バイオ・セキュリティ

北原小五

【第一章 警備員】


秀でた人間だと褒められるたびに窮屈な思いがした。

お年寄りに席を譲って褒められると嬉しいし、こつこつ練習していたギターを褒められたのも嬉しかった。

しかしなぜだろう。

才能があると言われると胸がぎゅっと縮む。

なぜならそれはたぶん、自分が努力した末に獲得したものでもなく、何かを諦めて得られた代償でもないからだろう。

ただの偶然、星のようにそれは降ってきた。

才能に溢れ努力した人を天才と呼ぶならば、ただ大した努力もせず才能があるだけで評価される人のことは何というのだろう。

天才、ではない。

それは恐らく、恵まれただけの凡人だろう。


 *****


淡雪高校はごくごく普通の公立高校だ。

つまり備品もありきたりで、三十人ほどの教室には、外から五月の風が吹き込み、それに乗って楽しそうな部活動の掛け声が聞こえてくる。ときどきトランペットの演奏が聞こえてきて、白瀬(しらせ)慶介(けいすけ)はその音が外れるたびにコケるような気持ちがした。

高校一年生のわりに白瀬は背が高く、校則に従い髪色も染めていない。靴は最近バイト代で買ったブランド物の赤いスニーカーでそれ以外は特徴ある顔立ちでもない。

「白瀬くん? もう終わった?」

「は、はい!」

怒った顔の女教師がこちらを覗き込んでいる。担任の加納は二十代半ばで溌剌とした感じのいい先生だ。けれどその顔には苛立ちが浮かんでいた。それもそのはず、白瀬は入学してまだ二か月足らずというのに、数学の単独補習授業を受けているからだ。小テストの成績がよほど悪かったらしい。

加納先生はデバイスで白瀬の再テストの採点を始める。なんとか合格点を取り白瀬がほっと息を吐いたが、先生の表情は硬かった。

「今後はこういったことのないようにね。君は推薦で合格したんだから、分かってる?」

「すみません……」

「実技は文句なしなのにね。どうしてこうも数学だけはダメなのかしら……」

手元の半透明の液晶に白瀬慶介と書かれた学内データが浮かびあがる。推薦入試で淡雪高校の潜水科に入学し、つい先日の実技試験では学年トップ。ちらりと目に入った、性格という欄には争いを好まずやや向上心が足りないとお節介な文章が書かれていた。

「みんな期待してるのよ。将来有望だって。君、自警団に選ばれたんでしょう?」

「はい。一応。俺というより、技師の方が気に入られたんだと思いますけど」

「なんにせよ、すごい快挙よ」

無残な数学の成績とは違い、加納先生は嬉しそうだった。

自警団というのは簡単に言えば課外活動のクラブのことだ。ただし誰でも入れるクラブではなく、勧誘がかかった学生しか入れない。淡雪高校からその自警団に入る生徒は、そう多くはいないらしい。

「退団した生徒の大半は国家警備員や、大手警備会社の幹部になれるってお墨付き。ああ、私も適性があったら入りたかったなあ」

実技だけは優秀な白瀬は、四月からそのクラブに所属している。けれどそのことを褒められたり話題にあげられたりすると、なんとなく居心地が悪くなった。

「白瀬くんは将来どうするつもりなの?」

「普通の警備会社に就職できればそれでいいです。希望とかは別になくて」

「勿体ないな~。国家警備員目指しなよ」

「無理ですよ。まず春霞大に入らなきゃでしょう? 絶対無理です」

「まあ、今の数学の成績じゃ無理だけど……。まだあと二年と半分以上時間はあるんだよ! 頑張ればいけるって!」

やたらと応援してくる加納に対し、白瀬は思わず肩をすくめる。期待するのは勝手だが、数学嫌いはこの先も直りそうにない。これ以上この話題を続けるのが嫌になり、白瀬は矛先を変えてみる。

「じゃあ、先生はどうして教師になったんですか?」

 加納は少し驚いた顔をしながら、やがて照れたように答えた。

「公務員が良かったっていうのもあるけど、憧れだったんだよねえ。この仕事。ドラマの熱血教師物語みたいなの、嫌いじゃないの」

そういった先生の周りが、ふときらきらと光の粒子のようなものが舞っているような気がした。白瀬はそれを素直に羨ましいと思った。自分の夢を語れる人が、眩しかった。

補修が終わり、学校を後にする。クラブ活動の開始時刻までまだ時間があったので、ゆっくりと校庭の並木道を歩いていた。テニス部のボールが跳ねる音、野球部のランニングの掛け声、目の前を歩く学生の楽し気な会話。

現状に何か不満があるわけではない。それなりに上手くやれていると思う。

けれどなぜ、取り残されているような気がするのだろう。


 *****


西暦2033年。人工知能は人間の理解を超えた超越的存在として君臨していた。世界各国で対人工知能のセキュリティが問題となり、ある画期的解決策が提示された。それが人間の意識や精神を情報化し、それを暗号とすることで、心を持たない人工知能からデータを守る、バイオ・セキュリティと呼ばれるものだ。

適性がある者は潜行者(ダイバー)として電脳海(ソラリス)にダイブし、協力者である電脳技師(エンジニア)と共に情報を保護する警備員として、世界中のデータは守られている。しかしそれと同時に警備員から情報を盗む侵入者(イントルーダー)と呼ばれる犯罪者が生まれ、ソラリスでは日夜、人間対人間の攻防が繰り広げられていた。


 *****


 街には塵一つのゴミも見逃すまいと動く清掃ロボットが、空には小型の個人配達用の輸送機器が飛び交っている。都心部ではピットと呼ばれる乗り物がモノレールのように街中に張り巡らされていた。ピットの外装は銀色の海苔巻き状、長さは電車の一車両分しかないが、コンスタントかつ短時間で移動できる便利な乗り物として庶民の足となっている。

 放課後、白瀬は目白にある高校前のピットの駅から家ではなく、日比谷方面へと向かう。高校一年生から始めた、例のクラブ、自警団に参加するためだ。

〈――霞が関・5D〉

人の流れに沿って、ピットから降りる。中央官庁が並ぶ道の奥にある、真新し気な全面ガラス張りの高層ビル・警備庁が目的地だ。

警備庁とはその名の通り、国の機密から電力・通信・防衛とにかくコンピューターに通じる全ての国家規模の情報システムを守るための組織だ。三十年ほど前に警視庁や防衛省から独立したらしい。そこで働く警備員は国家警備員と呼ばれ、最高位の情報の警備及び、ソラリス内部での警察組織的な役割を担っている。生半可な努力ではこの職業にはつけない。それこそ白瀬のような警備員の卵たちにとっての国家警備員は、五輪のメダリストやファンタジーのドラゴンみたいな実在するのかも怪しい遥か雲の上の人だ。

持っている小型携帯端末・セルをかざし庁舎に入る。広いエントランスには受付役のアンドロイドと段ボール箱を抱えて行き交うロボットたち。忙しそうな人々がひっきりなしにエレベーターから出ては入ってくる。人間用の青いラインを踏みながら歩いたが、機器不良らしいアンドロイドに何体かぶつかった。いちいちメンテナンスに出す暇もないのかもしれない。

ふとエレベーターを待っていると前に見知った金髪頭を見かけ、白瀬は声をかける。

「鵜飼!」

振り返った緑の目がこちらを捉えた。学力と財力を保証する私立春霞附属高校の制服に、黙っていれば絵本の国の王子様のような風貌。スーツ姿の大人に囲まれると、猶更その異様さが目立つ。エレベーターの中で隣になると、その少年がため息を吐く。

「大きな声で名前を呼ぶな。学校じゃないんだぞ」

「ごめんごめん……」

 少年はつんとした表情でこちらを一瞥すらしない。

「まあいい。君の無遠慮な振る舞いももう慣れた」

「なんだよ。ギスギスしてるな」

「別に。愛想がないのはいつものことだ」

この嫌味な美少年、鵜飼(うかい)恭一(きょういち)は白瀬と同じ高校一年生で電脳技師である。生まれはアメリカで、髪も目も自前なので外国の血筋が混じっているそうだが詳しいことは忘れてしまったので分からない。確か、フランスだったかベルギーだったかのクォーターだ。

鵜飼とは半年ほど前から政府のマッチング用人工知能に勧められて組んでいる。警備員は基本的に技師一人につき、潜行者が一人から三人がつく。学生時代は基本的に一対一で、一年ごとに変更される。組み合わせを作った人工知能は、白瀬と鵜飼は論理・思考・行動的パターンが似通っていると言っていたが、今のところ白瀬はそれを感じたことはない。

エレベーターから降りて二十五階にあるのが、自警団本部だ。高校生のためにより実践的な警備経験をさせるという名目で作られた組織だが、警備庁のインターン研修とも呼ばれている。時給が発生するため、クラブというよりはアルバイトの感覚に近い。

本部は普通の個室のオフィスのようになっていて、メインとなるこの部屋には雑然と事務机が並び、百五十人ほどの生徒と監督役の国家警備員がいる。まだ定刻まで時間があるため、みな自由にしていたが、目につくのはやはり鵜飼と同じベージュ色の制服ばかりだった。

「こんばんは、白瀬くん。鵜飼くん」

「観月先輩」

「こんばんは」

副団長の観月(みづき)絵里(えり)が話しかけてきた。艶やかな黒髪に凛とした目をしている先輩で、簡潔に言えば怜悧な美人。高校三年生でいつも背筋をピンと伸ばしている。その手には重たそうな段ボールを抱えており、白瀬はその荷物をひょいと奪った。

「手伝いますよ」

「いいの?」

「はい」

「じゃあ、資料室までお願い」

我関せずという顔をしている鵜飼を置いて、二人は資料室に向かった。少し埃っぽい狭い部屋で、旧型のパソコンやサーバーが雑に積まれたりしている。観月がついでに資料室の整理もしたいといったので、白瀬もそれを手伝うことにした。部屋を分割し作業をしていると、高いところの荷物を取ろうとしている観月がよろける。反射的に白瀬が彼女の腰を支えたが、かわりに頭の上に紙の書類が落ちてきた。

「痛っ!」

 散らばった紙の束が白瀬の頭にぶつかってから、ばらばらと床に落ちる。

「ご、ごめんなさい!」

「大丈夫です」

観月はやや恥ずかしそうに謝りながら書類を拾う。白瀬も床に落ちた紙を拾った。書類を拾い終えた観月が、先輩としての威厳を保とうとするかのようにゴホンと咳をしてから訊ねる。

「ところで白瀬くん。高校生活にはもう慣れた?」

「はい。まあまあ」

実は早々に数学の補修を受けているだなんて恥ずかしく言えなかった。

「自警団で困ったことはない?」

「ないですよ。全然」

それは本心からだった。はじめこそ他校の生徒、しかも二年生や三年生ばかりで居心地が悪いかと思ったが、話が合う人はそれなりにいた。もともと人付き合いが不得手ではない白瀬は、居心地のいい環境を作るのは簡単だった。

「鵜飼くんは? 一人でいるところが目立つような気がするけど」

「あいつは元々あんまり人とつるむのが好きじゃないタイプなんですよ。内向的なんです」

 一方で鵜飼は固い外殻に籠りきっている。彼が学校でどのような対人関係を構築しているのかは想像するしかないが、恐らく友人と呼べるような人はいないのではないだろうか。もっとも鵜飼自身が生暖かく毒にも薬にもならないような関係を望んでいるとは思わないが。

「私、てっきり嫌われているのかと思ってたわ」

「まさか。観月先輩みたいなテキパキ仕事ができる人はむしろ好きだと思いますよ」

「本当?」

 観月は目をキュッと細めくすりと笑う。その表情がどこか愛らしくて、白瀬はつい意地悪なことを言ってしまう。

「いや、そうでもないか。観月先輩、意外と不器用っていうか、おっちょこちょいですよね」

「はい!? 聞き捨てならないんだけど!」

観月が大仰そうに頬を赤らめながら否定する。そこには普段見せる冷涼な美人の姿はない。副団長という立場のせいなのかいつも難しい顔をしている彼女が、案外世話好きの抜けたところがある人だということを白瀬は見抜いていた。

「俺、この間先輩のこと駅で見かけたんですよ。隣の赤ちゃんにすごく泣かれて、必死にあやそうとしてたのにまた泣かれてたでしょ?」

 普段、雪原の鶴のごとくきりりとした観月が慌てふためく姿はなかなかに愉快だった。大泣きされてから親に平謝りする観月は他の団員には見せられないなと思わせるほどの慌てっぷりで、思わずこちらが吹き出しそうになってしまった。白瀬が思い出し笑いをこらえていると、耳まで赤くなった観月が金魚のように口をパクパクとさせた。

「な、何で知ってるの!?」

「大丈夫ですよ。誰かに言いふらしたりはしませんから」

「本当に? 鵜飼くんにも内緒にしてね。あと八神くんにも」

「いいですけど、それなりの対価を頂かないとね」

「た、対価って何よ……?」

「うーん。……考えておきます」

 缶ジュースかお菓子か、悩ましいところだ。しかしその対価が何か重大なものかもしれないと怯えている観月は、野生動物の動向を伺う狩人のような険しい顔でこちらを見ていて、それがまた白瀬の笑いを誘った。

そのとき白瀬が布で拭いていた盾が床に落ちた。この盾は何年か前の警備庁からの表彰を受けたときのものらしい。慌ててそれを拾うが、幸い傷はなかった。もとより埃まみれの盾の傷など、誰が気にすることもないのだろうが。

「先輩は、将来潜行者になるんですよね? どうしてなろうと思ったんですか?」

「どうしたの改まって。まあ、もちろんそのつもりだけど……。もしかして進路に迷ってるの?」

怪訝そうな顔で訊ねられ、少し怯んだ。

「迷ってるっていうか、このままで本当にいいのかなって……」

引かれたレールの上を歩くのが嫌だなんて、まるでドラマの主人公みたいで我ながら恥ずかしい。けれどその主人公と違い、白瀬は両親や教師たちに将来を強制された覚えはない。

技師とは違い潜行者は誰もがなれる仕事ではない。

先天的適性を有していることが絶対条件になり、この国に生まれた子供は五歳のときに検診と共に電子海への接続が可能かどうか試される。ソラリスに受け入れられるのは全人口の0.0001%ほどの狭き門。適性のある子供のほとんどは二親等以内に適性を持った血縁者がいて、白瀬の父も中堅警備会社で働く警備員だ。適性反応が出てからは任意で小学校に通いながら政府の夜間プログラムを報酬つきで学習でき、その後の進路もサポートされる。貴重な潜行者は、国防の観点からしても重要だからだろう。そして白瀬もそんな潜行者の例にもれず、何の疑いもなくこの道を歩いてきた。

「他にやりたいことが見つかったの?」

「いや、なんていうか、ほんと気の迷いです。忘れてください」

自分は将来、やはり警備員になるだろう。家族や教師、周囲の人々もみんな、そうあることを白瀬に望んでいる。せっかく生まれ持った才能があるのだから、そしてなにより応援されているのなら、それに応えるべきだろう。それでも何か足りないような気がしてしまうのはきっと、あまりに多くを望みすぎているからだ。

しばらく白瀬の横顔を見ていた観月は、やがて秘密を告白するように小さな声で語りだした。

「どうして警備員になろうとしてるかって話だけど、私ね、夜に街の明かりを見るととても幸せな気持ちになるの。その明かりの下で恋人と話したり家族で食卓を囲んだり、一生懸命働いたり、誰かが生活しているんだなって思うから。だから潜行者の適性があってよかった。私は非力でとても消防士や警察官にはなれないけれど、警備員ならこの明かり一つ一つ、大切な人たちの命を守ることができる。だから私は警備員の仕事を誇りに思ってるの」

はきはきとそう話す観月の周りにはやはりキラキラとする光の粒子が舞っていた。ただ加納の話を聞いたときとは違い、なぜか心臓の当たりがぎゅっと掴まれたように苦しくなる。熱い血潮が体に巡っているように、どくどくと脈打った。

「かっこいいですね、観月先輩。じゃあ、やっぱり国家警備員になる黄金ルートですか?」

少し照れたように観月は笑う。

「まあね。一応、春霞大の推薦ももう貰ったの」

「おめでとうございます。やっぱりすごいですね。勉強できて自警団でも副団長で……」

 白瀬は本音で褒めたのだが、観月はそれをからかいと感じたらしい。

「本当にそう思ってるのかしら? どうせ、私はおっちょこちょいだし……」

「あ、気にしてます?」

拗ねたように腕を組む観月の頬が少しだけ膨らんでいた。


 *****


資料室の整理が終わると丁度定刻になり白瀬は指定された部屋に入った。そこは古いホテルのロビーのような毛足の長い赤い絨毯がひかれ、紺色に金糸の飾りの入ったふかふかそうなソファが潜行者の数だけ置かれている。潜行に悪影響が出ないように室内の空調は常に一定になっていて、壁や床も防音素材でできていた。それぞれのソファの隣に机が置かれ、机上には最先端の潜行に使われる機械が乗っかっている。見た目はパソコンと変わりないが、その中身は通常のパソコンよりも遥かに高性能だ。

 白瀬はソファに深く腰掛け、鵜飼はキャスター付きのチェアーに座る。全員が揃ったのを確認すると三年生の男が、皆の前に立ちブリーフィングが始まった。

「今回の警備対象は銀座にある宝石店のセキュリティシステムの管理だ。難しい依頼ではないというのが正直なところだが、気を抜かないでいこう。何か質問は?」

 鵜飼がすっと手を挙げる。

「フォーメーションは?」

「えっと……」

 リーダー役の眼鏡の三年生、三島は手元のセルでそれを確認しようとする。すると隣の席の二年生の畠山が聞こえるようにくすくすと笑う。

「ちょっと、先輩。しっかりしてくださいよ。大丈夫ですかぁ?」

 畠山は鵜飼と同じ春霞附属高校の生徒で、やたらと他校の人間を格下扱いし当たりが強いことで有名だ。白瀬も入団したばかりのときに、他の先輩からあまり関わるなと助言をされたばかりだった。

 グループはランダムで決まる。しかしよりにもよってこんな相手と組むことになるとはと、白瀬は何とか呆れ顔が表に出ないように努めていた。

ともかくも嫌な雰囲気のブリーフィングが終わり、各自準備に移り始める。白瀬たち潜行者はギアと呼ばれるヘッドフォン型の装置を耳につけた。ギアは脳波を読み取る装置で、その仕組みは実は人類はほとんど理解できていない。作ったのは最先端の人工知能なのだ。しかし使用者からしてみれば人体に悪影響はないらしいということさえ分かっているのなら問題ない。

 一方の鵜飼は、液晶画面と向き合いじっと動かない。彼はキーボードを手入力ではなく、筋電入力という方式を採用している。つまり「文字入力ABC」と思考した時点で、文字が打ち込まれるというわけだ。恐らく高級外車が買えるほどの値段がするはずだが、恐ろしいことにこの室内にいる五名全員がこのキーボードを所有していた。

 技師は主に潜行者への司令塔的役割を担っている。ワンマンな潜行者のサポートに徹する技師もいるが、大抵の電脳技師はプライドが高く唯我独尊を地で行く。鵜飼も典型的な技師で指示を出す係だ。もちろんそれ以外にも、潜行者の目には映らない微細なバグを処理したり、侵入者側の技師のアクセスを封じ込めたりと、仕事は多い。その分、給与も六対四で、実は技師の方が高給を得られたりもする。もっとも先天的才能が必須の潜行者そのものの数に対して技師は多いため、現実に警備員となれるような技師は難関を突破した努力家ということになるのだが。

「準備は?」

「万端」

「じゃあ始めよう。――意識変遷に異常なし。脈拍、体温、脳波ともに正常。開錠許可受諾。送信開始。起動」

 パチンと部屋の電気を消すような音がして、白瀬の意識は急速に閉じていった。


 *****


 電脳空間とはその名の通り、電脳で作られた世界だ。ただこの世界、電子海ソラリスは人工知能が邪魔できないように人間の精神が織り込まれている。電子と精神、二つの軸により成立している架空の世界、匿名の空間がソラリス。その世界は宇宙のように拡大をし続けていて、全貌を知る者は誰もいないと言われている。

『気分は?』

 片耳に付けたイヤーフックから鵜飼の声が漏れてくる。

「問題ない」

 この世界はいつも夜だ。日が昇ることはない。上を見れば大きな月と摩天楼のごとく立ち塞がるビルに、超光ライトを搭載したヘリが飛び回る。舗装された道路にはパッションピンクやライムグリーンの看板用ネオンが輝いていた。

 白瀬は動きやすそうな軍隊風の編み上げブーツに、軽装な武装、その上から〈NATIONAL SECURITY AGENCY(警備庁)〉と記された横に控えめに日章のついたロングコートを羽織っている。辺りの人々も同じような格好だったが、着ているコートの丈や色は様々で〈唐獅子警備会社〉や〈Lion Security〉などロゴやマークも様々だ。

「全員いるな」

 リーダーの三島が先頭に立ち、〈メトロポリタン〉という名前の宝石店に入る。ここが今回の警備対象だ。三島は既に玄関口に待機していた警備員と言葉を交わし、交代の時間であることを告げる。すぐに店の扉が開き、中へと招き入れられた。

 店内はおよそ、外の見た目からは想像もできないほどの広さだった。西洋風の大広間が広がっており、天井には天使と神の絵が描かれ、壁には様々な調度品が並んでいる。中央に玉座が置かれ、その上に小さな箱が乗っていた。その箱が、正確にはその箱の中身にあるだろう宝石が、ソラリス内での情報の姿である。今回の仕事ではこれを時間いっぱいまで警備していればいい。

「改めていうが、この宝石が奪われれば店舗の裏口やショーケースのロックが解除される。売り上げの入った金庫も同様だ。他にも――」

「あー、はい。もう分かったんで、大丈夫でーす」

 そういったのはやはり畠山だ。にやにやと笑いながらそういう顔は無関係な白瀬の心も波立たせるが、三島は気弱に「そうか」とだけ言って黙ってしまう。それからの三十分は苦痛だった。三島が玉座に一番近いところ、畠山は離れたところで椅子に座り、他のメンバーと楽し気に談笑している。緊張感などまるでない。

「店番なんて仕事、一年にやらせろって話だ」

「ほんと、ほんと。あ、それよりさ例の課題終わったか?」

「お前、あんなのもまだできてないのかよ」

 ぺらぺらと雑談をしているが三島は注意をする素振りもせず、まるで聞こえていないかのように動かない。一人出入り口に近い場所で壁にもたれていた白瀬は、そんな肩身の狭そうな先輩を少しだけ哀れに思った。

「嫌な雰囲気……」

 鵜飼にだけ聞こえるように呟く。

『異常はないが?』

 空気の読めない鵜飼は、敵の接近と勘違いしているらしい。

「そういう意味じゃねぇよ……」

 だがここで後輩がしゃしゃり出て事態が改善するとも思えない。なにより君子危うきに近寄らずだ。関わらないに越したことはないだろうと白瀬は息を吐いた。そのときだった。耳元がふとざわつきはじめる。違和感が冷たい風のように肌を撫で、白瀬は顔を上げた。

「何か来る」

『何かって――』

 鵜飼の次の言葉は爆発音で掻き消された。次の瞬間、天井にひびが入り崩落が始まる。巨大なコンクリートが次々と落下し、土煙と煙玉のようなもののせいであっという間に視界が奪われた。聞こえてくるのはヘリコプターのローター音と、ロープを使って人がこちらに降り立つ音。それから発砲音。

『伏せろ!』

 頬のすぐ横を一発の弾丸がかすめる。続いて連射で狙われたが、鵜飼の入力したシールドが展開され白瀬の身体を守った。身を伏せて家具の後ろ隠れながら、耳元のフックに触れる。

「どうなってるんだ?」

『分からないが、データはリーダーが持ってる。奪わ――』

 ところどころにノイズが入り、上手く聞こえない。敵側の電脳技師が奮闘しているせいだろう。技師は技師同士、電子の軸の中で熱戦を繰り広げているのだ。

煙が少しずつだが薄くなり、奥にいる三島の姿が見えた。玉座を中心に円形のフォーメーションで警備に当たっていたが、そのうち一人が敵の銃弾に倒れる。ガスマスクをつけた男たちがざっと三人。先輩たちも徐々に押され、シールドが狭まっていく。この盾も万能ではない。銃弾を防げても三十秒だ。

「まずい!」

 案の定、玉座を守っていた盾が割れる。白瀬は警備対象まで距離があり、このまま走っても間に合わない。しかしそのとき先ほど悪態ばかりついていた畠山が飛び出し、三島の背後から宝石箱を取って、リスのような俊敏さで壁際の棚に隠れた。一連の畠山の動きを援護していた三島は被弾し、その場に倒れて動かなくなる。敵は畠山の姿を見失ったのか、辺りを伺うように首を回す。オープンになった回線から畠山の声が聞こえてきた。

「リーダーがやられた。今から俺が指揮を執る。いいな」

 あんな奴だからやられて当然だとでも言いたげな愉悦がその台詞ににじみ出ている。

ソラリス内で致命傷を負っても現実に死ぬわけではない。今頃、あちらにいる三島はすやすや寝ているだけである。しかし仲間の疑似的な死を畠山のように喜ぶ気にはなれない。

「了解」

「ああ、まずは、まずはだな……」

 大方、急襲に驚き混乱しているのか作戦も思いついてはいないのだろう。とにかく見つからないよう隠れていろともっともらしい口調で言ったが、既に白瀬は迷彩モードで物陰に隠れている。畠山はパニックに陥っていた。必死に平静を取り繕うとするその声は聴くに堪えない。回線をこっそり閉じて、鵜飼が苦々しそうに言う。

『このままじゃ詰みだ』

「同感。なんとかしないと。人数は?」

『ヘリの操縦が一人と下に降りてるのと合わせて四名。こっちはリーダーとあと二人がロストした。残りは畠山と君だけだ』

 こういう場合の対処方法は二つつある。一つは侵入者を捕まえてくれる国家警備員の到着を待つこと。しかし万年人員不足の国家警備員がすぐ駆けつけてくれるのは、もっとランクの高い情報だけだ。今すぐ呼んでも彼らが来るの数十分も後だろう。二つ目はもっとも単純で分かりやすい解決策。つまりここにいる全員を倒すということだ。

こちらの敗北条件は二つ。致命傷を受けるか、この宝石を持って店外へ出られること。宝石を持って逃げられればその時点で防犯システムのハッキングが完了。恐らく現実世界にいる実行犯たちが、すぐさま宝石を盗みにやってくるだろう。

 物陰に隠れたまま、白瀬は畠山に通信する。

「聞こえますか、先輩」

「白瀬か?」

「俺が二人相手しますから、先輩は残りをお願いします」

「わ、わかった。いいだろう」

 データを探していたニ人の男の前に白瀬は躍り出る。腰に差している漆塗りの鞘から刀を抜くと、ガスマスクの男たちはせせら笑うように少し背を反りながら、銃口を向ける。男のくぐもった低い声が響く。

「上等だ。やってみろよ!」

 瞬間。風が吹き抜けるよりも早く、白瀬は男の背後に立っていた。後ろから斬りかかるも、すぐに相手が翻り、深い傷には至らなかった。白瀬は発砲されるよりも早く銃を真っ二つに叩き斬ったが、すぐに修正され元の銃に戻ってしまう。

 迫りくる弾丸を跳ねるように交わし、白瀬は徐々に二人の男を背中合わせに誘導していた。前後左右に動く白瀬の少し後を追うように銃弾が追いかけてくる。

「きりがねえぞ」

 一人が呟き、剣を抜いた。どうやらこの剣が相手の本命らしいとその武器がまとうオーラが語っている。先ほどとは重みも早さもまるで違う一撃を白瀬は刀の鞘で受けた。てっきり刀身で受けると思っていた男は拍子抜けしたような顔で、白瀬の手元を見つめる。そこには刀の鍔があった。正確には鍔と柄だけ、刀身がまるきり消えていたのだ。本来そこにあるはずのものが、すっかりと消えている。男の意識は一瞬、そこに持っていかれた。

「うっわあああ!」

 背後にいたもう一人の男の絶叫が聞こえる。何が起こっているのか考える隙さえも与えさせず、それはもう一人の後ろにも迫っていた。

「なんだ……!?」

 黒々とした大きな影のような狼が、口から血液のように赤い文字の羅列を滴らせながら男をじっと見つめていた。怒気をはらんだ目が射抜くように男を睨みつけ、大きな牙をむき出しにし唸りを上げる。そして狼は一気に前足を蹴り上げ跳躍し、その牙で男の首の骨を砕いた。

 狼は不味いものを口に含んでしまったというように、すぐに吐き出す。奇妙に折れた男の首の根からは、無意味な文字の羅列が蠢き、血のようにだくだくと溢れ出す。

「ツバキ……。また勝手に現れたのか?」

 白瀬がそう声をかけると、狼はちらりと耳を立てる。だがお前に興味はないというようにそっぽを向き、辺りを伺っている。言うことを聞かない武器に向かって、白瀬は小さく息を吐いた。

 これは武器で名前はツバキ。それなりに長い付き合いだが、仲は良くない。

 潜行者の才能が何で決まるのか、それには様々な意見がある。だがその指標と一つとなるのは所持する武器の能力だ。基本的なサバイバルナイフや小銃は誰でも持っているがその他はオリジナルで先天的かつランダムに決定され、ほとんどの場合一生変わることはない。白瀬の場合、才能があるなどと持て囃されている理由も、この強力すぎる武器が原因なのだ。なぜ刀身が変形するのかは分からない。しかし恐らくは白瀬の精神性が反映されているのだろう。白瀬にとって力の象徴のようなものが日本刀であり、黒い狼なのだ。本来ならば武器を扱うにはそれなりの集中力が必要だ。それを意図的に起こすために、言葉を使う人もいるが、白瀬の場合、このツバキは現れたり消えたり、命令にも従わず、主を主と思っていない。

「しっ、白瀬!」

 そのとき後ろから助けを求めるような畠山の声が聞こえて振り返る。一対一で銃を手にした畠山がガスマスクの男と向かい合っている。男は攻撃をものともせず慎重に距離を詰めているが、煙でときおり姿が隠れてしまい、白瀬も闇雲に踏み込めない。

 するとツバキが白瀬に後ろから負ぶさるようにして体当たりをしてくる。バランスを崩し床に突っ伏すと、上空から降り注ぐような鉛玉が飛んできた。ヘリの運転手が痺れを切らし、直接こちらを攻撃してきたのだ。白瀬はとっさのツバキの機転で難を逃れたが、畠山との連絡が途絶えた。

弾丸の雨が止んだ瞬間に白瀬は煙の中へと走り出し、必死に畠山の姿を探した。するとすぐそばに人の身体が見える。蜂の巣のように穴が開いた上半身、セキュリティのコートがボロボロになっている。畠山だ。

そのとき煙の中の影絵のように、ガスマスクをつけた男が揺れたのが視界に入る。白瀬はそれに向かって小銃を撃ち込んだが、腰元に付けたロープがキュルキュルと音を立て、男は上にあるヘリコプターに回収されていく。情報が警備区域から出たことにより、備えつけのサイレンが鳴り響き、照明が赤く点滅し始めた。けたたましいその音に臆することもなく、男を乗せたヘリが羽ばたいていく。

「待て!」

 煙を巻き上げ逃げ去ろうとするヘリコプターに向かって叫んだ。しかしこちらにはもう打つ手はない。白瀬は唇を噛み、ツバキも諦めきれないというように、崩落した屋根の辛うじて残った部分に飛び乗り月に吠える。

「……警備対象の消失(ロスト)を確認」

 煙が完全に消え、辺りの惨状が見えてくる。倒れている盗人の顔を覆っていたマスクがはずれ、その横に個人情報が立体映像になり浮かびあがる。このデータは即座に警備庁の人工知能に送られ、犯人逮捕に役立てられるらしい。

『……了解。引揚げ(サルベージ)を行う』

 白瀬と倒れている仲間たちの体が徐々に透過し、うっすら見える皮膚に這うように文字が浮かび上がる。屋根にいるツバキも同じように消えていくが、諦めの悪い狼は青々と冷めた月に向かって、ひたすらに遠吠えを続けている。

ヘリは既に遠く、暗い夜空に溶けていた。


 *****


 銀座に店を構える宝石店メトロポリタンは、いつも通り二十時に営業を終えた。店主の早海は四十代後半で、スポーツでもしていたのか肩幅の広い筋肉質な男だった。早海は社員を帰宅させたあと、奥の金庫室に入り中身を確認しに赴くのが日課だ。専用のカードでしか開けられない密閉された部屋に入り、電子ロックで厳重に警備されている金属の丸い扉を開ける。空気の抜ける音がして二つ目の重厚な扉が開く、入っているのは店で最も高価な時価三億は下らないダイヤモンドのティアラだった。これに傷がないのかを確かめ、元に戻すのが早海の一日最後の仕事だ。しかしティアラに手を伸ばした瞬間、店内がサイレンの音で包まれた。

「なんだ……!?」

 サイレンはバイオ・セキュリティによる警備が失敗したときや、店舗の扉が物理的に破壊されたときに鳴るように設計されていた。早海は慌てながらもティアラを元に戻し、金属の扉を閉める。電子ロックを手動に切り替え、新たな緊急パスを設定しようとしたときだった。

「手を挙げろ!」

 頭に突きつけられた冷ややかな筒状のもの。背中に氷柱を当てられたような悪寒が走った。

「命だけは……」

 ゆっくりと視線を向けると、そこにいたのはスカルマスクをつけた三人の男たちだった。黒い衣服で統一していたが、その立ち姿からまだ若いことが見て取れる。

「見ろヨ。すごい。お宝ダっ!」

「早く盗もウ!」

 そして僅かながらに、たどたどしい日本語は彼らが外国人だと伝えていた。

 店主に銃を突きつけていない残りの二人が扉を開けてティアラを取り出す。その価値も知らないのか、上履きでも入れるような乱雑さで袋の中に放り込んだ。

 このままショーケースの宝石も軒並み奪っていくつもりだろうか。しかしそれでもいい。命が助かるのならば、宝石だろうと店だろうとくれてやると早海は苦い顔で自分に言い聞かせる。そのとき、銃を持った男が流れるような日本語で訊ねてきた。

「店長、俺のことを覚えてますか?」

 監視カメラの死角になる場所に動き、男がおもむろにマスクを取った。

「君は……。どうしてここに……?」

 そこにいたのは半年前にクビにした元社員の姿があった。まだどこか幼さの残る顔立ちだが上品な印象があったため雇ったのだが、ある事実を隠蔽していたことが判明し、他の社員の反対も押し切りリストラした。

「ああ、覚えてたんですね」

 男の瞳には一切の光がなく、その指は既に引き金の上に置かれていた。早海は縋るように声を上げる。

「う、恨みか!? リストラにされた恨みで私を!?」

「そうじゃない」

「なら、なんだ!」

 他に恨みを買うような理由が思いつかない。しかしこの回答を聞いた元社員の目が一瞬だけ見開き、次の瞬間烈火のごとく炎が宿る。男の銃を持つ手が震え、彼は怒りに震える声で静かに告げた。

「あんたみたいな屑野郎は、地獄に落ちるべきだ」

 火薬の爆ぜる大きな音が、店主が最期に聞いた音だった。


 *****


引き揚げられてからしばらくは、頭がグルグルと回っているような違和感がある。予めカバンの中に用意していたミネラルウォーターを飲みながら、白瀬は現状の判断を始めようと息を吸って吐く。

「宝石店は?」

「分からない」

 鵜飼は端的にそう答えたが、その声はいつもより小さかった。

リーダーの三島を含め、ソラリスで致命傷を受けた潜行者は深い眠りについている。攻撃を受け強制終了した潜行者は数時間は目覚めない。後遺症は残らないと言われているが心身ともにリカバリーの時間が必要なのだ。逆に白瀬のように無傷に帰還できれば、すぐに目覚めることができる。

三島の電脳技師が足早に部屋から出ていったかと思うとそれと入れ違いに、このクラブの学生代表者、つまり自警団の団長がやってきた。

「みんな、ログには触れてないな?」

 高校三年生の八神(やがみ)透(とおる)は、クラスに一人はいそうな誰にでも好かれる委員長タイプといった人だった。清涼感が振り切っている爽やかな見た目で、鵜飼とは違う柔らかな聡明さを兼ね備えている。当然のように春霞附属派閥の人間だが、エリート揃いの団を率いている長にふさわしく奢らない謙虚な人間だ。しかし今回ばかりはその顔は青く焦りが見えた。

「触ってません」

 鵜飼が答えると八神は頷いた。

「宝石店の警備システムは復旧した。それで今、警備庁に情報を抜き取れた人物を調べてもらっている。念のため君たちの警備に不備がなかったかどうかを確認するためにマシンとギアはあとで国家警備員に引き取られる。キーボードもだ。いいね?」

 面倒そうに二年の先輩が腕を組む。

「なんでですか……?」

「なんでもだ。とにかく指示があるまで別室で待機。隣の会議室に移動してくれ」

 それだけいうと八神は足早に部屋から去る。その行動に驚きつつも皆は、白瀬以外の眠っている潜行者を残し隣のガラス張りの会議室へと移った。

「なあ、おかしくないか……」

 そう不安げに言い出したのは上座に座っていた三年生の技師だった。隣の学生がこわごわと頷く。

「確かに変ですよね」

 バイオ・セキュリティの警備成功率はおよそ七十パーセント。つまり三割の確率で失敗する。もちろん白瀬もミスをするのは初めてではない。そのたびに不備がないかの調査は入るが、せいぜいがログを提出して始末書を書く程度で、マシンごと警備庁に押収されるなど前代未聞だった。これではまるで、こちらが犯罪者扱いされているのようなものである。

 ちらりと横目で隣に座っている鵜飼を見る。彼はいつものポーカーフェイスのまま、なぜか執拗にセルの更新ボダンを押していた。やがて息を止めるような顔をして、それから机の上を滑らせるように自分のセルを白瀬に寄こした。見ろということらしい。

 『銀座の宝石店に強盗 死者一名』そう見出しに書かれたネットニュースが画面いっぱいに広がっていた。

「…………」

 白瀬が言葉を失っていると、同じニュースを目にしたのか二年の先輩たちが悲鳴のような声を上げた。

「嘘! 嘘だろ、こんなの!」

 中でも一番興奮していたのは、あの畠中と組んでいた電脳技師だ。リーダー役だった三年の技師は大きなため息をつきながら頭を両手で抱えている。鵜飼はやはり取り乱さずに記事のページをめくっていたが、その顔は苦悶に満ちている。その気持ちは白瀬も同じだった。嫌な具合に心臓が動いている。拍動の度に胸の奥が針で刺されたように痛む。

 『十七日二十時半すぎ、銀座の宝石店メトロポリタンで三人組の男が、店長である四十五歳の男性を射殺し金庫から時価三億円相当のティアラを奪い逃走しました。監視カメラの映像ではスカルマスクをつけた男たちの様子が映っているとのことです。事件当時、店内の電子錠は、バイオ・セキュリティによって守られていましたが突破され、システムが復旧するまでの十五分の間に犯行が行われたものと見られています』

 間違いなくこの宝石店は、さきほどまで白瀬たちが警備していた場所だった。

「なんだってんだよ! くそ!」

 一人の先輩が悪態をつきながら、自分のセルを床に叩きつける。割れた画面を踏みつけながら激高する姿はまるで狂人だった。しかしそれに続く言葉で白瀬の心は凍りついた。

「俺は何も悪くねぇ!」

「静かにしろ!」

 三年生がそう窘めたが、二年生はここぞとばかりに突っかかってくる。

「元はといえば三島先輩たちが悪いんですよ。早々にやられちゃってさ。どう責任取るんですか? 人が死んでるんですよ。僕達の経歴に泥を塗った自覚はあるんですか?」

「今はそんなことを言っている場合ではない!」

 そういいながらも三年生の足は小刻みに揺れ、顔にはうっすらと汗が浮かぶ。

「責任逃れ? そんなことして恥ずかしくないんですか!?」

「なら言い返すが、俺の不在時の失敗は副リーダーのお前たちの責任だろ! 自分の責任になるのが怖いからって、俺になすりつけるな! 俺たちには大学の推薦がかかってるんだぞ!!」

 二の腕のあたりにぞわっと鳥肌が立つのを感じる。まるで異国の言葉での言い争いが、目の前で繰り広げられているようだった。どうしてこの人たちは、亡くなった店主やこの人の家族のことではなく、自分のことだけを考えているのだろう。なぜだ。なぜ、どうして、という疑問符で凄まじいスピードで頭の中を駆け巡る。

「ふざけるな!」

 しかし流れるような疑問符は鵜飼の怒声でぴたりと止まった。いつの間にか席を立っていた鵜飼が二年の先輩の襟元に掴みかかっている。鵜飼は噛み付くようなの勢いで続けた。

「そんなに我が身が可愛いのか!? 救い難い恥知らずだな!」

「なんだと!? 調子に乗んなよ! お前らが守れなかったせいじゃねえか!」

 慌てて白瀬が鵜飼を掴み、後ろに引かせる。殴りかかろうとした先輩は三年生が捕まえていた。

「離せ! 殴らせろ!」と二年生が言えば「殴ってみろ!」と鵜飼が煽る。

「やめろ、やめろ、やめろって!」

 華奢なわりに力が強い鵜飼を抑えつけ、どうにか椅子に座らせる。その目は怒り心頭冷めやらぬとギラついているが、ここで乱闘騒ぎなど起こせば困るのは八神や観月たちである。

「君はなんとも思わないのか!?」

「どうどう。落ち着けって」

 鵜飼は基本的には冷静で理性的な人間だ。ただ人よりも正義感が強く曲がったことが嫌いなだけで。

ノックの音がして、再び八神が部屋に入ってきた。ただならぬ室内の様子を見て、少し驚いていたがすぐに話しだした。

「事情はもう分かってるみたいだな。こんなことになって俺もとても残念だ。だが感傷に浸る前に今から一人ずつ国家警備員と話してもらう。潜行者はソラリスでの行動を、技師は入力した内容を覚えている限り話してくれればいい。ではまず――」


 *****


 調書の作成は二時間半ほどで終わった。しどろもどろな説明が終わった後、国家警備員はこちらを責めるでもなく、むしろあまり気落ちしないようにと気遣いまでしてくれた。これは誰しもが一度は通る道なのだと、毅然とした表情でそう言われた。

 聞き取り調査が終わると時刻はもう夜の零時を過ぎていた。そのまま帰っていいとのことだったので、荷物を持って警備庁を後にする。鵜飼は迎えの車が来ると言って地下駐車場に消えていき、白瀬は一人最寄りのピット駅へと歩き出した。

「あれ? 観月先輩?」

 回転扉を出てすぐのところに観月が立っていた。彼女は髪を耳にかけながら少し疲れたように微笑んだ。

「おつかれさま」

「もしかして待っててくれてたんですか?」

 五月とはいえ、夜はまだ冷える。観月の白い鼻先は少し赤くなっていた。

「後輩を残して先に帰れないでしょ。八神くんは国家警備員と一緒に残ってくみたいだけど、潜行者の調査も終わって、君が最後みたいだったから……」

 優しいというのか責任感の塊というのか、彼女はどちらなのだろう。白瀬は礼を言いながらも、早く暖かい駅に行きましょうと言った。

「あの、あんまり落ち込まないで。誰だって完璧にはできないんだから」

 歩きながら観月は励ますようにそう声をかけてくる。自分がもし同じ立場だったら、きっとそういうだろうなとどこか冷めたように白瀬は考えていた。

「畠山先輩は?」

「とりあえず処罰もないし、自警団の名前が報道されることもないから、落ち着いたみたい。でも彼はやっぱりダメね。辞めてもらいたくても親のコネが強力で、そう上手くはいかないの」

「これが普通の警備会社なら会社名が発表されて、下手すれば倒産ですよね」

「……そうね。自警団とはいえ、警備庁のインターンも兼ねてるから守られてるんだとは思う」

 駅についたが、さすがにこの時間は人はまばらで酔っぱらいとくたびれたサラリーマンしかいない。白瀬と観月の家は同じ方向で、三分後に来るピットをベンチに座り待つ。厚い雲が月を隠し、今にも雨が降りそうだった。

「よければ駅から家まで送ります。こんな時間だし、危ないですよ」

反対側のホームにピットが停まる。観月は柔らかく笑い首を横に振った。

「ありがとう。でも最寄りの駅からは車で迎えが来るから平気よ」

「じゃあ、すみません。ここで失礼します」

「え?」

 白瀬は頭を軽く下げてから、さきほど停車した反対側のピットに乗った。木琴の音楽のあとアナウンスが流れる。

『銀座方面行きが発車します』

 ドアが閉まり、白瀬だけを乗せたピットが動き出す。それを待っていたかのように堪えきれなくなった大粒の雨がザーザーと降り出した。


 *****


 幼稚園児のころから白瀬は何かにつまずいたり、上手くいかないことがあると、癇癪を起こすかわりによく家を飛び出して宛度もなく走りだす悪癖があった。幼い子供が急に走り出すのでそのときの母の心情は察するに余りあるが、おかげで長距離走は陸上部顔負けの速さで走れるようにもなった。ただそんなときも父だけは笑いながら、男には走り出したいときがあるのだと言っていた。

 しかし今日は走る気にもならなかった。

 銀座駅から雨に打たれるがまま道を歩き辿り着いたのは例の宝石店だった。地図を見て来たわけではなく大通りに面して歩いていたが、野次馬が多くいたので嫌でも目についた。二階建ての茶色い煉瓦造りの宝石店の前には警察の黄色い立ち入り禁止テープが貼られ、ガラスの奥には鑑識らしきロボットと額を寄せ合っている刑事の姿とが見える。外には眩しいほどのライトとカメラを担いだマスコミが必死に店内の割れたショーケースを映そうとしていた。

「何があったの?」

 背後に立ったカップルが囁き合う。

「強盗があったらしいよ」

「ふーん」

 それだけいうとまた興味がなさそうに去っていく。セルを取り出して撮影する人、次の中継でどう話すのかを打ち合わせするテレビクルー。折りたたみ机でできた献花台に花を供え、手を合わせる人。花など持ってもいないのに、白瀬の足はその献花台の前に進んでいた。近づくとその机に倒れ掛かるようにして泣いている女性がいた。人目もはばからず子供のように泣きじゃくるその人の後ろで、彼女の母親なのか沈痛な面持ちの初老の女性が娘が濡れないように傘を傾けている。そして傘をさしている女性のもう片方の手には、まだ五歳くらいの孫娘が立っていた。事態を飲み込んでいないのか、女の子はぽかんとした顔で悲しみに打ちひしがられる母の背中を見つめていた。

「さあ、もう行きましょう」

 祖母と思わしき人が、女性の肩を掴む。彼女はその手を払いのけたが、なんとか立ち上がろうと足に力を込めた。

「あの……」

 考えるよりも先に、口から言葉が零れていた。

あの、なんだろうか。何を言おうとしていたのだろう。俺は学生警備員で当時この宝石店の警備を任されていたものでしたが、失敗してしまいました。許してください、とでも言うのだろうか。そんな虫のいいことがあるだろうか。自分だけ何もかもを白状して、糾弾されるなり詰られるなりして自分だけ楽になるつもりなのか。

「ほら、早く。行くわよ」

 しかし白瀬のか細い声は、相手の女性に届く前にバケツのひっくり返るような激しい雨音に掠れて消えていた。女性は自身の脚を半ば引きずるようにして歩き出す。その瞬間を待っていたというように再びフラッシュがたかれ、タコ足のようなマイクが一斉に向けられる。

「今は何も言えません。今は何も……」

 女性はそう繰り返しながら、灰色のバンの中に消えていく。ガラス越しにまたシャッターが切られ、マスコミたちは車の周りを取り囲む。

「犯人グループは未だ逃走中ということですが、どう思われますか!?」

「何か一言だけでも!」

 どこか遠くでゴロゴロと雷鳴が轟いた。既にびしょ濡れの髪はすっかり束のようになり、前髪から大きな滴がぽたりぽたりととめどなく地に落ちる。

 俺のせいだ、そう白瀬は思った。

 あのとき、あの三人を無事制圧できていればこんなことにはならなかった。自分のせいで、一人の命が散った。

「風邪をひくぞ」

 ふと頭上に降り注ぐ水滴が消え、かわりに雨が布に弾かれるくぐもった音がする。振り向くとそこには黒い傘を差し出す鵜飼の姿があった。鵜飼の手元にはきちんとした献花が握られ、少し離れた道路には高級そうな彼の送迎車が停まっていた。恐らく彼は警備庁で別れたときからここを訪れるつもりだったのだろう。

 ダムにたまった水が堰をきって溢れ出すように、白瀬は震える声で言った。

「俺のせいだ……!」

 あともう少しのところで競り負けた。最後の場面が頭の中で繰り返される。あの銃弾が当たっていれば、ギスギスとしたチームワークに対して何か声をかけていれば、事態は変わっていたかもしれない。あのときあの場で情報を守れたのは自分ただ一人だけだったのだから。

「君のせいじゃない」

 鵜飼の声は朗々と雨の中でもよく聞こえる。その落ち着いた子供を諭すような態度がなぜか気に食わなかった。

「俺のせいだろ! あのとき男たちを捕まえられてたら、こんなことにはならなかった!」

「そうだな。だから僕らのせいだ」

 白瀬ははっと息をのんだ。雨に交じり鵜飼の頬を小さな滴が伝っていたからだ。いつもどこか斜に構えた態度で高山のごとくプライドの高い彼が泣く姿を、白瀬は初めて見た。

「僕らの仕事はそういうものだ。失敗すれば尊い命を犠牲にするかもしれない。大人も子供も関係ない。そんなの理由になんてならない。データはただの情報じゃない。システムはただのプログラムじゃない。その後ろにいる人間を守るのが僕らの仕事なんだ」

 自分に言い聞かせるように鵜飼はそういって、台の上の花を置く。

 ——―夢や憧れがある人が羨ましい。

 そうじゃないと、今の白瀬には断言できた。本当はそんなことで悩んでいたわけじゃない。

 怖かったのだ。この仕事に携わることで、いつかこんな風に傷つくことが、分かっていたから。

 才能があると褒め称えられ、将来を期待視されてながら、そして自分自身でこの仕事の価値と役割を意味あるものだと思いながらも、踏み込むのを恐れていたのはこの職務の責任から逃れたかったからだ。

 ――怖い。

 もしも警備員になって、またこんなミスを繰り返したらどうする。人命を背負う覚悟が本当に自分にはあるだろうか。鵜飼ほどのプライドや観月のような自覚が自分に備わっているとはとても思えない。

 警備員になりたくなくて、悩んでいたわけじゃない。警備員になることが怖いのだ。そうと気づかないように、夢や憧れというレッテルで本心を隠していた。本当はずっと自分の将来に向き合うことから逃げていただけだ。

 稲光が走り、雨が振り止む気配はない。分厚い灰色の雲は暗く低く空を覆い、月の光を奪っていった。

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