【第三章 オン・ステージ】
警備員の仕事に危険はつきものだ。昨夜のように情報を抜き取られれば報復を企むよからぬ輩が現実世界で襲い掛かってくるかもしれない。
白瀬慶介があのピエロ面に奪われたデータは名前や学校、セルのID、自宅の住所、家族構成や血液型まで様々だ。その日のうちに電子情報には保護が掛けられたが、完全に不安が消えたわけではない。念のため保安官ロボが自宅や学校を見回るらしい。
白瀬本人にとってはこういう被害も慣れたものだが、やはり両親はいい顔をしなかった。同じ警備員である父はまだしも、母はご立腹のようだ。ただのチンピラならばまだしも、今回は恐らく〈FOLKS〉という大きな組織が絡んでいる。心配でたまらないのだろう。
「……はい。……はい。かしこまりました、奥様。この私が責任と我が命をおかけして慶介様をお守りいたします」
かちゃんと電話が切れる音がして白瀬は、申し訳なさそうに電話手を見る。
「ごめんね、ユーセフさん」
「いえいえお気になさらず。ご心配されるのも当然のことです」
執事服を着た四十代半ばくらいのアラブ系の男性がにこりと微笑んだ。
金曜の夜、学校帰りの白瀬は鵜飼の自宅を訪れていた。赤坂に立つマンションの高層階。ワンフロア全体が彼の家らしい。また彼の両親は海外で暮らしていてここは高校の入学祝で貰ったのだというから理解が追いつかない。
そんな異国で一人暮らしを心配してついてきたのが、このユーセフだ。しなやかなな身のこなしの褐色肌で、どこかミステリアスな佇まいと優雅な立ち振る舞い。映画やドラマでしか見たことのない執事という理想をそっくり再現しているような人物だった。
「ユーセフ、コーヒーを」
「はい、ただいま」
家主である鵜飼恭一は、三十畳はありそうな広いリビングに置かれた革張りのオフホワイトのソファに横たわってる。その目の先にはじっと壁面いっぱいに広がるスクリーンがあった。L字型ソファの端に座っている白瀬もその画面の方を向き真面目な顔をするので、キッチンからコーヒーのおかわりを持ってきたユーセフが不思議そうに首を傾げる。
「おや、今夜はゲームをなさらないので?」
「俺はもうこいつと二度とゲームはしません」
「僕はわりと楽しかったけど」
つい先週、鵜飼がテレビゲームをしたことがないというので、この家に持ってきて遊んだのだが、それはもう酷かった。ブレイブ・ワールドというFPSゲームで、はじめのうちこそ経験者の白瀬が連勝したが彼の負けず嫌いに火をつけてしまい、勝つまで戦わされた。それだけならばまだしも全世界対戦に目をつけた鵜飼が次々とタッグプレイを始め、結局夜が開けるまで付き合わされた。学んだことは一つ。オタクにコントローラーを持たせるな、以上だ。
「これは例の内通者探しだよ」
「ああ、なるほど。画面はそのリストですか」
スクリーンに映っているのは、ここ一年の自警団の失敗した任務とその警備対象。わざと手を抜いているようなミスはしていないが、小さなミスが続いていた。作為的とも取れるし気の緩みとも取れる。団員の雰囲気も誤った方向にエリート意識が高くなっている人ばかりで、白瀬にはもはや全員が怪しく見えてきていた。
「それと恭一様。こちら、頼まれていたコピーです」
「ありがとう」
いまどき珍しい紙の書類の束が机に置かれる。ざっと二百枚はありそうだった。
「なんだよ、これ?」
「団員の家庭環境や両親の職業を興信所に調べさせたんだ。何か手がかりでも見つかればと思ってな。データは取扱が面倒だし、ざっと読んでから紙にプリントアウトしてあとは消去しておいた」
そう言いながら鵜飼は立ち上がり、紙を壁に貼っつけていく。1番目に貼られたのは八神のデータだった。
「げ、やっぱり八神先輩のことも調べたのか?」
宝石店の事件では八神が泥をかぶってくれたおかげで、白瀬たちはほとんどお咎めなく助けられた。そのことに恩があるだろうと言いたげに鵜飼を見るが、彼は嫌になるほど冷静だった。
「僕は一番怪しいと思う」
「どうして?」
「動機がある。まず家庭環境を見ろ。彼の親族に潜行者はいない」
八神の父親は新進気鋭のIT企業社長で、母親はメガバンクの経営者一族の娘。二人の兄がいて、長男はカリフォルニア工科大学を卒業後に父親の会社に縁故採用、次男は春霞大の院生で現在青年海外協力隊として活動しているらしい。そして三男である八神透は、春霞附属の三年生で、春から同大学の潜行科に指定校での推薦入学が決まっている。傍から見れば完璧なエリート一家だが、鵜飼の言う通り血縁者の中に潜行者はいなかった。
「確かに身内にはいないみたいだけど、たまにあっても不思議じゃないだろ」
潜行者の適性は、ソラリスを構築した人工知能による判定で決定されるため、その条件は未だによく分かっていない。けれど遺伝的条件があるのは明白で、両親のどちらかが潜行者であれば八割近い確率で子供は適性を得る。しかし逆に言えば、血縁者に適性がなくとも、突然適性のある子供が生まれることもある。
「君は適性があると分かったとき、ご両親は喜んでくれたか?」
「それはまあ。食い扶持には困らないからな。好きな仕事についていいって言われてるけど、内心は喜んでたんじゃないか?」
運よく潜行者に選ばれたしても武器の能力によりふるい落とされる子供もかなりの数いるため、万年人員不足の潜行業界では潜行者は引く手数多だ。もっとも普通の警備員になるよりデータを盗んだ方が稼げることで悪に落ちる人が多いのも事実だが。
「だが調べによると両親は彼が潜行者になることに反対しているらしい」
「嘘!? なんで!?」
「さあ。理由なんて想像したくもないが、とにかく反対されている。だから八神は功績をあげて両親に潜行者になることを認めて欲しかったらしい。一年生で団員に選ばれたとき、先輩たちによくこう漏らしていたそうだ。俺が頑張っていれば、親にもいつかこの夢を応援してもらえると思うから、と。もっと大きな功績を得るために悪行に手を染めたとも考えられる」
「でも理由だけで決めつけられないだろ」
白瀬が口を尖らせると、案外素直に鵜飼が折れた。
「確かにそうだな。あくまでもこれは僕の想像だ。それに名誉や地位ではなく純粋に生命や金銭で脅されている団員もいるかもしれない」
「でも、本当に内通者がいて、それが明るみに出たら自警団は解散だよな?」
「当然、そうなってしかるべしだろう。なんだ? 君もこの組織に未練が?」
「まさか」
もともと無理やり勧誘されて入ったクラブだ。雰囲気もギスギスとしていて、お世辞にも健全な組織とは言い難い。しかし真実が炙り出され、自警団が解散されれば観月は辛いだろう。もちろん彼女が自分の地位や名誉よりも自身の矜持を優先させたというのは分かるが、この先のことを考えると気が重い。
「恭一様、大変なことが……!」
いつも静かなユーセフがめずらしく慌てた様子で再びリビングに入ってくる。
「どうした?」
「ニュースをご覧ください」
チャンネルをつけるとどの局でも同じ内容を放送していた。早口の男性キャスターが東京駅で事件があったことを伝えている。
『番組の途中ですが、緊急速報です。つい先ほど東京駅の地下街で突然、シャッターが降りたはじめ、あらかじめ捨てられていた段ボール箱から霧状の気体のようなものが噴出し、機動隊や爆弾処理班が駆けつける騒ぎとなりました。噴出された気体は水蒸気で無害なものでしたが、閉じ込められたパニックで数名の負傷者が出ています』
シャッターが降りてしまったのは、セキュリティシステムへのハッキングが原因らしい。ハッカーと段ボール箱を置いた若者二人は逮捕されたが、その二人は自らを〈FOLKS〉と名乗っていた。そしてそれを裏付けるように、〈FOLKS〉の公式サイトが一本の動画を配信した。
どこかの廃工場の中らしいその部屋は、ボロボロの絨毯と壊れたブラインド・ウィンドウが見える。置かれた椅子に背もたれを前にしてピエロの仮面をつけた男が座った。
「この男……!」
ソラリスで出会ったあのピエロ面と全く同じマスクをつけている。コートの下の軽武装こそはないが、あのカーキ色の服といいぼさっとした黒髪。仮面の下はにやにやと笑っているに違いないという軽薄そうな雰囲気も、ソラリスで会った男にそっくりだ。
『こんにちは。こんばんはかな? 僕が〈FOLKS〉のリーダーです。さきほど東京駅で起こしたテロ未遂は僕が指示を出しやらせました。地下街の管理者は今後、旧式のシステムではなくバイオ・セキュリティによる警備をお勧めしますよ。さて今回このような騒ぎを起こしたのは他でもなく、僕らの本気を証明するためです』
男はそういいながら愉快そうに足を組む。
『我々は移民を徹底排除しようとする過激な思想団体〈青い仮面〉と戦ってきました。しかしこれが過ちでした。世間の皆さまに彼らのみならず我々も危険な武装組織だと錯覚させてしまう原因を作ってしまったのです。線路をまたいでの座り込みも、高速道路への侵入も、勧誘という体の器物損壊も、それらすべては〈青い仮面〉の仕業でしたが、それと戦う我々もまた同じような暗く淀んだイメージを植えつけられた……。そして今、みなさん一般人は、暴力的で複雑な人の尊厳にかかわる問題から目を覆い隠そうとしている。私達には関係ないと、まるで公園の鳩のように地面に落ちているパン屑に夢中だ。いえいえ、馬鹿にしているわけではありませんよ。人とはそう言うものです。当事者になってみなければ、分からない。 ですから、今度はみなさんにも舞台に上がってもらうことにしました 』
ポケットから缶コーヒーを取り出し、彼は仮面を少しずらしてそれを口にする。
『明日、五月二十一日は全国的に行楽日和らしいです。ですから明日、無差別テロを実行します。今度は水蒸気ではなく、神経ガスを使って。場所は地下とは限りませんよ。公園も商業施設も、ピットもコンビニも危険です。けれど断言しましょう。明日、貴方は必ず外に出る。自分には関係ないとパン屑に誘われてね。 それでは、僕はこれで』
そういうと男は画面の手前に手を伸ばす。録画停止ボタンを押したのだろう。
鵜飼が腕を組んで、画面を睨みつける。ユーセフは少し青い顔でうつむいた。
「私はどうにもこの手の騒ぎが苦手でして」
「得意な人なんていないさ。明日は休んでいいぞ」
「滅そうもございません。命に代えてもお守りいたしますとも。慶介様もくれぐれもお気をつけて」
「ユーセフさんもね」
それにしてもまさか〈FOLKS〉がこんな策に出るとは思わなかった。今は目先の恐怖よりも驚愕の方が大きいというのが正直な感想だ。けれどなぜか、男の言葉に違和感がある。真実味がない、と言えばいいのだろうか。どの言葉にもいわゆる凄味を感じない。まるで台本を読んでいるかのような淡々とした調子だ。逆にそれが恐怖を煽るとでも考えているのだろうか。
「だが、思ったとおりになったな。やはり〈FOLKS〉は一般市民に狙いをつけた。警備庁もこうなることくらい分かっていただろうに。後手に回ってしまったな」
「……これからどうなるんだろう」
不安げに白瀬が呟いたが、鵜飼は黙ったまま何も返事をしなかった。
*****
同日夜、二十時過ぎ。観月絵里は自宅のリビングで家族と共に夕食を囲んでいた。
母が作る料理は日にもよるが、サーモンのパイ包み焼きや鴨肉のコンフィ、ミネストローネスープからオマール海老の白ワイン蒸しなど料理人も顔負けの凝ったものが出てくる。その味はとても美味しいが、同時に観月は母の濁りきったこの家庭への不満や憎悪のようなものをこの味から感じ取っていた。
「今日も美味しいよ、美砂子」
「ありがとう、あなた」
コピーアンドペーストされた定型文をいうと父親はまた無言で料理を食べ始めた。
厳格な父は警備庁長官官房で、専業主婦の母が作る料理を口にしてはただ美味しいという。そして母は薄く微笑むというのが観月家のいつもの構図だった。
円満そうに見える家庭だが、その内実は冷え切っている。父親には外に女がいた。それも一人ではなく複数、恐らく三から四人。使用人の噂話によると、その中には女子大生ほどの年齢の娘も含まれているらしい。気持ち悪いし、汚らわしい。観月は父親を特に嫌っていた。
「絵里、自警団で色々あったそうだな」
父親の切れ長の目がこちらを見る。観月の握っていたフォークの先が少し震えた。
「銀座の宝石強盗のこと?」
「ああ。そうだ。お前は関わっていなかったようだが、自警団の名を傷つけるような失態は許されない。わかっているな?」
「……はい」
父の若い頃はまだバイオ・セキュリティが生まれたばかりで、警察庁のサイバー対策室から新たにできた警備庁へポストを移した。そこで警備員育成プログラムを発足し、自警団を作ることを提唱したのが、目の前にいるこの父親だった。そして一人娘がその組織の副団長となったのは物事の当然の成り行きだろう。
「それにしても八神くんの手腕は素晴らしいものだ。宝石店のことは残念だったが、自警団の評判は今までで一番だといってもいい。俺も鼻が高い」
そういいながら赤ワインを飲む父の頬はほんのりと赤らんでいる。
「八神くんといえば、絵里、最近どうなの?」
「どうって何が?」
「野暮な子ね。お付き合いできそうかって聞いてるのよ」
「なっ!? 何言ってるの、お母さん!?」
思わず咽そうになりながら、観月は慌てて水を飲む。母は父の方へ伺いを立てるように顔を向ける。父親は満更でもない顔で頷いた。
「いいんじゃないか。八神くんなら喜んで婿にするとも」
「待って、待って。やめてよ。私と彼はそんなんじゃない。それに第一、私は結婚するつもりはないし」
「あらやだ、女の幸せは結婚よ」
思ってもいないことを母はうそぶく。
「またその話。もうやめてよ」
私は料理と美貌しか取り柄のない母親とは違うのだと観月は牙を剥いた。
「この先、一生、潜行者としてやっていくつもりか?」
意外だという顔を父がしたので、観月は思わず拍子抜けしてしまう。
今まで散々、潜行者として勉強させてこさせたのは他でもないこの人だ。幼いころから他の選択肢など与えず、週末に友人と遊園地に行くことだって決して許してはくれなかった。次第に付き合ってくれる同級生もいなくなって、一人になった。付き合いにくい優等生と陰口を囁かれながら、いつも遅くまで勉強をして、国家警備員となることだけを目指して。いつの間にか、そうすることでしか自分の価値を自分で認められなくなっていた。そんな風にしたのは父ではないか。怒りとも絶望ともとれる感情が腹のうちで蠢いた。
「当然よ。そのために頑張ってきたんだもの」
「けどなあ、絵里。お前には才能がない」
「…………才能?」
「八神くんを見てみろ。学校の成績だってそうだ。いくら筆記試験で満点を取ったって、実技では精々が上の中じゃないか」
そんなことくらい、わざわざ指摘されずとも知っている、観月はそう反論しようとする自分を必死で抑えつけた。
「それでも春霞大の潜行科にも推薦をもらったわ。そこで勉強して警備庁に入庁すれば、ちゃんと国家警備員になれる!」
「確かにお前が努力しているのは知っている。だが一番になれなければ意味がない。二番や三番なんて言うのは、その他大勢の負け組と同じだ。勝てない相手がいるのなら、戦うのはやめろ。そして別のフィールドで一番になればいい」
「それが結婚!? 家庭に入ってお母さんみたいになれってこと!?」
「ちょっと絵里! 食事中よ。大きな声出さないで!」
むくむくと湧き上がってくる怒りを鎮めようと、観月は歯を食いしばった。いつもそうだ。いつもこの家族は、体裁ばかりを気にしている。この料理がその良い見本だ。
再び静まり返った室内にメイドが入ってきた。
「絵里様にお客様がいらしています」
「誰だ、こんな夜に」
「八神透と名乗る方が絵里様の忘れ物を届けに来たと」
父と母が顔を見合わせ、にこりと笑う。その薄気味悪い笑顔から逃げるように観月は立ち上がった。
「わかった。私が行くわ」
「夜にごめんな」
玄関先にいた八神は、そういってセルを渡した。
「これ、本部に落としていっただろ。観月にも意外と抜けてるところがあるんだな」
「ありがとう……」
セルがないことに気がつかなんてどうかしていた。画面にロックは掛けてはいるが、もし中身を見られたらと思うとゾッとする。
「あと、ちょっと話があるんだけどいいかな?」
「いいけど、ここじゃないところにしましょう」
玄関にはカメラがある。誰が見ているわけでもないだろうが、その先にいるかもしれない両親の目を思うと居てもたってもいられなかった。
二人は歩いて十分ほどにある家々に囲まれた小さな近所の公園に向かった。屋根付きのベンチに座ってもよかったが、八神がブランコに乗ったので、観月はその隣のブランコに座る。八神が子供のように立ち乗りしてみると、ギーギーと音を立ててブランコが揺れた。
「あっはは。子供のころを思い出すなあ」
今は夜更けで当然無人だが、昼間の時間帯ならば子供たちが遊んでいるのだろう。観月はそんな風に自分の子供時代のことをぼんやりと思い返してみるが、毎日潜行者の訓練ばかりでろくに遊んだ覚えがない。
「私、今日初めてブランコに乗ったかも」
「マジで!?」
「ほら、うちの親、何かと厳しいから。とにかく縛り付ければ何でも言うこと聞くと思ってるのよ」
「観月……」
しかし観月は空元気を振り絞り笑う。
「その点、八神くんはすごいよ。尊敬する」
「別に、俺はただ親の反対押し切って我儘言ってるだけだ。兄さんにも叱られてさ、家の中じゃほぼ空気」
それでもやりたいことをやれる自由な八神は、それを選択できるだけの強さがあるのだろう。同じ高校で同じクラブで団長と副団長。けれど彼は自分とは違うと、観月はずっと思っていた。
「それで、話って何?」
ブランコの軋む音が止み、八神はブランコに腰かけた。
「単刀直入に聞くけど、何を調べているんだ?」
どきりと心臓が跳ねた。
「知ってたの。もしかして白瀬くんが――」
八神は申し訳なさそうに首を横に振る。
「ごめん、カマかけたんだ」
「…………」
「でも実は俺もお前と同じことを考えてた。最近の自警団内部はどこかきな臭い。だから信頼のおける警備庁の人と少数で、暗号化された文書や不審点を洗ってる。国家警備員に調査のことは観月にも黙ってろって言われたから秘密にしてたんだけど……。要らない心配をかけたみたいだ。ごめん」
「そっか……。ううん。いいの。私こそ勝手に動いて邪魔しちゃったわね」
「いいや。それより俺の勘の正しさが証明されてよかった。内通者は確かにいる。それが誰かが問題だが、大方畠中やその辺だとは思うんだけど……」
マナーモードにしてある八神のセルが鳴った。
「ごめん。もう帰らなきゃ」
「うん」
八神は観月を家の前まで送ってから、笑顔で手を振り去っていった。月に照らされた八神の背中がふと小さく闇の中に消えていくような感じがした。
「犯人じゃ、ないんだよね?」
くるりと振り向き、八神が笑った。
「そんなわけねえだろ」
*****
『〈FOLKS〉の予告、今日だよな』
『何も起きないに一票』
『地方民、高みの見物。ワクワクする』
『神経ガスとかマジか? 東京脱出する?』
『あえて遊園地行くんでライブ配信見てください!』
混乱を避けるためなのか〈FOLKS〉の犯罪予告は報道系サイトでは大きく取り上げられなかった。恐らく都内というアバウトかつ広大なターゲットにしたせいだろう。ピットやバス、電車も平常通りに運行し、妹もいつも通りに学校の部活に出かけて行った。
「あんたも出かけるの?」
玄関先でスニーカーを履いていると困った顔の母親が出てきた。
「バイト先の先輩に呼び出されてさ。大丈夫だよ。大きい駅に行くわけじゃないし、何も起きないって」
「それならいいけど、気をつけるのよ。あんた、狙われてるかもしれないんだから」
「はいはい」
自分の身にもし何かあったら。浮かぶのは宝石強盗で出会った家族の映像だった。しかしそれでもこんな風に想像しながら外に出てしまうのは確かにどうしようもないほどに他人事だからなのだろう。
今日、都内で何か起こるかもしれない。けれどそれは何かでしかなく、ただの学生にどうにかできるような問題でもなかった。
前と同じお高めの自然派カフェに白瀬はいた。香り高いコーヒーを口にしてから観月は内通者探しをやめることを宣言する。八神が同じ調査をしているようだから、彼に全て任せて手を引くそうだ。
「本気ですか?」
なぜか食い下がる鵜飼に対して観月は頷く。
「ええ」
「もし内通者が八神先輩で、嘘をついていたとしたら?」
「おいおい、言い方……」
白瀬は鵜飼を小突くが、彼は撤回するつもりはないらしい。観月は目を少し伏せたが、その口調は確かだった。
「もう疑うのは嫌なの。それにこれだけやっても尻尾は掴めなかった。それならもういくら私達が調査しても無駄よ」
とにかく話はこれで終わりと言って、観月は会計の紙を持って去ってしまう。なんだか観月らしくない投げやりな態度だったが、だからこそそれが偽りのないの本心のようにも思えた。
カフェを出てからも、鵜飼は釈然としない顔をしていた。
「じゃあ、俺も帰るから」
機嫌の悪い時の彼には近寄らない方が良い。そう学んでいた白瀬が歩き出そうとすると、その肩を掴まれる。
「まあ待て。今日は何かと物騒だ。僕の車で送っていこう」
嫌な予感がするが、掴んだ手の力は強く有無を言わせない気配がする。道路脇に止まっていた高級車の運転手、ユーセフさんが片手を上げた。
「なんだよ。家まで送ってくなんてらしくない」
傷一つない高級車に乗り込みながら、ぶつくさと文句を言う。前にも乗せてもらったことはあるが、この舞っている空気の塵までがスワロフスキーなのではないかと思える空間には慣れない。隣に座る鵜飼がおもむろに腕を組んだ。
「続行するぞ」
「なにを?」
「とぼけるな。内通者探しだ。あの組織に内通者がいることは間違いないし、八神も観月も信用できない」
「八神先輩はまだしも、観月先輩は疑わなくていいだろ」
「彼女の父親である観月重治は警備庁長官官房だ」
「お前、観月先輩のことも調べてたのか……?」
悪びれもせず鵜飼は続けた。
「しかもこの観月重治こそが自警団の創設者だ。八神透の父親とは中学からの同級生で、この二人は親しい仲らしい。もしも八神透と観月重治が繋がっていて、観月が八神透と自分の父親の繋がりを確信しこの件から手を引いているとすれば急に調査を止めにしたことにも辻褄が合う。それに――」
「待てって。なんかおかしいぞ、お前。焦ってるのか? らしくない」
図星なのか、鵜飼は口を閉じ、恥じ入るように背もたれに深く倒れる。息を吐いてから、窓の方に顔をやる。
「……五時間前に、とある動画が公開された」
「動画?」
鵜飼は見せるか見せまいか少し悩んでいるようだったが、画面を見せた。写っているのは誰でも投稿できる大手の動画配信サイトの映像だった。隠し撮りしているの映像なのか画面がよく揺れる。
それは明らかに〈青い仮面〉の映像だった。暑い四月のとある日付が入っている。街でよく見かけるデモ行進の映像だ。すると列を先導している幹部らしき人物が物陰に入り、カメラが後を追う。その人は仮面の下の汗を拭おうとしているのか、小さなカバンからおもむろにタオルを取り出した。カメラには男が仮面を外す様子と、その素顔とが、しっかりとカメラに収められていた。
「この人……!!」
つい先日に何度も報道され、白瀬自身も一生忘れようのない人物が映っていた。鵜飼が神妙な顔で頷く。
「早海馨だ。彼はただの宝石商ではなく、〈青い仮面〉の指導者でもあったらしい」
「じゃあもしかして強盗犯の本当の目的は……」
「早海馨の殺害だ。宝石強盗はそのついでだろうな。実行犯の唐木ショアンは宝石店で働いていた当時、帰化した名前を使っていた。だが早海に八洲共和国出身であることが発覚し、それが原因でリストラされたことがSNSに書かれていた」
「そんな……」
動画の配信元は不明だが実行犯既に塀の中、侵入者たちは自殺している。では一体誰がこの動画を流したのだろうか。
「実はずっとおかしいと思っていたことがあったんだ。僕らが戦った侵入者はヘリを用意し、とても連携の取れた動きをしていた。あれだけの連中を雇うには結構な資金がいるはずだ。あの貧しそうな三人に前払いの金が払えたとは思えない。背後に巨大な資金源があるか、どこかの組織に属していた可能性が高い。唐木たちが黙秘を続けているのも、その組織と関係しているはずだ」
連携の取れた動きと計画的な犯行。それでいて〈青い仮面〉の幹部暗殺を試みる組織など思い当たるのはひとつだけだ。
「〈FOLKS〉……!」
「そう考えて間違いない。この動画をあげたのもメンバーだろう。それと観月は今回の宝石強盗と内通者Xは関わっていないと言っていたが僕はそうとは思えない。見ろ」
セルの画面に自警団が地域ボランティアを通じて逮捕した人名が表示される。
「多くは日本人だが、帰化して名前を変えているだけで実際は八洲共和国を中心とした東アジア出身者が異常に多い。恐らくは〈FOLKS〉の仕事をこなす中、一度情報が流出した〈傷物〉の潜行者だ」
一度〈傷物〉となれば、ソラリスの中での活動は非常に困難になる。常にソラリス内の位置情報が警備庁に筒抜けだからだ。そういった潜行者は、二度とは潜らないというが、もし捕まるために潜っていたとしたら話は別だ。
「自警団と協力するために、自分から犠牲になったってことか?」
「だから逮捕されても誰も〈FOLKS〉を名乗らなかったんだ。あくまでも彼らが狙うのは〈青い仮面〉だけ。それ以外の仕事が露呈すると都合が悪し、なにより自警団との関係を隠す必要がある。名乗れなかったんじゃなくて、組織を守るために黙っていたんだ」
内通者Xがそこまで考え通して〈FOLKS〉と組んでいるのなら、あまりにも悪知恵の働く奴だった。これだけのことをしながらXは、自警団の名声を手にして、安全圏から高みの見物を決め込んでいるのだから。
「宝石店のことも、Xは初めから全部知ってたってことかよ……!?」
人を守るはずの警備員が、人を殺すなどあってはならない。白瀬のぎゅっと掴んだ拳の爪が皮膚に深く食い込んだ。
*****
『宝石店の店長、マジ許せねえ。人間のクズ』
『殺されて当然じゃね?』
『店の前の献花が全部消えてて笑う。落書きされてるし。手のひらクルー』
世論なんて簡単に覆る。壁際のスクリーン画面に映し出されるSNSの投稿を見ながら蓮見は廃工場の隅に立っていた。周囲の〈FOLKS〉のメンバーたちは興奮した様子でその投稿を見て、その掌返しの様をエンターテイメントとして楽しんでいるようだった。
〈FOLKS〉が一般人に向けて、声明を出した。
それは蓮見にとっては衝撃的なことだったが、彼らにとっては待ちに待った宣言だったらしい。寝ずのパーティが続き、蓮見はろくに眠れず疲労困憊していた。アルコールと不眠のせいなのか、頭がグルグルとして働かない。しかし、このままここに居てはいけないことは確かだった。
一刻も早くここから脱出しなければならないという焦りと、どうしてこんなところに来てしまったのだろうかという後悔が胸の中でせめぎ合う。いくら学校で虐められて混乱していたとはいえ、あんな危険な男の言うとおりに動くなんてどうかしていた。それにもし両親に自分が〈FOLKS〉にいることがバレたらどうなるだろう。既に警察が自分を探しているかもしれない。たとえこの件で少年院に送られることになったとしても、このままここに居続けるよりは百倍ましだ。けれど、あの部屋で見た死体がちらつき、脱出する勇気が持てない。
「クソっ……」
動画の効果で〈青い仮面〉は急速にメンバーを失っていった。フォロワーも消えていき、活動の予告も目で見るだけでも減っている。一方で派手な予告をした〈FOLKS〉は徹底的に叩かれ、八洲共和国の出身のタレントや有名人に言われない誹謗中傷が殺到していた。
そのとき初めて蓮見は、群衆の憎悪の高まりは、音を持っていると知った。ドンドンという腹に響く太鼓のような音が、手にしているセルから聞こえてくるのだ。音は打ち寄せる荒波のように激しくなり、蓮見の心を責め立てる。
ただ、生まれが違うというだけで人を貶す奴は屑だ――。
――けれど、それに憎悪で対抗する奴はただの馬鹿だった!
人気のない廊下でしゃがみ込み、蓮見は涙を流した。自分の未熟な判断が悔しくてたまらない。悪い奴は豊川だ。けれど、どんな陰口にも負けずに頑張っている同郷の者たちを裏切ってしまった。それがなによりも許せなかった。
なら俺が今できることをしよう。
せめてこの組織にダメージを与えられるような情報を手にして、ここから脱出するのだ。たとえば神経ガスの散布場所。それが無理なら、あの男の名前でもいい。何か情報を引き出そう。そしてそれを警察に渡すのだ。事情を話せばきっと信じてくれるはずだ。
幸いにもここの警備は甘い。身内にスパイがいる可能性など微塵も考えていないのだろう。蓮見はこっそりと二階に侵入し、道化の居た部屋を伺う。数時間前に彼が外出したきり、まだ戻ってきていない。鍵もつけられていない不用心な扉を開けて抜き足差し足で机に近づき、彼のラップトップを開く。この程度のハッキングなら春霞の入試問題よりも容易い。蓮見はセルを利用しハック用のプログラムを噛ませ、ものの3分でロックを開く。入っていたのはデータの中で一番新鮮そうなものをこちらのセルに転送する。
「おい、扉が開いてるぞ」
誰かが部屋の中の様子がおかしいことに気がついた。ファイルのデータはすべて抜けていない。だが、捕まってしまえば元も子もないのだ。蓮見は部屋の裏手から逃げだし、急いで廃工場を去っていった。手に持ったデータから、今はもう大きな力を感じなかった。けれどこれは必ず、あの男を仕留める弾丸になるという確信だけは決して揺らぐことはなかった。
そこからはわけも分からずに、がむしゃらに走った。治安の悪い元工業地帯から脱出し、転がるようにピットに乗り込む。見慣れたピット内の白いLEDライトに照らされて蓮見はようやく安堵した。席に座り、抜き出したデータを確認する。人名が連なったリストだった。もしかしたら今日の標的のリストかもしれない。急いでこれを然るべき機関に届けなければと蓮見は次の駅でピットを降りて、最寄りの交番に駆け込んだ。
「どうしたの? 落とし物?」
交番の奥から優しそうな警察官がそう訊ねてくる。
「あの、僕さっきまで〈FOLKS〉のアジトにいたんですけど……。えっと、とにかくこれを見て! 標的のリストだ!」
「お、落ち着いて。とにかく座って、ちょっと待ってて」
交番の人はセルのデータを確認し、担当の人間を呼ぶと言ってくれた。どうやら信じてくれたようだ。しばらくしてすぐに背広を着た警官がやってきた。交番の人間とは違う。ガッチリとした体つきで笑顔も素っ気無い警官たちだった。
「よく通報してくれたね。署で詳しいことを聞くから車に乗って」
「は、はい……」
駐車場に控えていたのはパトカーではなく、よくドラマで見るような黒い車だった。仮面パトカーというやつだろう。
しかしそのときなぜか、蓮見の胸のうちでざわざわと波が立ち不安な感情が現れた。
幸いセルはまだ蓮見の手元にある。ほとんど無意識のうちに蓮見はセルを持った手を後ろにやり、背広の男たちに見つからないように適当な誰かに先程奪取したデータを送った。背面で操作したので誰に送ったのかは分からないが、少なくとも今の自分が持っているよりはましだと思った。
「じゃあ、後ろに座って」
ドアが開き、促される。蓮見は中に入った。エンジンが響き発車したが、窓にはスモークガラスが貼られていて中からも外の景色が霞んでいる。薄暗い車内で気がつかなかったが、隣に人の気配を感じ、蓮見は嫌な予感と共にそちらを見た。
「サァプラーイズ!」
その瞬間、急に後ろから人に突き飛ばされたように蓮見は息ができなくなった。
「どうして……」
なぜ、なぜだ。どうしてここに、道化の男がいるのだ。
仮面をつけていた道化がけらけらと笑いながら仮面を外した。リクルーターの男、いや、今はもう〈FOLKS〉のリーダーというべきだろう。
「びっくりした?」
車はもう動き出している。ドアを無理やり開けて外に出るのも不可能だ。蓮見は眩暈がした。
「どういうことだ……!?」
「どうもこうも見ての通りさ。警察は僕に協力している。裏切り者の連絡が来たから、現場に駆けつけてみただけさ」
「……じゃあ警察も仲間?」
車の前の席には運転手の男、助手席にはいかつい顔の背広の男が無表情のまま座っていた。あの親身な交番員は白だろう。しかしその上が黒ならば、組織はやがて一色に染まり切る。
どいつもこいつも、屑ばっかりだ!
「マッチポンプって意味わかる? 僕がマッチで、彼らが火消し(ポンプ)」
「貴方はわざと騒ぎを起こして、警察を喜ばせてる……?」
道化師は満足そうに頷き、こちらを褒める。
「ウィンウィンのビジネスライクな関係ってわけ」
「でも、〈FOLKS〉は犯罪組織だ。その組織がなんで警察と繋がって?」
「警察だけじゃないよ、警備庁も、国会議員も、果ては総理大臣も繋がりのことを知ってるのかも」
「メリットがない。〈FOLKS〉がやっていることは、八洲共和国の出身者を束ねて日本を攻撃することだ……」
「そうだけど、そうでもない。何て言ったらいいのかな。ああ、ところで蓮見くん。このニュース見た?」
そういって彼はセルの画面を見せる。浮かび上がった立体映像は、〈青い仮面〉のデモ行進の様子だった。しかし今日行われたデモ行進は、行く道を阻まれたり、罵声を浴びせられたりしていた。中には火炎瓶のようなものを投げつけてくる人間もいる。
なぜ今まで無関心だった人間たちが動き始めたのか。その理由は恐らく、今日の午前中に公表された早海馨の動画が原因だろう。『殺されて当然の屑』そんな文字が頭に蘇る。あの動画が一般市民に火をつけた。〈青い仮面〉の活動により日常生活に支障がきたされたことで蓄積した火種が、早海馨という明確な形を得て一気に爆発したのだ。
「これは僕の自論なんだが、誰もが薄っぺらい表面上の正義感と道徳心で生きてるのが、一番平和な社会なんだよ。他人に無関心で丁度いい。けど、今はどうだ。誰も彼もが〈青い仮面〉と〈FOLKS〉に注目し、声をそろえて非難している。異常だ。異常だろ?」
「でも、その噂も貴方が意図して流したものだ。分からないのか!? あんたのせいで八洲共和国の人間が更に苦しむことになるんだぞ! あんたがやってるのは差別への抵抗なんかじゃない! 更なる偏見を生む自己満足なパフォーマンスだ!」
言ってしまった。けれどもう後悔はなかった。ここで死ぬならそこまでだ。自業自得だが、言いたいことは思いっきり言ってやった。男は蓮見の剣幕に、少し目を丸くしたがやがて破顔してこう言った。
「そんなのどうだっていいよ。それに僕、日本人だから」
「は……?」
言っていることが理解できない。フリーズした思考回路が徐々に解けて動き出すが、その前に道化は話し始めていた。
「生まれも育ちも東京だよ。初めて八洲に行ったのは二十歳過ぎだったかな」
「けど、だったらどうしてこんなことを……?」
「言っただろう。ウィンウィンのビジネスライクな関係だって。僕はピエロなんだぜ。金をもらえばなんだってするさ」
道化は自らの仕事を大衆のガス抜きだと語った。
まずは不当な扱いを受けて鬱憤を募らせている移民労働者を〈FOLKS〉という巣穴に誘い込む。〈青い仮面〉が台頭するにつれて、〈FOLKS〉のメンバーも数を増やした。メンバーは危険因子として国家公安委員会にマークされ、大きな犯罪につながる動きを注視されていた。つまりこの〈FOLKS〉は国家権力が管理しているダミーの犯罪組織だったというわけだ。
「けど、〈FOLKS〉が一般人を狙う理由がない。ずっと監視していればいいじゃないか」
「ちょっと予想以上に盛り上がっちゃったんだよね。ああ、こっちじゃなくて排斥派(あっち)がね。それに大衆も入ってきちゃって、もうてんやわんや。こっちはコントロールを失う一歩手前ってわけよ」
まるで他人事のように道化は語る。もっともこの手の騒ぎが起こって困るのは、〈FOLKS〉ではなく、取引先の政府なのだからどうでもいいと考えているのかもしれないが。
「だからこそさ、逆転の発想? 炎が消える前に一番よく燃えるように、焚き木を増やし炎をさらに大きくしようとしているわけ。〈FOLKS〉が一般人を狙う布告、〈青い仮面〉のリーク、熱狂は渦となり日本中を巻き込んでいく。君の言うように八洲共和国出身者も、辛い思いをするだろう。けれど、君は今、ある矛盾を知っているはずだ」
「……あんたが日本人ってことか」
「今日が終われば、僕は逮捕される。日本人が恨みに恨んだ外国人テロ集団〈FOLKS〉のリーダーが日本人と分かれば、きっとみんなこういうさ『無関係な八洲人が差別されないように守りましょう』って」
「……そんな単純じゃ」
そう言いかけて、言葉を止めた。道化の言葉には一理あった。敵国と思い戦ってきた相手の首領が、同国の人間と知ったとき、人は何を思うのだろうか。外国人だからという理由で抱いていた猜疑心や嫌悪感が一掃され、残るのは認めがたい真実だけだ。そしてその感情は散々に危険視し続けていた八洲共和国の人間たちに対して、言葉にできない罪悪感へと変わるだろう。
ゴホンと前の席の男が話し過ぎを咎めるように咳をする。
「あっははは。怒られちゃった。じゃあ、蓮見くん。世間話はこのへんにして、セルを貸して」
もしかして先ほどメッセージを送っていたのを見られていたのか。目敏いやつだと奥歯を噛む。だが、既に道化は蓮見の上着のポケットに手を突っ込み、セルを奪っていた。画面の文字は鵜飼恭一宛のセルIDが表示されていた。例のデータを送ってしまったのは、あろうことか鵜飼だったらしい。まだ無能そうな他のクラスの連中ならこんなデータを無視したかもしれない。けれどあの鵜飼のことだ。何かを察してしまう可能性もある。
蓮見は慌てたが、なぜか道化は感激したように目を輝かせた。
「ワーオ。驚いた。信じられるか? 運命だね。蓮見くん。僕も彼と友達なんだ」
そんなわけがない。蓮見は道化を睨みつけたが、彼は嬉々とした様子で、鵜飼に電話をかけ始めた。
「いいねえ。役者は多いほど舞台は華やかになる。予定調和じゃ、観客は喜ばない」
*****
車は白瀬の自宅がある高円寺方面へと向かい、地下道を走っている。頭をフル回転させていた白瀬は自分の脳容量の狭さを呪いながら質問した。
「で、ここまでのお前の推論が正しくて、内通者Xと〈FOLKS〉が繋がっていたとする。でも証拠がないし、そもそもそれを誰に伝えればいいんだ?」
八神は怪しいし、手を引くと宣言した観月にすぐさま連絡するのも気が引ける。
「順当に行けば警察、ということになるだろうな。だが結局は証拠がないことには動かない」
「手詰まりだな」
ふと鵜飼のセルが音を立てて震える。指で画面を動かし、それを見た鵜飼が一瞬固まった。
「なんだ……?」
表示されたり画面が白瀬の視界にも入る。文字化けしたような奇妙な文字列が並んでいる。
「スパムじゃないか?」
「そんなものを送りつけてくるような奴にIDなんて教えない」
「じゃあ、暗号とか?」
「なぜそんなものを僕に送る?」
「俺に聞くなよ」
それもそうだと鵜飼はその謎の文字列に向き合う。しかし、しばらくすると何か閃いたように小さなプラスチック板のようなチップをセルに差し込んだ。
「分かったぞ。これは技師用の機械言語だ。でもそれを遊びでバラして構築していくと英語に変わる。そういうゲームをこの間授業でやったんだ」
「遊び……? まあよく分かんないけど、解けたのか?」
先程までは無意味そうに見えた文字が少しずつ書き換わっていく。すると、それはどうやら人名の記されたリストらしいと判明した。暗号の分量からしてざっと二十人ほど、尻切れ蜻蛉で終わっているのでまだ続きがありそうだ。
知らない名前とその人の素性が英語で書かれている。白瀬はなけなしの知識で読んでみるが、ネイティブの鵜飼が次々画面をスクロールするので追いつかない。しかしその指がふと止まった。
ハヤミカオルという名前の人物がリストに載っていた。宝石店のことや住所はもちろん裏の活動まで詳細に調べ上げられている。
「斎藤國重、一昨日から失踪扱いされている政治家だ」
他の人名もここ最近、失踪した大手企業の関係者や官僚ばかりだ。白瀬が生唾を飲む。
「まさか〈FOLKS〉のターゲットリスト……?」
「僕もそう考えたが、おかしい。厚生労働大臣の田邉寿一や、ハルタ機械工業社長の鈴原尊、二人とも移民容認派の政治家や貧困に苦しむ移民労働者団体への支援者だ。なのになぜかこのリストに名前がある。しかもリストの半分の人間は政治家でも篤志家でもない大手企業の社長や管理職だ」
これが本当に〈FOLKS〉のリストならば、彼らはターゲットの思想に関わらず別の規定を持って狙いをつけているということになる。
「順番通りなら次の狙いはこの人だ。玉城(たまき)春彦(はるひこ)、東部聖霊病院の医院長。政治思想は中立で、支持政党もないし、これといった寄付もしていない。金儲けが趣味の普通の医者だ」
「でもこれ、本物なのか? っていうか送ってきたのは誰なんだ?」
「クラスメイトだ。どういうわけだか、巻き込まれているらしい……」
そうながら鵜飼はこの暗号文を送ってきた人物へと電話をかけようとする。しかしまるでその行動を予測していたかのようにこちらに電話がかかってきた。驚いた表情で二人は顔を見合わせる。鵜飼は頷き、スピーカーのボタンを押した。
『やあ、偶然、また会ったね。覚えてる?』
聞き覚えのある、例の声。嫌でも耳に染みついていた。
「道化……!」
『ああ、その声は白瀬くん? 君もいるのか。話が早いね』
「どうして蓮見悠平のセルからお前が連絡をしている。彼はどこだ!?」
『蓮見くん、呼んでるよ?』
スピーカーから届いてきたのは荒々しい呼吸の声と、腹のあたりを蹴られたような低いうめき声だった。
『う、鵜飼ぐん? ご、ごべん……』
舌っ足らずで呂律がうまく回っていない。これはかなり殴られた人間の声だ。凹んだ前歯に血で真っ赤になった下顎が容易に想像でき、白瀬は思わず顔を歪ませる。鵜飼がセルを掴む指が怒りのあまり震えていた。
「どうして彼に手を出したんだ!? 用があるのは僕らだろう?」
「違うよ、君たちのこととは別件。これは裏切者への報復だ。知っていたかい? 彼の本当の名前は六神テェオン。8歳まで八洲共和国に居て、つい最近〈FOLKS〉に加わった新入りだ」
「彼はそんな組織に加わるような人間じゃない!」
「まあ、信じなくてもいいんだけどね。あと僕のリスト、そっちにあるんだろう?」
「今から警察に行ってリストを渡す。病院に先回りした警官がお前を捕まえるぞ」
ピエロの男は鵜飼の啖呵を鼻で笑った。
「それは無理だ」
急な衝撃に思わず二人は右側に身体が倒れた。
「なんだ!?」
「何かに掴って!」
そういうとユーセフが一気にアクセルを踏み込んだ。窓の外を確認すると無人の自動操縦パトカー二台が、ロールス・ロイスの左右を挟みこんでいるではないか。
「はぁ!?」
再び車体にパトカーがぶつけられ、車内が左右に大きく揺れる。運転席のユーセフがミラー越しにこちらを見た。
「お二人ともお怪我は?」
「だ、大丈夫。鵜飼は?」
「問題ないが……。この先はマズい」
車は一本道を進行し、分かれ道のない地下トンネルに入っていく。看板にはこのさき三キロ直進が続くと書かれていて、信号や横道を利用することもできそうもない。通話は既に切れており、逆探知はできなかったのか鵜飼は舌打ちした。座席に少し頭を打った白瀬が背面のガラスを確認する。
「なんでパトカー!? ってかどうして追いかけてくるんだ?」
自動操縦から手動に切り替え、ユーセフがハンドルを握る。
「もしかしたら入手した恭一様の自宅の住所からこの乗用車のナンバーを突き止めたのかもしれません。対策は施したつもりでしたが、申し訳ありません。私の落ち度です」
「うちのセキュリティを破ったってことか……。政府関係者か堅気じゃないか、どちらかだな」
ため息を吐きながらも鵜飼は冷静さを失っていない。その態度に思わず白瀬は今まで聞くまいとしていたことを訊ねてみた。
「お前の実家、何やってんの?」
車が右に急に寄せるので、鵜飼は右の窓ガラスに頬を圧しつけられながら苦しそうに言う。
「ただの金持ち」頬をガラスから引き剥がす。「……今はそんなことはどうでもいい。パトカーが動いてるんだ。警察と〈FOLKS〉が繋がっている可能性は高い」
「警察と……」
信じたくはないが、鬼気とした迫力で背後に迫る無人のパトカーを目にしては、もうどんな言い訳も苦しかった。〈FOLKS〉は自警団及び警察権力、そして恐らく他の国家組織と繋がっている。
しかしなぜ彼らがこんな犯罪組織に手を貸しているのかは皆目見当がつかないし、こちらは頭の先から足の先まで全てのデータを抜き取られている。大人と子供、巨人と蟻、どんな言葉だっていい。この圧倒的な戦力差はそう簡単なことには埋まらないだろう。
「だが悪いことばかりじゃない。蓮見が手に入れたこのリストは間違いなく本物だと証明された」
こんなときにも鵜飼は、決して屈せず諦めない。圧力を掛けられれば掛けられるほど跳ね返るバネのような人間だとつくつぐ思う。
左右のパトカーはアフリカのバッファローのごとく、こちらに車体をぶつけてこようとしていた。ユーセフは再び加速し振り切るが、あと一キロ先まで外には出られない。
「ユーセフさん。俺たちを降ろしてください!」
ハンドルを握っているユーセフがミラー越しに非難するような顔をした。
「警察に追われているのですよ! 何を言っているのですか!? 無理です。絶対に!」
警察組織が意図的に封鎖しているのか、トンネルの中に他の車は見当たらない。そして今しがた目に入った交通表示が確かなら、走っている地下のちょうど上が東部聖霊病院だ。このトンネルの非常階段から上に登れば、より早く病院に到着できる。次のターゲットが医院長の玉城春彦ならばいち早くそのことを本人に伝えなければ、彼の命が危うい。
「引き離している今なら道路に降りられます」
「僕らにはもう時間がない。これ以上後手には回れないんだ!」
「いくら命令でもこればかりは……」
背後を見ると、小さくパトカーのランプが点滅しているのが見える。非常階段の案内マークが壁面に描かれていた。鵜飼は早口で説得にあたった。
「危ないと思ったらすぐに逃げる。ターゲットに〈FOLKS〉のことを伝えるだけだ。大丈夫。約束する。僕のマシン(いのち)を賭けてもいい」
そのときユーセフはまるで絵画の真贋を見極める鑑定士のようにミラー越しに鵜飼を見た。鷹のような鋭い双眸に睨まれたが、鵜飼はひるまなかった。それで諦めがついたのか、徐々に車は加速を緩める。
「私の仕事は、貴方の命と日々の安寧な生活をお守りすること。しかし――」ちらりと彼の目が、車載のデジタル時計に向けられる。時刻はちょうど十八時を指していた。「もう終業時刻のようです」
白瀬が時計に目を取られていると、突然車がスピンを描いて道の中央に停車する。シートベルトがぎゅんっと胸を圧迫したかと思うとそれが外れ、そのままパカリと扉が開いた。柔らかく放りだされるように白瀬は道路の端に倒れ、その上に重なるように鵜飼が落ちてくるので、その重さに白瀬は潰れたカエルのような声を出した。
間髪入れずに高級車は発進し、ナンバーを自動追尾しているらしい二台の猛獣はこちらを目にも入れず狂ったようにユーセフの車を追いかけていった。どうやら、助かったらしい。
「ユーセフさん、逃げ切れるかな……?」
服についた汚れを軽く払いながら、鵜飼は非常階段の方へ走った。
「少なくとも僕らよりは身を護る術を知っている。万一に備えて訓練も受けてるからな」
「お前の実家ってもしかしてアメリカン・マフィアだったりする?」
もしそうでも偏見とか全然ないからと白瀬は続けようとしたが、鵜飼は呆れ気味に目を細める。
「本気でそう思うなら訊ねない方がいい」
二人は脇にある脱出用の非常階段を一目散に駆け上がっていった。
*****
百はありそうな螺旋階段を登り終え、日頃から運動していないのだろう鵜飼は背中を丸めて肩で息をする。一方のランニングやバスケットボールと日常的に体を動かしていた白瀬は鵜飼の情けない姿に思わずため息をついた。
「ほら、病院に行くんじゃなかったのか。そうやっていつも家に引きこもってるからだぞ」
「説教なら……あと……に……して……くれ」
「はいはい」
さっきまでの命を賭ける発言は何だったのやらと白瀬は肩をすくめる。
非常階段から離れると夜の住宅街に出た。目の前の大通りを真っ直ぐ行くと東部聖霊病院だ。この辺りではわりと大きな病院で最先端の医療技術が受けられると遠くからも患者が通ってくるらしい。大きな白いケーキ箱のような建物に等間隔で室内灯の明かりがついていて、暗い空に星が輝いている。
「それにしても迂闊だった。まさか〈FOLKS〉と警察が手を組んでいるとは……」
ようやく息を整えた鵜飼がそう毒づく。
「過ぎたことは仕方ないだろ。でもどうしてなんだろうな?」
「さあ。警察が非社会的組織と手を組む理由自体はいくらでも想像がつくが、これは異常だ。一般市民をあまりにも巻き込みすぎてる」
「あと、お前にメッセージを送った人は大丈夫なのか?」
鵜飼の表情に暗い影がさす。六神テェオン。それが本当の名前なのか白瀬は分からないが、鵜飼とその人が知り合いなのは違いない。まして人間嫌いの老猫のような鵜飼がセルのIDを教えたくらいなのだから、ただの知人というわけでもないだろう。
「早く救わないと危険だ。最悪の場合、殺されるかもしれない」
「だよな……」
「だが何にせよ僕らの鍵はこのリストだけだ。警察も自警団も信頼できないなら自分たちでやるしかない」
病院の自動扉が開き、受付が目に入る。奥に長い病院は皮膚科や神経内科までさまざまなデジタル看板が並んでいた。待合室に置かれているベンチにはこんな時間になっても六十人ほどの患者がいる。
さて、というように鵜飼は腰元に手を当て囁く。
「来てはみたが、どうしたものか」
医院長に会って〈FOLKS〉に命を狙われているという事態を伝えなければならないが、男子高校生二人が会いたいと言ってそう簡単に会いに行ける相手ではない。
「じゃあちょっとやってみようか」
「何を?」
きょとんとした顔で鵜飼がこちらを見る。白瀬は笑うだけだった。
「こんばんは。どのようなご用件でしょうか?」
受付用のアンドロイドがこちらに向かってやってくる。だが白瀬はそれを無視し、カウンターにいる綺麗な巻き髪の受付嬢に向かっていった。白いL字のどこにでもあるカウンター。監視カメラの位置は出入り口にばかり集中していた。
「病室に忘れ物をして、取りに行きたいのですが」
「申し訳ありませんが、時間外の面会は――」
「ですよね。すみません、明日出直します。あ、トイレどこですか?」
「右手奥です」
「ありがとうございます」
白瀬がついてこいと目配せをするので鵜飼はその後ろに続いた。白瀬は右手奥のトイレに向かったふりをしたが、その入り口手前でピタリと立ち止まり方向転換、無人のエレベーターにするりと乗りこむ。しかしそれは職員専用のエレベーターで、スタッフのセルをスキャンしなければ動かない仕組みだった。だが白瀬が取り出したセルをかざすとあら不思議、あっさりとエレベーターが動き出した。
「君、盗ったのか……?」
白瀬の使用しているセルはNBAのとあるチームロゴが入った赤いケースに入っている。どう見ても女性ものの花柄のセルを見た鵜飼は非難するように眉をひそめた。
「緊急事態、緊急事態」
けれどその張本人は伸びやかにそう答えながら最上階に降りた。廊下の先にはひときわ大きく丈夫そうな木目の扉、医院長室と書かれたプレートが壁にかかっている。
コンコンと鵜飼がノックをしたが返事はない。
「帰宅したか、どこか外出しているかだな」
「この部屋も開いたりして」
「……え?」
その部屋にも電子錠があったが、白瀬が受付嬢のセルをかざすと拍子抜けするようにあっさりと扉が開く。今度ばかりは鵜飼は口を半開きにしていた。
「……守るより盗む才能があるんじゃないか?」
「手先が器用なことは認めるけど、これはラッキーだよ。あの受付の人がパスを持ってたんだ」
「どうして受付の女性が医院長室のパスを持っているんだ?」
無垢な雛鳥のように首を傾げて鵜飼が訊ねてくる。この手の話は苦手らしかったのでなるだけ優しく答えた。
「察しろ」
中に入るとまず、額に入った立派な写真が目に入る。美容整形をしているのか六十六歳という実年齢のわりに若々しく、凛々しそうな雰囲気の男、リストの写真で見たのと同じ、玉城春彦だった。その下には『東部聖霊病院はクリーンで適切な医療を心がけています』という標語が彫られていた。
医院長室は応接用のソファとカーボン製の大きな黒い机が一つ。机の上には、患者らしき人と撮った写真やデスクトップ、モニュメントが置かれている。
ほら、という顔で白瀬は鵜飼を見る。こういうのは白瀬より引きこもりのオタクの方が得意だ。しかしその頼みのオタクは部屋の前で入るかどうか逡巡していた。規範やルールを重んじる彼にとってこの一歩はそう簡単に踏み出せるものではないらしい。
「嗚呼。ごめんなさい、神様……」
小声で祈りを捧げたかと思うと、鵜飼は部屋に入りデスクトップを起動させる。案の定パスワードのロックがかかっていた。強行突破はできないわけではないらしいが、証拠が残る。警察に追われている一介の高校生としては、面倒ごとはもうこれ以上は御免だった。
「尊敬している人物がパスワードになっている」
「人物ねえ……」
今どきめずらしい紙の本棚の著書を見ていくが、医学書や小難しい洋書ばかりで白瀬にはなんのことだか分からない。あとこの部屋の中で珍しいものといえば机上の二重螺旋のモニュメントだった。
「これってDNAモデルだよな。二重螺旋構造ってやつ?」
「そういえばこの病院は、DNA検査による早期ガン診断をしているらしいな」
「十八歳になったら受けられるあれか」
DNAを利用したガン検査は、唾液を調べるだけで将来どんなガンにかかるのか、そしてガンの発症時期、つまりおおよその死期が分かる。それもかなりの高確率で当たるらしい。
もちろん、こういった検査はよく当たるぶん、知らない権利も与えられる。保護者が勝手に子供を検査させることは、例外を除き認められない。自分が将来どんな病気になって何歳頃に死ぬのかなんて、知りたくもない人だって世の中には大勢いるだろう。そういう理由から、DNA検査というのは技術の発展とともに非ぬ不安や差別を生むとして厳しく法で制限されている。
「DNAといえばオズワルド・アベリーやハーシー、チェイスなんかが有名な人名だが……。ビンゴだ。案外単純だな」
「中身は?」
「怪しげなデータは……これだな」
見つかったファイルの中身はまた人名が記されていた。先ほど謎の人物から送られてきたデータの名前とほとんどが一致しているが、その人物の詳細な活動などまでは調べ上げられておらず、名前と肩書だけが羅列されている。
「なんで狙われてる医院長が〈FOLKS〉と同じファイルを……?」
「恐らく逆だろう。玉城春彦が持っているデータを〈FOLKS〉が奪ったんだ」
スクロールしていく中、ふとある人名で鵜飼の手が止まる。
『八神直哉様(株式会社コランホールディングス社長)、八神麗華様』
「あ! これって、八神先輩の親なんじゃ……」
その一瞬で嫌な想像が一気に頭に広がった。
〈FOLKS〉と自警団は組んでいる。そしてその〈FOLKS〉の標的リストの元データに八神透の両親がいる。加え、八神透と両親は不仲である。いくらか庇いだてしていた白瀬も流石に、内通者が八神透の可能性を考えざるを得なくなってきた。
「これは東部聖霊病院開設五十周年記念祭の招待客のリスト、という名前で保存されている。こんな風に隠してたってことはフェイク。表沙汰にはできない事情があるパーティーだ」
そのとき室内にカツカツというゴムの効いた靴の音が聞こえてくた。恐らく見回りの警備員だ。もしかしたら不自然についている窓の明かりを不自然に思ったのかもしれない。今更カーテンを閉め忘れたことを後悔したが後の祭りだ。
「パーティの場所は!?」
「ここには書いてない。何かヒントになりそうなものはないか?」
鵜飼は自分の持っているもう一つのセルにデータを転送しはじめる。ふと白瀬が卓上カレンダーに目をやると、今日の日付に赤いペンで丸が打たれている。『十九時〜 マリアンヌ』と書かれていた。
「マリアンヌって人の名前?」
「ホテルだよ。ほら、日本橋の近くにある……」
「どうせ高級ホテルなんだろ。庶民が知るかよ」
全てのデータを抜き取ることはできなかったが、捕まっては意味がない。二人は警備員とは反対側の通路を使い、抜き足で下の階へと降りていく。
「今夜のパーティに次の標的がいるってことは……」
「〈FOLKS〉が今日狙うと予告したのはきっとそこだろうな」
非常階段を降りると裏手の救急車の搬入口近くに降りた。白瀬は適当な場所に受付嬢のセルを置き、辺りを伺いつつ裏口から外に出る。
「とにかく会場近くまで行こう。一箇所に留まっているのは危険…………」
早足で先を歩いていた鵜飼が突然止まるので白瀬はその身体にぶつかりそうになる。
「なんだよ?」
緑色の瞳の先にはつい先程病院にやってきた救急車が見えている。救急車から降ろされた担架には顔を殴打され腹部を止血されている高校生くらいの男が横たわっていた。ストレッチャーに乗せられ、その青年が病院に飲み込まれていく。同乗していたらしい若い男が誰にでもなく叫んでいた。
「前のバンが突然止まったらドアが開いてこの子が落ちてきたんだ! 俺のトラックが轢いたわけじゃねえんだよ!」
トラック運転手らしき男はそう喚きながら看護師に詰め寄り、やがて力をなくしたように倒れこむ。
「蓮見!?」
鵜飼が思わず口にした名前で白瀬は全ての察しがついた。ピエロの男が言っていた裏切り者の六神テェオンとは彼のことだ。しかし鵜飼に蓮見と呼ばれた青年は目を開けないまま廊下へと消えていき、自動扉が音もなく閉まる。青白い顔をした鵜飼が外壁を拳で叩いた。
「メッセージを送ってきたのは彼だ……」
傷は深い。意識はまるでなさそうだった。沈痛な面持ちの鵜飼にかけるべき言葉を探したが見つからない。それでも鵜飼は歯を食いしばり、顔を上げた。
「……行こう。僕らが警察にマークされているなら、監視カメラが多いピットは使えない。タクシーと徒歩だ」
「ああ」
鵜飼は情に厚い人間だ。だからこそ、悲しむわけではなく憤っている。
「絶対に捕まえてやる!」
辺りはもうすっかり暗くなっていた。すでに時刻は十九時を過ぎ、パーティも始まっているはずだ。つまり、もういつ何が起こってもおかしくはなかった。
*****
奇妙な奴だというのが第一印象だ。
肥溜めのような旧京浜工業地帯の地下道を行くと、廃工場が立ち並ぶエリアに出る。前を歩く黒髪の男は慣れたようにさっさと歩いていった。
「ねえ。この仕事楽しい?」
ジャンパーの裾が揺れ、男がにやりと笑いながらこちらを向く。佐々木は端的に答えた。
「別に。仕事に主観は不必要だ」
「そう。政治秘書ってのは大変だね」
政治秘書にも様々な人がいる。いずれは政治家になるために修行を積んでいる者もいれば、その政治家そのものに魅入られ仕えるように支持している者。佐々木は前者だった。それでも仕える主人は選んだつもりだった。けれどまさかその主人が、こんな男に手を貸すとは全くの予想外だった。
「今後一切、パトカーを動かすのは禁止だ。数台は貸してやるといったが、勝手な真似をするな」
「ごめんごめん。知り合いに会って興奮しちゃった。ちゃんと手は回しておくから大丈夫だよ」
子供のような大人だなと佐々木は内心で呆れた。突然、無人パトカーで遊び始め、気まぐれに勧誘した少年をナイフで刺し殺し車から捨てる。この男が精神的に色々と欠落しているのは間違いない。
「それより、ほら見てよ。この扉の奥が僕らの控室だ。準備はいい?」
工場用の大きな扉の横に、人が出入りするのに丁度いいサイズのドアがある。男は仮面をつけてからドアノブを回した。中へ入ると五十数人の若者たちがいた。彼らはピエロ面を見るなり、こちらを拍手で出迎える。
「おかえりなさい」
「おかえりなさーい!」
ある者は微笑を浮かべ、ある者は腕を大きく振る。熱烈な歓迎、否、これは一種の信仰だろう。
「えーっと、この人はなんていうか……お客さんだ。みんなよろしく」
正確には佐々木の仕事はこの男が逃げ出したり、政府側に仇名す行為を企ててはいないかを監視するためにここにいる。これまでもこの男を監視していたが、反旗を翻す気配も逃亡する素振りもない。彼は本気で、国家転覆を狙うテロリストをただ演じている。ここにいる全員を騙し、それこそまるでピエロのように味方達を欺き続けているのだ。
「いよいよだな」
「ああ、目にもの見せてやる」
「俺達を馬鹿にしてきた罰だ……」
工場の中は祭りの前のような活気と、この国で虐げられてきたことに対する凄まじいほどの怨嗟に包まれていた。崇め称えている先導者に騙されているとも知らずに愚かなことだと、佐々木は内心で笑っていた。
大きなスクリーンにホテル・マリアンヌのパーティ会場が映る。恐らく監視カメラをハッキングして手に入れた映像だろう。その中にはターゲットとなっている警備庁幹部の役人の姿もある。哀れかな、この男は今日これから起こる出来事を知らない。今回の劇を企てた政府側の連中とは反りが合わず、これから切られる側の存在だ。
作戦はまずホテル内部の管理システムを奪い、停電を起こし混乱を招く。地下道を一時的に完全封鎖し、用意されたルートからホテル内部に侵入、パーティ会場へ潜入し神経ガスを散布。その乱闘のさなか、ターゲットとなる数人を銃で確実に暗殺する。
このような血なまぐさい〈FOLKS〉の一般市民の殺戮は世間の注目を集めるだろう。そしてこちら側も邪魔ものを始末できる。
一部のメンバーは不安げに顔を陰らせていた。恐らくは既に地下道へと潜伏した実働部隊の安否を気にしているのだろう。だがその心配は杞憂だ。なぜなら彼らを秘密裏に誘導しているのは、他でもない警察や警備庁の人間たちなのだから。置かれた砂糖菓子を巣へと持ち帰ろうとする蟻のごとく、彼らの動きは彼らの意思の如何を問わず成功する。そういうプロットなのだから。
しかしこの計画は完璧ではない。恐らく作戦を実行する中でパーティに参加した無関係の人間も死ぬことになるだろう。〈FOLKS〉の実働隊は他の階に被害が出る前に制圧し、神経ガスも最上階のフロア以外には拡散しないが参加者たちの多少の被害は免れないと上は考えている。
東部聖霊病院開設五十周年記念祭。ここに参加している財界の大物や政治家たちを暗殺するのが、〈FOLKS〉の目的、ということになっている。しかし分からないのはこの畑違いでばらばらな出席者たちの素性だった。調査したところ、彼らはこの病院に多額の出資をしているわけでもなく、医院長と特別に懇意にしている仲でもないという。敢えてあげられる共通点は金持ちということくらいだが、この貧富差の激しい社会で金を搾取する人間は、案外大勢いるものだ。
これは本当に病院の開設記念パーティなのだろうかと、佐々木は疑問を抱いていた。けれど、このパーティが何の集まりであろうと彼には関係のないことだ。
「ふー。やれやれ。演技ってのは楽しいけど神経を使うねえ」
かつて事務室だったろう部屋は悪趣味に改造されている。椅子の上に踏ん反り返りながら、男は仮面を外し潜行の準備を始めた。ふと、佐々木が違和感を覚える。
「電脳技師はいないのか? 潜行はペアで行うものなんだろう?」
「んー。まあ九割はそうだと思うけど、僕は逆に技師の指示とかアシストとか邪魔なんだよね。ああいうのはさ、自分と同程度の能力を持った人間と組まないとダメなんだよ。その点、僕はさ、天才だから」
「釣り合うパートナーがいないと?」
「傲慢だよねえ。でも事実だし」
この男の潜行者としての能力は高いらしいが、ただの秘書である佐々木にはそれを確かめる術はない。
「もし寝ているお前の首を絞めたら簡単に殺せるな」
男は大げさに恐怖の顔をつくっておどけてみせる。
「こっ、怖いこと言わないでよ! でも、そんなことしないでしょ。人殺しなんて、できそうな顔してないし」
「殺してるだろ、間接的に。今も目の前の犯罪に加わっている」
「馬鹿だなあ、佐々木くん。利用してるっていうのは、必ずしも加わるわけじゃない」
妙な男だ、と思う。独特の語り口と、どこか軽妙なテンポで喋る。不思議と人を惹きつけ、会話がしたくなる。恐らくここにいる大勢の若者たちも同じ。この男に魅入られてしまった被害者だ。
佐々木は緩みかかった気を張るように目尻を釣り上げる。
「お前の本当の目的はなんだ?」
「あんたの主人がそれを聞いてこいって?」
「いや、残念だがあの人はあんたを金で完全に丸め込めたと思っている。だが俺はそうは思わない。たかが二十億でこんな真似をするものか。勘定が合わない」
そもそも〈青い仮面〉と〈FOLKS〉の両壊滅計画を立てたのは、この国のどこかの椅子に座っている官僚だと言われている。それにはどちらかを味方陣営に巻き込む必要があった。そこで突然、この男が名乗り出てきた。二十億円という金額で、この男は自らが作った組織をあっさりと売り払うと言ったのだ。怪しまない理由がない。けれど現に、彼はときどきイレギュラーや質の悪い悪戯をしながらも、こちらの意図する通りに動いているのは事実だ。
「政治家を目指す連中なんて、ほとんど脳みそが腐ってる奴らと思ってたけど、君は見どころがあるみたいだ。その調子で日本を牛耳ってくれたまえ」
「質問に答えろ。お前も分かっているだろう。シナリオ通りの結末を迎えても、移民に対する大衆の興味関心は薄れるだけで、何も変わらない。それでもお前は末端まで含め千人以上はいる荒くれ者の指揮を執り、政府組織の狗のごとく動いてる。あげく逮捕されることまで織り込み済みだ。初めは誰かに二十億の金をやるのが目的なのかとも考えたが、そんな殊勝な考えがあるとも思えない」
面倒そうに長い息を吐いた男がじっとこちらを見る。両足を机の上に置き、だらりとした恰好をしているのに、その瞳だけは荒々しく獲物を狙う肉食獣のように爛々と光っていた。
「じゃあ、ひとつお願いがあるんだけど。もしも僕が逮捕されたらそのときは、何が何でも僕を死刑にしてほしい」
「は?」
それだけいうと男は薄気味悪く笑ってから、電子の海へと降りていった。目を閉じて石像のように動かない。
「いかれてるな……」
今、両手に力を込めて首を締めれば世界の何かが変わるかもしれない。けれどそれはできないことだと、自分が一番よく分かっていた。
佐々木は部屋から出て、大きく息を吸う。あの男の最後の言葉を聞いた瞬間から指の先が震えていた。
*****
日本橋にあるホテル・マリアンヌのロビーには厳重な警戒態勢がひかれていた。〈FOLKS〉の都内無差別テロの決行宣言による影響でいつも以上にチェックが厳しくなっているらしい。国際空港のような手荷物検査と金属探知機での検査、身元のよく分からない人物はもちろん、予約なしでレストランに行くのも断られていた。ロビーでは百人以上の人々が列を為し、もうまもなくパーティーが始まろうとしている。
「やけに混雑してるじゃない。このままじゃ間に合わないわ」
パーティ用のドレスを着た母親がぶつぶつと文句を言う。
「あと絵里。いい加減、その顔を止めて。笑いなさい」
そしてそのお小言はこちらにまで飛んでくる。
紺色にパールの刺繍をあしらったAラインのカクテル・ドレス。こちらの意見など訊ねもせずに、母が新調したドレスだ。いくら暖房の効いた部屋でも着ているだけで鳥肌が立つ。この刺繍の中の鳥のようにこのまま逃げていけたらと思いながら観月は母の顔からそっぽを向いた。
腕時計を見た父が踵を返す。
「仕方ない。裏から入れてもらおう。あそこならチェックはないはずだ」
「そんなのいいの?」
「正面入り口もたまにはいいかと思ったがね。慣れないことはしない方が良いな」
話しが聞こえていたのか、列に並んでいた人がジロリと睨むようにこちらを見る。そんな目線など気にもせず、いや、感じたうえで悦に入っているのか、両親たちは楽しそうに裏手に回っていった。
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