第4話 お嬢様、起きてらっしゃいますか?
「ジュリアお嬢様、起きてらっしゃいますか?」
渋いダンディボイスがドア越しに響いた。
我が家にただ一人いる、執事だ。
「起きてるよ。いま行くね」
「かしこまりました。スープが冷めてしまうので、お早めに」
デュラスはそれだけ言って、階下に降りていった。
私は自分の細い両手を見下ろして「よし」ともう一度気合いを入れ、ポケットに入っているレイにお礼を言い、古ぼけて軋むドアを開けた。
二階から居間に下りると、使い古されたダイニングテーブルに質素な朝食が用意されていた。
「ジュリアお嬢様、本日もご機嫌麗しゅうございます」
やけに長いカイゼル髭とオールバックのデュラスが、恭しく執事の礼を取る。
彼は生粋の執事というわけではなく、父レオン・シーザーの冒険仲間だった。
高身長で彫りが深く、日本にいたらおじさま好きの女子にモテること間違いなしの風貌をしている。甘いバリトンボイスで愛の言葉を囁かれたら、かくいう私も彼になびいてしまうかもしれない。
「おはよう、デュラス」
私は普段のジュリアより、明るい調子で彼に挨拶をした。
「おや。おやおや、ジュリアお嬢様。今日はやけに晴れ晴れとしたお顔をされておりますね。先日から悩まれていた下腹部のお通じがよくなったのでございますか?」
「……デュラス、朝からお下品はやめてちょうだい」
「これは失礼を。わたくしこう見えて、“準々”男爵の執事をやっているものでして。このように高級な屋敷で働いているわたくしには、相応しい立ちふるまいが必要かと存じます。何卒ご容赦くださいませ」
「皮肉ここに極まれりね、デュラス」
私は室内のひび割れたガラス窓、老朽化が進んで変色した家の柱、入れるものがなくて隙間の大きく空いている小さな食器棚など貧乏を象徴するような物を見て軽い溜め息をついた。
彼は皮肉屋で少しスケベなところがあり、せっかくの甘い声が台無しになる発言ばかりするのが常だった。
「皮肉と言えばお嬢様。鶏肉の皮をサラダに添えておりますので、お楽しみください」
「まあ、それは嬉しいわ」
それでも細部まで気が利き、仕事の傍ら街の外で狩猟をして食卓を助けてくれる、我が家にはもったいない素晴らしい執事だ。しかも無賃で働いてくれる。
なんでも父に相当大きな恩義があるらしく、なんやかんやと言いながらずっと家に住んでおり、今では本当の家族みたいになっている。彼にも必ず恩返しをしたい。
「
「デュラス……いまに覚えておきなさいよ」
木の板で修繕を重ねたつぎはぎだらけの椅子に腰をかけ、じろりと彼を睨んだ。
私のことを
デュラスはカイゼル髭をひねりながら、天井を見上げている。
彫りの深い顔と、静かな灰色の瞳。とぼけ顔も様になってしまうから憎らしい。
彼がいつもこんな調子なので、暗い性格だったジュリアが魔術師学校で不登校にならずに済んだのではと今更ながら思い、感謝してもいいかもしれないと何となく考えたけれど、やっぱり失礼だなと思い直してさらに睨みを入れておいた。
いつか美人になってデュラスをギャフンと言わせてやる、と心に誓う。……そう言えば、ギャフンという言葉は日本人のお父さんがよく言っていた気がする。完全に死語だよね。
「デュラス、いつもありがとう。さ、いただきましょう」
おすまし顔を作ってナイフとフォークを持った。
「おや? お嬢様、今日は本当にどうかされたのですか? 何だか別人のように堂々とされておられますね」
「私は私だったのよ、デュラス」
「ほう、謎かけでございますか。そのような言葉遊びでこの私に勝てるとお思いで?」
「謎かけではなく、ただの真実よ。私は私だった。今の私は本当の私に戻っただけなの」
「なかなかに難しい問題でございますな。なるほど、これは少々お時間をいただきたいところでございます」
「謎かけではないと言っているでしょう? でも、うん、いいわよ。そういうことにしておいて」
「今日のお嬢様は本当にどうかされておられる。そんな挑発的な言葉を仰るとは夢にも思いませんでした」
「ええ、そうよ。私は生まれ変わったんですから」
「静かなジュリアお嬢様も哀愁があって大変よろしゅうございましたが、今日のお嬢様のほうがわたくしは好感が持てます。是非とも、今後も今のように明るく振る舞ってくださいませ。それが先々の物事においてあなたの宝になるだろうと、わたくしは愚考いたします」
「ありがとう、デュラス」
何だかんだ優しい彼に礼を言いながらナイフを動かし、鶏皮のサラダを食べた。
デュラスが火で炙ってくれたのか、鶏皮のカリッとした味わいとサラダの甘みが口の中に広がっていく。レタスとキュウリに似た野菜たちが口の中でシャクシャクと跳ねた。家計を切り詰めて買ってきた焼き立てのパンを頬張ると、じんわり心が満たされる気分になる。
うん。こうして少しでもカロリーを摂取しなければ、今の痩せ細った体型から抜け出すことはできない。
注意点としては、ただ食事を増やすだけでは脂肪がつくだけで理想の美しい女性には近づけないため、適度な運動と筋力トレーニングが必要、ということだ。私の身体は比喩抜きでモヤシみたいなので、筋力をつけないと簡単な運動すらままならない。
今の不健康な身体では幸せになるのは難しいだろう。
私は活発に動き回れ、疲れず、様々な洋服が似合う健康的な身体が欲しい。
「お父様の容態はどうかしら」
「良くも悪くもございません」
給仕をしてくれるデュラスに尋ねると、彼は右手を後ろ手にし、左手でカイゼル髭をひねりながら鷹揚にうなずいた。口調の丁寧さと振る舞いがまったく合っていない。
「体力だけはあるバカでございますので、まだまだ死なないでしょう――おっと、言い間違いを致しました。体力だけしかない大バカでございますので、放っておいてもあと二百年は死なないでしょう」
「そうね。お父様は死なないわね」
デュラスのブラックジョークには多分な願望が含まれていたので、笑顔でうなずいた。お父様には私が親孝行を終えるまで死なれては困る。
私の笑顔を見てデュラスは一瞬だけ驚き、そのあと何かまぶしいものでも見るかのように目を瞬いて、カイゼル髭をひねって天井を見上げた。私の顔がそんなに可笑しかったのだろうか?
そんなことを考えたとき、部屋のドアがゆっくりと開いた。
「ずいぶんと大層な言い草だな、デュラス」
錆びついた蝶番を軋ませ、狭いダイニングに入ってきたのはお父様だった。
無理にベッドから起きて歩いてきたのか、ドアノブに体重をかけて倒れるのを踏ん張っている。顔色は少し青白く、身体がダルくて寝間着を直すのも億劫だったのか胸元がはだけているけど、それでも歴戦の勇士であった風格は損なわれていなかった。何人もの女性を悩ませた、無骨ながらも整った顔つきは今でも健在であった。
「お父様!」
「レオン様!」
私とデュラスは飛び上がらんばかりに驚いて、お父様に駆け寄った。
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