第6話

「っ…うう…」

陸はうつむいて頭を抱えこんだ。

足元にはバッグから飛び出した書類ケースやペンが散乱していた。


「痛ってー、いきなり何すんねんっ!」

たとえ可愛い子が見ていても痛いものは痛い!

陸は頭をさすりながらいきり立った。


「何すんねんもかにすんねんもないわっ!どんな頭の回路してたらそんな解釈になんねん!」

「え、ちゃうの?」

「当たり前や!」

今度は陸がみるみるうちに真っ赤になり、かるたの方をそっとうかがい見ると、すっと視線を外して恥ずかしそうに下を向いた。


「あ、あの、すみません!失礼なこと言うて。俺しょっちゅうピントずれたこと言うてまうねん。ほんまにごめんなさい!」

「いえそんな…あのそれより大丈夫ですか」

深々と頭を下げた陸を心配そうに覗き込むかるたも、まだ頬が赤い。

「まぁええ、まぁええ、最初にちゃんと説明せんかったこっちにも非はあるしな」


海の言葉に、それにしてもいきなり書類ケースの入った鞄ぶん投げんでもええやろが、弟が死んだらどうすんねん! と陸は心の中で悪態をついた。

そんな陸の心を知っていても素知らぬ顔で海は話を進めた。


「かるたちゃんな、初めて高校で会った時から家庭の諸事情で寮に入ってたんよ」

二人の出身校である聡慶学高校は、関西で東大合格率の一二を争う屈指の受験名門校で、他県から受験する一部の優秀な生徒のために寮が完備されているのだ。

さしずめ高校野球強豪校の勉強版といったところだ。


「それで、大学入った時にその寮出て京都で部屋を借りててんけどな」

「海さんには本当にお世話になったんです。お部屋探しも付き添って下さって、最終的には賃貸の保証人にまでなって頂いて」

かるたがまた頭を下げたのを見て、へぇーと陸は内心驚いた。


海がぶっきらぼうに見えて実は情に厚く優しいことは、さすがに二十年も姉弟きょうだいをしていればよく解っているが、頭がキレる分冷静なところはとことん冷静だったので家族以外の保証人になったというのはかなり意外だった。


「かるたちゃんは最後まで保証人は結構です、自分でなんとかしますの一点張りで譲れへんかってんけどな、それやったらあたしとの付き合いもここまでやで!って脅して無理やりハンコついたってん」

そう言って海は高笑いした。

ここまで海が入れ込んでいるのだ。

本当にいい子なんだろう、なにか事情はありそうだが‥陸は、ふんふんと曖昧に頷いた。


「ほんなら玉緒さんはその部屋を出て、姉ちゃんと部屋をシェアするって話なんやな。いつから?」

海のハードな研究室勤めは終電を逃すことも多く、そんな日は基本ビジネスホテルを利用していたが、最近は外国人観光客の増加でホテルが取れず研究室で寝泊まりすることも少なくなかった。

京都で部屋を借りたいと思うのは至極当然だろう。


「ちゃうちゃう!家は出えへんよ、あんたもまだ学生やし、そんなん不経済やん。それにあたしも狭苦しいマンションなんかごめんやし」

「え、なに?どういうこと?え?まさか」

「そうや、この家に来てもらおうと思ってんねん」

陸は漫画のようにあんぐりと口が開いてしまった。


ここに?


「いやいやいやいや!それはマズイやろ、俺もおるんやし、最近は姉ちゃんも帰られへん日の方が多いくらいやし!大体そんなん玉緒さんかて嫌に決まってるやん」

「なんで?」

「なんでて、そんな嫁入り前の女の子が男のおる家にやな」

「あんた昭和か!古臭いこと言うなー、何歳やねん。それに男がおる家がなんでアカンかって言うと襲われる危険性があるからやろ。あんたなんか絶対の安全パイやし人畜無害の代表選手やん」


陸は憮然として目を細めた。

ここまで来ると絶対褒められている気はしない。

海も褒めているつもりもないだろうが。


「いや、そうやなくて、いや、このそうやなくては安全じゃないってことではないけど」

陸がしどもどしていると「本当にすみません、ご迷惑なお話持ち込んでごめんなさい」と小さな声が割って入り、見るとかるたは身の置き所がなく消え入りそうな雰囲気だった。

海からの視線は液体窒素よりも冷たい。


「かるたちゃん気にせんでええねんで、こんなアホの言うこと」

「いえ、やっぱりわたし自分でお部屋探します。いきなり赤の他人がこんな図々しいこと言って本当に申し訳ありません」

かるたの縮こまった様子を見て、陸は自分が極悪人になったような気がした。


「いや、ちゃうねん…あの、別に俺はその嫌とかそんなんと違うんです。ほら姉ちゃんがまた無理やり誘い込んでるんとちゃうかと思って…」

「あんたよう分かるなー、さすが血を分けた弟やわ」

海がしれっと言ってのける。

「やっぱりな」

「何が悪いねん!かるたちゃんは綺麗好きやし家事も完璧やねん!」

「はぁ?」

なにを言ってるのだこの姉は、陸はまた話が妙な方向へ向かって行くのを感じた。


「ここは奥のおばあちゃん達がいてた部屋がまるまる空いてるやん。簡易的に二世帯住宅の作りになってるから二階にもミニキッチンとシャワールームはあるし、トイレかて上下二つあるんやから、なんも問題ないやろ」

さらに海がたたみかける。


「家賃は貰わん代わりに掃除とかちょっとした家事もしてもらえるってことになってるから、あんたかて大助かりやん」

陸は話の着地場所を理解した。

このおっさんのような姉は嫁が欲しいのだ。


「それって、家事やってもらいたいから玉緒さんのこと無理やり誘ったってこととちゃうん」

陸はさげすむような目で海を見た。

「あー?それの何が悪いん?あたしはなーっ、家に帰って来た時に綺麗な部屋で安らぎたいねん!カビの生えてないお風呂に入りたいし、使えるタオルが一枚も残ってないとかマジでムカつくねん!前から言おうと思ってたんや!ほんまにあんたなー!」

「姉ちゃん途中から論点ずれたで」

「やかましい!」

「違うんです。海さんはまたわたしのこと心配して下さって、元々はわたしが悪いんです」

エスカレートしていく姉弟きょうだいの会話にかるたが割って入った。


「最初にお部屋探しをしていた時に、海さんにはもっとしっかりした造りのマンションを借りるように言われてたんです。でも、わたしが少しでも家賃を抑えたくて今の木造アパートに無理やり決めてしまって」

「うん、で、そのアパートが崩壊したとか?」

陸は冗談交じりで問いかけた。

「いえ、それはまだ」

「は…まだ?」


また理解の範疇はんちゅうを超える話が出てくるのかと陸は身構えた。

「この間テレビで都市直下型地震の特集があったらしいんです。わたしは観てないんですが」

はぁ、と陸は間の抜けた返事を返し、仏頂面の海はため息をついてソファにもたれこんだ。


「その番組を大家さんがご覧になっていて、アパートの耐震補強も簡易的なものだし震度七クラスが来たら倒壊するかもしれないと」

確かに京都は比較的地震が少ない地域だが、阪神淡路大震災から約二十年。

絶対に起こらないとは限らない。


「ああ、ほんで耐震工事をしたいって話?」

「いえ取り壊されたいそうです」

「えー!それでいきなり出て行けって?」

陸の呆れたような態度にかるたは慌てた。

「いえ!違います、大家さん本当に優しくていい方なんです。その…もしアパートが倒壊して、住んでいる方々に何かあったらどうしたらいいかわからないって心配して下さって…」


かるたは一息置いて続けた。

「狭い土地いっぱいいっぱいに建物が建っているんですが、もし建て替えるとなると今の建築法ではまたアパートを建てるだけの面積がないので、もうアパート経営はされないと」

「ああ昔の建ぺい率ってゆるかったからなぁ、この辺りも土地ぎちぎちに建ってる古民家とか山ほどあるもんな」

「はい…とにかくわたしが…あ、いえ店子さん達があのアパートで眠っていると思うとご自身が夜も眠れないから、本当に申し訳ないけれどなるべく早く部屋を探してもらえないかってお願いされてしまって」

「はー…」


陸は何となく気圧されたような気分で、次の言葉が出て来ずにマジマジと目の前の女の子を見つめた。

それは、その大家さんがとてつもなく人情味のある人物なのか。

それとも、このかるたという娘がよっぽど人を惹きつけるのか。

あの海までがどっぷりお世話モードである。

陸はとにかくやたらめったら可愛い女の子という第一印象から少し別の方向、そう言わば好奇心のようなものをかるたに感じ始めていた。

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