第4話

京阪本線の千林駅から少し北に向かうと大阪府守口市になるが、ここはぎりぎり大阪市内に含まれている。

大阪の中心部まで電車でほんの十分足らずだが、陸が生まれ育ったこの街は昔からの家も多く下町の風情が色濃く残っていた。


駅を出ると西に向かって延々とアーケード付きの商店街が続き、地下鉄谷町線の千林大宮駅まで繋がっている。

戦後ダイエーの第一号店が建てられたことで有名なこの商店街は、時代と共に様変わりしたとは言え、シャッターが閉まっている店は殆ど無く平日も多くの客で賑わっていた。


陸の家は商店街を五分ほど抜けて行き、途中でちょっと横道に入ったところにあった。

幼少期から現在まで二十年近く毎日のように通って来た商店街の店々は殆どが顔見知りで、陸にとっては多くの親戚の家が点在する長細い庭のような感覚だった。

昼過ぎの商店街は昼寝をしているお年寄りのようで、どこかまったりした時間が流れていた。


家の作りは四十坪の敷地に木造二階建ての五LDKプラス納戸という大阪市内にしてはかなりゆったりしたものだ。

両親の結婚を機に祖父母が住んでいた家を建て替えて同居していたのだが、今は祖父母も他界し両親も訳あって地方に住んでいるため、六歳年上の姉と二人でこの広い家を占拠していた。


陸はドアに鍵を差し込んで鍵がかかっていないことに気づいた。

珍しくこんな時間に姉が帰っているようだ。

「姉ちゃんおるん?」

俯いて靴を脱ぎながら奥に向かって声をかけると、お帰りなさいと声が聞こえた。

たっぷり二拍ほどの間が空いたのちに陸は顔を上げた。


「え…?」


靴を片方だけ脱いだ状態で見上げると、薄暗い玄関ホールに見たこともない女の子がにこやかに立っている。

超絶可愛い‥

これは寝不足による幻聴幻覚か?と思ったしりから、その子が近づいて来てすぐ近くで膝をついた。


「あの初めまして、玉緒たまおかるたと申します。宜しくお願いします」

その女の子は三つ指を付きかねない勢いで深々と頭を下げた。

思考が停止してしまった陸は身じろぎもせずに、目だけでその極端に可愛い女の子がお辞儀をする様子を見下ろしていた。


「あ、あの…」

止まっていた陸の思考回路がどの方向に回ろうか逡巡しゅんじゅんしていると、リビングの方から聞き慣れた声が聞こえて来た。

「かるたちゃん、そんな寒いとこで挨拶してんとこっちおいでー、陸も早よ上がってきいや」

今度は紛うことなく姉の声だ。

我に返った陸は玉緒かるたと名乗った女の子を全身で意識しながら、慣れ親しんだリビングへの扉を異空間への入り口のような気分で通ったのだった。


リビングはいつもと変わらない夏行家の光景だった。

部屋の中央にあるソファで姉のかいが、座ると寝そべるの中間のような体勢をとっている。

海と書いて「かい」と読む、男の子でも通るような名前をつけられたこの姉は、両親がそう願ったかどうかはさておき、見事なまでにその辺の男よりよほど男らしく育ちあがっていた。


「なんで休みやのに家におらんねん!こっちは話があるから昨日は殆ど徹夜で仕事片付けて朝からわざわざ!帰って来てんのに」

海は、わざわざというところにかなりの力を入れて文句を言うと陸を睨みつけた。

「はぁ?そんなん言われても、家におれとか言われてないし。大体いつでも殆どの用事はラインか電話で済ませてるやろ」


海の横にちょこんと座ったカルタ?カタル?何やら変わった名前の女の子を気にしつつも陸は文句を返した。

「まぁええわ、取り敢えずちゃんと紹介するわ。こちらあたしの高校からの後輩で玉緒かるたちゃん。可愛いやろ」

海は隣を見ると満足げに微笑み、その海の視線を受けたかるたは、はにかみながら小さく首を左右に振った。

陸は思わず生唾を飲み込んだ。


確かに可愛い。

と言うより可愛すぎる。

薄暗い玄関で見た時よりもまた格段に可愛く見えた。

透けるような白い肌にアーモンド型の大きな目に細い鼻筋、九頭身くらいかと思う小さな顔に肩までのストレートヘア。恥ずかしそうに笑う形のいい口元。

人形みたいに可愛いとはよく言うが、もし人形より可愛い場合はどんな表現になるのかと陸は一瞬頭に浮かんだ考えに、いやどうでもええやろ!と一人で突っ込んだ。


「はぁ、初めまして、あっいや、ついさっき玄関で会ったけど、こんな時もまた初めましてでええんかな」

かるたは両手を口元に添えてくすっと笑うと小首を傾げた。

その仕草がまた実に可愛くて、陸は気持ちが顔に出ないように何度も咳払いをしてごまかした。


「どうでもええっちゅうねん」

海のリアル突っ込みが入る。

「あれ、でも高校の後輩って言うても学年けっこう違わへん?」

「はい、高校はたまたま一緒なんですが、その高校で海さんが卒業生公演で来られた時にお知り合いになれて、大学も海さんに憧れて追っかけて入学したんです」

「あ、へぇそうなんやー」

さらに格上かーと、陸はちょっぴり舞い上がった気持ちがまた沈んでいくのを感じた。


さらっと追っかけて入学したと言ったが、海の大学は京帝大学工学部である。

今は同大学の大学院の物理工学の研究室に勤務していた。

何の研究をしているのかは何度説明を受けても文系の陸にはさっぱりで、まぁあの有名なテレビドラマのどこにでも計算式を書き始めるイケメン博士の世界なんだろうと勝手に納得して自己完結している。


「追っかけてってことは、えと、玉緒さんも物理を?」

「はい!あ、でも追っかけって、ストーカーみたいで気持ち悪いですよね。すみません」

困ったような顔でかるたはまた頭を下げた。


頭脳と外見ともに偏差値70は軽く超えている?

いや外見の方はもっと上かもしれない。

それにしてもこんなふうに二物も三物も天から与えられた人間はこの世にそれ程多くいるとは思えないのに、どうしてこう自分の周りに集まるのか。

そんなことを考えつつ陸は頭を振った。


「いやいや、そんなん全然大丈夫!こんなおっさんみたいな姉ちゃんのどこに憧れたんかは全く分からんけど」

海からティッシュの箱が飛んでくる。

すかさずその箱を叩き落とし、フンッとあざけった目を海に向けると、間髪を入れず今度は半分中身の入ったペットボトルが飛んで来た。

思えば陸の少年時代は、この姉へのコンプレックスと常に共存していたかもしれない。

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