【第四章 恵まれた人】


 日本橋近くにそびえたつ、ホテル・マリアンヌはよく見ると白瀬にも見覚えがある有名なホテルだった。もちろん泊ったことなどないが、どこかの大統領や海外のセレブが宿泊したとかで度々話題になるホテルだ。しかし今は、その荘厳な雰囲気の生け花や豪奢なシャンデリアに目移りしている場合ではなかった。

「だから、〈FOLKS〉がここを狙っている可能性があるんだ。最上階のパーティーの主催者と話をさせてくれ」

 ロビーの受付に白瀬と鵜飼の二人はいた。先ほどから鵜飼は、ホテルマンに事情を説明している。しかしホテル側は十分な警備に当たっておりますのでの一点張りで玉城に会わせてくれそうにはなかった。しかしそれでもしつこく訊ねると、従業員は驚くべきことを口にした。

「本日、最上階のフロアでパーティーは行われておりません」

 これは想定していたうちでも最悪な答えだった。もちろんこのホテル側の人間が宴の開催を知らないわけはない。主催者の玉城春彦が秘密裏にパーティーを催したいと言っているのだろう。それだけ他者の存在を警戒しているということは、最上階の警備もひと際、厳重と考えられる。たとえホテルの中に入れたとしても、招待状がなければ会場に入ることはできないだろう。ホテルマンに伝言を渡すこともできず、本人に会うこともできない。状況はひっ迫している。

 そのときふとホテルの明かりが一斉に消えた。金属探知機に並んでいた客の方から短い悲鳴が上がったが、五秒もしないうちに明かりが非常電源に切り替わり復旧した。

「今のは何だ?」

「こわーい」

 奥のカウンターから襟を正したホテルマン、恐らくは支配人と呼ばれる立場の男が出て来た。彼は申し訳ございませんと頭を下げてから朗らかに言う。

「どうやら付近で停電が起きているようです。しかしご安心ください。当ホテルは自家発電システムがございますので安全です」

 支配人の説明と明かりの戻ったロビーに人々は落ち着きを取り戻したが、白瀬は早口で囁いた。

「今のって〈FOLKS〉の仕業なんじゃ……?」

「ソラリスへの侵攻がもう始まってるのかもしれないな」

 苦い顔で鵜飼は答える。

「早くなんとかしないと!」

「落ち着け。まだホテルに侵入できたわけじゃない」

 今までの動きを見るに〈FOLKS〉はリストの順番通りに標的を始末することにこだわっている。ならば必ず、次の狙いはこのホテルだ。電気系統や他のシステムを狙うのは、あくまでもただの目くらましと考えるべきだろう。

 正面入り口にこれだけのが警備体制がひかれていることや、確実に屋上に行くためにも、実働部隊はなるだけ人目につかないルートを選ぶことになるはずだ。考えられるのは、地下。そしてこのホテルの地下ゲートを開けるには、バイオ・セキュリティを突破する必要がある。逆に言えばそこさえ守れば、彼らは屋上には到達できず、作戦は失敗する。

 もちろん自棄を起こした実働部隊が地下でガスを散布する可能性も捨てきれないが、このホテルのバイオ・セキュリティが〈FOLKS〉により襲われたと分かれば、警察もホテル周辺の確認に動くはずだ。まさか道化も、警察組織全てに息を吹きかけられたわけではあるまい。上層部の人間はともかく現場に出張っている警官までは思う通りに動かせないだろう。

だがどちらにせよ、このホテルのセキュリティに潜行する必要がある。

 問題はそこだ。

 そもそもソラリスは二重構造になっている。自由に行き来できる街(シティ)と、パスコード承認が必要な金庫。金庫というのは宝石店の中にあった空間や、都市インフラを守るあの巨大迷宮などを指す。あそこに侵入するには正式な認可か、それこそ侵入者のような金庫破りのための特殊な技術がいる。もちろん鵜飼は、認可されていない状態での金庫破りなど経験はなかった。ホテルのセキュリティに潜行したくとも、そこに入る術がないのでは手の出しようがない。今から自警団に事情を話して申請するのも時間がかかりすぎる。

「難しい顔してるけど……。何考えてるんだよ?」

 白瀬が顔を覗き込んでくるので、鵜飼はしかめっ面に更に皺を増やす。

「どうせ君に言ったって分からないだろ。専門的(テクニカル)なことだ」

「なら分かりやすく説明しろよ。二人寄れば……。あれ? 三人寄れば文殊の知恵だっけ?」

 金庫破りの技術なんて持ってない。ホテルに潜行するのは絶望的だ。

 いや、本当にそうか?

 ある閃きが、鵜飼の脳を駆け抜けた。金庫に入る方法は必ずしもその二つではない。もう一つある。三つ目の抜け道が。

「そうか。直接入ればいいのか……」

 このホテルを守っているセキュリティ・システム、それそのものから直接ソラリスに潜行することは可能だ。あまりにもネットや電子海を中心に考えていたので、物理的に距離を詰めるなどという方法を考えたことはなかった。金庫の中に入れないなら、金庫の中から現れてしまえばいい。

「今すぐレストランに行きたい!」

「はあ!?」

 白瀬が素っ頓狂な声を上げたが、それを聞いたホテルマンは困ったような笑顔を浮かべた。

「申し訳ございませんが、本日はご予約のみと――」

 鵜飼は受付のデバイスに自分のセルをかざす。たちまちそのデバイスに金縁の会員証が浮かびあがり、ハープの居心地のいい音色が受付に響いた。対応していたホテルマンは小刻みに震えだし、支配人はさっと顔を青ざめさせる。恥も外聞もありはしないと鵜飼は大きな声で言った。

「今すぐ!」


 *****


「本当に上手くいくのか、その作戦?」

 ろくなチェックもなくホテル内部に通されたことに白瀬は驚きながら廊下を走っていた。ここは宿泊専用のフロアらしく、廊下に人の気配はない。ややふかふかすぎる絨毯に足が絡まりそうになるが、調度品を壊さないようにとだけは気をつけていた。前を走る鵜飼は辺りをきょろきょろと窺っている。

「逆に聞くが、君は物事が上手くいくときにしか動かないのか?」

 馬鹿にするような口調だったが、不思議と腹は立たない。確かに一理あるというか、鵜飼は人を丸め込ませる天才なのかもしれない。

 探していたサーバー室を見つけ、硝子越しに中を伺う。大きなサーバーが数台と、監視カメラを見ている男が二人いた。まるまると太った男たちで、今にも警備服のボタンが弾け飛びそうだった。

「あのサーバーから直接潜行すれば、パスコードなしに金庫の中に接続できる」

「俺そんなのやったことないけど大丈夫かな。ソファもないし、慣れない場所での潜行は――」

「僕だって! ここにはロースペックなマシンしかない! お互いさまだ!」

「静かに! 静かにしろ!」

 監視員が硝子の外の騒音に気がついたのか振り向こうとするので、白瀬は鵜飼の頭を窓の外に無理やり引っ込めさせる。頭を押さえつけられながらも、鵜飼は人差し指を立てた。

「いいか。作戦はこうだ。君が先に中に入って、あの二人を捕縛する。終わったら僕が入る。後はいつもと同じ。君が潜って、僕が指示を出す」

「前半ほぼ全部俺じゃん」

「嫌なら他に案を出せ」

「…………」

 答えが出たなと口角を吊る鵜飼の顔には、さきほどまで医院長室に不法侵入するのを躊躇っていた少年の影はもうどこにもない。どうしてこうも短時間で人は変わってしまうものなのだろうかと疑問に思った。だが、恐らくそのきっかけは受付嬢のセルを掏った自分にある。あれで鵜飼の中の一線を超えさせてしまった。そう悟った白瀬は息を吐き、目を伏せる。

 警察に追われて、病院内に不法侵入、あげく今度は監視員を気絶させなくてはならない。今日一日だけで散々な目にあっている。

「分かったよ」

 ならばもう幾つか悪事を働いたところで変わらないような気がした。


 *****


 この街はいつも夜だ。だがそれは危険と不安をはらんだような冷たさを感じさせるものであって、今日のような混沌とした大騒ぎはそう見られるものではない。

 街ではあちらこちらで銃弾が飛び交い、〈FOLKS〉と警備員たちのゲリラ戦が発生している。外にいる〈FOLKS〉には街も金庫も関係なく、好き勝手に暴れまわって攪乱しろと指示を出している。捕まえたところで本当の狙いを知る侵入者はいない。まるで戦場のような光景が街には広がっていた。いつもは嫌になるほど澄んでいる黒い夜空には異常事態を告げる文面がデザイン性の放棄した様子で描かれている。

『中央区の通信電波を妨害に成功』

『港区に向かう地下トンネルを封鎖した』

 道化の男の元に次々と、成果の報告が届き始める。手筈は整い、作戦は順調に進んでいた。

「上手くいってますね」

 横にいた仲間の一人が、そういって安堵の表情を浮かべた。

「あとはあのホテルだけだ」

 別の仲間が顎で向かいのビルを指す。今、道化たちがいるビルの屋上の丁度正面がホテル・マリアンヌのセキュリティシステムが保管されている場所だ。巨大な六十階建の高層ビルには約二千以上の情報が警備されている。外の騒ぎにもかかわらず、警備の状態は比較的落ち着いている。このようなイレギュラーにも簡単に取り乱すような経験の浅い警備員は配置していないということだろう。

「それにしても誰も地下を見張ってなかったのは、なんでっすかね?」

 勘の良い誰かがふとそう疑問を口にした。まさか警察がこちらを手伝っているからだと、素直に答えることはできない。道化は適当にはぐらかして答えたが、いちいち嘘を吐くのもだんだんと面倒になってきていた。彼の質問が皮切りとなったのか、別の仲間が訊ねてくる。

「リーダー。俺もひとつ聞きたいんだが」

「どうぞ。卯田くん」

「どうしてこのホテルにこだわるんだ? しかも最上階限定って、いっきにハードモードだろ」

 確かに、地下に入れたのだからその時点でガスを散布してもいい。けれどそれでは、政府の契約に違反してしまう。あくまでも狙いは、東部精霊病院開設五十周年記念パーティーの参加者のみだ。

「…………」

 しかしやはりそれも、馬鹿正直に彼らに答えるわけにはいかなかった。

「なんか、面倒になってきちゃったなあ」

「は?」

 道化のすぐ隣にいた男が首を曲げようとした瞬間、ばさりと地面に倒れた。米神から真っ赤な細い文字が流れてきて、たちまちに地面を血液で濡らしていく。驚いた他の仲間が、思わず悲鳴を上げた。狙撃先を見ると、別のビルの屋上に男が立っているのが見える。

「あれは……?」

 怯え始める仲間に向かって、道化は柵を背にしてにこにこと微笑む。

「そういえば、僕の武器を見せたことがなかったね」

 狙撃手の男は次々と仲間を撃ち殺し始めた。一つの弾丸で必ず一人以上を殺す。華麗な銃裁きだった。一人また一人と、突然力を失い人形のように倒れていく。そのさまを冷めた顔で見ながら道化は誰ともなく続けた。

「己の中で最も強いと信じたものが武器となる。だからこそ自己複製型は、自己への肯定心を持ってより強固に変化していく。そうだろう。だってあくまでも複製されるのは自分の心だ」

 最後の一人が倒れ、屋上はしんと静まり返る。本当はこの十六人でホテルの警備員達とやりあうつもりだったのだが、一人になってしまった。

「まあ、いっか」

 言い訳だらけで疲れていたところだ。それに、たった千人くらいなら大した問題じゃない。

「なあ、僕?」

 狙撃手はライフルを下げ、白い仮面がこちらを向いた。他のビルの屋上にも沸き上がるようにしてカーキのコートを着た白い面の男がぶくぶくと音を立てて現れていく。

 それは道化と寸分たがわぬ男だった。表情は隠れて見えないが、笑っているようにも思える。

「じゃあ、正面からお邪魔しようか」

 賛成だというように他のビルにいた彼らは片手を軽く上げた。


 *****


 監視員二人を気絶させ、拘束させた白瀬は、もう既に潜行を終えていた。

 現れたのは白い壁と白い床が輝く、円形の部屋の中だった。一瞬、光の眩しさに目を閉じてから辺りを見回す。部屋の中には石化したかのような真っ白の木々が生え、中央の天井は吹き抜けになっている。小窓の外には夜の明かりが見えて、ちょうどホテル・マリアンヌと同じ三十階ほどの高さがあることが分かる。円の端から端へとエスカレーターがちぐはぐに繋がれ、螺旋が続いていた。

「なんだよこれ……」

 美しいが、それゆえに不気味だ。人の気配はなく、歩くたびに白い砂塵が舞う。

『ハッキングにより区画全体がウィルス感染している。警備員の応答はない。少し遅かったようだな』

 階段を上ると、踏みしめた箇所からボロボロとクッキーのように階段が崩れていく。

「じゃあ、もうデータも?」

『いや、屋上にまだ確認できる。ちょうど侵入者が持ち出そうとしているんだ』

「なら急がないと!」

最上階に到達すると、目の前には屋上へと続いている石化した大きな扉がある。せっかく侵入した金庫から出ることになるが情報が既に街へ出てしまったのなら追いかけて奪い返すだけだ。白瀬は勢い良く扉を開ける。

墨を流したような暗い夜空に、真っ赤な鉄塔が組み上げられている。シンメトリーにそびえる小さな塔はまるで崖の上の灯台のように夜の街を白い光で照らしていた。しかし今の空には至る所にエラー表示が出て、警備会社ロゴの入ったヘリコプターが飛び回り、あちらこちらの建物が炎上していた。

「やあ、来ると思ってたよ」

 道化の仮面をつけた、コート姿の男が小さな塔の上から降りてきた。彼はわざと見えるように、虹色に輝くダイヤモンドをそっとコートのポケットに入れなおし微笑む。

「日本の警備庁は優秀だけど、如何せん数が少なすぎる。平和だった分、ゲリラ戦への備えもない」

 遠くを飛んでいるヘリコプターがロケットランチャーか何かに撃ち落されたのか、火を噴きながら高層ビルに衝突する。あらゆる物が破壊され、蹂躙され、燃え上がる。現実世界で何が起きているのかは想像するしかないが、日常生活に大きな支障をきたすことはもちろん、命の危機に瀕している人もいるかもしれない。

 喉元が焼けるように熱くなり、刀の柄を持った指先が怒りで震える。それに呼応するように刀身にゆらりと黒い影がまとわりつき、それが大きな狼に姿を変えた。

「データをこちらへ返せ……!」

 狼が牙を剥き、低い唸り声をあげ咆哮、男の顔面を目掛けて跳びかかった。しかし次の瞬間、ツバキの身体は遠く離れたビルから放たれた弾丸に掴り、地面に叩きつけられる。

「特別なのが自分だけだと思わない方が良い。僕の武器も自己複製型だ……」

 男がパチンと指を鳴らすと、それに呼応するようにどこからともなく道化たちが現れる。彼らは自動小銃や剣を武器にしてこちらに襲いかかってきた。被弾したツバキもすぐに応戦したが、その数は増えるばかりだった。

「どうなってるんだ!?」

 自己複製型はめずらしい能力だ。さらにこの男はその複製を一人二人、下手をすると二桁まで出現を可能にしていた。一人一人が的確な攻撃と防御をしていて隙が無い。このままでは数に圧されて敗北するのが目に見えている。

 斬りかかってきた剣を避け、降り注ぐ鉛玉を鵜飼のシールドが弾き返す。そうかと思えば、拳が腹部に向かって飛んでくるので、それを交わして背負い投げで組み伏せる。致命傷を負うような個所をナイフで刺せば消えることは分かったが、数の暴力の前では無意味だった。

『屋上から出ろ! 囲まれてる!』

「できないから、苦戦してるんだろう!」

 振り下ろされた剣を交わし、回し蹴りの要領で勢いをつけ首を斬る。人形の綿を斬ったような感触の後、〈複製〉が床に倒れた。

「さあさあ。ホッとしている間はないよ。これのいいところはね、無限に増殖するところだ」

「無限……!?」

 向かいのビルの屋上から黒い靄が湧いてくる。黒くて細い糸のようなものが伸びてきたかと思うと、それは幾何学状に編み上げられ重なり絡まって人型を形成していく。まるで蜘蛛の巣作りを早回しで見ているような光景だった。

『キリがない』

「どうするんだよ!?」

『僕が時間を稼ぐ。あと二分待て』

 襲い掛かる道化たちを一掃するが、また増殖。〈複製〉が再び完全な姿を手に入れる前に、白瀬は本物の道化の前に躍り出る。その隙をつかれることなどは想定済みというように男はポケットに手を入れたまま軽やかに剣戟を避けていく。

「さて、あと二分で何をするのかな?」

 にたりと笑うと、男の蹴りが顎めがけて飛んでくる。白瀬はそれを交わしたが視線が男から外れた瞬間、腹部にダブルブローを打ち込まれる。軽薄そうな態度のわりに、その拳は重く鋭い。ぐらりと傾きかけた姿勢を戻しながら、白瀬の前にツバキが立ち塞がり男の顔を睨みつけた。ピエロの仮面は嫌味なほど口角が釣り上がっている。

「君は弱い。なぜ弱いか考えたことはあるか?」

 男は白瀬の背後に迫る黒い〈複製〉を手で制した。

「仕方がないからハンデを上げよう。君は僕の懐に大事なデータがあるから全力が出せないのかもしれない。だから、これをこうする」

 そういうと道化は奪い取ったダイヤモンドを塔の上へと投げ捨てた。螺旋を描く赤い階段の中腹に落ちた宝石が月の光を浴びてきらりと七色に輝く。

「なっ……!?」

 驚いている白瀬をおいて、道化は満足げに頷いた。

 何を考えているのかわからない。相手は白瀬よりも数段も上。こちらにハンデをつけて戦う意味もない。理解ができない。だが、勝利する確率が上がるのならば願ってもいないチャンスだ。

「かかって来いよ。エリートくん」

 止まっていた時間が動き出すように、〈複製〉の放った弾丸がこちらに目掛け放たれる。その軌道を読み交わしながら、白瀬は床を蹴り上げ方向転換し、もう一度、道化に斬りかかった。対する道化の獲物はナイフ一本。それも刃渡り十五センチ程度の短刀だ。

 銀色の刀身と、錆びたナイフがぶつかり合う。逆手でナイフを持っている男は執拗に肩を狙い、白瀬は防御を強いられていた。

『距離を取れ!』

「はあ!?」

 極度の集中を繰り返しているせいか、視界が霞む。思考する暇もなく攻撃を交わすことで、自身の攻撃が単調になっているのが分かる。押されている。それもかつてないほどに。この状態で道化の傍から離れるなんて自殺行為だ。

 しかしそのとき〈複製〉の数十人をまとめて相手をしていたツバキが、突然こちらに突進し、突き飛ばされるようにして白瀬は横に転がった。ツバキはそのまま鬼気とした表情のまま道化の腕を噛みつくと、そのタイミングを待っていたかのように地面が大きく揺れ始める。

「ツバキ!」

 道化の短刀がツバキの背中を深々と突き刺した。他の〈複製〉たちも執拗に狼を狙い撃つ。このままではツバキが消えてしまうと、白瀬は立ち上がろうとしたが鵜飼が制した。

『動くな。もう遅い!』

 もう一度地面がぐらりと震えた。たちまちに地面に黒い文字や数字が生き物のように蠢きだし、ツバキと男をその文字たちが壁のように囲み始める。次々とデザインが書き換えられ、やがて屋上には白く輝く半透明のドームが出来上がっていた。

「へえ」

 道化は感嘆しているようだが、向き合うツバキは既に流血に塗れ四肢の運びもおぼつかない。牙が欠け、今や立っているだけでも辛そうだ。

「何をしたんだ……?」

『説明は後。閉じ込められるのはせいぜい五分だ。その間にデータを!』

「了解!」


 *****


 ソロダイバーは総じて優秀だ。しかしそれ故に、自分を過信しすぎるきらいがある。

 一時的に道化のメイン・マシンへのハッキングに成功した鵜飼は、少しでもその時間を伸ばそうと苦心していた。だが、電子は精神には敵わない。道化が本気を出せば、こんな壁を簡単に突破できてしまうかもしれないと危惧していたが、彼はこちらに拍手を送ってきた。

『素晴らしいじゃないか。鵜飼くん。海外なら飛び級で大学くらい入れちゃいそうだ』

 そういうと画面の中の男は一歩踏み出した。しかしそれに反応した白い膜がバチバチと電気のようなものを流し、男の動きを留まらせる。この手の封じ込めは誰に対してでも使えるわけじゃない。ある程度、対象者の下調べが必要となる。少なくともその正しい氏名をプログラムを組み込まなければ動かない。そしてそのことは、たぶん男も分かっている。

「八神聡(さとし)、それがお前の名前だな」

 振り下ろされたナイフが、ツバキの喉笛に突き刺さる。子犬のような高い悲鳴を上げ、狼は地面に突っ伏した。

『どうして僕の名前を知っているのか、聞いてみてもいいかな?』

道化師は仮面をゆっくりと外した。 少しぼさっとした黒い髪に、日に焼けた肌。切れ長でどこか涼し気な目元は、よく知る弟にどこか似ていた。興信所のリストで見た顔写真からは幾分か穏やかさや気品がすり減っているようだったが、確かにその顔は八神聡と同じものだ。

「蓮見悠平が盗んだのがリストだけだと思ったのなら大間違いだ」

〈FOLKS〉が早海馨の顔を盗撮したように、蓮見も八神聡の顔を盗撮していた。恐らく暴行を受ける前。強迫声明を出したあの部屋にいる八神聡の顔が、しっかりと映っていた。そして彼はリストの人名と共にその顔写真を添付していた。ようやく解析が終わり、ついさきほど分かった事実だが、この男の気をそらすにはちょうどいい話だろう。

『あらら。だからリストを暗号化してたのか。リストそのものではなく、写真が見つからないように……。ふーん。やるねえ』

 そうはいうものの、八神聡に慌てた様子も悔しがる素振りもない。

 八神聡。八神家の次男であり、八神団長の兄。現在春霞の大学院にいるという報告だったが、それは虚偽だったのだろう。

「お前の目的はおおよそ理解した」

『理解? へえ。じゃあ、お聞きしようかな。ミスター・ホームズ。いったい僕の目的が何なのか……』

 鵜飼は少し緊張した様子で息を吸い、言葉を紡ぐ。

「お前は日本人でありながら自身を八洲共和国出身者と偽り〈FOLKS〉を動かしている。そして政府組織と共謀し、この騒動を起こした。だが、その目的は人種差別的な人間を罰することでも、無関心を貫く大衆を脅かすことでもないはずだ。それは何より、蓮見悠平が盗み出したあのリストのターゲットと矛盾している。つまり、〈FOLKS〉の理念とも、恐らく政府の目的とも全く違う私刑の基準がある」

『なるほど、それで?』

「僕はその繋がりを見つけるためにリストを見ていたが、それがそもそも過ちだった。僕が注視すべきだったのは、出席者ではなく、その出席者たちの子供たちだったんだ」

 通信を聞いている白瀬が、階段をのぼりながら口を挟む。

『どういう意味だよ?』

「四種類の塩基配列。僕はもっと早くから疑問を抱いておくべきだった。八神聡を含むリストの子供たちは全員、東部聖霊病院で生まれている。あそこで開かれているのは開設記念パーティーなんかじゃない。お披露目会。いや、品評会というべきか? あの病院では国際法で禁止されている受精卵への遺伝子操作が行われていたんだろう?」

 八神聡は無表情のまま、ドームの外に目をやっていた。それは無言の肯定と同じ意味だった。

「デザイナー・チャイルド……!」

 優秀な人間のDNAを使い、完璧な子供を生み出すための遺伝子操作。これを行うことはもちろん日本の法律だけではなく国際的にも重大な違反だ。第一、デザインした子供を産み育てることは重大な倫理に反していると、世間では考えられている。

『八神聡の本当の目的は〈FOLKS〉や政府を利用し、研究に関わった医師や夫妻を殺害することにあった。なぜこんな遠大で遠回りな計画を立てたのかは理解できないが。……間違っているか?』

 訊ねられた道化はやはり笑っていた。しかしもう足元のツバキは擦り切れて消えかけている。

「悪くないよ。半分正解だ。僕は姿かたちこそあの人たちに似ているけれどその中身は、会ったこともない人間の遺伝子で形成されている。君たちもよく知っているだろう。潜行者の多くは二親等以内に適性を持った人間がいる。両親は僕を優秀な警備員にするために、そういう遺伝子をデザインした」

 八神聡の指先がドームの薄い膜に触れる。街の外の青や赤の明かりが彼の瞳に反射していた。

「〈FOLKS〉を隠れ蓑に、僕はこの研究の出資者やそれに加担した研究者、夫妻を殺害していった。けれどまあ、気分が晴れるかと言われると、そうでもない」

 触れた先から膜が崩壊し、幾重にも折り重なっていたベールがはがれている。どうやら時間切れらしい。

「その回答に敬意をもって、全力で相手をしてあげよう」

 次の瞬間、道化は既に画面の中から消えていた。


 *****


 湧きあがる〈複製〉を払いのけながら、白瀬はようやく真っ赤な階段の上に転がっている七色の宝石を手に取った。あとはこれをあの暴力の塊のような男から遠ざければいい。

「――と、形勢逆転されちゃったか」

 背後からの気配に白瀬は俊敏に反応した。鵜飼の時間稼ぎは終わったのか、今度は素顔を晒した道化が目の前に降り立った。

 彼の詳細については、既に聞いた通りだった。その生まれを憐れむ気持ちがないわけではなかったが、悪を憎む気持ちが消えるわけではない。

 この男のせいで、宝石店での悲劇は起きた。

 確かに早海薫は地獄に落ちるべき悪辣な人間だったかもしれない。けれどその人となりで、人の生死が判断されていいわけがない。命はそんなにも軽いものではないはずだ。

「君の可愛いワンちゃん。殺しちゃった」

 刀の柄に触れたときからツバキの喪失は分かっていた。白瀬が自己複製できるのは一度の潜行で一度きり。刀身の形はあれど、刃からはもう狼の猛々しい気配は消えていた。頼みの切り札はもう使えない。けれど鵜飼がつくったチャンスをこんなにあっさり無下にはできない。

 白瀬は刀を抜き対峙する。道化は手持無沙汰そうにナイフをくるくると手のうちで回してみせた。

「ねえ、どうして君の武器が、言うことを聞かないか考えたことはあるかい?」

 白瀬はその言葉を無視し攻撃を仕掛けたが、なおも男は続ける。

「不思議な気持ちだよ。君と僕は今、正反対の場所にいる。それなのに僕は君に対して奇妙なシンパシーを感じているんだ。褒められる度に窮屈な思いがするだろう。僕も同じだ。ずっとこの力を、自分のものではないような気がしていた。だが、それはいけない。恐れを生む」

「黙れ!」

 しかし心の中は、確かに男の言葉を肯定していた。

 身の内に巣食う己が、ツバキのことを恐れている。溢れ出るような才能に、自分の覚悟だけが追いつかない。人の命を背負って戦う覚悟とその資格が、今の自分にあるのだろうか。

 ぽつりと一筋の雨が頬を伝う。降り出した雨は、たちまちに勢いを増し白瀬の身体を冷やしていく。

 ――怖い。怖くてたまらない。

 また誰かを救えなかったら。自分の過失で命を散らしてしまったら。しかし何よりも、恐れて踏み出すのを躊躇う自分が情けなく、惨めで仕方がなかった。もうあの夜のような気持ちを二度と味わいたくない。けれどその気持ちが増していくほど、心は委縮していく。

「違わないさ……!」

 隙をつかれた白瀬は胸ぐらを掴まれ、そのまま床へ叩きつけられる。そのまま奪われた自らの刀で杭を打たれるように、腹部に刀身が突き刺さった。身を割くような激しい痛みが全身を覆い、白瀬は悲鳴を上げる。歪んだ視界の中、瞳孔の開いた八神聡の顔が揺れていた。

「僕と君はよく似ている! 憧れに対して、強い羨望を抱いている。僕らは他人が羨む才能があったけれど、胸を熱く焦がすものは与えられなかった。これではまるで他人のために生きているようだと、僕はずっと感じていたよ」

 今にも意識が飛びそうだった。けれどそれでも白瀬は腕を動かし男の首を締めようとする。

 しかし震えるばかりの腕を上に向けるだけで精いっぱいで、グローブをつけた指先が何かに触れようとして動くが空を掴むばかりだった。

『白瀬!』

 頭にぼおっと靄がかかり、次第に苦しさが消えていく。

このままではいけない。このままでは――。

 もう嫌なんだ。あんな惨めな思いをするのは。誰かの悲しむ、顔を見るのは。

 しかしその意志に反するように白瀬の指先から徐々に力が消えていった。


 *****


 ハッと目を覚ますと、そこは見知らぬ書庫だった。

 背の高い白い棚に赤褐色や深緑色の分厚い本が並んでいて、それがどこまでも続いている。本棚の列はまるで鏡合わせの向こうを見ているようにどこまでも続き、うず高く積まれた本の先にあるだろう天井は遥か彼方で見えない。

「ここは……」

 立ち上がった白瀬は辺りを見回す。

夢を見ているのだろうか。八神聡にやられ、引き揚げられる間際の微かな隙間の夢に落ちてきてしまったのかもしれない。しかしそれにしては奇妙なことに、この空間からは死の気配を感じない。

「めずらしいことがあるものだ」

突然聞こえてきた声に白瀬はハッと振り向く。そして言葉を失った。そこにいたのは自分だった。自分と瓜二つの顔をしている男。なぜだか学生服を身に着けている。

「夢……?」

 さきほどの道化の姿を見て想起されたのだろうか。しかし彼はこちらを見て笑った。

「夢ではないし、私は君ではないよ。ここではここを訪れたモノが最も心を許す姿となっているんだ。人間の場合、大抵は自分自身。よほど自己嫌悪が激しい人じゃない限りはね」

 夢ではないと言われても、はいそうですかと素直に信じられるようなものではない。しかし彼はこちらの気などと目もせず、書庫の中を歩きだす。仕方なしに白瀬もその後を続いた。

「夢じゃないって言うんなら、ここはどこだ?」

「自分自身を見てみなよ。まだ戦闘服を身に着けているということは、ここはまだソラリスの中だ。ただし、純粋な精神の柱でのみ構築された最深層、特定区域、私の巣穴……。まあ呼び方は何でもいいが」

 しばらく行くと、暖炉がある少し開けた場所に出る。絨毯の上にソファと机が置かれていた。彼は適当に選んだ数冊を躊躇いなく火にくべ、その勢いを増やした。

「あんたは誰なんだ?」

「君は私が誰かに見えるか?」

 自分と同じ顔に質問を返されるというのはなかなか気分が良いものじゃない。

「見えないから聞いてるんだ」

「怒るなよ。私は人でもない。AIでもシステムでもプログラムでもない。いうなればこの空間そのもの。広い海を手で掬いあげた一部分。最先端の研究者たちは私を意思と呼んでいる」

「意思……?」

 やはり自分は夢を見ているのではないか。白瀬は頬をつねってみたが、目を覚ます気配はない。するとそのとき物陰から黒々とした小さな何かが現れた。もふもふとした毛艶のいい大型犬だった。彼はその犬をこちらに呼んだ。

「おいで、ツバキ」

 ツバキと呼ばれたシベリアンハスキーは、嬉しそうに目を輝かせて彼にすり寄る。彼は微笑んだが、それは下手な彫刻のようにやや作り物らしく見えた。

「あんたが、本当にソラリスの一部だって言うんなら、聞いてみたいことがある」

 その犬はこちらを見向きもせずに彼に撫でられ尾を振っている。

「君の才能のことかな?」

「…………」

 白瀬の顔が曇るので、彼は笑った。

「その力は君が求めたものだ。まさか君は自分が選ばれたとでも思っているのか? 自意識過剰が過ぎるな。幼少から君は運動神経に恵まれ、野球だって得意だった。初めて潜行したときから同世代より少しばかりは勘が良かったし、だからこそ周囲は君に過度な期待をかけた」

 思い当たることが、ないわけでもなかった。

 五歳で適性試験をパスしてから夜間学校に通い始めた。自分自身は同世代と比べさほど出来が良いとは思わなかったが、メンターは白瀬を上級生のクラスにやった。この子には才能があると言って。両親や友人たちもそれに同調し、白瀬は周りがそういうのならばとその称賛を疑いなく受け入れていた。

「その期待が君に勘違いを起こさせた。まあ子供だし、仕方のないことだけど。思い込みはときに大きな力を生むものだ。けれど君はそれに奢らず鍛錬を重ねた。その積み重ねが今の君」

「じゃあ、俺には何の才能もないっていうのか!?」

 胸に湧きあがってくるのは怒りでも哀しみでもなく当惑だった。

「人間が何をもって人の才能を決めるのか私には判断しかねるが、そうだろう。私からすれば君はたまたま幸運だっただけの凡百の潜行者にすぎない」

 その言葉に安堵すればいいのか、どう捉えるべきなのか白瀬はすぐに決められなかった。けれど本当にそうなら、今まで感じていた重くのしかかるような重圧はいったい何だったのだろうか。

 混乱している白瀬をおいて、なおもソラリスの意思は続ける。

「ただ、君は少し変わっている。その力を一心に信じ振るえばいいのに迷いがある。この子が君に答えないのはそのせいだ」

 彼に撫でられているツバキは今にでも猫のようにゴロゴロと鳴きだしそうだ。そこには一切のいつもらしい姿はない。

 ツバキがここにいるということに疑問はない。なぜなら彼もまた白瀬自身であり、切っても切れない一生をかけて付き合わなければならない自分自身という相棒なのだから。

「強さを何と意味づけるのか、それは人による。観月絵里が死神の鎌を使うのは、幼い頃の彼女が無意識に死という概念を恐れ、強いものだと感じてていたからだ。そして君は、ふふふ、この犬が怖かったのだろう。案外、小心者らしい」

「子供のころの話だ」

 むすっとした顔で白瀬は返すが、彼は訂正してくれなかった。

「だが八神聡は違うぞ。あの男は、恐れを強さとしてはいない。強さの象徴をして己を選んだ。なんたる憎悪。だが美しい。彼は恐らく自分の分身がいくら引きちぎられようと、かゆみ一つすら覚えはしない」

 こんな突飛な場所に飛ばされて、すっかり頭から離れていたが、白瀬には八神聡の標的を守るという仕事がまだ残っている。いまいちど白瀬は真剣に彼と向き合った。

「助けて欲しい」

「それは無理だ。私はこの海そのものであり、どちらかに肩入れするつもりはない」

 間髪入れぬ物言いに、白瀬は少し怯む。彼の口調は本人と似遣わず断固としたものであり、説得できそうになかった。けれど彼は目を細め、どこか楽しげに笑った。

「だが、ここに意識が流れ着いたのも何かの縁だ。これを才能というのかは分からないが、君はこの海に気に入られているらしい」

 暖炉の上に無造作に置かれた一冊の本を取り、彼はこちらにそれを寄こす。タイトルのない古びた本だった。

「これは?」

「真実。この書庫にある本は全てそういうものだ。長年開かれず、朽ち果てそうな情報の墓場」

 ツバキが顔を上げ、こちらを見つめる。その青い目は真っ直ぐにこちらを捉えていた。確信を得た顔で、彼はなおも断言する。

「お前は、お前自身に隠していることがあるな?」

 ぱさりと開かれた白いページが眩しいフラッシュを焚いたように輝き、白瀬は思わず目を瞑った。


 *****


 黒い闇の中にいる。ただ一本続いた暗く狭い地下道を一定間隔で続く蛍光灯の光を頼りに白瀬は歩いている。頭の中が靄がかかったように判然とせず、ここがどこなのか考えるほどの思考力さえ奪われていた。

 ただときどき道の横を見ると、壁穴の向こうから光が差す。大きく開いた穴からはその奥の様子が見えた。

 中にいたのは幼い頃の自分だった。

 季節は秋なのか黄色い銀杏の木が並んで見える。まだ小学生くらいの年の白瀬が薄暗い校舎の裏で、ひっそりと泣いていた。黄色い景色の中で浮かびあがる緑色の手提げ鞄。あれは夜間学校に行くための専用の鞄だった。あのころはいつも学校帰りに夜間の訓練に出向いていた。当時の白瀬は突然湧きあがった周囲の期待に驚き、喜び、そして恐怖した。もしも期待に応えられなかったらと、子供らしい不安を抱えていた。

 次の隙間には中学生の自分がいる。

 彼は泣きもしなければ、笑いもせず、ただ淡々とどこか冷めた顔をして、誇らしげに母が居間に飾った成績優良の賞状を見ていた。期待への不安も、自分の進路も、あの頃の彼はまともに取り合っていなかった。どうでもいいと、自棄にも似た気持ちだったのかもしれない。本当にやりたいことなどと言うものがあるわけでもないのだからと、自分自身を押さえつけていた。

 そして次の隙間。

 雨の降っている銀座。献花台の前で立ち尽くす自分。

 ――もう辞めてしまおう。

 こんな気持ちになるくらいなら。こんな風にまた誰かが傷ついてしまうのなら。

 ――辞めたっていいじゃないか。

 鵜飼には迷惑を掛けたくない。自警団にも。もしも辞めたいと言ったら、みんなどう思うだろう。幻滅されるだろうか。けれどそれでもいい。みっともないと後ろ指をさされてもいい。

 そう思ったときだった。

「逃げるのか?」

 降りしきる雨の向こうで、何かが揺れた。黒くて大きなお伽話の怪物のような狼が雨に濡れている。

 ツバキは、白瀬の恐怖から生まれた。向かいの家で飼われていた、ただの犬だ。けれど恐怖は形を変え、影のように白瀬の人生に付きまとい、そしてそれに対抗するようにツバキは力を増していった。

「俺は……」

 才能はないと言ったのはソラリス自身だ。そんなものはただの押しつけられた幻想であり、白瀬はただの潜行者だった。特別でないというのなら、これ以上この世界に身を置く理由もないはずだ。

「お前はここで逃げようとした。人の命の重圧に耐えきれず、その道を捨てようとした」

 他でもないツバキからの言葉に、白瀬は上手く働いてなかった自分の頭が急激に沸騰するのを感じた。

「逃げて何が悪いんだ!」

 だがツバキはたじろきもせず、こちらを睨みつけていた。

「それはお前の真実ではない。なぜ悩み、恐れるのか。既に答えは示されている。お前自身が逃げたくはないと考えているからだ」

 逃げ出したいと思いながら、ずっとここに留まったのはなぜだ。

 夢がある人が羨ましいと感じながら、ずっと続けていたのはなぜだ。

 向こう側の彼が、言う通りだった。

 恐怖が生まれるのは、それだけ真摯であったからだ。

 ――潜行者の適性があってよかった。

 背後から聞こえた声に、白瀬は振り向く。反対側の壁の切れ目にいたのは資料室にいる自分と観月の姿だった。彼女は柔らかく微笑んでいる。

 ――私は警備員の仕事を誇りに思っているの。

 あのとき感じた気持ちが何だったのか、今ならわかる。あれは羨望ではなかった。

共感だ。

 「俺は……」

 巡るめく、変わり続ける景色の向こうが嵐のようにうねり、また別の風景を映し出す。

 適性を得たばかりの、小学生低学年の自分が見える。しかしその隣にツバキの姿はない。彼は笑顔で両親とまだ小さい妹に高らかに宣言をする。

「大きくなったら国家警備員になる!」

 これから先を何も知らない、恐れのない瞳がきらきらと輝いている。

 本当はとっくの昔に覚悟はできていた。

 白瀬は自分の拳を痛くなるほど握りしめた。ツバキはもう風景の中ではなく、この道の先にいる。

 あの夜の事件を、忘れることはできない。この先もその傷が癒えることはないだろう。

 暗い闇から現れた狼は、雨に濡れてひどく小さく弱く見える。その頭を両腕で抱きしめながら今度こそ白瀬はそっと目を開いた。

「ずっと独りにしてごめん……」

 これは恐怖から生まれた心。そしてそれを克服しようとした存在。ずっと目をそらし続けた夢と憧れ。冷たいはずなのに、なぜか暖かで脈打つ心臓の音が聞こえてきそうだった。

「今度は俺も戦うよ」

 今なら分かる。ずっと彼は、身の内の恐怖から俺を守ってくれていたのだ。


 *****


 目を覚まし指先に力を籠める。その願いに応えるように、人差し指がぴくりと動いた。

『白瀬!』

「あら、戻ってきちゃったか」

 長い時間を過ごしたような気がしたが、ここでは一瞬にも満たない時間しか動いていないようだった。だがあの場所から戻ってこれたからと言って形勢逆転とはいかない。腹部に突き刺さった刀がありありと痛みを示し、八神聡の手は白瀬の首を絞めようとしている。

「離せ……!」

 体をねじり、相手の肩を両手で掴むと、道化の身体がその反動で揺らいだ。その隙に白瀬は自分の腹に突き刺さった刃を一気に抜いた。血痕を模した赤い文字が噴き出すが、痛みなど感じない。

 立ち上がった白瀬は再び八神聡と対峙する。刀の柄に触れた瞬間、確かにあの気配があった。

 夢ではなかったという自信を得て、白瀬は叫んだ。

「ツバキ!」

 その呼声に答えるように、轟くような大きな遠吠えが空に響く。黒々とした巨大な狼が、タワーの上に現れた。

『どうして……』

 鵜飼の驚いた声が聞こえてくるが、説明している暇はないし言ったところでとても信じてはくれないだろう。

 別のビルの屋上からの狙撃がツバキを狙う。けれど狼は電光石火の如くその弾丸避けて、こちらへと階段を降りてくる。上をツバキに、下を白瀬に挟まれた道化は、それでもなお余裕の表情を崩さなかった。

「まだやる気かい? 君の敗北は目に見えているのに?」

 背後から現れる〈複製〉を払いのけ、白瀬は刃先を本物の八神聡へと向ける。

「あんたの言う通りだ」

 ナイフと日本刀がぶつかり合い、高い音を響かせる。

「俺は今でも怖い」

 互いの刃物が弾き飛ばされ、白瀬は道化の顎を狙い拳を振るったが、逆にこちらがカウンターを食らってしまう。一瞬の衝撃に理解が追いつかなかったが、体は無意識に動き、一発返していた。綺麗に入った右ストレートに、今度は道化が呻き声をあげる。

 いつもそうだ。

 悩んで苦しんで、重責に耐えかねて、けれどそれを手放すこともできない。

 真摯であればこそ、影のように恐れはついて回る。

 ――人を守ることが、僕らの仕事だ。

 そういった鵜飼の姿を見たとき、悟るべきだった。

必要なのは恐怖に勝つことでも、克服することでもない。

 恐怖と共に歩み続ける覚悟こそが必要なのだ。

 行く手を阻んでいた〈複製〉を一掃したツバキが、八神聡の背後に現れた。体中が傷だらけで、弾に当たった跡がいくつもある。黒い毛がすっかり濁った赤色に染まっているにもかかわらず、爛々と燃えるような瞳だけはまだ失われていなかった。

ツバキは躊躇なく八神聡めがけて正面から跳びかかる。彼は瞬時に反応したが、無駄だった。

ツバキは体ごと八神聡にぶつかり、勢いのまま階段の柵を壊し闇の中へと落下していく。その衝撃で八神聡も柵の向こうへと投げ出された。

「ツバキ!?」

 慌てて身を乗り出し、下を見たがもう既にツバキは遥か遠いビルの地面に倒れていた。しかしその隣に八神聡の姿はない。

「危ないなあ……!」

 見ると、螺旋階段の下、柵に手をやりながら〈複製〉たち数人が紐のように連なり八神聡の身体を支えている。白瀬がその光景に目を取られていると、また狙撃手の攻撃がこちらを狙い始める。

「どうする!?」

 銃撃を交わしながら階段を降り、白瀬は鵜飼にそう訊ねた。しかし鵜飼の答えはなんとも緊張感のないものだった。

『もうどうもしなくてもいい』

「は? どういう――」

 その次の言葉を発する前に、勝負は決していた。

突如として白瀬たちのいるタワーが眩い光で照らされたかと思うと、警備庁のマークがついた四機のヘリが周囲を取り囲んでいた。間髪入れずにヘリに積まれているガドリング砲が飛び出したかと思うと出鱈目に道化の身体をめがけて連射される。凄まじい音の重なりに白瀬は思わず両手で耳を覆った。圧倒的な火力と素早さで、真偽のどちらもの身体が砕かれ、暗い道路へと落ちていく。落下していく群れの中にはしっかりと〈CRITICAL〉の表示が浮かびあがっていた。

『間に合ったな』

 鵜飼のホッとした声が耳に届く。突然の幕切れに驚きつつ白瀬は訊ねる。

「どうして国家警備員が……?」

 警備庁は八神聡の手にかかっていたはずだ。いくらそれが上層部との契約であり、現場の警備員とは無関係とはいえ、ここまで迅速に動くとは思えない。

『バギーを追いかけてきたんだ。追いかけさせられたと言った方が正確だがな』

 上を見ると、夜空を赤いドラゴンが旋回しているが見える。

「じゃあ、もしかして……」

 恐らく鵜飼は、〈FOLKS〉のハッカーが用意したドラゴンを破壊するのではなく、ハッキングしてやり、意図的にこちらへと誘導してきたのだろう。事実だけを見れば、鵜飼はハッキングで国家警備員を挑発していたということになる。

「バレたら大問題だぞ」

 優等生をとんでもない悪の道に誘ってしまったと、内心で白瀬は慌てた。だが当の本人はまったく気にしていなさそうだった。

『緊急事態だったんだ』

 バギーは既に遠くへと逃げ、ひっそりと消えた。この天変地異が起きているような今のソラリスならば、詳しく調べられることも無いだろうし、鵜飼が証拠を残すような雑な仕事をするとも思えない。完全犯罪のできあがりだ。

『バギーを追いかけていた国家警備員は偶然にも孤軍奮闘する自警団員を発見、君が一人でセキュリティを守っていることや、ビル内での異変を察知し降下。それらの確認を取った後に、侵入者と思われる男を攻撃した。だから当然、彼らはあの男が何者なのかは知らない』

「撃った人はきっとあとで表彰されるな」

『手柄が取られて残念だったか?』

「いいや。勝ち負けなんてどうでもいいよ」

 ようやく肩の荷が下りたと、白瀬はほっと息を吐く。

 八神聡に勝つために戦っていたわけではない。この手のひらの小さな宝石が守れれば、やり方なんて幾ら泥臭くみっともなくとも構わない。

 そのとき、一人の警備員がこちらに向かって走ってきた。

「白瀬!」

「八神先輩!?」

 自警団員の服を着た八神透の登場に、白瀬は言葉を失った。

「よくやったな。大丈夫か?」

 彼は心の底からこちらを労っているようで、先ほど戦っていた男の身元を知りもしないのは明白だった。そして八神透は今、屋上に着陸した四機のヘリの中から出てきた。警備庁との合同警備を行っている途中に〈FOLKS〉の襲撃を受けたのだろう。

『八神透はXじゃなかったのか……?』

 どういうことだ?

 愕然とした白瀬は八神透に返事すらせず、その場に固まった。

彼が内通者Xだとすれば、何もかもが説明がつくはずだった。だが兄弟で計画を実行し、ホテルに来た両親とデザイナー・チャイルド計画に携わった人間たちもろとも抹殺しようとしたという見立ては過ちだった。もしもそれが正しいのなら、計画の失敗が確定した今、そんな呑気な顔でここに立っていられるはずがない。

「嘘だ……」

上がっていったカードの中、残っていたのは最悪な選択肢だった。

――貴方達にその内通者を炙り出してほしいの。

 そう話を持ちかけてきた人物がいた。しかし彼女は、その意志をしばらくしてひっくり返す。ずっと八神透や団員を疑いたくなかったからだと考えていたが、もしもそうではないとしたら。

 八神透からの疑いが晴れたと確信したから、手を引くことにしたのだとしたら?

 ――バギーは私と白瀬くんが仕留めるわ。

 本来バギーの退治は三から五人がセオリーで、失策だと観月が叱られたのも無理もない話だ。けれどそれが単純なミスではなく、意図したものだとしたら。彼女が自分に八神透と会わせようとしていたのだとしたら?

 考えまいとしていた可能性。それだけはありえないとずっと思っていた回答があった。

 『内通者は観月絵里だ』

彼女は八神透の目を欺かせるために、二人を利用して内通者を探させた。自分も秘密裏にXを探していたという事実で内通者の候補から外させようと。そこまで全部考えていたのだ。

 そしてまた観月の父、観月重治警備庁官房長官は二十年前に自警団の創設に大きく関わった功労者だ。そんな家庭に生まれた一人娘は二親等以内に適性が出なかったにもかかわらず、運よく潜行の適性を有して生まれてきた。

「そんなはずがない」

 喉から出てきた言葉は、力なく震えていた。鵜飼はそれに取り合うこともせず、八神透に訊ねる。

『今日、観月先輩はどこに?』

 苦虫を噛み潰したような白瀬の顔を見ながら、八神透はおっかなびっくりに答えた。

「観月なら、今日は親に連れられてパーティーに行くとかって……」

 そんな馬鹿なという気持ちが、どんどんと隅へと追いやられていく。状況は間違いなく観月の黒を示していた。彼女は今日、このホテルにいる。間違いなく、いるのは最上階だ。

「引き揚げてくれ」

『もうやってる』

 衣服の上に離脱前の文字列が乗り、体が黒い文字で埋め尽くされていく。現状についていけないでいる八神透にろくな説明ができないのがもどかしいが、一言だけ伝えなければならない。

「これをお願いします」

 八神の手に託した小さなダイヤモンドは傷一つなく輝いている。彼の返事を聞く前に、既に白瀬は消えていた。


 *****


『――作戦は失敗したよ』

 電話の主は〈FOLKS〉の幹部からだった。

「そう」

 化粧室でセルを片手に、観月は壁に背を預けていた。彼女の顔には氷のような無表情が張りつき、その目は人形のようにまるで生気がない。

『リーダーは落ちた。すぐにこのアジトにもサツが来るだろう。ソラリスでの騒ぎも沈静に向かってるし、ガスを運んでた奴らとも連絡がつかねえ。散布された様子はないから、たぶん捕まったんだろうな』

 そういう調子の彼は、落胆してはいるが妙に気落ちしすぎていないように聞こえる。

「貴方は逃げなくていいの?」

『俺は八神と捕まる。もしも失敗したら、元からそうするつもりだった』

「前からそう腹をくくっていたのね」

『お前ほどじゃないさ』

 もしも計画通りに事が進んでいれば、このフロアは今頃、銃声と有毒ガスで満ち満ちていた。政府から依頼されたターゲットと、こちらの標的を殺し、自らもまた滅びる。そういう自滅的な作戦が行われているはずだった。しかし今は現に、ここにまで会場の楽し気な音楽が聞こえてくる始末だ。

「やっぱり思ったようにはいかないか……」

 死ぬつもりだった。生まれる前から未来が確定されていた自分が、その支配者を打ち倒し死ぬ。最高のエンディングを迎えられるはずだったのに。

『残念だったな』

「でも平気よ。私、用意周到なタイプだから」

 観月は地下から上がってきた実働部隊の手伝いをするはずだった。内部にいることで侵入してきた彼らのアシストがしやすいからだ。武器やガスはそのときに彼らから受け渡される予定だったが、念には念を入れていた。

 手洗い台の前に置かれた白い革製のクラッチバッグ。この中身がチェックされないことは、いつもの父の思考からして分かっていた。開いたファスナーから見えるのは、小型の自動拳銃。アジトからこっそりと盗み出したものだが、咎められることはもう二度とない。

「さよなら。元気でね」

 そういって通話を切り、観月はバックを掴んで化粧室を後にした。

 心臓がバクバクと音を立ているのが分かる。廊下を進み、会場に戻る。銃の練習はまだ初めて二か月だ。アジトの付近で習ったが、的が近ければ悪くはない精度だった。もう直に、警官がこの会場にやってくるだろう。ならば機会はここを逃せばもうない。

「何かあったのかしら?」

 ホテルの玄関にパトカーが集まっているのが、会場の硝子越しに見下ろせる。それに一人、また一人と気がついた。

「火事じゃないよなあ?」

「怖いわねぇ」

 ここが狙われていることなんて、誰も気づいていなかった。後ろ暗いことをしているとは誰も思ってはいないのだろう。ここにいる全員が、国際法で禁止されている受精卵のデザインを施し、望むままの生物を産み落とした大罪人であるというのにも関わらず。

 ――許せない。

 身悶えしのたうち回るような怒りが、血液と共に全身を巡っているのがわかる。そのとき、父の姿を捉えた。会場にあるバーカウンターで数人の男性たちと楽しく談笑をしている。その隣には綺麗な母親も一緒だった。

 見てくればかりの家族。若さを求め女子大生と不倫をしている父親。美しさを求め整形を繰り返す母親。優秀な遺伝子を求めて、私を必要としなかった二人。

 ――だけど、もう私は親を喜ばせるためだけの道化じゃない。

 観月はバックの中に右手を入れ、拳銃を取り出そうとした。しかし中身を取り出すより先に、一人の手が観月の手首を強く掴んだ。

 「……どうして?」

 後ろにいたのは、肩で息を切らしている白瀬慶介だった。

 「やめた方がいい」

 その語気はあまりにも弱く、なぜか彼はまるで自分に銃口を向けられたかのように切なげな顔をしていた。


 *****


 サーバー室で目覚めた白瀬は、鵜飼と共に会場へと向かって走った。既にホテル・マリアンヌが〈FOLKS〉の襲撃予定地であったことは明らかになり、警察が玄関口に集まり始めている。会場の入り口にはホテル側が手配したのだろう警備員達がいたが、彼らは全員、警官が来たという無線の連絡に気を取られていて、その隙をつくことは簡単だった。

「ちょっと君たち!?」

 後ろからそう声が聞こえたが、白瀬はもう会場への扉を開けていた。中にいる参加者たちは、壁一面のガラス窓から外の様子を恐々とだが好奇の入り混じった眼で見つめるか、全く気にせず会食を続けているかのどちらかで、突然の侵入者を気に留める者はいなかった。

「観月は?」

 背後から追いかけきた鵜飼がそう訊ねるが、会場は広く、奥にも別の部屋がある。辺りを見回し、見つけた。紺色のカクテル・ドレスを身に着け、バックに手を差し入れている。憎々しげな激情にかられた視線の先にいたのは観月重治だった。

「やめた方がいい」

 白瀬はそう言いながら、観月の腕を掴んだ。けれど観月はまっすぐに父親を睨みつけている。

「もう遅いわ」

 バックの中を透けて見ることはできないが、この手の先にあるのは恐らく拳銃だろう。下手に武力で制圧しようとすれば、他の招待客たちが危険だ。

 そのときパーティー会場に警察官が押し入ってきた。

「みなさん、落ち着いてここから避難してください!」

 ここに拳銃があることなど知りもせず、参加者たちはざわざわと声を上げ、少し怯えながらも部屋を出ていこうとする。観月の視線の先にいた両親も、その言葉に驚いてから、会場を見渡した。娘を探そうとしているのだろう。

 そして目が合った。生々しい殺意を向け、自分からそう遠くはないところに立っている娘を。

「ダメだ!」

 咄嗟に白瀬が腕を引っ張ったことで、銃口は部屋の左側を埋め尽くすガラスの方へと向けられた。発砲音が数度響き、硝子が弾け飛ぶ。会場は大きな悲鳴と混乱に包み込まれ、観月はすかさず白瀬の手を自分の腕から引き剥がした。

「動かないで!」

「やめろ!」

 警官たちは銃を抜き、観月に向ける。しかし観月はいつのまにか片腕を鵜飼の首に巻きつけ、彼の後頭部に銃口を突きつけ自らの盾とした。

「ゆっくりと下がって、会場から出なさい!」

 凍えるような顔で観月は警官たちにそう命じた。これがただの脅しではないと察したのだろう。警察官とパーティーの参加者たちはそのまま扉の向こうへとゆっくりと下がっていく。

「こんなの無意味だ」

 吐き捨てるように言うのは、人質の鵜飼だった。両手を上げ冷静そうな顔をしてはいるが、その額には汗が滲んで見える。

「意味なんてもうどうでもいい」

観月の表情は引き攣り、聡明な黒い瞳は見る影もなく怒りに染め上げられていた。目の前の彼女が本当にあの観月なのだろうかと、白瀬はどこかこれを現実と受け止められずにいた。

「貴方もよ。下がって!」

 観月と鵜飼はじりじりと後退し、割れたガラスの手前辺りに移動する。白瀬はそこから五メートルは離れた場所に、一人立っていた。反対側には銃を構えた警察官が控えているが、あそこまで下がるつもりはなかった。彼女と話ができるとすれば、今この場では自分をおいて他にいない。

「どうしてですか……。こんなこともうやめてください!」

 それを聞いた観月は微笑んだ。怒りながらその両の目から涙が零れ落ちていた。それでも彼女の纏う猛々しい空気はより一層凄味を増す。

「どうしてだと思う?」

 そんなことが分かるわけがないだろうと、彼女がこちらを嘲笑う。

「私、デザイナー・チャイルドなの。知ってる? 遺伝子操作で生まれた子供。ただ優秀な遺伝子を持っているというだけで過熱した期待を負わされて生きてきた。どれだけ努力をしても、その成果は全てこの遺伝子に奪われた。私が優秀なのは、優秀な遺伝子を持っているから。この苦痛は貴方達にはわからないわ……」

 また一歩下がり、観月はどんどんぱっくりと大口を開いた窓際へと近づいていく。

「私が生きる理由も、生かされている理由も潜行者になるため。そう、だったのに……。私の両親は、私に潜行者を諦めて縁談を受けろって言ってきたのよ。笑っちゃうでしょう。どういう意味か、分かる?」

「……………」

 観月は笑っていた。怒りながら、悲しみながら、この世界に深い絶望と恨みを抱きながら、涙を流し微笑んでいた。そのちぐはぐな感情はまるで子供の癇癪のようで、それ故に白瀬は何も言えなかった。

「お前に一流になる見込みはないから、そのDNAを生かせってこと。散々子供に期待して煽っておいて、思った以上の成功じゃないってだけで、私から何もかもを奪った! 私は私に! この塩基配列に苦しめられて辱められた人生だった! それなのに今の私の価値は……。もうこの遺伝子にしかない……」

 その苦しみが何たるものか、白瀬にはわからない。

 図らずとも認められ続けてきた白瀬には、認められなかった者の気持ちなど、推し量ることすら難しい。

 分かるはずがない。

 成功を与えられた者にそれを狂おしいほど渇望しながらも与えられなかった者の人生など。

「……だから、そんな血はここで絶やすわ」

「ダメだ!」

 パンッという発砲音の後、観月は強く鵜飼の背を強く蹴った。腕を撃たれたらしい鵜飼が前のめりになって床に倒れる。その力に反発するように観月の体は窓の外へと吸い込まれていった。

 夜の海へと落下していく彼女が、やけにゆっくりと見えた。ドレスの裾が波を立て、艶のある髪が空との境が分からないほど溶け込んでいる。白い顔だけがぼんやりと宙に浮かびあがり、頬を伝う涙が粒になって舞っている。

 しかしその身体は寸前のところでこちらに繋ぎ止められた。鵜飼が撃たれた腕で窓のサッシを掴み、もう片方の手で観月の手首を握っていた。

「離して!」

 宙ぶらりんになっている観月は子供のように泣きながら、腕を掴んでいる鵜飼の指を引き剥がそうとする。追いついた白瀬は腹ばいになり観月の体を掴もうとするが、手が届かない。

「俺の手を取って!」

 鵜飼の二の腕には血が滲み、喋ることもできないのか苦しそうに目をぎゅっと瞑っていた。もう長くは支えていられないだろう。しかし彼が手を離せば、観月はこのまま地面へ叩きつけられてしまう。

「離して! もう終わったの! 生きていても仕方ないの!」

 白瀬はそれでも、更に手を伸ばした。もう少しで鵜飼の掴んでいる方の腕に届く。けれどその為にはやはり、観月がこちらに空いている方の片手を伸ばす必要があった。

「手を取って! 人の命はそんな軽いものじゃないはずだ!」

 自分の命を大事にしろとか、自殺しちゃいけないとか、そんな話をしてるんじゃないと、白瀬は続けた。

 これは命の話だ。自分のものでも、まして他人のものでもない。生命はもっとずっと尊いものだ。

「明かりの数だけ守るべきものがあるんだって、言ってたじゃないですか!?」

「あんなの嘘よ! 出まかせだわ!」

「そんなわけない!」

 あの言葉にどれだけ救われたか、あの言葉を聞いたとき自分が何を思ったか。答えを得たと感じたのだ。自分のあるべき理想が、警備員が何たるものなのかを。あの言葉には確かに人の心を揺さぶるだけの魂があったはずだ。

 嘘じゃない。絶対に。たとえ嘘つきのピエロが発した言葉だとしても、あの部屋でのあの言葉だけは、絶対に嘘ではない。

 守るべき命に、善悪はない。守られるべき命もまた、正義も悪も存在しないはずだ。明かりの数だけ人がいるなら、明かりの数だけ人を守る。それが警備員の仕事だ。

「手を取れ!」

 その言葉に応じるように、ゆっくりと白い手先が白瀬の方へと伸びていく。

 彼女の腕を引っ張り上げると、包囲を解いた警察官たちがやってくる。すぐさま観月は、警官に取り囲まれその腕に手錠がかけられた。撃たれた鵜飼は苦しそうにしていたが意識はあり、フロアで待機していた救急隊員に囲まれた。

「観月先輩! 待って!」

 怪我はないかと訊ねてきた人を押しのけて、白瀬は観月の前に立ち塞がろうとした。当然、警官たちは白瀬が近づいてくるのを止めようとして両肩を掴まれる。だが彼女はちらりとこちらを見た。

 破れたドレスに、乱れた髪。何もかもを諦め、どこか達観したような瞳が微笑むようにそっと細められる。

「私、君のこと嫌いだったの」

 唐突な言葉に白瀬は何も言い返すことができなかった。

「才能があるのに将来に悩んでるって、言ってたでしょう? 私から言わせたら君は初めから悩んでなんてなかった。だって背中を押してほしいって顔をしてたもの。気に食わなかったし、もっと不幸な目にあえばいいと思った。だから貴方に内通者探しを任せたの。本当の事を知ったとき、あなたがどんな顔するか。面白そうだと思ったから」

「…………」

 本当は何も分かっていなかったのかもしれない。そんな気持ちが白瀬の胸に去来していた。

 冷たそうな顔をしているけれど、優しくて世話好きな先輩。しかしそれは本当の彼女ではなかった。いや、本来人間には本当の面や嘘つきの面など分かたれないものなのかもしれない。

 優しい彼女も、銃を持った彼女も、目の前いる悲しそうに笑う彼女も、それは全て本物の観月絵里だ。

「でも今度は意地悪せずにちゃんと言ってあげる。……白瀬くんは恵まれた人よ。だから警備員になりなさい」

 彼女は穏やかに微笑む。どうしようもない虚無感を振り払うよう白瀬は頷いた。

「……はい」

 そのまま観月は警官たちに連れて行かれ、鵜飼も担架で一階に運ばれていった。会場に残ったのは割れた硝子と人々が逃げ惑った後のガランとした空間、幾人かの警官と鑑識用のロボットたちだけだった。

 割れた硝子の向こう側には、弱弱しい月の明かりをかき消すように、色鮮やかで目に刺さるほどの街の明かりが光っていた。


 *****


 観月の自殺未遂とほぼ同時刻、八神聡が旧京浜工業地帯の廃工場内で発見、部下数名と共に逮捕された。これをもってして〈FOLKS〉のホテル襲撃事件は未遂となって解決した。

 白瀬はホテルからそのまま警察庁へと連れて行かれ、何が起きたか全てを話したが、周囲の大人はそれを荒唐無稽な出鱈目だと捉えているように思えた。もしくはそうでなければならないと、知っているかのような対応だった。

 「君は勇敢だ」という人もいれば「どうしてそんな危険なことをしたんだ」と怒鳴る人もいた。警察や警備庁が信用できなかったと説明したが、そんな話を信じる人はいなかった。

 ただ残った事実は白瀬と鵜飼が観月絵里の動向を何らかの形で事前に知り会場に来て彼女を止めに入ったということ、それだけだった。パトカーとのカーチェイスも、こっそり東部精霊病院に忍び込んだことも、サーバー室の警備員を殴ってしまったことも、全て証拠があるはずなのに、それら全て霞のように消えてしまった。

 けれど白瀬は呆けた気持ちでただそれを受け入れていた。もしも相手が鵜飼ならば義憤にかられて訴え出すかもしれなかったが、白瀬はただ怒りよりも妙な納得を抱いていた。道化の言ったとおりだ。そして恐らくこの先も政府側の〈FOLKS〉の協力者は捕まらないだろうという諦めも感じていた。

 白瀬は深夜の警察庁を後にして、そのまま鵜飼が運ばれたすぐ近くの総合病院へと向かった。中に入れてもらえるか不安だったが、警察の人が手を回してくれたおかげで処置室に案内してもらうことができた。少し広い部屋でベッドが左右に六つ置かれている。その中に、ベッドに座り看護師さんに頭に包帯を巻かれている鵜飼がいた。

「大丈夫か?」

 不安そうな顔で駆け寄った白瀬に、鵜飼はいつも通りの仏頂面で返事をする。

「弾が一発、二の腕を掠って六針縫った。頭の包帯は倒れたときにガラス片で額を切ったから。見た目は重傷らしく見えるが、大したことはない」

 そうはいうが、痛々しいその姿に白瀬は思わず顔を歪める。

「あんな無茶するからだ。でも、よく咄嗟に腕を掴めたな」

「飛び降りようとしていたことくらいすぐ分かったさ。彼女が僕を撃ったとしても、足か肩か腕。足ではなくてよかった」

 頼もしいのか危なっかしいのか分からない発言に白瀬は苦笑する。

「あとでユーセフさんにたっぷり怒られるな」

「僕の骨はエーゲ海に撒いてくれ」

 冗談を言った後、少し改まったように鵜飼がこちらを見る。

「それで、調書はどうだった?」

 訊ねられた白瀬は力なく肩をすくめる。

「まあ……。ダメだったよ。今夜、偶然、観月先輩の計画を知ってそれを止めたってことになってる。あとは何も。矛盾だらけだけど、それで押し通すんだろうな」

「〈FOLKS〉と政府の繋りを示すようなものは全て消すつもりなんだろう。僕らと八神聡についても同様にな。悔しいが、真実は闇の中というわけだ」

 淡々と語る鵜飼と違って、白瀬は気持ちを切り替えられそうになかった。心を苛むのはやはり観月の言葉だった。

「落ち込むな」

 少し戸惑った風に鵜飼は言った。人を励ましたりすることにたぶん慣れていないのだろう。

「お前、落ち込んでる人間に向かって落ち込むなって言うのかよ」

 どんだけ慰めるのが下手なんだと、白瀬は口を尖らせる。しかし鵜飼はそれでも続けた。

「観月の言葉は嘘だ。ただ優秀な君を妬んで傷つけようとしていただけだ」

「あれは嘘なんかじゃなかった」

「いいや。嘘だ。突きつけられた悪意をいちいち真に受ける必要はない。観月は君の才能に嫉妬していた」

「もうその話はいいよ」

 白瀬は拗ねた子供のように鵜飼から顔をそむける。彼が優しさで言ってくれていることくらいは分かっている。けれどそれでも観月が悪く言われるのは嫌だったし、そんな彼女の深い絶望も知らず愚かだった自分が恨めしい。

 どんな顔か見てみたかったと、彼女は言っていた。きっと今の自分の顔が観月の望む表情だろう。自らの稚拙さと愚鈍さを思い知った、泥でできた人形のような顔だ。

「外を見てみろ」

 気落ちする白瀬を見かねたように、鵜飼はリモコンを押し窓際のカーテンを開けた。ちょうど東の空から太陽の光が差し込み始めていた。いつのまにか日の出の時刻になっていたようだ。

「もうじきに夜が明ける」

 当たり前のような朝日に、当たり前のように空を飛びまわる鳩。薄い赤に染まっていく家の屋根やビルの壁に命が吹き込まれ、目を覚ましていくようだった。

 夜中に起きた出来事など知りもせず、のんびりとした朝の始まり。守るべき平穏な日々の営みが目の前に広がっていた。

 西へと追いやられていく夜はまるで舞台の幕に追われていく演者たちのようにも見えた。

 しらんだ空から柔らかい光の束のような太陽が姿を表す。本来美しいはずのその景色はまた、どうしようもないほどにここが現実だと突きつけてくる。

夜の幕が下り、日の光が昇る。道化師たちの舞台はこうして終わりを告げた。

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