【第二章 塩基配列】


 翌日の朝は昨晩の嵐が嘘のように青々とした空が広がっていた。自室のベッドから起き上った白瀬慶介はセルを片手に家族のいるリビングへと降りていく。中学生の妹がソファに座り、母はキッチンで朝食の支度をし、父は夜勤でまだ帰ってきていなかった。

 昨夜遅く、野良猫のような濡れ具合で帰宅した息子に、母は眉をへの字にして呆れた顔をした。しかしまたいつもの悪い病気かと思ったのか、何も言わずお風呂を沸かしてくれたのだった。母の愛には感謝したが、詳細を話すつもりはなかった。だから家族は昨晩何があったのかを知らないが、何か大きなヘマをしたのだろうとだけは察しているらしい。

 ダイニングテーブルに座り、目玉焼きとトーストを口にする。セルを動かしていると目当ての記事を見つけた。

 『宝石強盗逮捕。十七日深夜二十時半、銀座の宝石店メトロポリタンに強盗が押し入り、店長の早海薫さん(四十五)が銃で撃たれ死亡した事件の犯人が逮捕された。犯人は八洲共和国出身の唐木ショアン容疑者(二十五)、眞知田フォウラ容疑者(二十八)、篠ノ井マウラ容疑者(十九)。三人はいずれも黙秘しているが、唐木ショアン容疑者は同店舗の元社員で、半年前にリストラされていた。そのことから警察は唐木容疑者が早海氏を逆恨みをし、仲間を募って犯行に至ったのではないかとして調べを進めている。また同店舗のバイオ・セキュリティを突破した侵入者二名と電脳技師一人が逮捕され――』

 八洲共和国というのは日本と同じ東アジアに位置する小国で、その国の若者は出稼ぎ労働者として日本や、中国、韓国などで暮している人が多いと聞く。単純な知的作業の多くはロボットがこなしているが、人と接する仕事現場では未だ人間優位の風潮があり、多くの外国人労働者は接客業で生計を立てているのだ。恐らく唐木ショアンもそうした労働者の一人であったのだろう。

「ねえねえ、お兄ちゃん。リモコン知らなーい?」

 不貞腐れた顔の妹がリビングのクッションを動かしながら訊ねてくる。

「知らねえよ。あ、そこにあるだろ。ソファの下」

「あった! 早くしないとスターマインズの特集始まっちゃう!」

 妹はいわゆるドルオタで、今朝はニュース番組のエンタメ特集で目当てのアイドルがフォーカスされるらしい。リモコンで音量を上げて、嬉しそうに笑っていたが、次の瞬間この世の終わりというような顔で画面を見た。

『特集を予定していたスターマインズですが、番組の構成を急遽変更し激化する移民排斥運動についてお送りします』

「ええ!? そんな~!」

 バスバスと妹の手により白クマのクッションの顔が叩かれて少し凹む。妹には悪いが、白瀬は駆け出しの新人アイドルグループよりもそのニュースの方が気になった。画面では専門家を名乗るどこか頭の良い大学の教授が喋り始めていた。

『まずはこちらのグラフをご覧ください』

 それは現代社会の授業でもよく見せられる人口変化のグラフだった。かつて少子高齢化社会といわれていた日本は、子育て環境の見直しや医療福祉制度の改善、そして移民労働者の受け入れを続け、一億三千万人にまで人口を回復していた。しかしその莫大に増幅した人口を制御しきれず、治安が悪化、都内でも絶対に近寄るなと耳に胼胝ができるほど言われ続けるようなダウンタウン化した街が現れ始めた。

人が増えれば当然、犯罪が増える。また労働者が増えても仕事そのものが増えなければ、自然と奪い合いが生まれる。そして淘汰に敗れた者は貧しくなり、また文字の読み書きもままならない外国人は福祉や法のサービスが行き届かず孤立していく。そうした移民の問題は白瀬が生まれるずっと前からあらゆる国で論争の火種となっていた。

『しかし昨今では、移民労働者や出稼ぎの外国人労働者の待遇も随分と改善されたと世論調査では結果が出ていますが』

『ええ、そうですね。今では外国籍の方も、移民も日本人もその犯罪率はほぼ変わりません。しかし差別の芽は根深く、昨年末からは〈青い仮面(ブルーパーソン)〉と名乗る過激な移民排斥組織が目立つようになりました』

 画面が切り替わり、夜の歩行者天国が映された。広い大通りを青い仮面をつけ、白い服を着た人々がプラカードや蝋燭を片手に練り歩いている。一見、ヨーロッパのお祭りを思わせるような風貌だが、そのプラカードに書かれているのは〈GET OUT(出て行け)〉という言葉だった。その数はざっと見で百名を超え、男性も女性も若者も老人もいた。

『こうした差別用語を叫びながら行うデモ行進が〈青い仮面〉の一番の特徴です。強迫的なメッセージで、日本に住む外国人労働者の多くが傷つけられ、日常生活に不安を抱いています』

 美人の女性アナウンサーが、大変残念ですというように頷く。

 しばらく頬を膨らませていたがニュースを見続けていた妹は、兄の方を向く。

「でも、どうしてみんなピエロみたいに仮面なんてつけてるんだろう。別にデモ自体は犯罪じゃないじゃん」

 白瀬は温められたコーヒーを飲みながらバーカと言った。

「コンプライアンスがちがちの企業の勤め人がこんな活動に参加してるってバレたら、即刻クビになるからに決まってるだろ」

「ならやらなきゃいいじゃん」怒ったように妹は口を尖らせる。「匿名だから好き放題いうなんて卑怯だよ」

「そうだな」

 けれどそれもどこか遠い国のことのように感じるのは、自分が当事者ではないからだろう。

『排斥過激派が台頭する一方で、同じ時期から排斥運動に抵抗する〈FOLKS(フォークス)〉という組織が現れ始めました。主に八洲共和国出身者で構成されています』

『〈青い仮面〉と〈FOLKS〉はたびたび衝突していますよね。先月は機動隊が出動する騒ぎとなり、両グループから二名が逮捕され、巻き込まれた負傷者もいました』

 ゲスト席にいる中年のお笑い芸人が急に間に入ってくる。

『〈FOLKS〉が〈青い仮面〉のメンバーを襲ってるなんて話も聞きますよね?』

『はい。ですがあくまでも〈FOLKS〉は一般市民には手を出さず〈青い仮面〉だけを狙うと宣言していまして。そういった意味では一般人に危害が及ぶようなことはないでしょう。手段はともかく、差別に抵抗するという志は理解できますね』

 スタジオに奇妙な空気が流れる。〈FOLKS〉を庇うような発言をした男に非難めいた視線が注がれた。

 キッチンにいた母が、テレビを見ながら怖いわねと呟いた。どちらがかと聞き返そうかと思ったが、恐らく世論の大半がどちらも怖いと答えるだろうと思ってやめた。白瀬も同じだ。いくら一般市民を襲わないといったって、道端で乱闘騒ぎを繰り広げる組織なんて、迷惑以外の何物でもなかった。どちらも今すぐいなくなってほしいというのが、世の中の総意に違いなかった。

 仕度を終えて家を出て、学校に行くため最寄りのピットの駅に行く。すると普段とは違い、改札口の電光掲示板がチカチカと光り、駅員とサポートのロボットがぺこぺこと頭を下げているのが目に入った。足元に車輪のついた小型のロボットがすいーっと白瀬の前にやってくると、また頭を垂れる。

「申し訳ありませんが、当駅は〈青い仮面〉の座り込みの影響により、ただいま運行を見送っております。振替輸送をご希望のお客様は――」

 どうやら〈青い仮面〉が線路内に立ち入り座り込んでいるらしい。この様子だと隣の駅もダメだろう。そうなると少し離れたところにある地下鉄を利用するしかなく遅刻確定だ。周りのサラリーマンたちもやれやれといった顔でセルを取り出し、一斉に会社に連絡し始める。中にはロボットに向かい怒髪天を衝く勢いで怒りだす人もいた。

そんな様子を見ていた白瀬は少し皮肉な思いがした。こんなときに真っ先に考えることが遅刻確定だという自分は、まるで戦地の外にいると思い込みながら空を飛ぶ鳥のようだ。いつか撃ち落されるなどとはまるで気づかない、白い鳩。そしてどこまでも他人事だと考えている間抜けな鳥のようだった。


 *****


 隣の席の鵜飼恭一は、とにかく目立つ生徒だった。

 私立春霞大学附属高等学校電脳技師科は、全国でも有数の難関校で当然入試は熾烈を極める。

 そして今年、電脳技師科にトップ成績で合格したのがこの鵜飼恭一だ。名簿順でいつも一番前の席にいる彼に、ある者は嫉妬を、ある者は羨望の眼差しを向けていた。しかし隣の席の蓮(はす)見(み)悠(ゆう)平(へい)は、そのどちらでもなく、いわば別世界の人間として鵜飼のことを捉えていた。

 当初、蓮見は彼のことを学校中の人気者になるだろうと思っていた。そういった素質がありそうに見えたのだ。しかしなぜか彼はいつも一人でいたし、笑った顔すら誰にも見せなかった。

 そんなある日、クラスカーストのトップに君臨する王様、豊川が鵜飼に声をかけた。豊川は金持ちばかりが通う春霞校の中でも他とは一線を画した元財閥の家系だった。

「いつも本読んでるけど友達を作らないのか?」

 豊川が自ら他人に声をかけるところなど、そうは見られない。タブレットで本を読んでいた鵜飼は、そっと視線を上げて目の前の豊川を見る。

「必要ないし、作るつもりもない。要件はそれだけ?」

「あっははは。面白いね、鵜飼くん」豊川は明らかに焦っていた。こんなタイプの人間に出会うのが初めてだったのだろう。無論、蓮見も初めてだ。「まあそういわないでよ。それに僕と友達になった方が色々と得だよ。僕は豊川財閥の長男なんだ。コネクションを作っておくのは将来にも役立つだろう」

「へえ。君は将来、どこかの企業の社長になるのか?」

 それは良いことを聞いたという風に鵜飼は目を細める。

「まあね。目下勉強中の身だけれど」

「ならもう僕に構うのはやめた方が良い。君の大切な時間を無駄にする。そうだろう? 次点なんだから」

 そのとき確かに蓮見の耳にはカーンッという甲高いゴングの音が聞こえた気がした。鵜飼は暗にお前は俺より下の二位なんだから他人に構わず勉強してろと言ったのだ。あの豊川に。清水の舞台から飛び降りるどころの騒ぎではない、富士山山頂からの自由落下だ。豊川は金魚のように、二三度口を動かしてから、顔を真っ赤にして教室から出ていった。カーストの底辺にいる蓮見にとってその事件は痛快以外の何物でもなかった。

 そんな学年を揺るがす大事件の後からは、鵜飼に話しかけてくる猛者は消えた。鵜飼はいうなれば名誉ある孤立を手に入れ、いじめられることもなければ話しかけられることもない。クラスの先頭に居ながらも圏外に存在する奇妙な存在となっていた。

 だが、そんな世界の外側の住民に、蓮見はひょんなことから親近感を抱くようになった。

 それは五月から始まった体育の授業でのことだ。四月の卓球から五月はソフトボールに変わった。少年野球の経験がある蓮見にとっては楽しい時間になりそうだった。ウォーミングアップのため友人とキャッチボールをしていると、体育教師が声をかけてきた。

「蓮見、経験者だったよな。悪いんだが、キャッチボールのペアを鵜飼と組んでくれ」

「はい、いいですけど……」

 グローブを持った鵜飼が、どこかよそよそし気に蓮見を見てくる。なぜそんなことを頼むのだろうかと不審がりながら、蓮見は山なりに緩いボールを投げる。まずは鵜飼から投げてくれという意味で投げたボールは鵜飼のグローブではなく、なぜか彼の額に直撃した。

「っ……!!」

「ご、ごめん。大丈夫!?」

「ああ……。平気だ」

 うっすらと赤くなった額ををさすり、鵜飼は地面に落下したボールを掴み、空へ投げる。しかしそれはただ直角に上へと投げられただけなので、重力に従いまた真っ直ぐに落下し、再びグローブをすり抜けて彼の額を直撃した。

「っ……!!」

 あまりの出来事に蓮見は我が目を疑った。気難しいが孤高であると思っていた秀才像が音を立てて崩れていく。体育教師が鵜飼とペアを組むように言ったのは彼が壊滅的な運動神経を有していたからだと、そのときようやく理解した。

「あの、もしかし鵜飼くんって……」

 額が痛むのか少し涙目になりながら、鵜飼が吠える。

「何も言うな!!」

 目には見えない膜のようなバリアのようなものが、そのとき少し和らいだような気がした。蓮見は笑いをこらえきれず、しばらく声を押し殺したままお腹を抱えていた。

それからソフトボールの授業では鵜飼がピッチャーになるときは必ず蓮見がキャッチャーを務めた。彼の暴投を掴めるのはクラスでは蓮見だけしかいなかったからだ。


 鵜飼とは友人というには遠いが、それなりに言葉を交わすようになった。とはいえ蓮見は元からつるんでいるクラスメイトがいたので昼食を共にしたり帰りに寄り道をしたりすることなどは一切なかったが、彼は体育の恩を返すといって授業の分からなかったところを質問すれば丁寧に返してくれたし、廊下で挨拶をすれば普段通り淡泊に返事をした。

 けれど恐らく、鵜飼と親し気にしたことで蓮見は目をつけられた。もちろんあの悪名高い豊川にだ。

 いつも通りに蓮見は下校のために駅へと続く立体歩道橋を歩いていた。時刻は午後五時すぎで、部活動を終えた人間が帰るにはまだ少し早く歩道橋に人はいなかった。燃えるような赤い大きな夕焼けが、白いタイルを染め上げている。妙に不気味な雰囲気だと感じながら一人歩いていると、その先に豊川とその取り巻き数人がこちらをにやにやと笑いながら見ていることに気がついた。

 どうしたものかと蓮見は判断に迷った。このまま踵を返し、別のルートから駅に行こうかと思ったが、あちらは完全にこちらをロックオンしていた。

「よお、蓮見。今、帰りか?」

 取り巻きの一人がこちらに近づき、肩を組んでくる。急なことで、蓮見は頭が真っ白になっていた。

「な、何か用?」

 目の前の豊川が、こちらを見下して笑う。

「いや、用ってほどじゃないんだけど、妙な噂を聞いてさ」

「噂? なんのこと?」

「君、本当は六神(むかみ)テェオンって名前なんだって?」

 その瞬間、足元からばらばらと地面が崩れ落ちていくような気がした。指先と足先から力が抜けていく。どっと冷汗が噴き出てきて、蓮見は震えだしそうな膝を必死で押さえた。その反応を見た豊川が満足げに鼻を鳴らす。

「へえ、やっぱりそうなんだ。ソラリスの闇市場(ダークネット)でちょっと調べてみたら出てきてさ。君のお父さんもお母さんも八洲の人なんでしょ?」

 蓮見は八歳のときに両親と共に日本に帰化し、今の名前となった。父親は大きくはないが警備会社の社長をしていて、母は八洲の名家の生まれで先祖や国を大切にしろと子供のころから教えられた。もちろん蓮見は自分の出自に誇りを持っていないわけではなかったが、この国ではこの名前の方が生きやすいことはよく知っていた。

「だ、だったら何……?」

 恐る恐るだが、お前たちの脅しには屈すまいと蓮見はそう返した。

「へえ、気にしてないんだ」

「当たり前だろ。恥ずべきことなんかじゃない」

「じゃあ、クラスのみんなにバラしても良いよね」

「へ……?」

 ピロンとセルがメッセージを受信する音が、豊川や蓮見、取り巻き立ちから一斉に聞こえてくる。蓮見は慌てて鞄の中からセルを取り出した。クラスのチャットグループに蓮見の出自についての情報が事細かに書かれている。次々と既読のマークがつき、驚いた顔や悲しそうな顔のアイコンがぴょこぴょこと間抜けな音を立てながら表示されいていく。

 蓮見の顔からさっと血の気が引いていった。今までずっと誰にも言えなかった秘密が、こんな奴らのせいで大勢に拡散していく。しかし許せないという気持ちよりも先に蓮見を襲ったのは恐怖と不安だった。

「じゃあ、六神くん。また明日」

 豊川はそれだけいうと取り巻きを連れ、去っていった。取り残された蓮見は、膝から崩れ落ち呆然とセルの画面を見つめていた。


 翌日から蓮見の周囲は少しずつ歪みだした。まず教室に入ると、さっと周りが静かになる。いつも一緒に話をしている友人たちに挨拶すると、ぎこちなく挨拶が返ってきた。話題で盛り上がっている中に入ると、膨れていた風船がしぼみだすように途端にテンションが下がってしまう。輪の中に入ってくるなというセリフが言外に伝わってきた。

 物が無くなるようなことはなかった。所謂、教科書が水浸しにされてズタボロにされることもなかったし、机も椅子も綺麗だし、カツアゲされることもなかった。ただ周りにいる人々から熱という熱が消えていた。

「どうして避けるんだよ! 俺が八洲の人間だからか!?」

 帰宅間際、人が疎らになった教室で蓮見は友人たちに詰め寄った。同じくクラスカーストの下層部にいる彼らは気が弱く、積極的に差別をするような人間とは思えなかった。

「別にそんなことないよ。レイシストじゃないし」

「そうだよ。生まれた国で差別なんてしない」

 でも、と一人がおずおずと声を上げる。

「お前、〈FOLKS〉と関わってるんじゃないか?」

「え……?」

 〈FOLKS〉ってあのテロ組織まがいの犯罪組織のことかと、思わず蓮見は聞き返していた。

「だって〈FOLKS〉の構成員は八洲共和国の出身者が多いって、ニュースで言ってたし」

「それにほら、見ろよ」

 友人がセルの画面をこちらに見せる。そのグループは蓮見が知らないうちにできていた、蓮見を抜いたクラスメイト達のチャットグループだった。そこには蓮見が〈FOLKS〉のメンバーではないかと警察から疑われているといった根も葉もない噂が真実味のあるように書かれた情報ソースが載っていた。

「こんなの出鱈目だ!」

「証拠は?」

「え?」

 友人たちはまるでこちらが正義と言わんばかりに、蔑みの視線を蓮見に向ける。

「証拠がないなら疑うのは当然だ。そもそも君は僕たちを騙してたじゃないか。だったらもう、信じられないよ」

 証拠なんて、あるはずがない。そもそもそんな嘘を書き込んだのはどうせ豊川の取り巻きたちだ。出自を黙っていたのは、話す必要がなかったからに他ならない。なのになぜ、そんな話を信じるんだ。どうして、目の前の人間を信じないで裏付けのない情報を信用する。

「それに母さんがよく言ってる」誰かが小声で囁いた。「八洲人の血は穢れてるって」

 もうどんな正論も反論もきっと意味をなさない。今ここで、彼らと蓮見は分断されたのだ。


 それから数日、どう過ごしていたのかは分からない。ふらつく頭で授業を終え、蓮見は教室を一人後にした。

これから帰ってまた歩道橋で豊川たちと出会ったらと思うとゾッとする。せめてどこかで時間を潰そうと自習室へ向かおうとしたが、あそこはいつも人が多くて今の蓮見ではとても穏やかな気持ちになれそうになかった。

自然と足は、二つあるうちの古い方の図書室へと向かっていた。その図書室は北校舎三階の端にあり、初老の司書さんとカビの生えていそうな古い郷土史、申し訳程度の机と椅子が数台置かれている。文学好きそうな女子生徒が二人と、図書委員。そして椅子に座って勉強している学生が一人いた。背後からでも目立つ綺麗な金髪が、夕日に照らされ赤くなっている。

「鵜飼くん?」

 くるりとその顔がこちらに向く。

「ああ。えっと、蓮……。蓮……。キャッチボールの得意な君だな」

「ひどいな。蓮見だよ」

 冗談だか本気だかよく分からない発言に、思わず蓮見は苦笑した。

この返答からしても鵜飼が数少ない、いつも通りの人間であることは明白だった。そもそも鵜飼はクラスのグループに参加していないし、グループの存在を知っているのかも怪しい。当然、リークされた蓮見の秘密も知らないだろうし、クラスで微妙にハブにされていることも、もともと人間関係に無頓着そうな鵜飼が気づいているとも思えなかった。

 鵜飼は悪びれる様子もなく続けた。

「普段使わないから人の名前を覚える機能が低下しているんだ。それで、何か用か? セルのIDは教えないぞ、写真も撮らない、カラオケにも行かないし、告白は断る。調理実習で作ったいかなるものも受け取らないし、部活動の勧誘は全てノーだ」

 お経のように禁止項目を並び立てるその口調から、ここ一か月の彼の苦労が読み取れる。この図書室も彼からすれば、ようやく手にした安寧の地なのだろう。蓮見はこの日初めて、少し笑った。

「どれも違うよ。第一、セルのIDならこの前合同研究をするとき教えてくれたでしょう。結局、使わなかったけど。もしかして登録してない?」

 そのことをすっかり忘れていたのか、鵜飼は疑いの眼差しをこちらに向ける。

「言っておくが、あれはフェイクの番号だ。悪用しようとしても無駄だぞ」

「鵜飼くんってもしかして人間恐怖症?」

 警備員は二人一組。蓮見はフリーで登録しアルバイトをしているため決まったパートナーはいないが、鵜飼にはいるらしい。驚くべきことだ。いったいどうやってこの頑固な老人のように気難しい彼を相手しているのだろうか。なんにせよ、とてつもなく社交的で懐の広い人には違いない。

「それで何の用だ?」

「いや、何でもないよ。たまたま見かけたから、声かけただけ」

 相談しようか、と一瞬そんな考えが頭をよぎった。実はいじめられてるみたいなんだと打ち明けるのだ。しかし言ったところを想像してみて、止めた。なぜかは分からないが、鵜飼には何も知られたくないと思った。せめて彼の頭の中だけは、キャッチボールの上手い蓮見悠平でいたかったのだ。

「そうか。悪いが人と会う用があるんだ。失礼する」

 そういうと鵜飼は立ち上がり、ラップトップを鞄に仕舞い立ち上がる。

「ああ、うん。また明日」

 建付けの悪い引き戸を慣れた手つきで締めながら、ふと鵜飼がまたこちらを見た。

「大丈夫か?」

 それはほんの些細な違和感を見つけたという程度の軽い疑問符だった。昔から潜行者の心的管理も技師の仕事のうちと言って、人間観察に長けている方が良いという。そんな観察眼があるのかないのか、鵜飼はそう訊ねてきた。

「……大丈夫だよ」

 だが嘘を見抜くほどの素質はないようだった。


ビクビクと怯えながら蓮見はまた例の立体交差式の歩道橋を歩いていた。あたりにはちらほらと学生や仕事帰りのOLやサラリーマンの姿もある。これだけ人がいれば豊川も悪さはできまいと、少し安心したが、一様に皆が橋の下の道路をちらちらと見ているのが気になった。蓮見も興味本位で覗いてみると、百メートルほど離れた先で何やら乱闘騒ぎがあるようだ。青い仮面をつけた人々と、若者たちが取っ組み合いの喧嘩をしている。鉄パイプを手にしているような輩もいれば、ひたすら笑い転げてセルで写真を撮っている奴もいた。その数は総勢五十人は超えていて、道路を遮られた車は立ち往生し、付近の飲食店のテラス席から慌てて客が逃げていく。警察のサイレンの音が遠くから聞こえてきた。

 今話題の〈青い仮面〉と〈FOLKS〉の争いだろう。

 馬鹿馬鹿しいと、普段の自分ならすぐに目をそらしていたが、今のは蓮見は半ば義務のような気持ちでそれを見ていた。

 蓮見は確かに移民であったが、裕福な家庭で育ち日本語にも不自由していない。日本のことも好きだった。だから〈FOLKS〉のような半グレたちの集団が、同じ八洲を出自とする者として許せなかった。そしてもっといえば、馬鹿にしていた。俺はお前たちとは違うんだ、という風に。しかし現実はどうだろう。何も変わらなかった。結局、いくら何をしたところで、たった一つのデータだけで人生が覆された。

「気に喰わないなって顔してるね」

 まるで自分の胸のうちを言い表したようなその言葉に、蓮見はハッとして声の主を見る。二十代後半くらいの男が、いつの間にか隣に立って、柵に頬杖をついている。

「誰、ですか……?」

 黒い髪は少しハネていて、着ているのはダボッとしたカーキのコート。浮浪者というほどではないが、日本人ほど身なりが整っているわけではない。どこか異国の雰囲気がある男だったが、不思議とその顔は凶悪そうには見えなかった。彼は笑った。

「誰って、誰でもないよ。通りすがりのお兄さん。そういう君は、春霞のお坊っちゃんか。すごいね、頭いいんだ」

「あ、ありがとうございます……」

 唖然としたまま、蓮見はほぼ自動的にそう返事をしてしまう。男はお礼が言えるなんて良い子だねと馬鹿にしているのか本心なのかよく分からない笑顔で頷く。

 サイレンの音が止み、警察が二つの組織の乱闘騒ぎに介入をし始めた。殴る蹴る叫ぶなどをしながら走り回るどちらもが、蓮見には馬鹿らしくもあり悲しくもあった。男もそれを眺めながら、冷めた笑みを浮かべる。

「日本人と八洲人はDNAがほんの少しだけ違うらしいよ。それでもって、日本人の方が優秀な遺伝子を持っているんだ。まあ〈青い仮面〉がでっち上げた嘘かもしれないけど」

「信じてるんですか?」

 思わず自分の目尻がキュッと釣り上がるのを感じる。男は、まさかと首を振る。

「だとしたら僕が天才である理由に説明がつかないだろう。だが、違いがあるのはたぶん事実だ。やれやれ、まったくDNAっていうのは厄介な発見だよ。否が応でも知らされる。自分が何者なのか。そしてこれからどうなるのか、全て。たった4種類の塩基の配列で何もかもが定められてしまうなんて、とんだディストピアだ」

「そう、ですよね……」

 それはこれからも変わらないのだろうか。これから先、ずっと八洲の生まれだという事実は隠し続けなければならないのだろうか。それも全てこの、欺瞞と偽りに満ちた世界で生きるために。しかし隠し続けることこそが、こんな社会を迎合するひとつの力になってしまうのではないだろうか。そう考えると蓮見は何をすべきか分からなくなった。ただ一つ確かなのは、こんな社会が認められないということだけだ。

「興味があるなら来るといい。歓迎しよう」

 そういって男は、カードのような小さいプラスチック製の板を寄こした。読み取り式チップだ。

「これは?」

「地図は中に入ってる。それを見せたら誰かが案内してくれるだろうさ。んじゃ、僕はここで。バイバイ」

 子供のように手を振ると、その男は駅の方へと軽快な足取りで消えていった。取り残された蓮見は呆然とチップを見つめる。なぜかは分からないが、大きな力を手にしているような気持ちになった。


 *****


 白瀬は潜行者としてだけではなく、その運動能力も恵まれていた。部活動の勧誘期間となり、背が高いことも手伝ってバレー部やバスケ部ありとあらゆる体育会系の部活からお声がかかったが、そのどれもを白瀬は丁重に断っていた。

 「なんでだよ、もったいねーな」

 放課後の教室掃除をしながら、白瀬の友人がそう訊ねてくる。今しがた教室に来た陸上部の上級生からの誘いを断ったばかりの白瀬は、慣れない勧誘の対応にほとほと疲れていた。

 「部活動は苦手なんだよ」

 「上下関係とかが?」

 「いいや。そうというよりは……。笑うなよ?」

 「笑わねえよ」

 「……勝ち負けのあるスポーツが苦手なんだ」

 「はあ?」

 呆れ顔で清掃ロボを修理していた別のクラスメイトが振り返る。どうせそんな反応が返ってくると思っていた白瀬はさっと自分の手で耳を塞ぐ。反論はセルフシャットアウトだ。

 子供の頃、どうしてもメンバーが足りないからと少年野球の練習試合に飛び入りで参加した。劣勢だった試合にツーアウト満塁でバッターボックスに立った当時小学三年生の白瀬少年は、そこで見事にホームランを打ってみせた。結局その試合は負けたのだが、試合後敵チームのピッチャーが声を上げて大泣きした。なんでもその少年は都でも実力のある投手で、ぽっとでの助っ人にホームランを打たれたことが悔しくてたまらなかったらしい。そのとき白瀬は、いたく狼狽えた。自分がたまたま運動神経がよく、他のみんなよりも体格がよかったというだけの理由で、彼の今までの努力を踏みにじってしまったことが申し訳なかった。またなんの努力もせずに勝った自分が恥ずかしかった。だからそれ以来、なんとなく野球から遠ざかり、運動部にすら距離を取るようになってしまった。

「勝ち負けが苦手ってそんなんじゃ生きていけねえぞ」

 顔を少し赤らめた白瀬は、怒ったように目をそらす。

「分かってる。でも、苦手なんだから仕方ないだろ。それに部活もバイトも器用にこなせるタイプじゃないから、これでいいんだよ」

 だが悪いことばかりでもなかった。その経験の後、小学生だった白瀬はこれまで以上に潜行者としての訓練に励むようになった。もうあんな気持ちになりたくなかったのだ。頑張ったのだから、努力したから結果が得られたのだと思えるようになりたかったのだろう。

 そんな決意など、白瀬は昨日まですっかりと忘れていた。急に思い出したのは宝石店でのことがあったからだろう。

 まだ小さい頃は、警備員になろうとする意志が今よりも強かったような気がする。人の命を背負うという恐怖を知らなかったからだろう。

 その重圧を知った今、自分はどうしたいのか白瀬は考えあぐねていた。

 自警団は相変わらず続けていくつもりだ。急な欠員は迷惑だろうし、鵜飼との契約はまだ半年残っている。せめてその半年後までは潜行活動を続けなければならない。では、そのあとはどうする?

 何か他に夢があるわけではない。ただ目の前の壁が乗り越えられそうにないというだけが理由の、みっともない撤退だ。鵜飼は見苦しいと言うだろうか。しかし白瀬にとってはあまりに大きな問題だ。

 人の命を背負うということは、画面の奥のヒーローの仕事のはずなのに。現実には今日も、誰かが確かにそれを背負っている。どんな気持ちなのだろう。そして、それはどれだけの覚悟なのだろう。

 ふとしたときに思い出すのは、銀座で見た泣き崩れる女性の顔と白い菊。オートマチックにリピートされて、頭からこびりついて離れない。

「ねえねえ、北門にすっごいイケメンがいたんだけど!」

 ふと廊下から同級生の話し声が聞こえてくる。見ると教室でミーティングをしていたらしい女子テニス部員たちが、きゃあきゃあと小鳥のように喋っている。

「えー? 誰々、サッカー部の人?」

「ううん。春霞の制服だった。もうすごいの、モデルっていうか王子様みたいな!」

 白瀬を除いた教室内の男子たちが苦そうな顔をする。

「いいねえ、イケメンは。俺も友達にいたらなあ」

「いやいや、イケメンの友達なんて比較されるわ、やたら目立つし女子から連絡先聞かれまくるだろうし、絶対にろくなことないだろ」

「確かにそうかも……」

 白瀬はそう小声で呟いてから、廊下を歩く女子に声をかける。

「ねえ、その人ってもしかして金髪でハーフっぽい感じ?」

「そうだけど、何? 慶介、友達なの?」

「たぶん」

 間違いなく鵜飼だ。しかしなぜうちの高校に来たのだろうか。春霞は駅を挟んだ向かいだが、セルに連絡の一つでもいれればいいのにと思った。

 話を聞いた女子生徒が、とたんに前のめりになり目を輝かせる。

「ほんと!? 連絡先教えてよ!」

「やだよ。直接アタックして」

 そう断りながら白瀬は、教室掃除をクラスメイトに託し北門へ向かおうとする。その背中に向かって、また女子生徒が声をかけた。

「あと、女の人もいたよ。春霞の。たぶん三年生じゃないかな。清楚そうな美人」

「わかった。ありがとう」

 よりにもよってなぜ。鵜飼と観月の組み合わせは、人目を引きつけることに違いなかった。

 北門には妙にゆっくり歩く男子生徒や、早口で囁きあう女子生徒がいた。その小さな人の輪からひょっこり顔を出してみると、やはりあの二人がいた。

「こんちには、白瀬くん」

「こんにちは。あの、どうしてうちに? っていうかセルに連絡してくれれば、すぐに来れたのに」

 観月は穏やかに微笑む。

「わざわざ急がせるのも申し訳なかったから。ここで待ってればいつかは通りかかると思ったの」

「帰る前に観月先輩が僕のクラスに来て誘われたんだ。相談があるとかで」

「相談?」

「ええ、でも立ち話もなんだし、カフェに行きましょう。御馳走するわ」


 観月が連れてきてくれたのは、目白駅から少し歩いた小さな喫茶店だった。普段なら立ち寄らなさそうな店だなとぼんやり考えながら、メニューを見ているとその値段の高さに思わず声が出そうになった。ブルーマウンテンコーヒー、一杯920円から。とてもじゃないが、おごりでなければ来られそうにない店だ。躊躇いなく注文する観月と鵜飼に続き、白瀬はおずおずとその一番安いコーヒーを頼んだ。

「まずは宝石店の件、解決してよかったわ」

「だけど、引っかかりますよね。三人ともまだ黙秘を続けているとか」と白瀬が言う。

 主犯格の男の名は唐木ショアン。どこにでもいる八洲共和国出身の移民労働者だ。報道でも店主にリストラされたことに腹を立てたことによる怨恨と宝石強盗の二つが犯行の理由だとされていたが、本人はなぜかそれを否定も肯定もしていない。

 遠慮なく――というか彼らにとっては高い値段ではない紅茶を頼んだ鵜飼が口を開く。

「侵入者と技師の三人は遅効性の毒を飲んで署内で自殺したらしい」

「えっ!? マジで?」

「なんにせよ、現実は警察の仕事よ。それに何も言わない犯罪者もいるわ。何かをやり遂げた後は、総じて頭の中が真っ白になるものでしょう?」

「そうなんですかね……」

「それで、ご相談というのはなんでしょうか?」

 観月は運ばれてきた値の張る方のコーヒーにシロップを入れて、マドラーでゆっくりとかきまわす。その顔はどこか暗く、その目には何か覚悟を決めたような色があった。

「相談というよりも実は折り入って頼みたいことがあるの。驚かないで欲しいのだけれど、自警団の中に機密を外に漏らしている人物がいるかもしれない」

 これには常日頃ポーカーフェイスの鵜飼も驚いた表情をした。

「スパイってことですか?」

 観月はこくりと頷いた。

「考えすぎかもしれないけど、通信手段を盗聴されていたら困ると思って直接会いに来たの」

「でも、どうしてそんな考えに?」

「少し混み入った話になるけど、自警団の地域活動の依頼受注のことは知ってるわよね?」

「はい。前の宝石店もそうでしたよね」

 自警団は地域の個人商店などのセキュリティに貢献している。要は、無償の学生ボランティア活動である。人件費がかかるため未だにバイオ・セキュリティを導入していない店は多いのだ。

 しかし畠山のような目立ちたがり屋の自警団員の目的は、国家警備員と合同で行うインターン研修、通称学生警備員育成プログラムにある。これは現場で働く国家警備員と共に都内のインフラに関わる重要な機密やシステムの警備に立ち会えるというものだ。時間的にどうしても警備が手薄になる時間帯に学生の警備員を投入している。こちらは貴重な体験ができるわけだし、双方にメリットのある制度だった。

「実は研修中の急襲が去年から異常に増えてるの。この研修は、メリットも多いけど国家警備員だけの警備が手薄になる時間帯を晒すようなものだから、基本的にスケジュールは非公開。学生への告知も当日にミーティングルームで行うようにしているわ。けどたぶん誰かがスケジュールを漏らしてる」

 話を聞いていた鵜飼が頷く。

「なるほど。では便宜上その裏切者を内通者Xとしましょうか。観月先輩がXの存在を疑うのは分かりましたが、証拠はあるんですか? ただ襲撃が増えているというだけでは、ただの偶然ということも……」

  観月は曇った表情で首を横に振る。

「本来スケジュールは私や八神くん、幹部数名しか触れない自警団本部にある専用PCで国家警備員と直接やり取りしているの。怪しく思ってそのPCを詳しく調べたらそのスケジュールを不自然に暗号化してどこかに送ってる形跡を見つけたのよ」

 恐らくXが消し忘れたものを偶然見つけられたのだろうと言いながら、こちらにセルの画面を見せる。白瀬には魔法の書のような意味の分からない文字の羅列が続いているだけだったが、鵜飼にはそれがある程度読めるらしい。

「かなり高度な暗号ですね。僕じゃ解けそうにない」

「私も無理」

「けどそのXは、なんでそんなことしてるんですかね?」

「さあ。どこかの犯罪組織に高値で売り飛ばしているのかもしれないわ」

 しかし鵜飼は観月の言葉を否定した。

「ですが、犯罪のリスクを負ってまで金銭に困っていそうな団員は見当たりませんよ。もっと他にカラクリがあるのでは?」

「カラクリってたとえば何だよ?」

 思案するように口元に手をやりながら、鵜飼が訊ねる。

「もしかして研修中の急襲が増えている代わりに、地域ボランティアの成功率が高くなっていたりはしていませんか?」

 訊ねられた観月は思い出すように空を見てから、確かにと頷いた。

「言われてみれば、そうね。去年からは毎週のように感謝状をもらってるかも……」

 腑に落ちたという顔を鵜飼がするので、白瀬は肘で彼をつついた。

「説明しろよ」

「たとえば、Xが情報を流している犯罪組織をYとする。組織Yは、国家警備員が守っているような重大な機密を欲しがっているとしよう。Xからスケジュールを得ることで、組織Yは情報を得られる確率が上がる。ではその機密が盗まれたとして、その場合の責任は誰が取ることになる?」

「研修中のミスなら、国家警備員が負うんだろ? 研修ってそういうものだし」

「そうだ。つまり組織Yが侵入に成功してもXも自警団も傷を負わない。では逆に地域からの依頼はどうだ。上手くいけば自警団の名声はさらに高まる」

「まあ、でもそれは当然だろう?」

「では地域依頼で捕まえた犯罪者たちが組織Yの人間だったら?」

「は?」

 分からないという顔をするので、鵜飼は小さくため息を吐く。

「いいか。組織というのは群れを率いるリーダーもいれば、畠山のように邪魔しかしない厄介な連中もいる。君がもしリーダーならどうする? そういう邪魔者は始末した方が良いと思わないか? 組織Yは内部の裏切者や不要と判断した輩を騙し、わざと自警団が管轄している場所に味方を送り込ませてⅩに狩らせるんだ。そうとは知らない組織Yの人間は、まんまと自警団の出汁にされる」

「ああ、つまり、Yの目的は重要機密を盗むことと邪魔者の厄介払いでXの目的は自警団のイメージアップってわけ?」

「できれば二分ほど前に理解してほしかったが、そういうことだ」

 黙っていた観月は眼をぱちくりとさせている。

「それは流石に、話が飛躍しすぎじゃないかしら?」

「そうかもしれませんね。ただこの自警団ってあまりいい噂を聞かなくて。警備庁の上層部に行くにはこのクラブに必ず入る必要があるとか、春霞大への推薦が楽に得られるとか、どれもこれも本来の学生警備団体の理念から遠く離れた私利私欲に塗れたものばかりだ。自警団の名声が自身の立身出世に関係するという良からぬ考えに取り憑かれた人間がいても僕は不思議とは思いませんが」

 副団長を前にしたとは思えない大胆不敵な発言に、白瀬は思わず冷汗をかく。歯に衣着せぬストレートな物言いは彼の専売特許だが、いささか切れすぎる。

「……わかった。その可能性も考慮するわ」

 白い顔をしていた観月の顔色が更に悪くなっていく。副団長として事の重大さを考えているのだろう。

「じゃあ、もしかしてあの宝石強盗事件も?」

「それはどうかしら。組織の犯罪にしては、あの強盗はかなり稚拙な犯行だったみたいだけど。実行犯はあっさり捕まっちゃったしね」

 鵜飼は落ち着いた眼差しで観月の方を向く。

「事情は把握できました。ですがなぜ僕らに話してくれたんですか?」

「貴方達にその内通者を炙り出してほしいの。ようはスパイを探すための密偵」

 白瀬は思わず、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになる。

「なんで俺達!?」

「内通者も私のことは日ごろからマークしているだろうし、自由には動けないわ。でも貴方達はまだ一年生で入ってきたばかりだし、交友関係も広くはない。自警団に入った理由も、白瀬くんが団員の勧誘をどうしても断れなかったからだと聞いたの。欲がなくて確実に問題と絡んでいないと断言できる潔白な人間はもう貴方達しか思い浮かばなかったのよ」

 内通者に気取られないように注意しながら、犯罪の証拠をつかむ。そんな真似が自分にできるだろうかと白瀬は不安な顔をする。しかし鵜飼は初めこそ驚いていたものの、断るつもりはないのか静かな表情だった。そう、彼は曲がったことが嫌いな性格なのだから、こういう裏切り行為が許せないのだろう。もちろん白瀬も他でもない観月の頼みとなれば簡単には断れない。それにこの話が真実なら、誰かが声を上げる必要がある。上手くやる自信はないが、頷いた。

「わかりました。それで、そのことを八神先輩は知ってるんですか?」

 ぴくりと観月の眉が動いた。それから彼女はまたカップを握った手元に目線を向け、はっきりとこういった。

「私は、貴方達以外の全員を疑ってるわ」


 *****


 観月からの依頼を受け入れはしたものの、白瀬は未だに釈然としない気持ちを抱えていた。

 時刻は夜の九時、三百六十五日二十四時間体制の警備庁にいる。警備員という特殊な職種上、未成年の労働可能時間を超えて働けるため、こんな時間にもバイトはある。予定開始時刻よりも早く着いていたので、白瀬は夜勤用のシャワーを浴びてから本部へ戻る廊下を一人歩いていた。

「浮かない顔だな、白瀬」

 背後から肩を叩かれ顔を覗き込んできたのは、八神透だった。

「こ、こんばんは」

 ついドキッとして身構えてしまいながら、白瀬は自然に自然にと心の中で唱える。八神はいつもの爽やかな笑みを浮かべた。

「この間は大変だったな。二年の畠山と鵜飼が喧嘩しそうになったのを、お前が止めてくれたんだろう?」

「鵜飼はあれで結構短気なところがあるんで、困りますよ」

 だが正直、あの啖呵にすっとしたところもある。暴力沙汰は苦手だけれどあのまま続けられていたら手を上げていたのは自分かもしれないと白瀬は思った。

「畠山には俺の方からキツく言っておいたから、しばらく大人しくしてると思うけど、何かあったら教えてくれ」

 白瀬は頷いた。それと同時にもし八神が内通者だったらと想像してみる。しかしその想像にはいまいち乗り切れない。八神の目元に宝石強盗の件で苦労したのだろう深いクマが刻まれているからだろうか。

「八神先輩こそ、無茶しないでくださいね」

「俺? 大丈夫だよ。ありがとな。それより今日は警備庁との合同任務だ。気を引き締めてな」

「はい。了解です」

 にこりと笑って八神は行ってしまう。その背中にもやはり、やましいことがあるようには見えなかった。


 *****


 夜の十時から深夜一時までの三時間が、白瀬含め十五人の学生警備部隊の担当だった。

 十階建てのビルほどの高さのある灰色の高い壁。区切られた空の上から月の光が差し込み、芝生に降りた露を光らせている。壁が入り組み巨大な迷宮のような造りになっている特殊な空間には都内の電力供給システムが眠っていつらしい。その詳細な場所は学生たちには知らされていないが、構造からみてもこの辺りは中央システムから最も離れた場所だろうと鵜飼は言う。要するに現在位置は出入り口に一番近い場所。ここを襲撃しようと考える不埒な輩が一番初めに現れる場所だ。

 がたがたたと足元が揺れている。この広い施設を見て回るためには車が欠かせない。学生警備員たちは荷物のようにトラックの荷台に乗っけられ、それに並走し国家警備員四名がバイクでついてきていた。

「ただここに座ってるだけでいいなんて楽だな」

 隊の一人が、双眼鏡で辺りを見回しながらそういう。

「何も起こらなければな」

 と誰かが返事をした。

 荷台の後ろに座っている白瀬は、隣の観月にそっと声をかける。

「八神先輩とは別のチームでしたね」

「ええ。これであちらが先に襲撃されれば、彼が手引きしている可能性も高まるわね」

 さっぱりとした口調だが、観月の強い決意が言葉から溢れている。未だに八神を疑いきれない白瀬は曖昧な顔で頷くしかなかった。

そのとき、前を走っているバイクが急に止まり、トラックが前につんのめる。緊張した鵜飼の声が耳元から聞こえてきた。

『侵入者発見』

 馬が嘶(いなな)ような音の後、凄まじいスピードでそれが近づいてきているのが分かる。振り向いた国家警備員が荷台から降り武器を持つように指示を出したが、そのときには戦地仕様の迷彩柄の装甲車が道の前後を挟んでいた。

「さっそくね」

 国家警備員たちは道の前方へ、観月率いる学生たちは後方を担当した。先陣を切る観月が、手のひらを空へと向ける。うっすらと紫色のベールを纏った棒状のものが姿を現し、それはやがてタロットカードの死神が持つような大きな鎌へと姿を変える。

「〈タナトス!〉」

 この手の詠唱は武器に更なる力を付与する。要は気合を入れるための掛け声だが、精神の織り交ぜられたこの世界では馬鹿馬鹿しいこの行為にも大きな意味がある。現に観月が手にした大鎌は纏っていた糸のような紫のオーラが色味を増し、それが羽のような形を作り出している。観月の黒い髪が一瞬で紫色の炎に包まれたかと思えば、彼女は一気に鎌を刈り取るように振り下ろした。

 迸(ほとばし)ような紫の閃光がコンクリートの地面をえぐりながら進み、目の前の装甲車に衝突する。凄まじい音を立てて車は真っ二つに割られ、背後にそびえる数十メートルの壁面ガラスが震えたかと思うと、それが一気に砕け散った。壁面部分の金属破片が雪のように二つになった装甲車に降り注ぎ、車から出てきた数人の仮面の男たちが腰を抜かしてそれを見ていた。

「なんつーか……」

 思わずといった調子で、控えていた白瀬が呟く。

『相変わらず派手だな……』

 言葉を引き継いだ鵜飼も少し驚いているようだった。観月の〈タナトス〉を見るのは初めてではないが、武器が大物なだけあって繰り出す技も強力だ。本人は警備対象が近くにあるうちは武器が使いにくいと言って気にしていたが、白瀬からすれば近づく前に倒せばいいのだから特に気にする必要もない問題にも思える。

「ぼさっとしない! まだいるわよ!」

 そういう観月はまだ鎌を降ろしていない。ふとその目の先を見ると、まだ奥に複数台の車があるのが分かった。車を盾にライフルの銃口がこちらを狙う。学生警備員達はそれぞれ壁やトラックの横に隠れ交戦を始める。白瀬は事前のフォーメーション通り背後から、先輩たちの援護射撃に徹した。実をいうと長距離レンチの武器は不得手だ。鵜飼の射撃補正でどうにか三人を仕留めたが、きりがなかった。

「次から次へと、現れるぞ?」

『どこかに大穴を空けられたみたいだな。そこから入ってきてるんだ』

 以前の宝石店然り、空間への扉は正面だけとは限らない。あのときの侵入者が天井を突き破って侵入してきたように、彼らもこの施設のどこかに裏口(バックドア)を作り入ってきたのだ。そこを塞がないことには、侵入は止まらない。

「応援は?」

『ここはAランク金庫だ、すぐに来る』

「ならいいんだけど……。ん。なんだこの音?」

 腹の底に響く、地響きのような音が聞こえてくる。ドスン、ドスンと、まるで怪獣が歩いてくるような音だ。敵も味方も、一瞬手を止めて、音のする方を見る。とても恐ろしいものが壁の向こう側にいるのが肌で分かった。

『バギーだ!』

 そびえたっていた壁が、まるで紙を引き裂くような乱暴さで破壊される。粉塵の中から、壁の上に四足歩行の巨大なドラゴンが現れた。赤い鱗に獰猛そうな金色の瞳。喉元が赤く光ったかと思うと口から火炎を噴き出し、辺りの壁が溶けていく。

 バギーと呼ばれるこのモンスターは、端的に言えば電子的介入(クラッキング)を示している。大仰な見た目だが、電子だけでできた存在であることには変わりないため潜行者を直接攻撃してもこちらのダメージはほぼない。ただ厄介なのはその習性で、敵も味方も関係なく空間全てを荒らしまわる。戦場に突然現れた暴風雨のようなものである。技師の防衛線を突破できる優れたハッカーでなければ発生させられないため滅多に現れないが、野放しにしておくにはリスクがある。

 開いた回線から観月の指示が飛ぶ。

「宮田くんと矢代さんは高度からの射撃援護を。他は侵入者の確保を急いで。バギーは私と白瀬くんが仕留めるわ」

「了解」

 前方にいた観月が、瞬くような速さで白瀬の隣に移動してきた。バギーは壁に掴みながら、空へ硝子へ車へ人へ、闇雲に炎を吐き出す。鵜飼からの通信によると、複数個所にバギーが同時に出現しこちらへの応援が遅れているらしい。

 バギーが恐ろしいのは潜行者は怪我を負わないが、炎で焼かれるというイメージが消えるわけではないということだ。確かな痛みを感じながらも身体には〈ERROR〉が出ずにソラリスからサルベージされるまで苦しみ続けることになる。

「あの額の宝石が見える?」

 そういって観月はドラゴンを指さす。確かにその額には血のような輝きを放つルビーがはめ込まれていた。あれがこのバグの心臓である。

「あれを破壊すればいいんですね」

 しかしそれがよりにもよって炎を吐き出す口元のすぐ傍とは、この設計者はよほど性格が捻じれているらしい。

「私がタナトスで大きなダメージを与える。宝石を壊さない限りはすぐに再生するでしょうけど、時間は稼げるわ。その隙に貴方は近距離から額を狙って。あの高さまで一気に上がれるのは、ここのメンバーじゃ白瀬くんと鵜飼くんしかいないわ」

「だってよ、天才。足場よろしく」

 白瀬は茶化したのだが、鵜飼はその誉め言葉を当然と受け取ったらしい。

『任せてください』

「じゃあ、いくわよ」

 観月がもう一度、大鎌の柄に力を籠める。先ほどよりも大きな糸の束が手元に絡みつき、紫に輝いた。

「〈タナトス〉!」

 閃光は見事に壁上のドラゴンを直撃し、痺れたように動きが止まる。それと同時に白瀬は跳躍した。〈STEP〉という半透明の青色の表示が、ちょうど足のサイズ分だけ空中に浮かんでいる。白瀬が踏み出すごとにその表示が空に生まれ、階段のように白瀬の身体を上へと持ち上げていく。空間のデザインに割り込むこの技は、並みの技師ではできない裏技と呼ばれているものらしい。潜行者の白瀬には鵜飼の能力がどの程度のものなのかは相対的評価でしか分からないが、白瀬が次に踏み込む場所を予め予測しそこにしっかり合わせているというのがどれだけ難しいことなのかは理解できる。

『走り続けろ。一つの足場はもっても一秒。割り込みもあと五回が限度だ』

「分かってる!」

 あと数歩でその鼻先に届くというところで、バギーは目を覚ました。眼前に迫る敵に向けて、眼をかっぴらき牙を剥く。その喉奥があらわになり、煌々と燃える炎が渦巻いているのが見えた。白瀬はその炎に気を取られてしまい、足場への注意が遅れた。思い出したときには既に足場は消え、咄嗟に白瀬はバギーの太い脚先、長い爪を掴んだ。不機嫌そうなドラゴンは目の前から突然消えた白瀬を探すように遠くをきょろきょろと見ている。このモンスターの可愛い所をひとつだけ上げるなら、意外と馬鹿なところだろう。

『そのまま背中に乗れ!』

 簡単に言ってくれるなと思いながらも、白瀬は体を揺すりその反動でドラゴンの背に飛び乗る。鱗が滑るのでナイフを突き刺し、今度は落ちないように体を固定する。その痛みにドラゴンの巨体が揺れた。ロデオに乗っているようにぐらぐらと体が揺れ動いているが、構っていられない。振り落とされないようにナイフを登山のピック代わりにして白瀬は額の方へと徐々に進んでいく。首元まで来たかと思うと、突然また大きく巨体が揺れ翼の根元が動き出した。

「ちょっ、マジか!?」

 ぐらりと体が右に傾いたかと思うと、唸り声をあげてバギーは翼を広げて飛び立った。咄嗟に首に腕を巻き張りつくが、数秒と経たずドラゴンは夜空へと急上昇していった。月が大きく見えたかと思うと、今度は急降下。闇夜の中、なんとか目を凝らすとバギーが迷路の奥にある小高い丘の古びた塔を目指しているらしいことが分かった。

「あんなのあったか?」

 広い空間であることは認知していたが、事前に貰った地図にはあんなものはなかった。

『隠されていたんだろう。近くに行かないと見えない仕掛けなのか、上からしか行けない仕掛けがしてあったんだ』

「ってことはもしかして、あの塔の下が……」

『本命かもしれないな』

 塔までの距離はまだ一キロはありそうだった。バギーは壁の上すれすれを低空で滑るように飛んでいく。障害になるような建造物は周りにはなく、仲間の応援も鵜飼が要請したがどこも返事は似たり寄ったりだった。

『――第四部隊より通信。東の上空にバギーを確認。こちらは応戦中で対処できない』

『こちら第三部隊。バギーの処理は塔内部の第五部隊に任せる』

『こちら第五部隊! だめだ! 侵入者が! うわっ――』

 塔の中にいるという第五部隊の声が途切れ、通信が復活することはなかった。

「もう塔の中に侵入者がいるのか……?」

『かもしれない。けど今は目の前のバギーを何とかしよう。処理完了まで十五分だ』

「十五分も待ってられない!」

『分かってるなら腕を伸ばせ』

 腕ならとっくに伸ばしている。しかし刺したナイフを握りながらでは届く距離に限界がある。鱗に引っかかり、ナイフはもう抜けない。こうなったらバランス感覚と腕力を頼りに首の上部へ掴まるしかない。振り落とされて猛スピードで壁に衝突かもしれない恐怖と戦いながら、白瀬はナイフから手を離し、宝石を破壊するため刀を抜いた。片手で鱗を掴み、もう片腕で抱き込むように宝石を掴み刃を当てる。ギシリとひびが入るがなかなか割れない。さすがに激しい痛みが襲うのか、バギーは飛行を止めて再び壁の上にとまり、のたうちまわるように動く。刃が宝石の中に少しずつ納まっていく。ミシミシと音を立て、もう少しで割れそうだ。そのとき、鵜飼の声が響いた。

『下!』

 一瞬のことで何が起きたのか分からなかった。ただ気がつけば白瀬の身体は、いつの間にかバギーと共に高い壁の下から落下していた。

「うっ……!」

 無様に芝生に転がり、白瀬は右肩が撃たれて出血していることに気がついた。落ちた衝撃で足がやられたのか両足首に〈ERROR〉と出ている。この程度なら鵜飼が三分と経たず直してくれるはずだが、相手が三分も待ってくれるかどうかはまた別の問題だった。

「やあ」

 薄手のカーキ色のコートに白地に道化の面をつけた男がこちらを見下している。その手にはアサルトライフルが握られていたが、銃口は地面を向いていた。壁に背を持たれ、肩に手をやりながらも、白瀬は周辺に意識をやった。援軍がいないかを確認したが、人の気配は他にない。男は変わらず調子のいい若者のように喋りだす。

「困ってるみたいだから、助けようと思って。けどごめんね。少しズレちゃったみたいだ」

 何がズレただ。

 白瀬は心の中でそう毒づいた。彼は確実に白瀬の肩を狙っていた。全身からにじみ出るような悪意が、なによりもの証拠だ。額の宝石が砕けているバギーが徐々に透過して消えていく。そのさまを見ながら、男はふうと息を吐いた。

「君のコート、かっこいいね。知ってるよ。自警団だろう。界隈じゃ有名だ。エリートのための登竜門」

 白瀬は言葉の挑発には乗らず、冷静に鵜飼と連絡を取る。意識すればわざわざ言葉に出さずとも会話はできる。

「肩は?」

『脚が先だ』

 足首のエラーはまだ消えない。力を籠めるが、人形のようにピクリとも動かないのが忌々しい。せめて立てれば逃げるチャンスもあるのだが。一か八か、白瀬は刀の柄に手を当て、引き抜いた。

「〈ツバキ〉!」

 刀の刃が早回しに錆びていくように黒く変色していく。錆びはやがて塵となり、暗雲のような黒い闇が現れたかと思うとその中から墨汁を滴らせるような大きな狼が姿を出した。氷柱のような尖った牙を道化に向けながら、ツバキは威嚇するように吠える。

「へえ」

 道化は少し驚いた様子だったが、その声はどこか火の輪くぐりの虎を見せつけられた客のような楽し気なものがほとんどを占めていた。

 ツバキはほとんど命令を聞かないが、主人のピンチには現れる。それは忠義故ではなく、闘争本能がむき出しの火の玉のような性格なので、その導火線に火がついただけだだろう。しかし手足の動かせない今の状況には唯一の切り札だった。

「倒せ!」

 白瀬の言葉など待つことも無く、既にツバキは道化に噛みかかっていた。馬ほどのサイズがある狼に噛まれればひとたまりもないことは確かだ。加えてツバキは機動力も抜群で、牙や爪の殺傷能力もすこぶる高い。猪突猛進なために不意打ちやとっさの判断は弱いが、正面から堂々と戦って負けたところを白瀬は見たことがなかった。今日、この日までは。

「悪くないね!」

 男はライフルを捨て、鉈のような武器を取り出した。これがあの道化の武器なのかと思ったが、その鉈からは潜行者の愛用品から漂う独特の気迫はない。ただの流通品だろう。しかし男はそれは見事にツバキの攻撃をのらりくらりとかわした。空を噛み挑発されたことで、狼はさらに理性を失い攻撃がワンパターン化されている。白瀬は声をかけたが、もとより主の声に耳を傾けるような怪物ではない。

「でもさあ、犬の躾は飼い主の仕事だよねえ?」

 道化はツバキの前足に向けて鉈をバッドのようにスイングさせて振り下ろす。ぱっくりと開いた傷口から細かな赤い文字たちが溢れ出した。久しぶりに自身の身体が傷つけられたことにツバキは怒髪天を衝く勢いで怒り狂う。それがまさに相手の思うつぼ。あっという間にツバキは跪かされ、地面に伏した。狼の頭を片足で踏みつけ、地面と頭を無理やりに摺り寄せられる。

 倒れているツバキと、ふと目が合った。爛々と狂った怒りを内包している獣が、この男を殺せと叫んでいる。こちらも動けないのだからお相子だと言いたかったが、話は通じないだろう。

 何より、彼の痛みも苦しみも自分が最も理解しているのだから。

 「君の武器ってさ、いわゆる自己複製型ってやつなんでしょ?」

 仮面に隠れて表情は読み取れないが男がにやにやと笑っていることは賭けてもよかった。

「もう一人の己って奴? 攻撃力は倍増するし、動かせる駒が増える分、戦法も多い。まさに天賦の才ってやつだ。けどこっちの痛みも等分なんでしょ?」

 ツバキの頭をまた一段と強く踏みつけられ、白瀬は思わず短い悲鳴を上げた。それを楽しむように男は笑う。

「痛いだろうね。苦しいだろうね……」

 自己複製型の武器は貴重だ。まして武器が先天的に決まるならば、それを有しているというだけで白瀬は他の潜行者よりも単純に倍の力を持つことになる。しかし何事にもデメリットはついてくる。白瀬の場合は、ツバキと痛覚が共有されているということが大きな短所であった。

 慣れている。痛覚を遮る術は子供のころから押し込まれているのだ。だから大丈夫と言い聞かせるが、冷汗が止まらない。不意の攻撃はともかく、こうして痛みを意識させられればさせられるほど、それは脳の髄まで感じやすくなる。恐怖とはそういうものだ。その表情を確認してから、男は一気に鉈を振り合げ薪を割るようにツバキの首を落とした。

「ああぁぁっ!!!」

 耐えようとしていた声が喉から溢れ出る。痛みで目の前が白黒になり光っている。

 大丈夫。平気だ。これは現実じゃない。

 励ます鵜飼の声が遠くから聞こえるような気がしたが、頭の中が弾け飛びそうで何も考えられない。

「あっははは。高校生か。羨ましいなあ」

 鉈を捨てて拳銃に持ち替えた道化が、銃口をこちらに向けた。

「夢がある人が羨ましいよ、僕は。君はどうかな? 将来、なりたいものとかあるの?」

 パンっと、乾いた音がして目の前に赤い文字が浮かんだ。〈CRITICAL〉と書かれているのだとは思うが、目がかすんでよく見えなかった。


 *****


 口を開いて空気を吸おうとする度にゼリーのようなとろりとしたものが喉元に滑り落ち、酸素の通り道が塞がれる。息苦しい。このまま死ぬのか。このまま、この暗くて冷たい海の中で、溺れ死ぬのか。何もない暗闇の中、必死に手足をばたつかせようとするが腕も足も死人のように動かない。

 真冬の氷水のように冷たい海の底に落ちていく。暗い絶望に胸が覆われた瞬間、ふと声が聞こえた。

「——―瀬。白瀬!」

 名前を呼ばれ、白瀬は飛び起きる。そこは空気のない深い海底かとおもいきや、自警団本部の柔らかなソファの上だった。

「クソっ。久しぶりだな、この感じ……」

「いつも以上にうなされてたぞ」

「いたぶられて殺されたからかもな。ったく、あの変態野郎……」

 斬り落とされた首がまだズキズキと痛みを表明してくる。それを手で押さえながら、白瀬は息を吸う。

 ソラリスで致命的な傷を負うと、潜行者は意識を失い深い眠りに落ちる。その長さは個人差があるが白瀬はおおよそ三時間程度。腕時計のデジタル表示は深夜の二時半を示していた。

「脈拍、血圧、異常なし」懐からペンライトを取り出した鵜飼が、無理やりまぶたを広げる。「瞳孔が少し開いてるな。気分は?」

「最高」

 最高に最悪だ。呼ばれて起きない程度には眠っているはずなのに、いつもとても嫌な夢を見る。それも決まって深い海で溺れ死ぬ夢だ。

「情報(データ)は?」

「守られた。道化の仮面は見当たらなかったが、襲ってきた大半は逮捕された」

「よかった」

 散々な目に合ったが、それだけがせめてもの救いだ。

「あと君がぐーぐー寝てる間に、観月先輩が叱られていたぞ」

「え……?」

 鵜飼は納得していなさそうな表情で少し目を伏せる。

「あの場で僕らにバギーを任せたのは失策だったって。僕も一緒にと言ったんだが、頑なに断られてしまった」

「そんな。悪いのは俺なのに」

「僕ら、だ」

 怖い顔で鵜飼が睨むので白瀬は仰け反り引き気味に頷く。

 それから鵜飼は腕を組んで眉を寄せるが、不思議と怒っているような感じはしなかった。

「分かっているとは思うが、君と僕の個人情報がその道化に奪われた」

 潜行者は倒した相手の氏名や住所はもちろん、現在位置まで奪うことができる。先日の宝石店の事件でも、白瀬が倒した侵入者のデータは即座に警察組織に送信され、保安官ロボットが現場に急行していた。現着した時点で技師は逃げている可能性が高いが、潜行者は深い眠りの中にいるため一人で逃げることはできない。万が一、逃げられたとしても情報が警備庁に保管された時点で、再び電子海に入った途端、電子海内での位置情報が発信され続けてしまう。そうなってしまえば、侵入者はまともに動けない。どのみち、この顔認証システムを搭載したロボットと監視カメラだらけの国で、一度〈CRITICAL〉を受けた時点でその人間は現実世界にもどこにも逃げ場はない。

 しかしこれらの条件は守る側の警備員にも言えることだった。さすがに今すぐあのピエロがこの警備庁に乗り込んでくることなどはあり得ないが、少なくともピエロは白瀬たちの本名や通っている学校、家族関係まで筒抜けのはずだ。

「既に保護はかけてあるから、電子マネーや銀行系は無事だ。警備庁から君の家にも連絡がいっている」

 こういった場合の最悪のケースは報復だ。家や学校の前で待ち伏せし攫い酷い目に合わされる。いくら鍛えているとはいえ現実世界の銃やナイフに勝てるわけではない。しばらくは保安官ロボの監視が強化され、家族にも迷惑をかけることになるだろう。

「あと、君が戦ったのは、〈FOLKS〉の幹部、もしくは頭目と考えられている人物だった」

「えっ!?」

「国家警備員に僕らを倒したのがカーキのコートにピエロの仮面と伝えたら、すぐにそう答えがきたよ。〈FOLKS〉の中でも相当質の悪い潜行者で、あっちも手を焼いてるらしい」

「待ってくれ。じゃあ、襲ってきた仲間たちも〈FOLKS〉のメンバーなのか? でも、どうして〈FOLKS〉がそんなこと……。〈青い仮面〉としか戦わないんだろ?」

 都内の電力システムを攻撃することが〈青い仮面〉の壊滅に繋がるとは思えない。鵜飼は嘲るように笑う。

「ふっ。本当に声明を信じているなら平和ボケしすぎじゃないか? 言論を放棄し暴力に訴える時点で、それは理性のない獣と同じだ。〈FOLKS〉が無関係な人間を襲っても僕は驚かない」

「ほー。キレて襟首を掴む人は、言うことが違うなあ」

 気恥しそうな咳払いの後、鵜飼は続ける。

「ともかく、〈FOLKS〉が都内のインフラを狙って襲撃を起こしている件は、僕と君以外は内密にしろとのことだ。余計な混乱を避けたいとのことだったが、吉と出るか凶と出るか」

 そう言いながら鵜飼は寝ている間に買ってきてくれたのだろう、ペットボトルの緑茶をこちらに寄こす。それを受け取りながらも、白瀬の首はまだ疼くようにじんじんと痛んだ。

「痛むのか?」

「え、ああ。でももう慣れっこだし」

「海外の情報では、二十代後半のある潜行者がソラリスで負った傷と同じ位置に翌日痣ができたという報告もある。脳が見せる幻覚にはそれだけの力があるということだ。自分の痛みを軽視するな」

 彼なりに心配しているという言葉を翻訳するとこうなるというのは白瀬にも分かっているのだが、如何せん回りくどい言い方だった。ただ今回くらいは、この電脳技師を頼るのも悪い気はしなかった。

「……っていうか、嫌なことを言われたんだよな」

「は?」

 ―――将来、なりたいものとかあるの?

 そんなものは、ない。立派なコートを着せてもらって、愛想はないが正義感の強い相棒、頼りになる優しい先輩に、応援してくれる家族。何もかもが完璧なのに。ただ一つ、自分だけが追いつかない。まるで広い砂漠の真ん中に取り残されているような気分だった。

 意味が分からないという顔で鵜飼は眉根を寄せる。

「……やっぱりなんでもない! 早く帰ろう。眠くなってきた」

 ―――夢がある人が羨ましいよ、僕は。

 夢のある人が羨ましい。それを背負う選択の出来る強さが、なによりも灼熱の太陽のように。こちらを照らして身を焦がした。


 *****


 チップをもらってから、あの男のことばかりを考えていた。

 カーキ色のコートを着た、怪しげな異国の男。あの口ぶりから察するに、十中八九、彼は〈FOLKS〉のメンバーだろうと蓮見は考えていた。

 〈FOLKS〉について、世間の反応は概ね暴れたいだけの移民労働者の集まりというもので決して良いとは言い難い。だが〈青い仮面〉に対してのバッシングはその更に上をいき、〈青い仮面〉しか狙わない〈FOLKS〉に対しては義賊的一面があると考えている人もいる。

 〈FOLKS〉は悪じゃない。むしろその逆、悪を裁く立場にあるんだ。

 そう思うと腹の底から勇気がわいてくるような気がした。豊川だってきっと、学校の裏では白い衣服に身を包み街を練り歩いているかもしれない。ああいう扇動的な奴は、一度痛い目に合ないと反省しない。

 僕が変えてやるんだ。この僕が!

 蓮見の脚は、あのとき男に貰ったチップの中の地図を頼りにし、マークされている場所へとやってきていた。どこにでもありそうな五階建てのビル。中は吹き抜けで、幾台かのコンピューターと潜行用の機械が並んでいる。整然としたオフィスに見えるが、中にいるのはあまり裕福には見えない柄の悪そうな若者ばかりだ。しかし様子がおかしい。ギアをつけた潜行者が昏睡状態にある。これはソラリスで致命的な傷を負った証拠だろう。このままあと数時間は何をしても起きない。

「すぐに保安官がくる! その前に逃げるんだ!!」

保安官とは道端に一定間隔に設置された警察のアンドロイドである。致命傷を負った時点で位置情報が流出、犯罪者の元へとレーザー銃を持っている保安官がすぐにお宅にお邪魔する。

「で、でも潜行者は?」

「置いてくしかねえよ。一緒に捕まりたいなら残っててもいいがな」

この組のボスらしき男は、そう吐き捨てて鞄の中にラップトップや周辺機器を詰め込んでいく。ぼおっと通路に突っ立っていた蓮見にようやくそのボスが気づいた。

「誰だお前? 新入りか?」

「あ、いや、えっと、僕はその……」

 昏倒した潜行者、保安官がすぐに来る、どこか訛の残る日本語。状況は不明だが、このままここに居ては不味いことになるというのは分かる。

「とにかくここから出るぞ。今は逃げるのが先だ」

 男に腕を引っ張られて地下への螺旋階段を降り、停めてあったナンバープレートのない車に放り込まれる。車はそのまま赤とオレンジの光が灯る地下トンネルを猛スピードで疾走した。

 蓮見は突然の急展開に何も言い出せないまま座席で固まるしかなかったが、隣の席の鼻にピアスを開けた金髪頭が、にこにこと話しかけてきた。

「お前、名前は?」

「六神」

 久しぶりに使った、もう一つの名前。口に出すとき、少しだけ唇が震えた。

「ふーん。いまどき新入りなんてめずしいな。リクルートはもう終わりだって、聞いてたんだけど。誰に誘われた?」

「若い男。カーキのコートに、ぼさっとした黒髪の……」

 ピアス男が目を丸くする。

「マジで!? 本物じゃん?」

「本物?」

 男は興奮気味だった。

「それ〈FOLKS〉のリーダーだよ! 俺たち下っ端は、ネットでしか会ったことねえけど、いつも濃緑色のコートを着てるって噂だ」

「へえ……」

 あの男が抵抗組織のリーダー。納得できるようなできないような気がした。男の喋り方はどこか魅力を感じさせる。いつの間にか隣にいたことだってそうだし、こちらの心情を察しているような落ち着いた物言い、強引には誘わず言葉足らずに去っていったこと。

「まあいいや。とにかく今からいくのが本部だ。アジトっていうか。とにかくそこにあの人がいる!」

「会いたいのか?」

「当たり前だろ。俺たちを救ってくれた、恩人だ!」

 やがて車は地下を出て、元京浜工業地帯の工場通りに出た。かつては自動車産業で栄えていた場所にはそこら中にホームレスや薬中の若者が倒れていて、いかにもな風体の屈強な人間だけがその通りを闊歩していた。どこか遠くの国のような光景に、開いた口が塞がらない。

 車はしばらく進むと、自動車工場の前で停止する。そこから降りて中に入ると、自動車工場には似つかわしくない最新機器と巨大なサーバーが奥に並んでいた。机やハンモック、一斗缶などが持ち込まれていて、やけに生活感がある。明かりはつかないのか充電式の懐中電灯が糸につらされてぶら下がり、食べかけた弁当のプラスチックのゴミがあちらこちらに捨ててあった。

 蓮見は新入りだったので、入り口でボディチェックとセルを確認される。持っていたチップを見た仲間が蓮見を奥の部屋に案内すると言い出した。通された部屋は本来は応接室のようだった。大きな机とトラの絨毯、バッファローの頭、鷹の剥製が置かれている奇妙な部屋。恐らくこの工場の社長の趣味が反映されているのだろうが、悪趣味だった。しかし今の家主はさらにその上をいくらしく、バッファローの頭には包丁が三つトサカのように刺さっていた。

「やあ、来たね」革張りのリクライニングチェアに座っていたのは、カーキのコートの男だった。「まさか本当に来るとは思わなかった、と言ったら怒るかな?」

「いいえ。それよりここが〈FOLKS〉の本部なんですか?」

 思っていたのと大分違う。もっと少数で、ひっそりと活動していると思っていたのだ。しかしどうだろう。ここには優に三百人を超える人間がいるではないか。しかもあの潜行用のマシンがあるということはソラリスでも活動しているということだ。加えて、初めに訪ねたあのビルにいた人間が支部の人間たちなら、きっと他にも支部があるのだろう。その総数が一体何人になるのか、蓮見には想像もつかなかった。

「正確には本部の一部、かな」

 男はくるくるとフォークを回し何かを練っている。それは子供が食べるような着色料のたっぷり入った駄菓子だった。蓮見がそれを見ていると思った男はケラケラと笑う。

「子供のころさあ、こういうの食べちゃダメって言われなかった? 街で見かけてつい買っちゃった」

 そんなことはどうでもいいと、思わず叫びそうだった。

 蓮見が見ているのはその菓子ではなく、男の背後だ。衝立の下から、人が倒れているのが見えた。仕立ての良いスーツを着た年寄りらしい体つきの男だ。しかし今はピクリとも動かない。それが放つ冷ややかな雰囲気から、彼はただ寝ているわけではないというのは嫌でも伝わってくる。

 生唾を飲み込む。恐怖で足が震えた。今にも腰が抜けて叫びだし、ここから飛び出していきそうになるのをこらえ、蓮見は自分の口元に手をやった。その様を見た彼は、目を細める。もうその瞳は、微塵も笑っていなかった。

 「こいつの名前は斎藤國重。左翼的思想を訴えている政治家でありながら〈青い仮面〉の幹部でね。コンタクトを取ってきたから何の用かと思ったら、命乞いをしてきたんだ。だから殺しちゃった」

 「ころっ……!?」

 「当然だろう。こいつらのせいで、僕らがどれだけ辛い思いをしたと思う? 大丈夫だよ。足はつかない。このまま海に捨てて、しばらく失踪扱いだ」

 「でも、殺さなくても――」

 〈FOLKS〉が人殺しに加担しているなど、初耳だ。彼らはいつも座り込み運動や広報活動という名目で暴徒と化す〈青い仮面〉を撃退しているだけだ。蓮見だって、その行動に少しでも協力できればいいと思ったに過ぎない。公園で少しの乱闘騒ぎに混ざるだけのつもりだったのだ。

 「僕もそう思うよ。けど覚悟を決めたなら、殺さないといけないときもある。この世界の悪人はお伽話の怪物か何かではないということくらいは僕にも分かる。彼らにだって愛する者がいて、愛されることもある」

 そういいながら男は、ふと机の上に無造作に置かれていた革財布を手にした。てっきり男のものだと思っていた分厚い財布は、どうやら衝立の奥の人物のものらしかった。いまどき現ナマを持つのは年寄りだけだが、どうやら彼はそれに該当するらしい。コートの男は楽しそうに財布を探り、やがて目当てのものを見つけて笑った。日に焼けたのか色が剥げかけた写真。若い頃の男とその妻、二人の息子が山肌を背景に釣り道具と釣果の鮎を手にして微笑んでいる。四十年は昔に取られたような家族写真だ。

 「他人の命が失われるその重みを考えたことはあるか? こんなに悲しいことはない」

 平然と正論を述べるこの男こそが、目の前の人間の命を奪った張本人だということが恐ろしかった。まるで悪い夢の中に閉じ込められているような気分になり、蓮見は浅い呼吸を短く繰り返す。

 「大丈夫だよ。そんな顔するな。僕らは〈青い仮面〉しか攻撃しない。今はね」

 高らかな裏声で茶化すように、男は最後の一言を歌ってみせた。

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