第3話 奇妙な仕事
傾いた台所を家具に手掛かりに移動して、扉を開く。見えるのはまっすぐに続く廊下だ。
この台所は正面からお屋敷を見て左端にある。一方、BL氏の部屋はなんと正反対の右端だ。そして今このお屋敷は坊ちゃんの気まぐれにより重力異常が起こってる。体感的にはお屋敷全体が傾いていて、いつもは平らな廊下が長い坂になっている。つまり、私がやらなきゃいけない仕事とは、お屋敷の端から端まで長い上り坂を駆け上がるということ。
「遠いなあ……」
テーブルにもたれ、私は目標地点を眺める。屋敷中央の玄関ホールまで50m、ホールからBL氏の部屋まではまた50mといったところか。傾斜は見た目で30度ぐらい? スキー場なら結構なスピードが出そうな斜面だ。まあ私はこれから登るのだけど。
「よし!」
掛け声を出して、テーブルを押して反動をもらう。私は、駆け出した。
右足を大きく前へ、一歩。そしてすかさず左足、もう一歩。
ハウスキーピングのために鍛えられた私のしなやかな筋肉が、その身をよじって力を振り絞る。私は重力に逆らい、坂を登っていく。
ダッ、ダッ、ダッ。
メイド服のロングスカートを振り乱しながら、大股で登る私の姿にはそんな擬音がふさわしい。
けれど、ちょっとこれは……
六、七歩進んだところで、後ろへと引っ張る重力に負けて体勢を崩しかけた。私は必死で左側の壁に近づく。
「ふ~、危なかったぁ」
私がしがみついたのは、意味ありげに陳列されている西洋甲冑。このほかにも廊下の左右にはアンティークの調度品や芸術品が飾られている。全体が傾いている以外は、普段と変わらない光景だ。
ん? 普段と変わらない?
いや、それはおかしい。なぜあの壺や置物や、そしてこの甲冑は倒れない? 私はしがみついたまま、甲冑を観察する。どうやら甲冑は台座に固定され、台座もまたしっかりと床に固定されている。
まあ、こういう尖った物の展示には必要な配慮だろうけど、でもどうやら他の展示物も固定されているみたい。なぜそこまで……
思えば、台所もそうだった。家具は全て固定されていた。だから、テーブルを押した反動を利用できたんだ。それは以前から気づいていたけど、耐震のためかな、なんて思ってた。
でも、今の状況を考えると……
「重力異常は想定されていた……?」
私は思考の結果を小声で出力した。BL氏の気まぐれな発明が引き起こした異常事態だと思っていたけど、実際はそうじゃないのかも。
もっと思考を深めたいけどそれは後回し、いつまでも甲冑にくっついてても仕方ないよね。
私はおもむろにポケットからロープを取り出し、上に投げる。ロープの先端の輪っかが、離れたドアノブに引っかかった。
「おっけ!」
これぞハウスキーパー七つ道具のうちの一つ、投げ縄。そんなの誰が決めたかって? 私だよ! ……まあ女の過去には色々あるのだよ。
とにかく、あとはロープを手繰って上るだけ。
グッ、グッ、グッ。
ロープの軋みを感じながら私は体を上へと運ぶ。あとはこれを繰り返せばいい。10回ぐらいでホールにたどり着くだろう。
…………
というわけで、ホールについた。さすがに少し息が上がる。けれどここで廊下が途切れて広い空間になり、壁が横方向へと折れ曲がる。つまり、この壁を足場にして休むことができるのだ。
「さて、どうしますかね」
呟きながらホールを見渡す。ちょっとした体育館ぐらいのホールには廊下が二ヶ所接続している。私が登ってきた廊下と、上方のこれから登らなきゃいけない廊下。
直接上の廊下に向かうにはちょっと遠い。投げ縄で引っ掛けるものもなさそうだし。じゃあ壁を伝って大回りで行く? 今私が休んでいる下側の壁は足場になってるけど、逆に言えば向かい側の壁は手前に傾いていてオーバーハング状態。壁を伝う作戦はそこで厳しくなりそうだ。
「うーん、ボルダリングでもやっとけばなあ」
……ウィンウィンウィンウィン
趣味を一つ増やそうかと悩んでいる私の耳にそんな機械音が聞こえてきて、ハッと顔を上げる。上の廊下から聞こえるその音は、ここに来てから毎日聞いている音。
音と共にやってきたのは二つの機械。箱のような外見で、大きさはドッジボールぐらいだろうか。傾いた床を気にせず移動しているその機械の正体は、ロボット掃除機だ。この広いお屋敷を維持管理するには必要不可欠な存在で私たちもお世話になっている。
だけど、こんな状況でも変わらず動いているなんて。上から来たという事はこの急斜面を下ってきたってこと。でもそのスピードは普段通りに見える。グリップ力が相当強いのかな?
ちなみにこのロボ掃除機の名前はドゥムバっていう。有名な製品名からもっと強そうな語感にしたとか。名づけセンスに関しては常人以下かもね、BL氏。
さて、そのドゥムバを見て私のハウスキーパー脳が激しく稼働する。この緊急事態において任務を遂行するためには手段に融通を効かせるべきだし、なによりも確実性が重要だ。だから、このやり方は「有り」だ。
私はポケットからスマホを出して、アプリを実行する。そしてアプリからドゥムバへ指示を出して私の足元へと集合させた。2機のドゥムバはスムーズに集まり、その位置を微調整し進行方向を調整し、そして私は、恐る恐る、その上に足を乗せてみた。
「お願い、動いて」
祈りとともに、前進の指示。
ウウウウウン……ウィン、ウィン
動いた!
少しだけど確実に進んだ。すごいよドゥムバ! この斜面を、おもりを乗せて登れるなんて! ああ、ダイエットしててよかった!
でも確かに動いたけれど、そのスピードは亀の歩みだ、だったら。私はいちどドゥムバから降りて、再度スマホを操作する。実はこのお屋敷にはもう2機のドゥムバがいる。この任務のスタート地点、台所に待機してるはずなのだ。
「出でよ! 3号機、4号機!」
テンションが上がって、謎のノリになったけれども、ちゃんと2機とも来てくれた。1機ずつ位置を調整して、両手両足を4機のドゥムバッに乗せる。客観的には、斜面から飛び出た4つの突起に両手両足を引っ掛けているような恰好だ。
「全機、前進」
アプリを音声入力モードにして、そう発声した。
ウィン、ウィン、ウィン、ウィン
動いている。上っている。さすがに普段よりは遅いけど、確実に上っている。これなら投げ縄を使うのと大差ない!
よーし、待ってろよ、ブルーリキッド!
……けど、この姿誰かに見られたら恥ずかしいなんてもんじゃないね……
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