との茶番めいた進路相談を見ているのような気分になる。この弁護士にやる気がないのはともかく、八神聡の態度は自分の生き死にが関わっているとはとても思えなかった。
「ただ死刑になるとしても、捏造ストーリーを考えないと」
弁護士はもちろん政府側の息のかかった人間だ。頼りなさげに見えるが、政治家からのあくどい依頼もこなす切れ者だという。
「死刑が決まるまでは時間がかかるからねー。何度も取り調べされて、裁判所でも何度も話すんでしょう?」
「そう。だからボロが出ないようにしないといけないわけ。それで嘘を吐くためにはまず、真実を知らなきゃならない。それが上手いでっちあげを作る最適解」
一理あると佐々木は心の中で頷いた。それに、この男の真実にも個人的興味があった。
「ふーん。どうしようかなあ」
退屈そうに八神聡はそう呟いた。
*****
自分の未来が確定された世界はとても狭く窮屈だった。
八神聡が生まれた理由を知ったのは五歳のときだ。父親はドイツ人の著名な科学者で、母親はアメリカ人の優秀な警備員だった。もっとも外見的特徴は実父と実母に寄せられているため、傍目に血縁が疑われるようなことはない。
両親は八神聡に対し、国家警備員になることを望んでいると告げた。名門大学の卒業生が倍率五百倍以上の狭き門をくぐって到達できる、この国の最高防衛機関に息子をいれたがった。
幼いうちから言い含めれば言うことを聞くと思ったのだろう。現に三つ上の長男は医者になるべく、めきめきと成長していたからだ。しかしまだ幼い八神聡はそれを拒絶した。彼にとって世界は確定したルートを進んでいくものではなく、自らで切り開いていくものだったからだ。
両親との溝は彼が大きくなるほど開いていき、中学生の頃から荒れ始めた。いわゆる不良と付き合い始め、治安の悪い場所へもしょっちゅう出かけ補導されては帰ってきた。そんな次男に愛想をつかしたのか、両親は問題から目を背けるように十個下の三男に愛情を注ぎ始めていた。そんなことも契機になり、高校生で家を出た。
しばらくは不良仲間の家に転がり込み窃盗、恐喝、強盗などで生活費を得ていた。付き合う仲間も次第に不良高校の同級生から、犯罪組織へと変化していった。
下手な自傷行為のように、八神聡は裏社会にのめり込んだ。組織の中では有能な潜行者として重宝されたが、仲間への尊大な態度や気が高ぶるとすぐに暴力を振るうため長居はできず、様々な組織を転々とした。
あらゆる組織から崇められ、恐れられ、知り過ぎた彼は次第に、命を狙われるようになった。
それも当然だ。優秀過ぎた彼は味方にいるには手綱の取れない暴れ馬だが、敵になれば無敵艦隊の強さを誇る。そんな危険な爆弾はばらしてしまった方が良い。そういう理由で、八神聡は日本から出ていかざるを得なかった。
第二の地に八洲共和国を選んだのは海と山が綺麗で、英語が通じるからだった。
二十歳になった八神聡は幾何か冷静さを得て、伝手を使って新進気鋭の国際的な犯罪組織に属した。主なターゲットは銀行系システムの破壊で、八神聡は千人規模の潜行者の中で図抜けた戦力を誇る主力兵として新たな地位を得ていた。そこで彼は故国で虐げられている八洲共和国出身者の実情を知った。
壁スクリーンに高精細な映像を映すホログラムや、自動運転システム、人工知能の開発まで、日本は安価な中国製品や高性能な韓国製品に押され、完全に衰退していた。しかし日本の多くの企業は製品のロストを八洲共和国へ高値で売り飛ばし、産業を寡占していた。平均給与に大きな差があるにもかかわらず、日本と同じ最先端モデルの車が舗装されていない道路を行き来するのは、この世界の陰惨な一面そのものだった。当然、物価とつり合いが合わない食料品や生活必需品に家計は圧迫され、この国には恐ろしいほどに娯楽が少なかった。自由を求める若者が少しでも金を稼ごうと渡日するのは当然のことに見えた。
けれどいざ渡日したところで待っているのは、差別と偏見だ。彼らの多くは名を変え、日本人として生きている。ほんの少しの罪悪感と、ようやく手に入れられた自由に羽を広げながら。そんな歪んだ感情にこの国の人々は囚われている。
それを知ったとき、この感情をまとめあげ、利用できると考えた。
それから間もなく、その犯罪組織は幹部が一斉逮捕され、事実上解散した。逃げ切った八神聡は八洲共和国出身者となるために偽の戸籍と身分を用意し、一年かけてメンバーを募った。〈日本を討つ〉というスローガンに共感し、ざっと百名ほど、うち潜行者は二十名が集まった。それからは四年をかけて、グループを一流の犯罪組織へと鍛え上げた。もちろん裏社会の危険な人物に目をつけられることもあったが、八神聡はうまく立ち回り、投資を持ち掛け、敵を掌で転がし、コネとパトロンを錬成した。やがてその総数も分からなくなるほどの巨大なネットワークが出来上がっていた。
今から二年前、八神聡は五年ぶりに日本の大地を踏みしめていた。この遠大な計画を達成するためには日本政府の助けがいるからだった。彼は自分に利益があれば絶対悪の存在を許すような官僚数名にコンタクトを取っていて、例の計画をプレゼンした。
世間を騒がせるには至っていなかったが、国家公安委員会などは〈青い仮面〉の存在を非常に危険視していた。また〈FOLKS〉の前身となる抵抗組織が生まれているのも彼らの頭を悩ませていた。そこで八神聡は、自分が〈FOLKS〉の舵を取ると宣言したのだ。初めは誰も真に受けなかったというが、彼は滞在期間わずか二か月で日本で活動していた〈FOLKS〉を掌握し、そのトップの地位をものにした。その行動力と実力を知った官僚たちは、その計画に乗った。
計画とはつまり〈青い仮面〉と〈FOLKS〉を徹底的にぶつけ合わせ、国民と移民労働者たちにガス抜きをさせ、両者を壊滅させるというものだ。
身もふたもない言い方だが、事実なのだから仕方がない。戦争が無くなれば内戦が始まり、内戦が終われば戦争が始まる。人間一人一人のの闘争本能は微々たるものでも、それが群になれば最後、国が崩壊しかねない。だから意図的に、それを作る。家具を壊す犬が総じて運動不足なのと同じだ。国民を熱狂させ、非日常の空間に連れ出す必要があった。
プレゼンは上手くいった。あとは二年をかけて準備を整え、なるだけ派手なパーティーを催せばいい。けれども八神聡は達成感を得ることはなかった。なぜならそれはもちろん、彼の目的が二十億の報酬金でも差別主義者への糾弾でもなかったからだ。
八神聡は実行までの日々を長野県のとあるマンションで過ごしていた。コネクションを新たに作る必要もなく、膨大な数になった下部組織への指示や教育も、初期メンバーに任せていたため、少しばかり退屈だった。
だからなんとなく、軽い気持ちで彼は、復讐対象者のリストの子供、つまり自分と同じ境遇のデザイナー・チャイルドに会ってみることにした。
選び方は簡単だった。自分と同じような家に生まれ、抑圧され、仲間になりそうな奴。
しかし大半は期待外れだった。どの子供も、親の言いなりでやりたいようにやっている馬鹿はいなかった。つまらないなと思いながらラップトップを畳みかけた、そのときある文章が目に入った。それはある日記サイトの非公開の記事だった。ハッカーの知識も豊富な八神聡にはそれが容易に読むことができた。
〈お父さんもお母さんも分かってない。私でお人形遊びがしたいだけだ〉
〈また模試で彼に負けた。歯がゆい。私だって頑張ってるのに〉
〈二年生になった。けどたぶん来年の私は団長にはなれないだろう。親のコネで副団長になるのがせいぜいだ〉
〈弱虫でこんな生き方しかできない自分が情けない〉
淡々としてはいるが、独白などは大抵このようなものだろう。八神はこの女子高生に会ってみることにした。
落ち合う場所は都内の高級飲食店を指定した。久しぶりに蟹が食べたかったのだ。けれど彼女は待ち合わせの十九時を過ぎてもやってこなかったため、八神聡はまあそれはそうだろうなと思いながらさほど残念がりもせずに蟹を食べていた。
蟹鍋をつついていると、座敷の襖が無遠慮にざっと開いた。そこには清楚な服を着て、きりりとした印象の少女が立っていた。
「貴方がピエロさん?」
彼女はこちらに怯えるどころか、少し威圧的でもあった。度胸が据わっているというよりも、もうこの世に未練がないというような半ば自棄染みた態度だった。
「君が観月絵里さんか。はじめまして。まさか本当に来ると思わなかったよ」
八神聡は微笑みながら、座るように促した。彼女はさほど躊躇わず座布団に座る。
「メッセージで言ってたこと本当なの?」
「計画のこと? うん、ほんと。まあ信じろって言っても難しいとは思うけど」
「あと貴方が八神透の兄だって言うのは?」
「それも本当だよ」
八神聡が観月絵里を気に入った一番の理由は、弟の透と知り合いだったという点だった。また彼女は優秀で警備庁の下請け組織でもある自警団に所属していた。警備庁も既に手中に収めているが、自警団を作戦に組み込めればその分、やりようも増える。〈FOLKS〉の戦闘訓練にも使えるし、細々としたご褒美や障害は組織の団結力に繋がるだろう。
「弟のこと、どう思っているの?」
やたらと弟のことを聞いてくる。日記の文面からして彼女は、透に強い劣等感を抱いているようだった。
「あいつが十歳くらいのときには、家を出てたからね。よく分からないというのが本音だ」
「…………そう」
安心したような、少し残念そうとも取れる返事だった。
「それで、どう? 仲間になる?」
既にメッセージ内のやり取りで彼女は〈FOLKS〉に加わると表明していた。この場にやってこなかったのは口先だけだったからだと思ったが、ただ単に道に迷ったか店を間違えでもしたかのようだった。せっかくの蟹鍋に彼女は箸に手さえもつけず、真剣な顔で頷いた。
「なるわ。絶対に」
綺麗な二重瞼の下の黒目が、爛々と鈍い光を孕んでいる。ギラリとした明確な殺意がこちらに押し寄せてくるようだった。
「OK。よろしくね」
久しぶりに食べる鍋は美味しかった。けれど彼女は結局、何も食べず押し黙ったままだった。八神聡にはそれが、これから自分がすることを恐れている少女ではなく、これから犯すことを想像し静かに歓喜しているように見えた。
食事を終え深夜になり、八神聡は自分が生まれ育った街に来ていた。長野からわざわざ出てきたのは、あの女子高生に会うためではない。実家に行くのが目的だった。
白い壁で囲まれた我が家が目に入る。驚くほど幼いときと何も変わっていない。車用のガレージの上に二階建ての家。庭のウッドデッキには誰も使わないロッキングチェアが置いてある。
玄関の前に指紋認証の電子ロックがあったが、この警備システムはバイオ・セキュリティでは守られていない、ハッキングで開けられてしまう類の錠だ。ほんの十分ほどで八神聡はそのロックを突破してしまう。そしてそれこそ十年ぶりに我が家へと入った。
部屋の中は、やはり変わっていた。まず靴の数が違う。長男はとっくに結婚し家族を持ち、父親は定年しているため仕事用の靴は靴箱の奥にしまわれている。母親の靴の趣味も派手なものから年相応の色合いへと変わり、高校生になった弟の革靴が置かれている。
実家を見たら何か感慨が浮かぶだろうかと思っていたが、そんなことはなかった。胸に溢れてくるのは寂しさや怒りでもなく、時間の流れは早いなあという年寄りじみた考えだけだった。
八神聡はリビングルームへと向かった。部屋に明かりは点いていないため、誰もいないだろうと思った。静かに扉を開け入る。広いリビングは少し家具の配置が変わっている。テレビとソファと、ダイニングキッチン、増えているのは父親のゴルフバックぐらいだ。ふと、視線がソファに集まる。そこには十年ぶりに会う弟が寝息を立てて横たわっていた。
大きくなったとは思ったが、それ以上は思わなかった。むしろ小学生の頃、飼っていたアゲハの幼虫の成長の方が、よほど感動したと思う。それくらいの冷めた気持ちで、透のことを見下ろしていた。やがて忘れ物を思い出したかのように、持っていたバッグから包丁を取り出した。
八神聡は今夜、この家族を殺しに来た。
計画そのものの目的は両親への復讐ではない。確かにその実行中に彼らが被害に遭う可能性はとても高いが、確実ではなかった。そうかといって、無理やりターゲットにすることは不可能だった。彼らは〈青い仮面〉に参加していなければ移民排斥派の政治家を資金的に援助しているわけでもないので、殺せる理由がないのだ。だから八神聡は、だったらもう直接やればいいかと思った。直前に、並々ならぬ殺意に溢れていた彼女に出会ったのも、この行動を誘発させた。それに今の八神聡には警察の後ろ盾がある。指紋が残らないように手袋をつけることや包丁の入手方法などは一応考慮しているが、万が一殺害がばれても、八神聡には与えられた〈役〉がある。恐らくそれを演じきるまでには何をやっても立件されないだろうという自信もあった。
ケースから包丁を取り出し、柄を両手で握る。呼吸は乱れず、かわりに少しだけ心臓がどくどくと言っていた。だが頭は恐ろしいほどに冴えわたり、とりあえず胸を一突きしてみようと考えていた。
包丁を振り上げたそのとき、透の手から本が落ちた。ぱらりとめくられたそれは、彼の手帳だった。どんな文章もセルに記録できる便利な世の中でも、紙の手帳は根強い人気だった。恐らく透も、父親を真似していたのだろう。高校生には不釣り合いそうな牛革の手帳には、ボールペンで書き殴ったような文字が書かれていた。
〈認められたい〉
バランスの取れていない、だらしがない文字だった。突発的な感情に突き動かされて書いたのか、来週の予定のページ全体がその文字で隠れてしまっている。
目の前の危機に気づかない透は寝息を立てている。けれどその顔は長年蓄積された疲労に歪んでいるように見えた。
振り上げた腕を、八神聡はだらりと楽にする。その表情は何もかもの感情が削げ落ちた死人のようだった。
やる気がそがれた。生気が奪われたといってもよかった。もう何をする気にもなれず、八神聡はそのまま家を去ることにした。
計画の一か月前から、八神聡は拠点を東京に移し始めていた。港区にできている廃工場の事務室が彼の新しい根城だった。けれど彼は政府関係者や部下たちと、わりと忙しく事態に当たっていたため正直色々と細かいところは雑になってしまっていた。たまの気まぐれで八洲共和国出身の男子高校生を勧誘してみたりしたが、あっさり味方になってしまい張り合いがなかった。だが、面白いこともあった。白瀬慶介と鵜飼恭一という学生警備員との出会いである。
「また変なところに呼んだね、観月ちゃん」
深夜、八神聡と観月絵里は都内でも有数の広い敷地面積を誇る公園にいた。街灯があるものの、辺りは木々に囲まれ薄暗い。
「ブランコに乗りたくて」
真顔でそういいながら、観月は立ちこぎの要領でブランコに乗る。八神聡もその隣のブランコに腰かけた。
「で、そっちはどう?」
「首尾は上々。誰も私が内通者だとは気づいていないわ」
「それはよかった」
「ねえ。白瀬慶介にバギーを追いかけさせろって言ってたけど、あれどうしてだったの?」
「君が選んだ高潔で絶対に裏切らないエリート君を見てみたくってさあ」
もともと透の疑惑の目から逃れるために、自分でも行動しろと助言したのは八神聡だったが、彼女が選んだ人間にはそれなりに興味はあった。
警備庁の自警団のことならば、八神聡もよく知っていた。超がつくエリート養成所、国家警備員への登竜門であり、出世後もステータスとなる称号だ。それを得ている学生の中で、その自警団を破滅させかねない秘密を暴こうとする人間が果たしているのかは疑問だったが、彼女はすぐにそれならば適任がいると答えたのだった。
「面白い子だったよ。彼には才能がある。あの武器も勿論だけど、基礎的な能力も高い」
「…………」
観月絵里が黙ったので、彼は小首をかしげた。
「ありゃ? 怒っちゃった?」
彼女が才能と呼ばれるものへひどいコンプレックスを抱えていたのを忘れていた。八神聡は取り繕おうとしたが、その必要はなかった。観月が苛立つのではなく少し寂し気な顔をしていたからだ。
「彼、進路に迷ってるそうよ」
「へえ。僕、夢があって羨ましいな、なんて言っちゃったよ。そう。迷ってるのか」
まるで同級生の進路についてとやかくいうような八神聡の声音に、観月絵里は苦笑する。それからまた少しブランコを漕ぎ、夜空を見上げた。
「でも、きっと怖いだけなんだと思う」
「怖い? 警備員になるのが?」
観月は頷いた。
「人の命を俯瞰で考えられないのよ。一度の失敗で更にひどく怯えてる。根が優し過ぎるのね」
「……それはつまり、白瀬くんが可哀そうだと思ってるってこと?」
まさかと観月絵里は口をあけて笑った。嫌なことでもあったのか、今日はやたらとテンションが高い。
「そんな風には思わないわ。その才能に嫉妬はしても、それを持ってあまつさえ腐らせようとしている人なんか大嫌い」
だんだんと揺れが小さくなるブランコから、彼女はポンっと一歩分ほどの距離を飛んで綺麗に着地する。それからくるりとこちらに振り向き、笑った。
その顔は子供のように無邪気だったけれど、仮面を無理やり張りつけたように、ちぐはぐとしたものに感じられた。きっとその下に隠れているのは、八神聡が弟を殺そうとしたときと同じように、死人のような白い顔が伏せられていると思った。
*****
八神聡は至極簡潔に〈FOLKS〉設立と、政府とのやり取りだけを説明した。そして自分の本当の目的がデザイナー・チャイルド計画に加わった研究者と夫妻たちであったことも明らかにしたのだった。
「そんな馬鹿な話を信じろって言うのか?」
出鱈目を言っているのではないかと佐々木は腕を組んだ。しかし八神聡は笑うばかりだった。
「今の話のどこが馬鹿なんだ? 受精卵への遺伝子操作なんて、公にしてないだけでどこの国でもやってることだ」
「デザイナー・チャイルド計画についてのことではない、お前のその復讐方法だ」
ただ関係者を殺すことが目的なのならば、そもそも〈FOLKS〉などという犯罪組織を創設する意味がない。標的のリストを手に入れて、一から暗殺すれば済む話だ。けれど八神聡は信じがたいことに実に二十歳からの七年間をこの組織と計画に捧げている。七年という歳月があれば、その全員を既に暗殺できていたはずだ。けれど彼は敢えて短期間に、それも派手な方法で彼らを追い詰めていった。その妥当な理由が佐々木には思いつかなかった。ただ一つ思い出したのは、潜行前にした八神聡の要求。
――もしも僕が逮捕されたらそのときは、何が何でも僕を死刑にしてほしい。
「まさか計画を明るみにするために……?」
考えられるのはその答えしかなかった。世論を掻き立て目立つように八洲共和国出身者のテロという名目で殺害を続ければ確実に死刑になれる。裁判が行われれば、八神聡には受精卵への遺伝子操作へ糾弾の機会が与えられることとなるだろう。日本だけではなく世界の注目の集まるテロリストの裁判でそんな事実が明るみになれば、世界は一変するだろう。
だが、その答えが不満なのか八神聡は失望したというようにため息を吐いた。
「ただ死刑になりたいなら、銃の乱射でもすればいいじゃん。馬鹿なの?」
悪辣なテロリストにそう指摘されると腹が立つが、それはその通りである。では残る謎はなぜ〈FOLKS〉を選んだかということだ。
「優生学って言葉、もちろん知ってるよね?」
「劣悪な遺伝子を避け、より遺伝学的に人類をよりよくしていくための学問……。もっとも、今では口にするのも憚られる差別的な言葉だ」
優生学と言えば真っ先に思いつくのはナチスドイツのホロコーストだろう。ドイツ民族を最優秀の民族とするために遺伝的に劣っているとしたユダヤ人をナチスは強制収容所に送った。しかしその他にも、金髪碧眼長身の男女同士を強制的に結婚させていたりと、優秀な遺伝子を残すことにも余念がなかった。そして忘れてはならないが、我が国にも優生学を盾にした差別的政策がかつて存在していたということだ。むしろこの世界の中でそんな汚点のない国を探す方が難しいのかもしれない。
「〈FOLKS(民族)〉なんてふざけた名前と思うだろう? 僕も全く同感だ。けれど少し、この国に住みながら疎外される彼らの気持ちが分かるような気がした。彼らが求めるのは民族だ。母国でも、日本でもない。異国に住み孤独な、そういう疎外された遺伝子たちの集まりだ」
〈青い仮面〉のSNSには日本のあらゆる衰退や凋落を、移民国の人間たちと血が交わったせいだとする論調も強い。劣等なDNAを有する八洲人を日本から排斥する。それこそが彼らが掲げた標語だ。
「人を差別できる最も簡単な手段は、科学だ。科学は感情も倫理も道徳も正義も飛び越える。それ自体は、善でも悪でもないから。僕がいくら差別的な〈青い仮面〉の先導者を殺しても、デザイナー・チャイルド計画の加担者を殺しても、きっと何も変わらない。ただ殺すだけでは、優生学的な差別や計画はきっとこれから先も消え去ることはない」
少し黙ってから、佐々木は想像した。
自分の子供をデザインしたいとは思わないが、優勢な遺伝子が存在するという甘い妄執に人は縋りたいと思ってしまうものだろう。遺伝子操作で病気のリスクを減らすことも良いことのように思えるが、病気になることもまたその人の権利だと言われると、それを否定はできない。
民族間で遺伝子の優劣が存在すると信じる人間についても同じだ。
科学は人間を守る盾でもあり、人を殺す兵器にもなる。弱い人間は自らの劣等感に押しつぶされそうになればなるほど文化的、人間的、科学的な優位を無暗に証明したがるのだ。そんな便利なものはないと分かっていながら、科学という武装を身に纏う。
「甘美な夢を見ている人間に、目にものを見せてやりたかった」
「お前は、ただそのためだけに全てを計画したのか……?」
今度は佐々木にも、八神聡の真の目的が理解できた。
愚かだ。少なくともまともな神経じゃない。
この男は、八神聡は、完璧な遺伝子から生まれた、完全な子供だった。たった四種の塩基配列は、この世界の中でも彼がより優れた人間であることを語っている。だからこそ世の中の人々は、期待する。この技術により素晴らしい人類が生まれると、自分たちを超えるような優秀な遺伝子を持った子供たちが世界をヴァージョンアップさせるはずだと。
けれど、本当は分かっている。同じ人間という枠の中でDNAの配列の差異などは無価値だということに、目を覆い隠し真実を箱の中に閉じ込めマイノリティを糾弾する、そんな自分の中の物語に酔っているだけだ。
それをもっとも手っ取り早く、直接的に、インパクトのある形で生々しくグロテスクに暴く手段がある。
「僕の目的は、彼らの絶望を死刑台の上から嘲り笑ってやることだよ」
完璧だと思っていた子供が、遺伝的に優秀なはずの日本人が、死刑台に登る。
彼は自分の身を持ってして遺伝的に優秀な人間は存在しないというただそれだけを、証明しようとしていた。
「愚かだ……」
佐々木には理解はできても、納得はできなかった。体感として、彼の気持ちに全く同情できない。
八神聡は狂ってなどいない。ただ自分の人生や命すらを燃えつくしても構わないと思うほどの凄まじい執念に取り憑かれていただけだ。
裏切者の男子高校生を殺さなかったのも、自警団員に敗北を喫したのも、彼にとっては計画の失敗ではなかった。あんなホテルの小さなパーティーに彼はこだわりなんてなかった。
世界一愚かなこの男は、ただこの世界を嗤ってやろうとしていただけだ。
八神聡はただ茫然としている佐々木の顔を見て、ケラケラと笑った。
その二日後、ホテルの地下で押収された神経ガスがただの水蒸気であったことが、警察から正式に発表された。
*****
事件から二週間がたった。〈FOLKS〉がこのような凶行に走った原因でもある〈青い仮面〉は移民労働者たちへの攻撃を止め、ほぼ壊滅した。まるで大きくうねる荒波と嵐を抜けて波が静かになっていくように、良くも悪くも平穏は取り戻された。
これは鵜飼が風の噂で聞いたことだが、観月絵里は、全ての罪を認めているらしい。未成年とはいえ十八歳だ。組織犯罪ということもある。場合によっては少年院送致だけでは済まされないかもしれない。実名での報道は避けられているが、学舎の前は連日報道陣が詰めかけてきて教職員が辟易とした顔で対応に追われている。しかし彼女に関しては、同情を誘うような報道をされているせいなのか世間では保護処分を求める声が大きかった。
「おや、雨が降ってきましたね」
土曜の昼下がり、鵜飼はユーセフの運転するロールスロイスの後部座席にいた。
「梅雨だからな……」
そういいながら鵜飼は窓の外に目をやる。原宿はいつも同じような飲食店が密集しごちゃごちゃとしている印象を受けて得意じゃない。普段の休日を秋葉原の電気街で暮らしている鵜飼にとってこの街は、些か光に溢れすぎていて苦手だった。
「そういえば、例の約束の件を覚えていらっしゃいますか?」
「約束?」
少し考えて思い出した。トンネルで無人パトカーに追いかけられたとき、鵜飼はユーセフに絶対に危ない真似はしないと言っていた。しかし不可抗力とはいえ、腕を六針縫い額に掠り傷を負ったのは事実だ。
「確か恭一様は僕の命であるマシンを賭けてもいいと……」
鵜飼は慌てて運転席の方へと身を寄せる。
「ちょっ、たっ、確かに言ったけど!?」
にこにこと笑ってはいるが、ユーセフは明らかに怒っている。怪我をしたと知ったときは、飄々としていたくせに、いざ包帯が取れて傷が癒えてしまうと怒りが湧いてきたらしい。
「ご安心ください。主人の物品を勝手に売り払ったりは致しません。私もお預かりしている車に傷をつけてしまいましたから、お相子です」
「むしろ傷だけでよく助かったと思うけど」
ニュースでは無人パトカー二台がトンネル内で横転しているのが見つかったとだけ報じられていた。ドライブレコーダーは抜き取られ、事故現場に証拠となる物品は何ひとつ残っていなかったという。政府が〈FOLKS〉との繋がりを認めていない以上、この事故が事件として立件されることはないだろうが、念には念を入れておくのがこの執事のやり方なのだ。
「ところで、今日はどうして原宿に? いい加減、教えてくださってもよろしいじゃありませんか」
「ハンバーガーショップ」
「はい?」
恥ずかしそうに口をまごつかせながら、鵜飼は繰り返す。
「ハンバーガーショップに行くんだよ」
ユーセフの車が走り去り、鵜飼は全国最大の店舗数を誇るバーガーショップに緊張した面持ちで入店した。焼肉チェーン店とファミレスには白瀬に連れられ行ったことがあったが、この街でよく見かける黄色いMの店には足を運んだことはなかった。
自動扉が開き、店内の様子が目に入る。子供部屋のような明るい配色に油の臭い。赤いエプロンをつけた小型のロボットが列に並ぶ客を接客している。入り口近くのキャラクターの置物がこちらに喋りかけてきた。
「いらっしゃいませ。ただいま混んでおりますので、先に席をお取りください」
席を取る。座る、ではなく?
鵜飼はそう思いながら、フードコートに入る。無人の四人掛けのテーブル、その真っ赤なソファに座ってみる。周りの人は楽しそうに喋りながらポテトやバーガーを口にしているのを見て、鵜飼はなんだかわくわくしてきた。未知の世界を体験するのに、エベレストも高尾山も関係ないのと同じ、これが鵜飼にとっての初登頂だ。
ところで注文はどこでするのだろうか。ファミレスではボタンを呼ぶとロボットか従業員がやってくる。焼肉屋はその場にあるデバイスで注文をしたはずだ。しかしこのテーブルにはボタンもパネルも存在しない。はてさてと思いながら、鵜飼はレジ前の列を見る。まさかあそこで頼むのかと思ったが、そこでテイクアウトという概念を思い出した。あの列はテイクアウト用なのだ。では、店内で召し上がる場合は? 一体この店はどうなっているんだ。
「遅れてごめん!」
そのとき鵜飼の前に、ジュースとハンバーガーの乗った盆を持った蓮見がやってきた。
今日、鵜飼がここに来た目的はハンバーガーを食べることではない。同級生の蓮見と話をするためだった。蓮見は椅子に座りながら、机の上に何もないのを見て小首をかしげる。
「あれ、何も頼んでないの?」
「……ああ、アレルギーなんだ」
嘘だった。しかし、ただ注文の仕方が分からなかったなどとは口が裂けても言えない。蓮見は申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん、そうとは知らなくて誘っちゃって……。確かに鵜飼くんとハンバーガーってなんだか合わないよね」
違う、本当は食べたい。その不健康で油まみれの食品を口にしてみたいと思っていたんだ。
鵜飼は涼しい顔で首を振る。
「構わない。僕のことは気にせず食べてくれ」
だが鵜飼にもなけなしのプライドがある。なるほど、どうやら先に注文するらしい。ファミレスとは違うのか。大人しく白瀬に聞いておけばよかったと少し後悔した。
ハンバーガーの包装を剥がしながら、蓮見は喋り始める。
「〈FOLKS〉の件。色々巻き込んじゃってごめんね」
「いや別に僕の周りでは何も起こらなかった。それよりも君の怪我の方が問題だ」
顔を殴られた跡はまだうっすらと残っている。ナイフで刺された傷も塞がっているらしいが、動きはどこかその傷を庇っているようにぎこちない。
「大したことないよ。後遺症とかも残らないみたいだし」
「ならいいんだが……」
ふと鵜飼は少しだけ目をそらす。デモ行進もなければ、落ちているプラカードも拡声器の声もない日常が、ガラスの外には広がっていた。〈青い仮面〉も〈FOLKS〉もすっかりなりを治め、世界は穏やかな日常を取り戻している。
「君は〈FOLKS〉に利用されそうになっていたそうだな」
「優しい言い方だね。ただ僕は加わろうとしてただけだよ」
「けどそうしなかったし、君はたった一人で勇敢に戦ったんだ。誰にでもできることじゃない」
「うん……。警察の人にもそう言われて、お咎め無しだって。まあ親には超叱られたけど」
蓮見悠平には〈FOLKS〉に加わる理由があった。そのことはメッセージを受け取った時点で想像がつくことだった。彼の故郷はこの国とは別にもう一つある。けれど元アメリカ人の鵜飼にとってもそれは同じだ。もっともアメリカと八洲共和国では、この国での扱いも違うのだろうけれど。
「自主退学したそうだな」
あの日から蓮見は一度も学校に来ていなかった。
「あんなことしちゃったしね。それにどのみち、来年から家族で中国に引っ越す予定だったから、その前倒しで」
そういうわりに蓮見はどこか清々しそうな顔をしている。
「実は、僕、親の会社を継ぐために技師科に入ったんだ。けどこの機会に本当にやりたいことを父さんに言ってみた。そうしたらあっさり許してくれてさ。しばらくはフリースクールに通って、卒業したらあっちの国で専門学校に入るつもり」
鵜飼は小さく微笑む。
「素敵じゃないか。何になるんだ?」
蓮見は照れるようにはにかんだ。
「小さい頃からゲームクリエーターになりたかったんだ。プログラミングは好きだし。ブレイブ・ワールドとかワンダー・コスモスとか知ってる? 僕、あれのファンなんだ」
「……ブレイブ・ワールドなら持ってる」
あれからはまってソフトもハードも買ったのだ。凝り性なのは自分でもよく分かっているが、はまってしばらく、いつも以上に寝不足になってしまった。
「ええ!? 意外! 鵜飼くんもゲームとかするんだね!」
同士を見つけた喜びからか、蓮見は思わずという風に席から立ち上がる。その様子に思わず、鵜飼もつられて笑ってしまった。
「君は高校にいたときより、どこか楽し気だな」
「本当にやりたいことを見つけられたからかな。なんてね」
「それは何よりだが、少し残念な気もする」
「え?」
キョトンとした顔をする蓮見に、鵜飼は冗談っぽく笑った。
「僕の変化球を取れるのは、クラスで君くらいしか、いなかったからな」
それを聞いた蓮見は大きな声で笑った。すると傷が痛むらしく、腹部を少しさすったがそれでもなお笑っていた。
「あれを変化球っていうのは無理があるでしょ」
*****
がらんとした自警団本部オフィスの机には段ボールが少し残っている。封じられた段ボールには処分という文字がほとんどだった。片づけをしているのは白瀬を含めたったの六名。百五十人はいたはずの自警団員はそのほとんどが現れなかった。
昨日、警備庁直属の高校生警備員育成支援プログラム通称自警団は解散が正式に決定した。観月含む三名の内通者が国家警備員のシフト表を〈FOLKS〉に流していたことが発覚したためだ。観月の他の二人は自警団の功績が将来に役に立つと彼女に協力を求められたと証言しているらしい。そしてそのうち一人はあの宝石強盗で共に戦ったリーダーの三島だった。天井からの侵入を許したのは、意図的な彼の細工であったことが明るみとなり、自警団の信用は完全に地に落ちた。
多くの学生はここに在籍していた事実さえ消し去りたいとでもいうように次々と退団し、連絡が取れなくなり、仕方がなく残った私物は段ボールに詰め、処分することとなった。
「悪いな、手伝ってもらっちゃって」
作業をしながら八神がこちらを見た。
「いえ。それより俺だけですみません。鵜飼は用事があるとかで」
「いやいや、いいんだよ。あ、それはこっちに」
誰もが静かに淡々と作業をし、聞こえてくるのは運搬用ロボットの稼働音くらいだった。白瀬以外にここに残っている人は、誰もがこの自警団に誇りを持っていた。そしてそれを裏切られ、踏みにじられた。
「兄さんを捕まえてくれたんだってね」
室内に二人きりになったタイミングでぽつりと八神が呟いた。正確に言えば、八神聡を仕留めたのは国家警備員ではあるが、あの場に居合わせた彼は後ほど事情を知ったのだろう。
八神は自嘲気味に苦笑する。
「兄さんは俺がまだ小さいときに両親と喧嘩して家から出て行っちゃってね。でも嫌な思い出はほとんどないんだ。勉強を教えてくれたし、怪我したら負ぶってもくれた。寡黙であまり喋らない人だったけどね」
その像は白瀬が知る八神聡とは大きくずれていた。だが、それもまた彼のある一面だったのだろう。
八神聡の逮捕から一週間後、彼の目的がデザイナー・チャイルド計画に参加した夫妻や研究者たちの殺害であったことが警察から発表された。遺伝子による新たなる人間の創造は悪かというタイトルは、国内外を問わず大きな注目を浴び、世間の関心は多くの移民たちから科学の善悪や遺伝子という方向へと変化していた。計画により生まれた観月には同情的な意見が寄せられ、パーティー会場にいた夫妻や東部聖霊病院の関係者たちは今後詳しく捜査されることとなった。
「……八神先輩はデザイナー・チャイルドのこと、知ってたんですか?」
「小学生のときにね。僕をピアニストにしたかったそうだ。笑っちゃうだろ? でも偶然、潜行者の適性があるのを知って、ピアノを止めた。それからはもう家の中じゃ空気みたいな扱いだよ。長男は親の言いなりで、次男は家を飛び出して、三男は反抗期だったから。頑張れば認めてもらえると思ってたけど、それも結局はダメだった。ざまあみろって、思われてるかもね。まあ、今は聡兄さんのことでそれどころじゃないみたいだけど……」
昨日の報道では玉城春彦医院長を含む研究者たちは国際倫理法違反により逮捕される見立てというが、参加した夫婦は実験内容を詳しく知らされていなかったとして不起訴となるらしい。なんらかの権力が働いているという噂もあるが詳しいことは分からない。
「すみません。嫌なこと聞いて」
「いいや。観月と仲良くなったのも、お互いの秘密を知ってからだったんだ。俺さ、実をいうと少し羨ましかったんだ。観月が親からのプレッシャーに辛そうにしてるところも何度も見たけど、でもそれって期待されてるってことだろ? 俺は親の期待を裏切ってる分、罪悪感みたいなのもあって、観月が辛そうでも、お前はよく頑張ってるよって、ただ適当に褒めてやるばっかりだった」
八神の顔はは少し悔しそうでもあり、悲しんでいるようにも見えた。裏切られた怒りよりも、後悔が先に立っているのだろう。
「でも本当はそんな言葉が欲しいんじゃなかったんだよな。頑張ってなくても、潜行者じゃなくても、ただありのままの観月を見てられたら、こんなことになる前に止められたかもしれない。あいつきっと、俺のこと嫌ってたよ。なのに全然、気がつかなかった」
――私、君のこと嫌いだったの。
そんな観月の言葉がまたふと頭の中に蘇る。
そのとき八神の頬からすっと涙が零れ落ち、居た堪れない白瀬は四角四面の言葉を吐きだす。
「先輩は悪くありませんよ」
ふと窓から入ってきた一陣の風に古い紙の資料が一斉に飛ばされる。それは白い鳥の羽ように辺りに舞って、反対側の窓の向こうへ羽音を立てながら消えていく。
何も知らない遠くにいる白い鳥が、撃ち落されたようだった。
「人間ってサイコロみたいだと思いませんか」
ふと呟いた白瀬の言葉に、涙を拭った八神が顔を上げる。
「サイコロ?」
白瀬は飛んでいく白紙を見ながら、薄く微笑んだ。
「何が書かれているかはみんな同じで、どこから見るかで答えが違う。俺も八神先輩も優しくてお節介な観月先輩しか見えなかったけど、その裏にはまた別の観月先輩がいた。でも、だからと言って、別の一面が何もかも嘘だったとはならないと思うんです」
テロリストの八神聡が怪我をした弟を負ぶるような兄であったことも、過激な移民排斥派だった早海馨が家族に深く愛された父親であったことも、またある一面の真実であり、それはどんな悪行をもってしてもひっくり返すことはできない。
嫌いだと言った彼女の言葉は、きっと嘘ではない。けれど熱心に話を聞いてくれた彼女も、落ち込む白瀬に話しかけてくれた彼女も偽物だったわけじゃない。
「なーんて、かっこつけすぎって感じですね」
笑い飛ばすような口調で白瀬は言うと、いつか見た日の盾を廃棄用の段ボールに丁寧にしまう。ありがとうと、白瀬の背中に向かって八神が小さく呟いた。
*****
人工海岸沿いの二キロに続く長い橋は二重構造になっている。夏場になると海辺で花火が上がり、鑑賞をしようとこの橋にたくさんの人間が集まってくるため、一階と二階のように分けられているのだ。日が沈んでからは、地元のランナーや散歩客がときどき来るだけでひっそりとしている。ぽつぽつと灯っている青いライトがぼんやりと足元を照らしていた。
段ボールに詰め込んだのは餞別にと掃除に集まった先輩たちから貰ったお菓子と鵜飼が持ち込んだペーパーブックが数冊入っている。それを抱えて、白瀬は陸橋を歩いていた。
取り忘れられた横断幕には〈GET OUT〉の文字が掠れているのが目に入る。ここも〈青い仮面〉や〈FOLKS〉のデモ行進によく使われていたというが、今はもうその影も形も薄れている。
世界に変化が起きたと言えば、それは間違いではない。
確かに国を揺るがす犯罪者は逮捕されたし、身近にいた優しい先輩もいなくなってしまった。けれど変わっていないと言えば、何も変わってはいなかった。広い社会では今も弾圧や差別に苦しむ移民が大勢いるし、こんな茶番劇を考えた悪い大人たちはきっとこの先も捕まらないに違いない。全ての責任は八神聡ただ一人が背負い、そして恐らく彼はもう二度と塀の中から出て来ないだろう。
「そう考えると、遣る瀬無いよなあ……」
所詮、一介の高校生にできることなど、ここまでなのだ。社会に変化を与えられるような、御大層な身分じゃない。
そんな風に思いながら白瀬は段ボールを置いて、柵の方に体を寄せる。凪いでいるこの海のずっと先に八洲共和国がある。多くの労働者は飛行機ではなく大型船に乗りあってこの国にやってくるのだという。少しでも渡航費を安く済ませ、賃金を故郷へ送るために。
「君は一人になると悲観的になるタイプなんだな」
一人の少年の声が背後から聞こえてくる。少し離れたベンチに、誰かが腰かけていた。
「鵜飼!?」
声の主は鵜飼だった。彼の隣にはなぜかハンバーガーショップの紙袋が置かれ、その手にはバーガーがある。恐ろしいほど似つかわしくない組合せだ。
「感傷的な気分になると海に来るなんて、なかなかロマンチストじゃないか」
それを聞いた白瀬は鬼の首を取ったように笑う。
「忘れたのか。潜行者と技師の組み合わせは、論理・思考・行動的パターンの同調性によって決まる。つまりお前も落ち込んでるから海に来たということだ」
性格も正反対で、知力も体力も全く違うのに、こういうときの過ごし方はどういうわけだか同じらしい。名探偵のように白瀬は人差し指を鵜飼に向けたが、彼は取り合わない。
「僕はただ海辺のベンチでハンバーガーが食べたかっただけだ」
「頬にソースがついてる」
「…………」
紙ナプキンでソースを拭うと、鵜飼は気まずそうに咳をする。
「自警団、解散したな」
「そうなって然るべきだ」
「これからどうするんだ?」
「また別の学生団体に所属するしかないだろう」
「だよなー」
夕日が沈み、海鳥が巣の方へと帰っていく。二人の間に刺さるような沈黙が流れた。先に口を開いたのは鵜飼だった。
「君は潜行者をやめようとしていたのか?」
恐らくホテルでの観月の言葉から、そう推測したのだろう。勘が鋭いのか鈍いのかよく分からない。
「そうだったけど、もう悩むのはやめたよ。いや、悩まないでいることを諦めたっていうか、なんっていうか……」ふと白瀬は鵜飼にあのときのことを話してみる気になった。「夢の中で、自分に会ったんだ。でもそれは自分じゃなかった」
聞いていた鵜飼がさも当然のように答える。
「ソラリスの意思か?」
「知ってるのか!?」
「そういう研究があることは知っている。ソラリスの中に電子の介入できない精神性でのみ確立された空間があり、その中には住民がいる。自分と全く同じ顔をして、真実という本を燃やしているそうだ。けれどどれも根も葉もない都市伝説、電脳世界の民間伝承(フォークロア)のようなものだ。そんなものがあるはずない。ただの夢だ」
「そっか……」
しかし白瀬にはあれが夢だとはとても思えなかった。とてもリアルで繊細な色合いのある世界だった。けれどそれを示す証拠はログにもどこにも残っていない。ほんの少しだけツバキがいうことを聞くようになったこと以外には。
「ところで、今からちょっと悪いことしに行くんだけど、一緒にどう?」
「はい?」
素っ頓狂な返事に白瀬はニコニコとだけ笑い返す。段ボールの中には先ほど買ったばかりのスプレー缶が入っていた。
*****
夕日が沈みきった夜、白瀬たちは宝石店メトロポリタンの前にいた。立ち入り禁止のテープは張られていたが、人の姿はない。本来ならば厳重に閉まっているはずの店舗だが、現在はあらゆるガラスが割られ、店舗の壁は内側まで落書きだらけ、献花台の花は引きちぎられ、代わりに生ごみが置かれていた。
これらのことは全て、早海馨が〈青い仮面〉の実質的指導者だったことが報じられてからだ。落書きの内容は『国の恥』だったり『死んで当然』といった内容の言葉が多い。
二人は辺りに人気がないのを確認してから、張られたテープ内に入る。店の中もガラスや空のスプレー缶、ゴミが散らばっていた。白瀬はシャカシャカと缶を振ってから、書かれた落書きを消していく。あとからゴミもまとめようと、ビニール袋も購入していた。反対側の壁で作業をしながら、布越しにくぐもった声で鵜飼がいった。
「不法侵入と建造物等損壊罪で逮捕だな」
その声はこの行為を咎めるというよりは、どこか楽し気に聞こえる。
「えっ、落書きって消すのも犯罪なのか?」
「消すというより白いスプレーで塗りつぶしてるだけだからな。犯罪だろう、これも」
「マジか。やっぱり止める?」
呆れたように鵜飼は眉間に皺を寄せる。
「この意気地なし、小心者、腰抜け」
「流れるような罵倒……」
それでも二人はしばらく無言で作業をしていた。
もちろん早海馨が〈青い仮面〉の指導者としてヘイトスピーチやデモ行進したことは許されることではないし、憤りさえ感じる。この落書きも、投げ捨てられたゴミも、その行為の報いかもしれない。けれどそれでも、この事件のきっかけを作ったのは他でもない自分たちだという事実が何ら変わることもない。
悪意や憎悪はときに目の前を暗くする。目の前の人間を恐ろしい化け物に仕立て上げ、自分が弱者だと思わされた瞬間、人は牙を剥く。そうなってしまえば、別の面などもう目には入らない。
「誰かいますか? 危険ですのでこの建物には入らないでください。危険ですので――」
そのとき白瀬の方に、鋭い一筋の光が当たる。目を凝らすと、ライトを持った保安官ロボットが立っていた。
「ヤバい。逃げるぞ!」
落書きは消し終え、すでにゴミはまとめた。これ以上ここに残る理由もないと、二人は慌てて宝石店から飛び出していく。
それでもなお足元に車輪をつけた保安官はこちらを追いかけてきた。
「ほら、走れって!」
足の遅い鵜飼の背中を押して鼓舞すると、彼は辛そうに息をしながら腕を大きく振る。
「走ってるだろ!」
「ゲームばっかりしているからだぞ、廃ゲーマー!」
「君とは身体の作りが違うんだ!」
二人はしばらく、夜の街をひた走った。
百貨店のショーウインドウに飾られた品物たちは煌めき、カーショップには誰もが羨む高級車が磨き上げられ並べられている。少し奥に行けば二十四時間営業のファミレスやカラオケ店が立ち並び、ネオンの光に交じり、騒音が外へと漏れている。高級そうな寿司屋から赤ら顔の人たちがぞろぞろと外に出てきて、危うくそれにぶつかりかけた。
夜の街が流れるように消えていく。そのときまた観月の言葉を思い出した。
――私ね、夜に街の明かりを見るととても幸せな気持ちになるの。
これからも世界は変わらないかもしれない。ひどく歪で嘆きに満ちた未来が待っているのかもしれない。そんな絶対的な定めを覆すことは、できないのかもしれない。
それでも変えることができるものが一つあるとするならば、それは自分自身だ。
*****
「じゃあ、バスケ部入るんだよな?」
「は?」
梅雨が明けたかと思うと、やってくるのは期末試験。学生業も楽じゃないよなとクラスで話し合っているときに、ふと白瀬の友人がそう言ってきた。
「だって、自警団辞めたんだろう。なら部活に入ればいいじゃん」
別の友人がリズミカルに指を横に振る。
「無理無理。白瀬は勝ち負けのあるスポーツが嫌いらしいから」
「馬鹿にするなよ。別に、バスケが嫌いなわけじゃない……」
もごもごと反論したが、周りの反応は冷たかった。援護者がいないと分かった白瀬は退くことにした。
「とにかく忙しいんだよ。色々と」
けれどクラスメイト達はにやにやと笑う。
「へえ、もしかして彼女か?」
「ほう。それは興味深い」
「どの子だよ? っていうか先に言えよ!」
やんややんやと煩く言い立てる彼らが嫌になり、白瀬は荷物をまとめて早々に教室から逃げ出すことにした。忙しい理由を正直に話してもよかったが、まだ時期尚早な気がしていた。そもそも現状で話したところで、誰も信じてはくれないように思えるのだ。
試しに鵜飼に話してはみたが彼はいつもと変わらぬ涼しい顔で「そう」とだけ言った。彼にとってこんなことは迷う必要のないことだし、そもそも大して難しいことじゃないと考えているのかもしれない。名門校の天才とは違うのだから、もう少し何か言ってくれてもいいのに。
「加納先生いらっしゃいますか?」
部活動で忙しいのか、放課後の職員室に人はまばらだった。しかし窓際にいた加納が間延びした返事をしながらひょいひょいとこちらに手招きをする。雛鳥のように白瀬はデスクの前まで行く。
「どうしたの、白瀬くん?」
「数学を……。今日分からないところがあって……」
思えば、授業で分からなかったことを教師に質問するなんて初めてかもしれない。どことなく気恥しさを覚えながら白瀬は自分の教科書とノートを開いた。加納は夏に降る雪を見たような顔でノートではなく白瀬の方を見ていた。
「変な物でも食べた?」
質問に来た生徒に向かって教師がそんな暴言を吐いてもいいのだろうか。白瀬は観念したように言う。
「春霞大に行きたいんです! 無理かもしれないけど。国家警備員になりたくて」
仮に運よく実技科目で推薦をもらえたとしても、国語と数学の学力試験はついてくる。国語はまだしも、白瀬の数学力は壊滅的だ。まして一般試験などで合格を狙うのは、現状ではおたまじゃくしが鯉になるくらいに難しい。不可能だ。
「なれるわよ!」
突然の大声に、職員室全体が驚いた。教職員たちの視線が一斉に加納と白瀬に注がれている。けれど加納はそんなことも気がつかず、燃えるような瞳で頷く。
「だってまだ一年生よ。確かに白瀬くんの数学の成績は悲惨だけど、これからちゃんっと勉強すれば絶対に合格できる。いや、この私が合格させてみせるわ!」
そういえば加納は熱血教師のドラマに憧れ、この仕事についていたと話していたなと思い出した。相談する相手を間違えたかもしれないと思ったが、崖っぷち生徒の大逆転合格ストーリーを描き始めている彼女を止めることはできそうにない。
「頑張ります」
諦めたように、けれどどこかそんな未来に期待するように白瀬は答える。その表情を見た加納は一瞬驚いた顔をして、それから笑顔でこう言った。
「白瀬くん、なんかキラキラしてるね」
(了)
バイオ・セキュリティ 北原小五 @AONeKO_09
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