第1話

~2176年9月30日AM6:38 東京~

[Side 源]


 冷たい夢を見た。

 啜り泣くような雨音が世界に響き渡る。


「源おきて!! ねえ!!」


 全てを汚し、悲しみで塗りたくっていく。


「ねえってば!! おきてよ!!」


 厚い雲に頭を抑えられた人々は、俯く頭に罪を被る。          


「ん~~~もう!!」


 赦しはなく、贖うことも叶わず、粛々と悼むだけの、凍えるような夢を見た。


「おきてってば!!」

「ドゥォホ!!」


 ドシリと圧し掛かられた衝撃で、かなはじめ源はダブルベッドの上で小さくバウンドした。

 弾みで掛け布団が剥がれ、パンツ一丁の彼の上体は初秋の朝の冷気に曝される。

 横隔膜を揺さぶら、夢見と寝起きの悪い脳は真っ白になった。


「……に、すん……だ、テメ……」


 咽返りながら腹部を見ると、そこに自身と十字を切る人影を見つけた。

 肩甲骨まで伸びたウェーブ掛かった紫色の髪。

 見た目ローティーンであろう少女が、前面に守りを固めた結果背面がほぼノーガードになったフェチズムの極致的下着であるベビードールに着られて、そこにいる。

 “”とする表現は実に正鵠を射ており、開けっ広げにもほどがある背中は、少女特有の不格好な稜線を成している。

 だが恐ろしいことに、柴姫音はそれに見合う色気も纏いつつあった。

 不貞腐れた顔は新雪のように白い柔肌と無花果の実のように紅い唇で出来ており、源を睨む目元は綺麗な稜線の眉と長い睫毛でボンドガールもかくやといった艶を醸し出す。

 腕輪型情報端末WITに搭載された亜生インターフェイスFIAIたる彼女の名は、紫姫音。

 平時は視覚野に直接出力されるARとして現出する彼女だが、今はWITを構成する全原子を技術によって仮初の肉体で現出している。

 つまり、今の紫姫音は空気人形のような物。触れることも触れられることも出来るが、ところで、外気圧と等圧の空気しかない。

 それに。


『セクサロイドにするには身体だしなぁ』


 寝起きと酸欠からボンヤリと回復して来た思考でそんなことを思っていると、紫姫音はもぞもぞと源に騎乗した。


「きょうはオフだからしきねのドレスデータアップデートしにいくヤクソクでしょ!!」


 ベビードールの少女がボクサーパンツ一丁の青年に跨るという、第三者が見たら確実に誤解する光景が、そこにはあった。

 黒髪蒼眼の源は、戒めを解いた長髪を掻き上げ、エスニックな顔立ちの全てで目一杯に不満を表して時計を見る。


『AM6:38ってなんだおぃ』「ふざけんな寝させろ」


 迷いも淀みもない即断即行で、身体を裏返して枕と口づけした。


「あ、 ヤクソクやぶっちゃダメなんだよ源!しきねのフクかいにいくの!!」


 生身の人間なら唾が掛かる近距離で大声を張り上げ、バンバン撥ねる紫姫音。

 シルエット的にヤラシイから止め……いや、構わん、もっとやれ。

 だが、少女趣向者ならいざ知らず、そんな趣味は一切ない源の堪忍袋はアッサリ裂けた。


「うっせぇっつってんだろ!!んな時間に起きてるアパレル関係者がいるかボケ!!」

「デザイナーはきっとおきてるもん!!」


「販売員は夢の中だ!!あとキャッシャーのネェちゃんもな!!」

自動レジ打ちオートキャッシャーは電力で24ジカンねんじゅうむきゅうでカドウチュウだもん!!」


「機械も休息させてやれよ、同族に対する気遣いはねぇのかお前には。それに残念だが肝心の店舗が開店準備中だ」

「ん~~~~~~~~でもいくの!!」


「だ・か・ら・って!!人の・上で・撥ねんじゃ・ねぇ・よ!!」

「い~く~の~!!」


 さて、ここでちょっとした公式のご紹介だ。


 (夢見の悪さから非常に寝起きの悪い男+口喧しい少女)×再三に渡る睡眠妨害行為=?


「…………」

「あ、嘘。ゴメン源やめt」


 視覚野に直接入力されるWITのインターフェイス起動停止プロセスを、躊躇いなく進行。

 途端、電子幼女の姿は立ち消え、再びシーツに包まり直した。


「休日くらいゆっくり寝かせろバカ」


 そうは言ったものの、姦しかった少女の声が雨音に変わり、少しずつ眠気が離れ、代わりに言いようもない物悲しさが湧くのを感じて、今一度愚痴る。


「糞……バカがよ」




[Side 絵美]


 浸食されていく。

 雨音を聞いた。                          


「計測結果38.9℃」


 なにもかもを洗い流し、消し去る雨音が。


「平時より+3℃~3.5℃の上昇を確認」


 ひたりと染み込み、心までグチャグチャにする。


「常体温と比較し、異常値であると認識」


 懺悔を促すように、涙を洗い流す。


「本日のご予定を変更されることを提案いたします」


 蝕み浸し呑み込まれていく。


「絵美さん?大丈夫ですか?」

「へ!?ああ、うん!」


 頓狂な声を響かせて、正岡絵美はベッドで跳ね起きた。

 荒れた呼吸を落ち着けて、手櫛で髪を掻き上げる。

 セミロングの毛足が湿り気を帯び、放熱に必死な身体がシャツをグッショリと濡らしていた。


『谷間に汗疹って本当に出来るのかな』


 就寝時は外した方が育つらしいが、今のところ一向に厚みを増さない胸回りに、この瞬間だけは感謝すべきなのかもしれない。

 だから、別に憧れてなどいない。

 なんにせよ、こうも汗まみれでは気分が悪い、シャワーを浴びるという選択に迷いはなかった。

 裾を摘み、張りつくシャツを一気に剥がす。

 じっとりと濡れているにも拘らず、全く閊えない事実が憎……くない、快適。そう、快適。


「あの、絵美さん?」

「快適よ」


「は?」

「え?いや……なに?」


 サイドテーブルの上の腕輪が、男が現れた。

 6フィート4インチの圧倒的長身とそれに見合わぬ痩躯、下顎の輪郭を覆い隠す堅い髭と太く濃い眉毛の下からは、強い意志を湛えた眼光が覗く。

 彼こそは、アメリカ合衆国第十六代大統領。偉大な解放者、エイブラハム・リンカーンその人……をモデルにデザインされたWITのインターフェイスである。

 “偏見を変えた偉人シリーズ”は絵美が愛用するインターフェイスデザインで、このモデルエイブラハムは彼の大統領就任代に合わせて第十六代モデルとして発表された。「人民の、人民による、人民のための政府」を謳った演説が示す通り、沈着冷静な物腰と説得力のある言葉選び、効果的なアクセントでの喋り方など、彼から学ぶことは多い。

 だが、いかんせんデカすぎる風貌を恐ろしく感じる時があるのも確かで、今でこそ慣れたが、換装当初は目の前で着替えることすら憚った。


『正直慣れないのよね、このデカさだけは……限りなく紳士的ではあるのだけれど……』


 じゃあなんでそのモデルを選んだの?と訊かれるとちょっと困ってしまうから、変えるならこっそり変えなければならない。


『親近感で選ぶものじゃないわね』


 通気性の悪いデニム地のホットパンツも脱ぎ捨てる。


「着替えとバスタオルをお願い」


 加えて苦手なのは、彼の声だ。


「はい……ですが、現状ではお勧めしかねます」


 演説音声でも有名なこのバリトンボイスは、気疲れしている時には少々煩わしい。


「気にしないで、多少の体調不良なんて誤差よ」

「いえ、お言葉ですが」


「エイブラハム……貴方は私のなに?」

「……かしこまりました」


 溜息と共に、大男は指を弾いた。

 すると、脱ぎ捨てた衣服が床に吸い込まれ、代わりに絵美の傍らの床が飛び出て菓子折りのようにギッシリと詰まったタオルとショーツが現れた。一枚ずつ抜き、ベッドを出る。

 直後。


「あ……れ?」


 重たい身体が床に吸い寄せられた。ような気がして、思わずたたらを踏んだ。


「大丈夫ですか!?」

「……大、丈夫」


 そうは言いながらも、異常な寝汗が頭を過る。

 分かり易い痩せ我慢に、エイブラハムは今一度大きな溜息を吐いてその姿を伏せた。

 それを確認して、どこかほっとした心持ちで絵美は部屋を出る。


 タイムマシン犯罪に対抗する警察機構T.T.S.の専用セーフハウスは、かつて国立天文台と呼ばれた施設の一部を改装して作られた。

 日本国内のコネクションに弱いT.T.S.のサポートとして警察庁が用意したそこは、役目を終えて久しく、外壁は蔓状植物により覆われ、昼夜を問わず不気味な陰湿さが支配している。

 当然、人気の寄らないそんな陰気な場所を使いたがる者もおらず、警察庁の当て擦りは明らかだった。

 だが、そんな事情は絵美にとっては

 かつて地下倉庫として使われていた自室を出て、が照らす廊下をフラフラと歩いていく。

 柔らかな薄明りの回廊を回り、旧男子トイレ、現シャワー室に手を掛けた時、『解熱剤アンチパイレティクス、あったはずよね……』と思い至った。

 リビングとキッチンがある施設中央、かつてのプラネタリウムの上映場だった場所に向かう。

 重く厚い遮音扉を開けると、一気に視界が開けた。

 天高くから覆うドームは、一般家庭では中々味わえない解放感を部屋全体に与えていた。

 そんな広い部屋の中央に鎮座ましますのは、絵美がこのセーフハウスを選ぶ決定打になった存在。巨大なプラネタリウムだ。

 物件紹介文曰く、


“当セーフハウスは元プラネタリウムを改装して作られております。オプション設備として置かれている投射機は旧式の型落ちですが使用可能です。”


とのことで、実際、今現在も、遮光遮音の部屋の中は満天の星空と複数の間接照明に照らし出されていた。

 扉を閉めると、ノイズが消え、室内の音が聞き取れるようになって来た。

 ピンと張った静寂の彼方から、微弱ながら女の嬌声が聞こえる。


『またあの娘は……』


 ゲンナリした気持ちで、絵美は歩を進めた。

 定期的に張り替えるカーペット敷きの床は、足音も立てない。

音源には予想がついた。

 というのも、幾枚ものパーテーションでオレンジのように区切られたホールには、前述のリビングとキッチンの他にもう二区画、リラクゼーションルームとT.T.S.No.1の私室がある。

 嬌声は、間違いなくその私室からだ。

 T.T.S.No.1。

 戦闘能力や臨時の即応力、検挙率や功績。あらゆる面においてトップを張る女は、次点に座る源曰く、“る気とる気がT.T.S.No.1”。源を“片手間ワンサイドゲーマー”と称す違法時間跳躍者クロックスミス達の呼び名は、“無触性姫カーニヴァラスプラント”。

 両呼称は実に的確に彼女を形容しており、彼女自身、嬉々として受け入れている。

 要するに、性にだらしないのだ。

 そんなことだから、夜な夜な街で男を引っ掛けて来ては持ち帰り、一晩中楽しむ。

 かつてNo.1とパーテーションを隔てて同室だった絵美には、実にいい迷惑だった。

 快楽を欲しいままにする享楽的な姿勢は嫌いではないのだが、いかんせん

 睡眠妨害もいいとこだし、のだから、少しは考えて欲しいものだ。

 そんなこんなで今の旧地下倉庫に移ったわけだが、部屋を移る話をしている途中から絵美の部屋とのパーテーションを片づけ出した時には、さすがに閉口した。


『源もそうだけど、どうして元軍属は結果を急ぐのかしら』


 数ある被疑者の中から被告人を選定する警察官とは違う、対象を殲滅させる専門家の思考も、そりの合わない理由に挙げてもいいかもしれない。

 だが、とある事情から、絵美がNo.1の貞操観念を責める気にはなれなかった。否、、といった方が的確なのかもしれない。

 そんなわけで、絵美はNo.1のプライベートを守るために極力音を排してリビングに向かった。

 投射機を望む一人掛けリクライニングソファの横にあるガラス製のテーブル。

その片隅に表示された収縮を繰り返す赤い丸に人差し指を当てる。

 炊事洗濯と掃除ロボットの指令を司る家事AIハウスキーパーの呼び出しセンサーは即応した。


《おはようございます絵美さん。少し体調が優れないようですが大丈夫ですか?》


 テーブル表面に表示されたドット文字にさえ気遣われ、思わず絵美は苦笑する。

 家事炊事の一切を家主に代わって行う家事AIハウスキーパーも、これで三代目になる。

 No.1が時折起こすによって、先代達は実にあっけなく消失した。


「おはようシェーン、でも大丈夫よ。一応念のために解熱剤アンチパイレティクスもらえるかしら?あったわよね?」

《ええ、仰る通り在庫はあります。ですが、まず医師の受診を推奨いたします》


「お願いシェーン。今日は源も非番だし、私が抜けるわけにはいかないの」

《源さんのことは存じていますが、今は貴女の身体が》


「シェーン、さっきエイブラハムにも言ったのだけれど、貴女の立場は?」

《失礼しました。すぐにご用意いたします。お水はご自分で?》


「ええ、大丈夫よ」


 判断に長けたエイブラハムとは違い、あくまでも家人の生活を支える家事AIハウスキーパーは従順だ。

 発言を遮って返した強い言葉に、シェーンは即応した。

 ガラステービルの一部が円形に、舞台のセリのように降り、すぐに備蓄されていた錠剤タブレットが二錠、オブラートに乗って躍り出る。

 摘まんで腰を上げた時、不意に声を掛けられた。


「おふぁよ」


 振り返ると、パンツだけ穿いた女が、欠伸混じりに立っていた。

 二重瞼の蒼眼が印象的な美顔。そこから垂れるウェーブ掛かった艶やかな金髪が豊かな胸の前面を隠し、佇まいに芸術性を持たせている。

 そこから滑るように括れた腰からふっくらと盛り上がったヒップにかけての稜線は、正に黄金律。まるでギリシャ彫刻が生を受けたような美しさだ。

 しかしながら、醸し出す雰囲気は同性である絵美さえ目が眩みそうなほど、色気に溢れていた。

 きっと、前世はサキュバスか衣通郎姫に違いない。

 彼女こそが、T.T.S.No.1に名を刻む女、ジョーン・紗琥耶・アークだ。


「おはよ……」


 照明が当てられているわけでもないのに、間接照明しかない部屋でぼうっと浮かび上がる存在感に手を振る。

 ヒラヒラと手を振り返しつつ、擦っていた目をテーブルに向け、紗琥耶は言った。


「なに?体調悪いのん?……良くしてあげよっか?」


 チロリと真っ赤な舌なめずりと共に、紗琥耶はウインクした。

 使の彼女には絵美も射程圏内だ。

 思わず苦笑が漏れる。

 対案として、キッチンスペースにある家事AIハウスキーパーにすら触らせない自慢のサイフォンを指示した。


「大丈夫だから……コーヒー飲む?淹れるわよ?」

「ん~……じゃあ、もらってあげる♪」


 物凄く含みのある言葉で艶めかしく返され、苦笑が一層深まったところで、「おや?」と気づく。

 掌にのせていたはずの解熱剤アンチパイレティクスがない。

 足元をのぞき込んで、そこに目当ての物を見た、気がして。


「んん?絵美たん?」

『あれ?わ…た……し………』


 絵美の意識は熱の中に沈んだ。




[Side 源]


「ベーコンはカリッとね!カリッと!!ベタッとはヤダよ!!」

「うるせぇうるせぇ、ほら、よそるから皿出せ」


「ヤ!まだベタッとしてるもん!!カリッとがいい!!」

「あぁ!?これ以上焼いたら焦げるぞ、ほら皿」


「んー」

「グズるな、フルーツサラダ減らすぞ」


 ずっと腰に抱き着いていた紫姫音が、ようやく食器棚に向かった。

 結局、試みた二度寝は上手くいかず、源は(自称)出来るユーザーらしく、わがままな亜生インターフェイスFIAIにつき合うことにした。


『久々の休日だってぇのによ……』


 恨みごとの一つでも言ってやりたくなるが、起動停止の小言がようやく止んで機嫌が上向きになったばかりなので、それも憚れた。

 なにより。


「もってきた!」


 屈託のない笑顔で二人分の皿を差し出す紫姫音を前にすると、ゴールデンレトリバーに「馴れ馴れしくするな!!」と怒鳴るような、不毛な労力に感じる。

 溜息を吐いてフライ返しでベーコンをよそると、再び紫姫音が噛みついて来た。


「それは小さいからヤダ!!そっちのがいい!!」


 よし、キレよう。そろそろキレよう。


「いい加減に」

「でもしきねはやさしいから源におおきいほうあげる」


「……分ぁったよ、お前こっちのデケェ方食え」


 この亜生インターフェイスFIAI、段々と喰えない女児になって来た気がする。

 新人類組成計画Neuemenschheitherstellungplanというドイツ連合国の軍事実験の被験者は、その目的の性質上、家事全般を一通りこなす事が出来、古今東西様々な料理に精通している。

 故に、かなはじめ家の食卓は意外と豪華だったりするのだが、本日は家主のテンションが低いので、実にシンプルな内容となった。

 フルーツサラダにサニーサイドアップ目玉焼き、ベーコン、そしてバターロールにカボチャのポタージュ、アメリカンコーヒーとオレンジジュースだ。


「かいたいのはね」


 向かいで嬉々としてカタログを広げる紫姫音を見ながら、源は喉慣らしのコーヒーを啜る。


『技術革新って面倒臭ぇなぁ』


 物凄い勢いでカタログを繰り、次々と目的の品をピックアップしていく紫姫音を見ながら、源はボンヤリとそんなことを思った。

 紫姫音本体はヴァーチャルな存在だが、彼女が這入っている人工憑依人体バイオロイドはこれ以上ないリアルな存在だった。

 ロボットが食事をする。

奇妙な光景に思われる方が多いと思うが、これこそまさしく技術革新の賜物だった。

 紫姫音が当たり前のように食すベーコンも、パンも、オレンジジュースも、全て人工憑依人体バイオロイド内で分解、吸収され、消化経路の一つである電子伝達系でもってしっかりと充電を果たす。

 もちろん、紫姫音の本体たるWITを充電器にセットすることでも充足は出来るのだが、彼女が源と食卓を囲むことを望むので、二人はこうした形式を取っているのだ。


「ねえねえ、これとこれ、どっちがしきねににあう?」


 サニーサイドアップ目玉焼きに噛みつこうとした源の前に、紫姫音が二つのサンプルを送って来る。

 ムシャムシャと咀嚼していた源は何気なく目を走らせて、思わず噎せた。


「おま、これ……」


 表示されていたのは、スケスケレースのパンツやショール、ベビードールの数々。統一感といえばカラーリングくらいのもので、その名もルージュ&ノアールと来たもんだ。恐れ入る。

 が、どう考えたってローティーンの少女が着ける物ではない。


「……んでこんなもん欲しんだお前?」


 一応念のため、万が一を考えて、源は確認する。

 亜生インターフェイスFIAIは人間同様、好奇心を持って思考する。

 基本的には主の趣味趣向に沿ったものに意識が向くようになっている……はずなのだが。


『冗談じゃねぇ、ガキに興味ねぇぞ俺ぁ』


 しかもどちらも結構なお値段で、極めつけはおススメの機種欄だった。


『………全部性愛玩用人工人体セクサロイドじゃねぇか』


 自然と、ある人物が頭に浮かんだ。


「源、オンツーだよ。紗琥耶から」

「だろぉな」


「え?」

「ぃや、なんでもねぇ」


「じゃあカイツーするよ」


 フォークを置いた源の前に、ヘッドホンのARが現れた。

 それを装着して、catchを告げる。


「モーニン」

《勃っきしてる?》


 源は紫姫音に向けて親指を立て、真下に下ろした。

 通話終了。

 朝は清々しくあるべきだ。


「またきた……」


 さようなら、清々しい朝。


「……繋げろ」


 心底不快な顔で、源は再びヘッドホンを着けた。


「……モーニン」


 二度目の挨拶は、全力で不快さを表した積りだった。

 だが、その意志はどうにも伝わっていないようだ。


《なんで切んのよ?忍耐早漏過ぎ》

「うるせぇド変態、お前紫姫音になに勧めやがった」


《あら、お気に召さなかった?あれ股下にスリット入ってるから下着のまま挿れられんのよ?》

「知るかボケ!あんなもんガキに勧めんじゃねぇよ!」


《つまんないこと言わないでよ。プエルトリコ系の血入ってんならセックスに寛容でしょ?》

「紫姫音を巻き込むな!あと血とか関係ねぇよ、全プエルトリコ系人類に謝罪しろ!」


《分かった謝罪する。賠償は身体で払う》

「それじゃ賠償じゃねぇ損害だ」


《贅沢ね、じゃあ一生下のお世話したげるけど、どう?》

「求めてねぇ!いぃ加減話題をベッドから出せっつってんだよ!この万年発情女」


《青姦がいいってこと?》

「…………オーケー、女に必要なのは場所じゃなくて理由だってことを忘れてたのは認める。オーダーはハメるハメないの話から離れろ、だ」


《手と口がお好みってことか。意外と脇とかイイと思う》


 けど、と続く前に、源はARのヘッドホンを外した。


『相っ変わらず会話が成立しねぇ』


 通話相手は“る気とる気はT.T.S.で一番”のジョーン・紗琥耶・アーク。

 本人に言わせれば“セックスのない世界こそ地獄”なのだそうだが、知ったことではない。

 だが、続けて放たれた紗琥耶の言葉に、源はハッとした。


《アンタのパートナーとか今火照ってるから腋がイイ感じだと思うわよー》

「………どぉいう意味だ?」


《あらぁん?気になって勃っちゃったの?》

「絵美になにかあったんだな?さっさと言え」


《なんでアンタに命令されなきゃなんねんだよ、どうせ暇してんだろ?自分で確かめろ》


 言うが早く、通話は一方的に切られた。

 再び雨音の支配下に置かれた室内に、柴姫音の食事音だけが響き渡る。

 源は凍りついたように動かずに一点を見詰めていた。


『どこの連中だ?まさかBNDの連中か?』


 ドイツの諜報機関Bundesnachrichtendienstの略だ。


「紫姫音」

「ん?」


 口の周りをケチャップでベトベトにした少女は即座に顔を上げる。


「シークレット、Prostitute Spiderに繋げ」

「ちょっとまってね」


 グシャグシャとナプキンで口を拭った紫姫音は、先ほどとは違う黒いヘッドホンとウィンドウのARを源に寄越した。


「たぶん、これでつうじてるとおもう」


 サンキュとウインクして、源は口を開く。


「朝早くから悪ぃな


 すぐさま、モニタ上にキャピキャピのフォントが踊った。


《まったくなのだぞ☆朝七時過ぎなんてド深夜に一体なんの用なのだぞ☆》

「すまねぇな。ここ二ヶ月でペルソナ・ノン・グラータを喰らった人間が入国してもぐりこんでねぇか調べてくれ、出来るだけ早く」


《いいケド、お目当てはどんなヤツなのだぞ??》

「クルト・ヴァントハイムみてぇなヤツだよ」


《っていうと、BND絡みなのだぞ??》

「あぁ、嫌な思い出でもあったか?」


《嫌というか、面倒臭いのだぞ☆ヤツらに関わる以上はハブの二・三は捨てる覚悟がなきゃ駄目なのだぞ☆》

「……そいつぁお気の毒だ」


『まぁ国外任務に就く連中が正面切って入国するわけねぇし……一応なんだが』


 そう、これは念のためだ。

 念のため、なのだが、その割には。


『今月も火の車か……』


 そう、それにしては、値が弾みそうな展開になってしまった。

 これまでも、源は、あるいはで何度か不明勢力アンノウンの襲撃を受けて来た。

 そしてその度に、住処を追われ、戦闘被害の弁償費用を抱えることとなって来た。

 襲撃は、大抵が傭兵団や諸外国の特殊工作部隊によって行われた。

 しかしながら、その陰には、いつだって先行して入国した者がいた。

 コンダクターたる彼らの水面下での動きを掴むことは、生死を分ける。

 だから多少の出費はいたしかたない……のだが。


『それにしても痛ぇ値になりそぉだ……』


 情報屋の女郎の名は、その筋では有名だ。

 確度と網の広さ、情報操作の剛腕っぷりに高額な報酬ギャラの請求など、枚挙に暇がない。

 だが、だからこそ、聞かされた言葉は確かなもの、なのだが。


《ん??一人もいないのだぞ??》

「……は?」


《いやね、BNDは愚か、どこからもヒューミント、シギント的アプローチをキミにしていないのだぞ☆》

「な……え?」


《どこから仕入れたのか知らないけど、とんだブラフだったみたいだぞ☆》

「あ……そぉ……」


 告げられたのは、残念極まりない結果だった。

 なにはともあれ、襲撃の有無に関しては一安心だ。

 気掛かりなのは、調査費だ。

 どこぞの発情女のせいでとんだムダ金である。


《今回は特別にロハでもいいのだぞ☆》

「マジで!?」


 思わぬ朗報に源の声は弾む。


《貴方にはこの間のエメリン・サリーヴァの件で貸しがあるからねん☆それに免じて今回の失態は特別にチャラ、どうかなん??この提案は》

「いぃ!!最っ高にCoolな提案だそいつぁ!!ありがとな女郎!!マジでありがとぉ!!」


《まああたしに貸しのある人間なんて貴方ともう一人くらいだからね☆特別なのだぞ☆》

「ありがてぇ!温情感謝だ!」


《うんうん☆幾らでも感謝して良いのだぞ☆またお願い聞いてね☆》

「おぅ!」


《んじゃ☆毎度どうも~☆》

「ありがとな!ド深夜にごめんよ!」


 音声とドット表示という奇妙な通信を終え、無料優待に上機嫌の主を見詰めて、電子少女は首を捻る。


「ねえねえ源」

「あ?」


「女郎からまたおねがいごとされちゃうけどいいの?」

「……あ」


 我が主ながら、どうしてここまで迂闊なのか、と柴姫音は心中頭を抱えた。




~2176年9月30日AM7:54 東京~


 公務員という仕事は、楽じゃない。

 いつの時代だって、それは変わらない。

 そんなことは分かっていた。


「はい下がって!下手に現場見たら強制的に心理療法メンタルカウンセリング受けてもらうよ!」


 AM6:45。

 東京湾岸警察署の刑事課に入った一本の電話が、ことの発端だった。

 自宅からたった三ブロック先で起きたコンビニ強盗は、あっという間に警備会社の網に引っ掛かり、二人組の犯人はすぐにお縄につく……はずだった。

 しかしながら、2人組がその実一人+武器だったことで、事件は予想外の粘りの展開を見せた。

 国内では入手の難しい軍事用着脱両面汎用性兵器MARTW

 某アメリカンコミックのヒーローをモデルに作られたそれは、あらゆる任務や状況、環境においても圧倒的な火力を誇る。対抗するのは、それこそ超人化でもしない限り無理だ。そんなわけで、通報から一時間弱たった今、休日返上で増援に駆り出された先で、軍事用着脱両面汎用性兵器MARTWに猊まれているわけだ。


―自衛軍からの増援が到着するまでの間。非常線を張り、周辺住人の避難と野次馬の抑制、報道管制をせよ―

 

 所轄庁には妥当だが面倒な注文オーダーを下され、色々な意味でうんざりである。先着部隊の非常線の張りが甘かったがために、現場から20mほどしか離れていない最前線は、ギャラリーの圧も最高潮だった。


「ほらそこ!下がって!無理に前に出ない!危ないっての!軍事用着脱両面汎用性兵器アレ自動標的認知範囲キルゾーン入っても責任持てない、わ……よ……?」


 どこかから聞き慣れない音がして、音響する天を見上げた。


「……なんの音?」


 知っているはずもない。それは、一世紀前に消えたガソリンエンジンの音。疾走に歓喜する文明の叫びだ。

 ギャラリーも気づき出し、じんわりと一帯に静寂が広がっていく。

 やがて、音源はギャラリーを掻き分け、姿を現した。


『な、なんだこれ……』


 今や教本くらいでしかお目に掛かれない骨董品ガソリンエンジン駆動の二輪バイク、Ninja 250。

 黒光りするシルエットは、二気筒エンジンの疾走の疼きアイドリングに打ち震えている。

 今の時代では珍しいフルフェイスヘルメットによって、騎乗する者の顔は見えなかった。

 だが、どこを見ているのかくらいは分かる。

 視線の向かう先は、間違いなく20mほど後方。

 軍事用着脱両面汎用性兵器MARTWの佇む現場だ。

 黒いライダースーツの上からでも分かる長身痩躯。

 その引き締まった躰が、ゆっくりの下車する。


「……っ!止まりなさい!」


 警告段階を一気に跳ね上げ、躊躇うことなく銃を向けた。

 困惑一色だった場の雰囲気が、一気に張り詰める。

 謎のライダーが本庁からの援軍や腕利きの賞金稼ぎバウンティハンターなら歓迎だ。

 だが、犯人の援軍だった場合、事態は最悪だ。


「聞こえないの?止まりなさいと言ってるの!」


 相手は微動だにしていないのに、それに気づけないほど、混乱していた。

 だから、相手があっさりメットを脱いで素顔を晒した時には、一瞬なにが起こったのか分からなかった。


「朝っぱらからなにやってんだよ……」


 フルフェイスヘルメットをWITに戻した男は、褐色の肌に長い黒髪を束ねていた。

 二重瞼の美丈夫。パッと見の印象はそんなものだった。


「最近のコンビニは軍事用着脱両面汎用性兵器あんなもんも売ってんか?凄ぇ品揃えだな」


 見上げるほど近くまで来た男に、発砲は出来なかった。


「と、止まりなさいって」


 理由は複数ある。

 一つは、男の巨躯だ。

 187.4cmの長身は、見上げるほどに高い。

 銃口を向けた瞬間から押し寄せた、表現出来ない威圧感。

 こちらには一瞥もくれないにも関わらず、確かに伝わる睨みの視線。

 緩く構えた立ち姿から、しかし一瞬でも目を離せば、容赦のない一撃を見舞って来そうな、剥き出しの敵意が向けられているのを感じる。

 その攻撃的な雰囲気に、完全に気圧されていた。

 心拍数は限界まで跳ね上がり、全身の汗腺は開きっ放し。

銃を下ろしたくなる。

 口調は荒っぽいものの、声はまったくといっていいほどリラックスしている。


『無理だ』


 152cmには、荷が重過ぎた。


「で?」

「え?」


 グイッと顔が近くに寄った。

 屈んだ男の青い瞳に情けない顔をした自分が映っている。


「え?じゃねぇよ。軍事用着脱両面汎用性兵器アレの中に人入ってんのか?」

「へ?」


 一瞬、男がなにを言っているのかが分からなかった。

 敵か、味方か。所在は?身元は?

 あらゆる疑問が渦を巻いて、返答に窮する。

 だが、男の方はそんなことお構いなしに話を進めていく。


「あぁ……ったく……柴姫音、お前のお買い物の邪魔する軍事用着脱両面汎用性兵器アレの型番調べ……早ぇなおぃ」


 目を眇め、軍事用着脱両面汎用性兵器MARTWを睨んだ男は、しかし次の瞬間、彼女に向ってウインクした。


「ちっと借りんぞ」

「へ?」


 そして。


 音もなく橙色の直線が空を引き裂いた。その直線は派手な音と共に軍事用着脱両面汎用性兵器MARTWの後頭部が抉れ、その起動を停止した。


 一瞬の間の後。

 後追いで巻き上がった空気の乱れに、凍った空気が一斉に動き出した。蜘蛛の子を散らすように逃げ出すギャラリーの喧騒の中、警官達が銃口と警告を一斉に男に向けられる。悲鳴と怒号と雑踏が混然一体となった嵐の中、その真ん中で彼女は聞いた。


「弓削田ロサ。なんだ、お前絵美の元部下か。じゃ、後はよろしく」


 同時に、胸元に入れていたはずの、もはや慣習として残っているだけで誰も使わない警察手帳を手渡され、ついでに、胸を揉まれた。

 途端、冷静さが戻り、迷いと惑いが消えた。

 こいつ許さねえ。絶対許さねえ。


「へ?」


 ガシャっと嵌められた手錠を不思議そうに眺め、間の抜けた声を発した男に、ロサは笑顔で答えた。


「公務執行妨害と強制猥褻、名誉棄損は仕事じゃないけど、とにかく逮捕だこの野郎❤」

「え?」


「あと絵美先輩とどんな関係だか吐いてもらうから覚悟しろこの野郎❤」

「え?」


 源の休日は、こうして消えた。




~2176年9月30日AM8:24 東京~


 時間跳躍に関する組織犯罪対策本部。

 警視庁に設置された国際刑事警察機構主導のオフィスは、今日も閑散としていた。

 それもそのはず。

 ここは手続き上のオフィスで、中にはデスクが一組設置されているだけだ。

 だからデスクの主は、朝早くにも関わらず、オフィスの施錠を終えて警視庁を後にしようとしていた。


「いやー相も変わらずこの国は平和ねー」


 薄っぺらな鞄をブラブラ振りながら、鼻歌交じりに老女は歩き出す。

 T.T.S.Master、甘鈴蝶。.

 国際刑事警察機構から日本に出向を命じられて以降、彼女はT.T.S.とそのオペレーションを司るI.T.C.、現在時間における実動部隊P.T.T.S.日本支部の全組織を取り纏めてきた。というと結構なデキる女に聞こえるが、優秀な部下達が鈴蝶の仕事をほとんど奪っていくので、結構伸び伸びしていたりする。

 だから、こうして警察庁から追いやられた、なんの意味もないオフィスを早々に脱出出来るわけだ。

 ただ、だからといって彼女がまるで仕事をしないわけではない。こんななにも出来ないオフィスにいるより、適所があるというだけだ。


「これでもう少しT.T.S.の皆さんが大人しい方々だとなお良いのですけどねえー」


 T.T.S.という組織は、ほぼ元犯罪者達の寄せ集め集団だ。

 世に明かせない経歴を持つ者も少なくない。唯一まともといえるのは、警察官上がりの正岡絵美くらいのもの。

 その経歴を頼りにT.T.S.の内部統括を一任しているが、その負担が大きいのは自明の理だ。

 ゆえに、しっかりとサポートしてあげるためにT.T.S.の本部におもむくわけだ。


「絵美ちゃんに倒れられたりしたら……大変だものねー」


 そう独りごちた傍から、外部音声通話受信の警告アラートが視界を覆った。年甲斐もなく可愛らしい悲鳴を上げながら、鈴蝶は通話を受ける。


「朝も早くからおは疲れ様。このパターンだと絵美ちゃんかしら?ジョーンちゃんかしら?」

「……いい加減その名前で呼ばれるのは萎えるからめっ、って言わなかったかしらあ?」


「あら、その声はジョーンちゃんね。なにかあったの?」


 声の主は、他ならぬT.T.S.No.1のジョーン・紗琥耶・アークだった。

 普段細かく連絡をするような人物ではない。

 嫌な予感がした。


「貴女ねえ……まあいいわ……お姫様が熱でイッちゃった。一応解熱剤アンチパイレティクスはゴックンさせたけどお、今日は一日寝かせといた方がよさそ」

「ああー……マージかー……」


 とてつもなくあっさり嫌な予感があたって、軽く目眩がした。


『ど、どないしましょ……って呆けてる場合じゃないね』


 危うく凍りかけた思考を、米神をコツコツ叩いて再起動させる。


「オッケー……えーっと、アグネスちゃんは今日いるんだっけ?」

「アグネス射出すのお?アタシあの娘は肌が合わないから苦手え」


「そうはいってもね」

「だったらアイツ射出してよお、あのカウパーってるの」


「カウパーってるって……」


 それは彼女だけが使うT.T.S.唯一の男性メンバーを称する言葉だ。


「いや彼は今日休みオフで……」


 関係ないない、と笑う紗琥耶の声を縫って、もう一つのアラートが踊った。

 正直、変な笑いが出た。

 アラートの種類は機密漏洩警告。

 漏洩予想地点は東京湾岸警察署。

 漏洩状況予想、刑事事件事情聴取。

 予想漏洩者、T.T.S.No.2かなはじめ源。


「うん、そうね……これいけるわ」


 行先は、変更する必要がありそうだ。




~2176年9月30日AM9:02 東京~


 ピンチである。

 白い照明の部屋に置かれた、拘束椅子。

 その上に座る源は、手錠を嵌めてうなだれていた。


「んでこぉなっかねぇ」


 壁も床も天井も、病的なまでに白い部屋に、ため息は吸われていく。

 あらゆる音が吸収され、録音され、部屋中に漂うナノマシンが体温、心拍数、発汗量などのフィジカルデータに加え、眼球運動や呼吸数、筋細胞の緊張状態ストレスなどの心理データを源から採取していく。

 源以外は誰もおらず、誰の声も聞こえない、白い牢獄。

 外部情報は遮断され、自分の内面にまで部屋の白さが侵略して来そうなこの部屋は、時を経て進化した取調室だ。

 人間の可聴域ギリギリの高低二つのノイズが、不規則な振幅で不快なハーモニーを奏で、容疑者を精神的に追い詰め、昼夜を問わず白く照らし出される世界が彼らの心の闇を炙り出す。

 人間は二律背反する生き物だ。

 その落差ギャップこそが発想イノベーションを生み、創造クリエイションを成す。

 明るさだけを強調したこの部屋にいる限り、ヒトは落ち着かず、闇を求めて自身の中からそれを引っ張り出す。

 だがしかし、彼らがそれに没入することは許されなかった。

 可聴域ギリギリを彷徨うノイズ群が、彼らの意識を表層に引っ張り上げるからだ。

 結果として、彼らは素面で自身の狂気と向き合わなければならない。

 要するに、自分で自分を追いやるのだ。

 エゲツないやり方には反対の声もあるが、いまだこれ以上に効果的な取り調べ方法は出来ていない。なにより、「時間の領域に手を出す」という大罪を犯した人間が現れたことにより、世論は他人の罪を看過しない風潮にあった。反対の声もあるが、大半は賛成の声、というわけだ。

 そんなところに閉じ込められては、さすがの源も分が悪い。

 このままでは、どんなに粘ったところで、いずれ機密が割れてしまう。

 紫姫音も取り上げられた今、彼にできるのは助けを待つことだけだ。


『まぁ取調室ここに入る段階で主将カピタンにアラートいってんだろぉから大丈夫だろ』


 ゆったりと足を延ばして、拘束椅子に横たわる。

 本格的にやることがないのだから、しかたない。

 なんせこの空間は、現実であって現実ではないのだから。

 

 突然、白い部屋は真っ暗な闇の中に霧散した。

 聖書の始まりに神が「光あれ」と言って世界に光があったように、「闇あれ」と世界が応じた。

 続いて、源の首元に鈍い痛みが走った。

 縫合していた糸を切られたような、内に響く鈍さだ。


『よぉし、んで』


 呼吸を一旦止め、口から吐いてみる。

 咥えさせられていた管を吐き出し、ゴボンという気泡の音を感じる頃には、鼻腔や口腔で表面張力を感じるくらいまで感覚が戻っていた。

 同時に、自身が跪いて後ろ手に両手を拘束された体勢でいることも認識する。

 だが、まもなく手の拘束が解け、続いて両膝を繋ぎとめていた枷も外れた。

 後頭部が浸るほど入っていた液体が、排水されていく。

 跪く姿勢のまま凝った身体を芋虫のようにうねらせながら頭部をまさぐると、フルフェイスヘルメット状の脳波受信機の留め具に触れた。


「んなろ……くっそ……」


 留め具を外し、頭を引き抜くと、跪いて首を垂れる体勢の拘留者たちと、彼らが頭を突っ込む脳波受信機越しの白い小部屋が左右にずらりと並ぶ風景に出くわした。

 先ほどまで源がいたのは、あの小部屋だ。

 中には紫姫音も使っていた人工憑依人体バイオロイドが椅子に置かれ、拘留者たちは脳波受信機から意識を転送されている。

 そうすることで、拘留者たちの肉体的拘束を確実なものにすると共に、慣れない身体につい正直な反応を示してしまう彼らを自白させる狙いの設備だ。

 一般人の人権が最優先され、犯罪者やそれに協力した者には容赦のない管理社会の名残りだ。

 生理食塩水でビチャビチャの髪を掻き上げ、長い髪を絞っていると、拘留者たちの向こうに見えるドアが開く気配がした。


『来た来た』


 近づいて来る足音に合わせて、源は顔を上げる。


「……どちらさん?」


 男装の令嬢、とでもいえばいいのだろうか、細面に凛々しい目を眇めた性別不詳の顔の人物が、正装で源を見下ろしていた。


「失礼いたします」


 訝しげに拘留所を眺めていた人物は、綺麗なアルトの声で謝罪し、一礼した。

 男装の令嬢そのものだった。

 先の顔つきに短く切り揃えられた髪型まで揃った頭部こそ男性的だが、主張の強い胸とスラリと伸びた足の細さが、この人物の性別を全力で叫んでいる。

 ブラウンの瞳は、立ち上がる源に合わせて下目使いから上目使いへと変わっていった。


「T.T.S.所属のかなはじめ源様、でいらっしゃいますか?」

「いらっしゃいますが?」


 小首を傾げる源の意趣返しのような返答に、令嬢の顔が一瞬歪む。

 だが、表情を取り繕う速度は、尋常ではなく速かった。

理由は、すぐに知れた。


「事前連絡もせずに突然お伺いして申しわけございません。私、参議院議員、皇 栄太の秘書をしております、服部 エリザベートと申します」


 議員秘書という言葉に、一気に源のテンションは下がった。

 深々と首を垂れるエリザベートを見下ろしつつ、心の中で舌打ちする。


『まぁ日本政府コイツらにはバレてるわなぁ』


 かなはじめ源という名は、人間兵器として一部の人間に有名だが、人間兵器そんなものの名前を憶えている連中は、余さず碌でもないクズばかりだ。

 だからこそ、源は挑発的な態度での応対を徹底する。


「へぇ、そぉかい」

「本日はかなはじめ様にお願いがあり、お伺いいたしました」


「ちょい待て、そりゃ誰からのお願いだ?」


 ピタリと、エリザベートは頭を下げたまま動かなくなった。


「皇から、となりますが……」

「なんでテメェで来ねぇんだよそのスメラギってのは」


 断る口実を見つけ、自然と饒舌になった勢いそのままに、源は捲し立てる。


「議員様がなんのつもりで俺ごときにお願いすんのか知らねぇがな、俺に頼るんだったら、神様に祈ってた方がまだ現実的だぞ」


 一息に言い切り、髪を後ろに纏め上げた。

 対するエリザベートは頭を上げない。

 ピシッと背筋を伸ばして頭を下げたまま、微動だにせず、固まっている。


「おぃ、話聞ぃて……」


 没収された髪ゴムの代わりに型結びに髪を結い、無反応なエリザベートの顔を覗き込んだ。

絶句した。


『なぁにが秘書だ、このアマ』


 秘書を名乗るには過ぎた殺気を放って、エリザベートは一点を

睨んでいた。

 その反応から、なんとなくエリザベートの状況にアタリをつける。


「……なるほど、ぶっちゃけ不本意、と」


 ピクリと、僅かにエリザベートの肩が揺れた。


『図星か』

「じゃ、望み通ぉりお断りしてやっから、さっさとご主人たまんとこ帰れ」


 言い終えると同時に、再び、拘置場の扉が開いた。

 今度は複数人の足音が響く。

 だが、源の関心は先頭を行くバタバタとうるさい足音だけだった。


「へい!遅いぞ主将カピターン

 案の定、ソレは彼女の足音だった。

 T.T.S.とI.T.C.、そしてP.T.T.S.を取り纏める女傑、T.T.S.Master甘鈴蝶。


「ごめーんねー、あの婦警の子がしつこくてさー」


 デベデベとペンギンが走るような足取りでやって来た鈴蝶は、雛鳥のように源の顔を見上げる。老齢の女性だからこそ逆に許される可愛らしい仕草に、源は頭を撫でくり回すことで応じた。

 抵抗もせず揉みくちゃにされっ放しの鈴蝶が指示する先には、源をぶち込んだ張本人が立っていた。


「おぉ弓削田のロサちゃんじゃん」

「変な呼び方す……しないで下さい……コレ、お返しします」


 T.T.S.Masterというビッグネームの登場に恐縮しきった所轄署員の先頭で、ゲンナリとした面持ちのロサが、指鉄砲で源の髪ゴムを飛ばして寄越した。

 待ってましたと型結びを解く源を尻目に、鈴蝶が尋ねた。


「ところで、服部さん、でしたかしらー?どーして皇議員の秘書さんがこちらに?」


 頭を下げっぱなしだったエリザベートが顔を上げる。

 その顔は、冷静さを取り戻していた。


「知ってんのか、主将カピターン。ってか気づいてたか主将カピターン

「あったり前でしょー、ってか、政府関係者の名前くらい憶えておいてよ源ちゃん」


 呑気にじゃれ合うT.T.S.側の一方で、一層恐縮して姿勢を正すのは所轄警察官たるロサ達だ。


「総務大臣の秘書官様が所轄警察署に現れるなんて、現場の皆さんかわいそーですのでー、私とT.T.S.本部まで来てくださいなー、仲間外れは嫌ですしー」


 暗に「頭飛び越して部下に話通すんじゃねーよ」と牽制しつつ、鈴蝶は源にも水を向ける。


「さて、源ちゃん。ものは相談なのだけどー絵美ちゃんがお熱でダウンっちゃって、代わりに任務出てもらえないかなーなんて」


 ハッとした源と驚嘆するロサの横で、エリザベートがニヤリと口を釣り上げた。

 そして鈴蝶は、そんなエリザベートを


「皇議員のご用件はそのことでしょう?服部秘書……あー源ちゃん。絵美ちゃんならオースティン女史のところに搬送済みよー」


 源とロサが飛び出していく中、二人の女は互いに視線を外すことはなかった。




~2176年9月30日AM10:42 東京~


 爆音を響かせて、Ninja 250が疾駆する。

 漆黒の車上には、二人の影があった。

 一人はこの二輪車のオーナーかなはじめ源。

 その腰にしがみついているのは、かつての白バイ隊が使用していた白いメットを被った弓削田ロサだ。


「ロサちゃんよぉ!仕事放ぉり出していぃんかよ!」

「え!?なに!?聞こえないんだけど!」


 慣れないガソリンエンジンの音にあてられたのか、ロサは若干テンションがおかしくなっていた。


「お前仕事いぃんかよ!」

「う、うるさいわね!アンタの監視が仕事よ!」


「んだそりゃ」


 絵美の不調を聞いた瞬間から、ロサは源以上に動揺していた。


 源は絵美の事を仕事上でしか知らない。

 ゆえに、弓削田ロサと正岡絵美の関係性を知らない。

 だから、いつだって取り外せる手錠で署の入口に拘束された時も。今は使われていないヘルメットを備品倉庫の奥から引っ張り出してくる時も。源はロサを待っておいたのだ。


『そもそも、こいつホントに絵美の知り合いか?』


 今でこそ下火になったが、絵美はその美貌と来歴から時の人として持て囃された過去がある。

 それこそ、熱烈なファンを有するほどに、その人気は高かった。

 信者ファン偶像アイドルに近づきたがるのは自然な行動だ。

 それゆえに、日本警察からT.T.S.に移った絵美の所業を「裏切り」と捉える者がいても可笑しくはないし、ロサがそう言った輩でないという保証はどこにもない。


『ま、なにかするってんなら俺が護りゃいぃか』


 ほんの僅かな間だが、ロサの行動を見る限り、決して常識しらずというわけでもないようだ。

 だから、源は下手に考えるのはやめることにした。


「ロサちゃんよぉ、ちょい飛ばすからもっとしっかり摑まっとけ!」


 源の愛車たるNinja 250は廃車寸前のオリジナルをレストアした物で、近代改修以外にも多くの改造カスタムを施している。

 例えば。


「柴姫音、電磁浮遊機構レールフロート起動しろ。飛ばすぞ」


 Ninja 250は即座に動作を開始した。


「ちょっとなに?うわ!わわわ!」


 前輪を上げ、ウィリーしたNinja 250の前輪が本来の回転ベクトルとは90度異なる方向にクルリと回転する。ホイールカヴァーの電磁盤が帯電路面と反発し合い、機体を支えた。

 翻って、今度は後輪が上がる。電子制御下で重心調整され、Ninja 250はバランスを一切失わず、後輪も浮遊機構フロートの起動を終えた。


「ちょっと!これ車検ちゃんと通してるんでしょうね!」

「…通してるよ、覚えてねぇけど」


「…おい止まれバカ」


 かくして、Ninja 250はなにかを振り落とす勢いで速度を上げるのだった。


 T.T.S.本部に入るには、都合3ヶ所の検問を通過しなければならない。

 旧国立科学研究所付近には21世紀中頃から大量の東南アジア系移民が住み着き、一頃は夜道も歩けないほどに危険な地域になった過去がある。

 仮にも国際機関の日本支部を置くとあって厳重な警備が敷かれているが、同時に、日本の警察組織がいかにT.T.S.を歓迎していなかったかが如術に窺えた。


「なんだか色々面倒ね……」


 Ninja 250のチェックと乗員である源とロサのボディとIDのチェック、加えて簡易ではあるが各人の異常思考検査を受け、一段落したところで、ロサが呟く。

 しかし、こればっかりはつき合ってもらうしかない。


「まぁ、そりゃな」


 タイヤ走行に切り替わったNinja 250を再び始動させ、徐行で本部敷地に車体を滑らせた。

 トーン、トーンと流れる地面を時折蹴りながら、入口を鵜の目鷹の目するロサを盗み見て、源はT.T.S.の主治医であるI.T.C.のオースティン医師の詰め所を指示する。


「ほれ、絵美はあそこだ。俺ぁバイク停めてくっから先行ってろ」


 ロサに対する警戒はどこへやら、無造作に彼女を下ろした。


「え?いや、ちょっと……」


 唐突な無警戒に面食らうロサを置いて、源は発車する。

 建物の裏に消えるバイクを見送り、彼女は呆然と心情を吐露した。


「なによあれ」


 源の警戒には、ロサも気づいていた。

 当然だ、と思っていた。

 噂や報道でしか知らないが、T.T.S.は未知の時代に跳び、そこに住まう者達の中から未来人を見抜き、確保するのだという。

 稀に時間遡行を深めて時間的に先回りすることがあるそうだが、基本的にはゲリラ戦に近い戦いを強いられる、と聞いたことがある。

 そんな彼らが警戒を怠るわけがない。

 ロサはそう考えていた。

 にも関わらず。


「私完全放置じゃない。大丈夫なの?あの男」

「どぉだろぉなぁ」


 思わず、悲鳴を上げた。

 見送ったはずの男が肩を組んで来たのだから、当然だ。


「な、アンタ、なんで」


 予想をことごとく外す男の行動に、ロサは動揺していた。それは包み隠さぬ彼女の行動であり、剥き出しの彼女の本音だ。これが確認出来れば、源にとっては充分だった。

 結果に満足した源は、答えることなくウインクする。


「さぁこっちだ。行くぞロサちゃん」

「ちょっと放してよ!誰がロサちゃんだ馬鹿!」


「へぇへぇ、分ぁったよ。とにかく行くぞロサ」


 放してやりたいのはやまやまだが、施設内に入るのにも源のIDが必要なのだ。しかたがないが、ロサにはもう少し我慢してもらう必要がある。




~2176年9月30日AM11:23 東京~


 目を開けると、自宅とは違う天井がそこにあった。

 合掌造りのような急傾斜で高く伸びる天を、ぼんやり眺めていると、段々と違和感を憶えていく。


「ここって……」


 ズキリと痛む頭に顔を顰めつつ、身体を起こす。

 拳大の超小型ドローンが複数台飛び回り、スキャニングレーザーで全身を隈なく調べていた。

 ボーっとその光景を眺めていると、傍らのカーテンが開き、絵美の視線はそちらに吸い寄せられた。


「あら、お目覚めね?」


 太い声と大きな身体が、絵美を迎えた。


「オースティン、さん?」


 マダムオースティン。

 T.T.S.のフィジカル面の健康管理を一手に担う専属医師だ。

 女性の心を持ちながらも、「力仕事も多いから」と男性の肉体であることを選んだLGBTの崇高な医療人だ。


「珍しく紗琥耶ちゃんが連絡してきたと思ったら、これまた珍しく絵美ちゃんが倒れた、なんて聞いたから驚いたわよ」


 ベッドサイドに来たマダムオースティンは、そう言いながら絵美の頭を優しく撫でた。

 絵美は、されるがままになりながら、小さく呟く。


「……すみません、ご迷惑をお掛けして」


 マダムオースティンは優しく微笑んで応える。


「病人が謝るものではないわ。それに、貴女は普段から皆を纏め上げているんだから、少しは休まなきゃ」


 皆、という言葉で、絵美は思いを巡らせた。

 そもそも自分がどうやって遠く離れた職場の病院まで来たのか、を。


「……そうだ、紗琥耶」


 起き上がろうとする絵美を、マダムオースティンがそっと抑え、寝かしつける。


「過労とインフルエンザのダブルパンチよ。紗琥耶ちゃんにも伝えてあるから、お礼は後にして、今は寝ておきなさい。それに聞いたわよ、昨日の夜、随分遅くに帰宅したそうね。ダメじゃない、雨の日にそんな無茶しちゃ」

「……ごめんなさい」


 マダムオースティンは再び絵美の頭を撫で始める。


「お花、買って帰ったんですってね」

「ええ……今日、命日ですから」


「そうね……でも、だからって貴女が身体を壊す必要はどこにもないの。自分を大事になさい」

「……はい」


 母娘のようなやりとりを続ける中で、絵美の心は落ち着いていった。

 だが、平穏とはあっけなく脅かされるのが世の常で。

 遠くから、混沌が近づいて来る。


「もうどこよ!ドア多すぎて分っかんない!」

「だろぉな、そぉいう構造してんだから」


「ちょっと!あんたも走ってよ!」

「なんで俺が走んなきゃなんねぇんだよ、テメェが落ち着きゃ済む話だろぉが」


 片方はよく聞く声、もう一つは、久しぶりに聞く声だ。

 そして両者は共に、考え得る限り最も絵美にストレスを与える連中だ。

 自然と顰めていた顔をジーっと見られる気配がして、絵美は顔を手で覆った。


『ごめんなさいマダム……本っ当にごめんなさい……』


 もはやインフルエンザ由来かストレス由来なのか分からない頭痛にイライラしながら、絵美は静かに自身の靴を拾い上げる。

 そして絵美は。


「絵美さん!」


 勢いよく扉を開けたロサの顔面目掛けて思い切り靴を投げつけた。




~2176年9月30日AM11:25 東京~


「絵美さん!」


 扉越しに聞こえる大きな声に、紗琥耶は思わず持っていたショットグラスのウイスキーを揺らしてしまった。

 一瞬天井に近づいた視界が元の距離感を取り戻したのを確認して、扉を顧みる。


「随分活きのいい子がいるのね」


 ウイスキーの芳醇な香りを嗅ぎながら、足に挟んでいたクッションを蹴り上げ、身を起こす。

 それなりに高い天井にぶつかったクッションが跳ね返ってくるのをキャッチして、紗琥耶は聴覚センサーの感度を上げる。

 捕捉波帯を心音に固定して、データと照合する。

 すると、マダムオースティンの部屋に5名ほどいるのが分かった。

 マダムの下に絵美を運んだ時から、随分と人が増えている。


「マダム、絵美たん……陰姫もいるのね」


 紗琥耶は部屋を見回した。

 T.T.S.ラウンジと呼ばれるこの部屋は本部施設内でも特に広く、60畳ほど広さの部屋にあらゆる設備が整っている。

 紗琥耶が横たわるのは、その中央、周りより少し窪んだ床に嵌め込まれた円形ソファで、すり鉢状の底からは上方が良く見えた。

 つい5分ほど前まで彼女がいた書架からは、確かにその姿は消えていた。


「で、アイツも来てる、と」


 心音からも明らかだが、彼女が読書すら止めて会いに行く動機からも、納得の事実だ。

 そして、残る新顔がどうして現れたのかも分かった。


「アイツが連れ込んで来たわけだ……美味しいかどうかは別として、活きはいいみたいね」


 改めて触れておくが、紗琥耶はバイセクシャルだ。

 一方、マダムオースティンの部屋では実に見苦しい光景が広がっていた。


「それで?この子は誰で、どうしてここにいるのかしら?」


 マダムの丸太のような両腕が源とロサの頭を両脇にそれぞれギッチリと固めていた。


「痛い!痛い痛い痛いです!」

「話す、話すから、解いてくんねぇか、マダム……」


 ミシリと嫌な音を立てる頭に、割とマジで源とロサはマダムの腕をタップする。


「源ちゃん、貴方今日非番でしょう?どうして来たの?部外者まで連れて」

「言ぅ、言ぅ……放してくれたら言ぅよ」


 パッと拘束が解け、二人は床に転げ落ちた。

 もんどりうつ二人に、それでも容赦なくマダムは今一度尋ねる。


「それで?どうして来たの?」


 お説教モード全開のマダムの問い掛けに、源は隣の女を指差した。


「ほとんどコイツのせぇだ」

「え?アタシ?」


「そぉだろ。勝手について来たんだから」

「違っアンタのバイクに乗って来たのよ!アンタが連れ込んだも同然でしょ!?」


 言うが早く、ロサは源に掴み掛った。


「ここに入る時だってアンタが散々手を貸したんでしょうが!忘れたとは言わせないわよ!」


 堂々と始まった責任の擦りつけ合いを放置して、マダムオースティンは絵美に問い掛ける。


「あの子、絵美ちゃんの知り合い?」


 渋面の絵美は力なく首肯した。


「前職時代の年上の後輩です。昔から私のキャリアストーカーをして来まして」

「……なるほど、迷惑な子なのね」


 首肯する絵美を見て、ギャーギャーうるさい連中を顧みたマダムは溜息を吐いた。


「でもまあ、そこを除けば無害だから源ちゃんは連れて来たのよ、きっと」

「ええまあ、それはそうなんですけど……」


 二人で仲良く溜息を零す。

 ちなみに、ロサと源の喧嘩は胸倉を掴み合うレベルにまで発展していた。


「そうね、今はしんどいでしょうし、今はご退場願おうかしらねえ」


 実力行使に出ようと拳を撫でるマダムを見て、絵美は苦笑いするしかない。


「本当にすみません。お手数をん……」


 言葉が途切れた。

 原因は、口を塞がれたからだ。


「んはっ、お熱下がったみたいね。絵美たん相変わらず唇柔らかーい」


 体面座位の状態で、紗琥耶が絵美の上に現れた。

 絵美の唇を奪って嫣然と笑うその顔は美しい。


「さ、紗琥耶……」

「おはよ、絵美たん」


「あの、紗琥耶」


 今朝のことを謝らなければならない。


「ちょっとアンタなにしてんだ!絵美さんから離れろ!」


 源に馬乗りになっていたロサが、絵美に投げられた靴を投げ返してきた。

 難なくキャッチした紗琥耶は、揶揄うようにロサに言う。


「陰姫ぇ、そろそろその子を興奮させるの止めてこっちに混ざりなさいよぉ。珍しく絵美たんと姦れるかも」

「アグネス、紗琥耶の言うことなんて聞き流していいからね!」


 顔を顰めるロサの背中で動きがあった。

 空間の一部が歪み、湿り気のある黒長髪をピトリと垂らした褐色肌の少女がロサの背中に乗っている。

 彼女こそがT.T.S.No.4アグネス・リー。

 コーカソイドの血を強く感じさせる鼻の高さと目の大きさを持った美人でありながら、どこか陰鬱とした雰囲気を纏っている。


「うわぁ!誰ですか貴女!?」


 ロサは慌てて背中のアグネスを追い払った。

 余りに素直なロサの反応に、紗琥耶は大笑いする。

 一方の絵美は悪化する頭痛を抑えながら説明だけはしようと手でアグネスを指示した。


「ロサ、この大笑いしているのがT.T.S.のNo.1、ジェーン・紗琥耶・アーク。そして今貴女の背中に乗っていたのが、No.4のアグネス・リーよ。二人共私の大切な仲間で、化物みたいに強いわ。失礼はほどほどにね。もちろん、そこの源にも」


 そうこうしている内に、アグネスは源に話し掛ける。


「源……会えて、嬉しい……今日は、休みだった……」


 だが、源はまるで話など聞いていないように入口を見た。

 そこから、更に二人の人物がやって来る。


「やあ諸君、まさかこんな所に勢揃いしているとは思わなかったよ」


 ガチャリと扉を開けて、長身の若い男が這入って来た。

 背後には、服部エリザベートの姿もある。

 男はT.T.S.のメンバーの顔を確認すると同時に、ロサに目を留めて驚いた。


「ありゃ!貴女来ちゃったの!?」


 ヒスパニック系の源とは違う、アングロサクソンの美丈夫の視線に、ロサは目を白黒させる。


「え?いや、誰ですか貴女!?」

主将カピターンだよ」


「へ?」


 今となっては絵美の次に親しみを憶える顔になった源の言葉に、ロサは耳を疑った。

 ロサはしばし口をパクパクとさせて源の顔と男の顔を交互に見て、それからその視線は縋るように絵美へと向けられた。

 もはや何重苦かも分からないストレスに曝された絵美はウンザリした顔で、それでも言い方は出来るだけ柔らかく頷く。


「甘鈴蝶本人よ」


 その一言で言葉も失って鈴蝶を見返したロサに、男性の身体になった鈴蝶は朗らかに手を振った。


「ようこそ、T.T.S.本部へ」




10

~2176年9月30日PM12:05 東京~


 T.T.S.ラウンジの風景は、様変わりしていた。

 高い天井には青空が映し出され、丸ソファが嵌まった窪みの上に強化ガラスの床が展開、テーブルと椅子、昼食ランチが並んでいる。

 昼食ランチメニューはイタリアンで統一されており、サラダやピッツァ、ラザニアやパスタがブラッドオレンジジュースと共に食卓を彩っていた。


頭痛薬タイレノールは飲んだんか?」

「ええ、お陰様で躊躇いなく2錠飲み下させていただきました。本当に、面倒事を増やすのがお上手なんですね」


 隣に座る源の気遣いに綺麗過ぎる笑顔で応えて、絵美はその足を踏みつけた。

 引き攣った笑顔で源は頷く。


「えぇまぁ、ライフワークみたいなもんなんで」


 絵美は思いっきり源の脛を蹴っ飛ばした。

 痛がる源を、源を挟んで絵美とは反対側に座るロサが嘲る。


「は、ざまあ見なさい。アンタが迷惑掛けるからよ」

「ロサ、頼むから黙っていて。正直貴女が一番うるさいわ」


 ぶり返しそうな頭痛の気配に、絵美は米神を抑えながらロサに釘を刺した。

 閉口するロサを、対面の紗琥耶が笑う。


「絵美ちゃんの言葉攻め、相変わらず子宮にズンズン響くぅ」

「貴女もお黙りなさい。下品よ」


 嬉々として茶化す紗琥耶を、マダムオースティンが横から嗜めた。

 そんな中、マダムオースティンと並んだアグネスはまんじりともせず源を見詰めている。


「ほらほら、全員静粛に、久々にこんなにメンバー集まって昼食が摂れるんだから喧嘩しない」


 鈴蝶は全員を見回せるお誕生日席で手を叩いた。


「それじゃあ皆さん、お手を拝借。お手々の皺と皺を合わせて、はい」


 わけも分からず従ったロサの前で、全員が告げる。


「「「「「「いただきます」」」」」」


 先ほどまでてんでバラバラだった連中が、礼儀正しく手を合わせて挨拶した。

 その事実に、ロサは驚く。


『凄……あっという間に皆を纏め上げた』


 T.T.S.という存在を、日本警察が意識しないわけがない。それは、上層部はもちろん、下っ端の所轄刑事までも同様に。

 少数でありながら大きな存在感を持つT.T.S.は、厳重な日本警察の警戒網の果てに本部を構えている。

 ただし、この日本警察の警戒網は、外敵にももちろんだが、実はT.T.S.

 それはつまり、日本警察はT.T.S.を、薔薇乃棘エスピナスデロサスや他のテロ組織と同等の脅威と見なしているということだ。仮にも一国家機関である日本警察に、こうも堂々と警戒されながら、決して揺るがずに在り方を変えない組織の、その力の片鱗を見た気がして、ロサは内心震えた。

 そして、理解した。

 盤石な構えを可能としている要こそが、この甘鈴蝶なのだと。

 各々がピッツァを取ったりラザニアをよそったりする中、鈴蝶は朗らかに口を開く。

 相手は、ロサと同じ部外者。


「さて、服部エリザベートさん。改めてご用向きを伺いましょう。今日は珍しくT.T.S.のメンバーが勢揃いです。これだけの人員が一堂に会することって案外珍しいんですよ」


 姿形も、声音も、男にしか思えない。


「予防策兼私の趣味」


 ラウンジに移動する道すがら、鈴蝶はロサにウインクと共にそう語った。

 その言葉の意味を、ロサも考えてみた。

 予防策と言うのは、もっともな話だ。

 国家から警戒されるT.T.S.の長という立場は、作りたくなくとも敵の生まれるポジションだ。

 そんな鈴蝶が姿形を変えるのは、自然といえば自然なことだ。

 身体そのものを丸々入れ替えると言うのも、この時代ではさほど珍しくない。潜入捜査や市場調査など、様々な場面で使われている。

 下手をしたら、鈴蝶自身はどこか遠い所にいて、今いる男性体も先ほどの女性体も、遠隔で操っている有機人工人体バイオロイドの可能性すらある。

 問題は趣味の方だ。


『趣味ってなに?男女どっちにもなる趣味?LGBTとかなら分かるけど、それにしてはケがないのよね』


 差別ではなく区別として、そういった趣味を見抜く目を持つようになったのは、刑事になってからだ。性的趣向は、個人の楽しみと社会的倫理の境界線上にあり、容易に犯罪と直結し易い。いつの世もこの方程式は変わらない。

 だが、それがしっくりこない。つまり、性的趣向ではない可能性が高い。


『そもそも、性的趣向に溺れるタイプにも見えないしね』


 ロサとて刑事だ。人を見る目には、それなりの自信がある。


『まあでも、そこまで頭の可笑しい人ではなさそうだし。絵美さんに危害を加えるわけでもなさそうね』


 ロサがそう独りごちたところで、エリザベートが口を開いた。


「先ほどは失礼いたしました。僭越ながらかなはじめ様ご本人に直接依頼を逸ってしまいました。さすがに礼を失しておりました。お許し下さい」


 エリザベートはキッチリ頭を下げる。

 面食らったT.T.S.達が、ピザやラザニアから伸びるチーズを払いもせず、鈴蝶を見る。

 ただ一人、源だけが我関せずとフォークを動かしていた。

 鈴蝶は視線の片隅でその様子を捉え、カフェ・オ・レを傾ける。


「お気になさらずとも結構ですエリザベートさん。それで、かなはじめにどのようなご用向きで?」


 非礼を赦しはするが、決して彼女自身を歓迎してはいない。そんなニュアンスがこれでもかとトッピングされた言葉だった。

 しかし、これとて大幅な譲歩である事は、第三者のロサでも理解出来る。

 一国家と同等の扱いをすべき機関に、土足で上がり込んだのだ。

 即処断されないだけ御の字、要件を傾聴してくれるなんて出血大サービスだ。

 エリザベートも、その辺りは重々承知しているのだろう。

 改めて礼を述べた後、居住まいを正した。


「去る9月22日、議員の一人娘の幸美お嬢様が消息を絶たれました」

「え?」


 思わず、ロサは声を上げた。

 署内でも聞かない話だ。行方不明、しかも議員の親族の失踪ともなれば、普通は本庁から指示が下る。

 エリザベートはロサの反応を見て、彼女に顔を向ける。


「日本警察には届け出ておりません。ですので、初耳かと存じます」

「なんでそんな大事なことを通報しないんですか!」


 反射的に噛みついたロサを、絵美が手で制した。

 鈴蝶のよく通る声が、ここまでの情報から生じる可能性を提示する。


「警察に届け出ず、こちらに話しを持って来て、源ちゃんを指名。……なるほど、幸美嬢は自分の意志で家を出たわけですね」


 エリザベートは頷いた。


「でも、だったら」


 ロサの出番のはずだが、鈴蝶の言葉がそれを遮った。


「そして薔薇乃棘エスピナスデロサスに接触した」


 ロサは息を呑む。


薔薇乃棘エスピナスデロサスに?』


 世に名高き時空テロ組織。

 T.T.S.や日本警察を始め、世界中の警察機関や情報機関が血眼になって探す、技術と思想で選民する謎の組織。

 エリザベートは頷き、続ける。


「ご存知の通り、皇はタイムマシンの廃棄を推進するハト派の議員です。T.T.S.と薔薇乃棘エスピナスデロサスを同等の脅威と捉え、日夜タイムマシンの危険性を説いています。一方で、幸美お嬢様はタイムマシンを人類の叡智の結晶とお考えでした。それだけに、議員は幸美お嬢様が薔薇乃棘エスピナスデロサスに接触して消息を絶った事実を世に公表したくないとお考えです」


 どこにでもあるような、子の親に対する反抗意識が、最悪の形で像を結んでしまった。


「時間跳躍をされた事実の確認は取れたのですか?」


 絵美の問い掛けに、エリザベートは首を傾げて訊き返す。


「むしろお尋ねしたいです。お嬢様が違法時間跳躍者クロックスミスとして名を連ねたことはございますか?」


 その問い掛けに顔を顰めた絵美を見て、ロサは源に尋ねる。


「クロックスミスってなに?」

「時間跳躍した一般人パンピー


 耳聡くその会話を聞いていたエリザベートが、源に視線を向けた。


「聞けば、かなはじめ様もご親族を薔薇乃棘エスピナスデロサスに誘拐されているそうですね」


 源は答えず、ダルそうに椅子を上下させる。


「確かお父様の名は」

「エリザベートさん、お引き取りを」


 攻勢に転じ出したエリザベートの語気を、鈴蝶が遮った。

 エリザベートが固まり、問い直す。


「今、なんと?」

「お引き取り下さい、と申し上げました。服部エリザベートさん」


 鈴蝶は出口を手で指示して首を傾げて見せた。


「よくもまあ、T.T.S.を焚きつけるような真似が出来たね。貴女、立場が理解出来ていないみたいだ。今貴女と食卓を囲んでいるのは一人一人が人間兵器といって差し支えのない面々。誰も彼もが血に飢えた獣を隠している。強硬に出るのは結構だけれども、度を過ぎると」


 鈴蝶は手で一同を示す。


「バラバラに喰い千切られるよ」


 ロサの背中に冷たいものが走り、全身の毛穴が開いて筋肉が縮こまった。

 隣の絵美や源の雰囲気が、先ほどまでとまるで違う。

 人としての尊厳を放棄してでも、なにかをなそうとする人間の目をしている。

 エゴイズムで塗りたくられたそれは、偉人の目にも犯罪者の目にも宿る光を持っていた。

 一般に忌み嫌われることも多いエゴイズムだが、なにかをなそうとする時、最後の動機になるのは、この感情だ。

「これが正しいはずだ」

「これが間違いのわけがない」

「こうあるべきだ」

 言葉尻こそ違えど、そんな身勝手な思いが世を動かす最後の燃料となる。


『もしかしたら、絵美さん以外は本当に……』


 しかしながら、その目つきとて、T.T.S.の専売特許ではない。先に触れた通り、偉人ないし犯罪者もまた、この目をするのだ。

 ではどちらだろうか?


「舐めんなよT.T.S.」


 目の前の議員秘書を名乗る女は。


「私だってもう手段を選んじゃいられないんだよ。議員の意向に背いたんだ」


 狂った笑顔を咲かすこの女は。


「引き千切られて肉片になったってあんた達から離れない」


 果たして偉人か犯罪者か。

 なにを変えたくて、こうまで狂ったのか。

 

「……そうですか」


 しばしの間を設けて、鈴蝶は落ち着いた声でそう呟いた。

 気づくと、食器の音も戻っている。

 先ほどまでの殺気立った様子はどこへやら、T.T.S.の面々は朗らかに昼食を摂っていた。

 ジェノバソースのかかったパスタを頬張った鈴蝶は、ロサとエリザベートの二人にデータを送って寄越す。

 視界に展開されるデータは、薔薇乃棘エスピナスデロサスの情報だった。

 一部秘匿情報も含まれるようで、レッドタグの表示が幾つか見える。


「余裕のなさを魅せ付けられたところで、貴女のご依頼が我々の管轄外の事象である事実は変わりません。これに対処することは越権行為に該当し、信頼を侵害する行為です。これはすなわち報復を意味します。いくら皇議員の秘書官のお相手とはいえ、こればかりは出来ない相談です。その点はご理解いただきたい。その上で、我々の持ち得る情報の一部をお渡しします。そちらの所轄署員さんにもお渡ししておきましたので、ご活用下さい」


 エリザベートも変わっていた。

 深々と下げた頭を上げると、そこには柔和な笑みの秘書官が戻っている。


「いえ、そちらのおっしゃることはごもっともですし、これだけ情報をいただければ充分です。ご協力、感謝いたします」


 立ち上がると同時に、エリザベートはロサに顎を向けた。


「では、弓削田ロサさん。貴女の署の管轄内で広域配備を要請いただけませんでしょうか」


 突然回ってきたお鉢に、ロサは一瞬呆けたが、すぐにエリザベ

ートに続いて立ち上がる。


「は、はい!分かりました!」


 早くも出口に爪先を向けていたエリザベートに続き、ロサが一歩を踏み出した時だった。

 突然、青空だった天井が赤色通知レッドアラートの回転灯の瞬きに支配された。

 T.T.S.の面々を省みると、全員がなにかを傾聴している。


「なにが……」


 エリザベートの顔を見ると、彼女もまたロサと同じく怪訝な顔でこちらを見返すだけだった。

 やがてT.T.S.の一人が立ち上がる。紗琥耶だった。


「じゃ、アタシ先にイッてるから、カウパー君がイクのか、絵美たんがイクのか、早く決めてね。でないと、先にイッちゃうゾ❤」


 言うが早く、紗琥耶はロサとエリザベートの向かう出口に向けて歩き出す。ポカンと見守るロサの横を通る時、紗琥耶はロサの首筋に鼻先を近づけた。


「一人が寂しくなったらいつでも言ってね」


 そして、奇妙なことが起こった。


「ロサちゃん❤」


 ロサの左側にいるはずの紗琥耶の声が、


「ひっ!」


 思わず振り返って後ろに仰け反ったロサの前を、紗琥耶はケラケラと笑いながら手を振って歩いていく。

 湿った右頬の感触と紗琥耶の存在が気持ち悪くて、ロサはその場に凍りついて紗琥耶の退室を見送るしかなかった。


「エリザベートさん」


 鈴蝶の凛々しい声が部屋を出た紗琥耶を追うように発せられ、やっとロサは首を動かしてそちらを見る。

 険しい表情で立ち上がったT.T.S.Masterは、エリザベートに歩み寄りながらはっきりと告げる。


「今し方違法時間跳躍者クロックスミス発生が観測されました。ヒッグス粒子を超光速素粒子に置換する過程で生じる遡行運動軌道をトレースした結果、男女二名の跳躍を確認。内一名の遺伝子情報を世界中の臓器バンクに保存された遺伝子型DNAと照合した結果」


 やがてロサの前を通り、エリザベートの眼前まで来た鈴蝶は、しばし沈黙し、絞り出すように告げた。


「皇幸美嬢のものと98.97%の一致を確認しました」

「そんな……」


 瞠目して言葉に詰まるエリザベートが、ガクリと膝から崩れる。

 その様子を、ロサは愕然と見守ることしか出来なかった。

 当然だ。

 親への反抗心が、時の遡行と言う大罪を生むだなんて、一体誰が考える?

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