第3話Beef or Fish?

A.D.1893.9.21 19:01

大日本帝国 奈良県



 初秋の空気が、突然割れた。

 姦しい虫の声の一切が消え、代わりに高低問わずあらゆるノイズが空気を震わせる。

 聴覚を埋めつくす電子の外乱に、頭が割れそうだ。


「なに?いきなり」


 太陽から月へと支配権の渡った空の下、紫電に目をやられたと思ったら、今度は不協和音に耳をやられ、嫌でも絵美の顔は歪む。


「どぉした?」

「通信がいきなり」


 光の残響で覆われた視界の端で受信レベルを確認してみるが、数値は変わらず85%のままだ。


『なんなの?』


 答えは、すぐに告げられた。


〈I.T.C.紙園エリです。音……好でしょうか?ノイズは可聴値に収まっていますか?そちらはT.T.S.No.3正岡絵美でよろしいですか?〉

「え、なに?エリちゃん?どうしたの?それさっき言ったよ?」


〈よかった。そちらはOperation Code:G-3842時間跳躍者川村マリヤ確保後の完了報告終了直後でよろしいですね?〉

「うん、だからさっき」


〈落ち着いて聞いて下さい。こちらはそちらの作戦開始跳躍時間より43日後の2176年9月14日AM11:18からの通信です〉

「……へ?」


〈念のために言っておきますが、これは訓練ではありません。緊急任務です。詳しくは追って送信します任務内容をご参照のほどを……この通信が終了後、43日前。2176年8月2日の私からTLJ送信の最終確認が来ます。そこで“プライベートトーク盗聴者の口封じのため一時D-28を離脱する”とご説明を〉

「な、なにを言って」


〈ではT.T.S.ストレートフラッシュ両名の息災と成功、厳正なる時の改変阻止を祈ります……ごめんなさい。でも、よろしくお願いしますね〉


 内容の把握が追いつかない内に通信は途絶え、すぐに、元の紙園エリからのリダイアルが来る。


〈T.T.S.No.3、I.T.C.紙園エリです。最終確認を行います。周辺に住人の生体反応はありませんか?……No.3?〉

「え?あ、いや、その」


 理解も待たずに、事態がどんどん進んでいく。

 勝手な進行具合に、絵美はデジャブを覚えた。

 問題は、次に発する一言だ。

 未来のエリを信じ、その提案に伸るか反るかの決定権は、彼女にある。


『なにがなんだか』


 しかしながら、今の絵美には判断の材料がなかった。

 決定打を求めて振り返ると、絵美以上に状況が分かっていないであろう、怪訝な顔の源と目が合った。

 今の絵美に必要なのは、大変癪だが、この男だった。


『そうだ、あの時コイツは』


 その瞬間。


『ええい!ままよ!』


 絵美は肚を括った。

 目を瞑った顔を前に戻し、拳を固く握る。


「こちらT.T.S.No.3正岡絵美。やはり報告したプライベートトーク盗聴者は過去改変の危険性があると認知。これより、口封じのため追跡に入ります。川村マリヤは意識剥奪の上PRDG-28の空き家に拘束しておこうと思うのですが、問題ありませんか?」

〈え?それは先の通信で“該当当時の学術的観点からは内容解釈が不可能”と報告を〉


「ええ、確かにそう申し送りましたが、万に一つの可能性を潰すことをT.T.S.の務めと再認識し、あえてこの方針を打ち出す所存です。問題ありませんか?」


 しばらくの間、誰もなにも喋らず、秋虫だけがけたたましく騒いでいた。


〈……了解しました。川村マリヤを屋敷最深部の使用人部屋、手前から三番目の西側の襖に拘束して下さい。そちらからの再通信にて最終確認を行った後、対面する東側の襖にTLJを跳躍させます。それでよろしいですね?〉


 返された言葉は、不本意さを隠そうともしないエリの声だった。


「ありがとう、恩に着るわエリちゃん」

〈いえ、他ならぬ絵美さんの願いならばしかたがありません。あの馬鹿ないい加減野郎だったら却下していましたが……ではストレートフラッシュ両名の健闘を祈ります〉


 緊張感のある通信を終え、胸を撫で下ろした絵美は振り返る。“馬鹿ないい加減野郎”は相変わらずわけが分からないといった表情で相棒を見ていた。

 だが、説明して欲しいのは絵美も一緒だ。

 とりあえず言われた通りの内容で急場は凌げたものの、次になにをすればいいのかさっぱり分からない。

 源に対して小首を傾げて見せようと思った、その時だった。


「源!なんかファイル来たからダウンロードはじめるよ!」

「はぁ?今か?」


『本当に来た!!』


 ストレートフラッシュは、各々のWITへと視線を落とす。

 そして彼らはソレを見つけた。

 送信日時2176年9月14日AM11:23の指令ファイル。

 作戦名タイトルは、Code:G-3864-proto。


『proto?』


 その名に違和感を懐きつつ、ファイルを開く。

 見慣れた定型文をすっ飛ばし、ターゲットの名前を探して。


「なにこれ?」「なんだこれ?」


 ストレートフラッシュは揃って首を捻った。





「ねえ、あの画像、どんな意味があるんだと思う?」


 真っ暗な参道をひた走りながら、絵美は源に尋ねる。


「さぁな」


 返された素気ない言葉に、いつ不興を買ったのかを考えた。

 嫌味を喉に閉じ込めて、絵美は源を盗み見る。

 ボンヤリ見える源の横顔は、硬く強張っていた。


『なんなのよ、もう』


 未来のデータを受け取った二人は、とりあえず内容を確認し、それに従うことにした。

 ただ、内容確認以降、なぜか源は寡黙になってしまった。

 未来から来たファイルには、指令書以外に四つの資料が添付されていた。

 一つは、2167年に政府に提出されたあるNGOの発足申請書、もう一つは、その代表者の来歴が記された文書、そして二枚の3D画像だ。

 NGO申請書は〈業病患者差別史保存委員会〉に関する物だった。疾患者差別で有名な業病、つまりハンセン病患者達の意志を継ぐ事を目的とした組織だ。あらゆる人間関係から強制的に隔離され、浮世との繋がりを一切禁じられた場所で一生を終えた者達の暗く悲しい記憶を恒久的に保存する活動は、絵美が見ても非常に意義深い。

 だが、続く文書データと画像データの一枚で、業病患者差別史保存委員会のイメージは失墜する。


〈有島高尾 52歳 男性。2146年 択捉国立大学経済学部経営学科を卒業論文の盗用、および友人数名を暴行した疑いで除籍。その後、新井喜多満衆議院議員の私設秘書をするも、2170年、同議員政治資金横領の疑いで逮捕。

 翌々年、模範囚として刑期短縮により出所。2172年7月にらい菌発見の国ノルウェーより帷子ギルバート氏を副会長に迎え、NGO業病患者差別史保存委員会を発足〉


 文書とセットで開封された3D画像には、ブルドックそっくりな有島の顔があった。


『死ぬほど胡散臭い』


 少なくとも、絵美はこの男が出馬しても投票しようとは思わない。

 ターゲットに関する資料は、これで全てだった。川村マリヤの確保時となんら変わりない、テンプレート通りの時間跳躍者捕獲任務用資料だ。

 だが、異彩を放つ物が一つだけあった。

 添付された一枚の3D画像だ。そのデータを展開した時、ストレートフラッシュの背中に冷たいものが走った。

 それは、FPSのプレイ画面のような視覚傍受画像だ。光量の足りない狭い昇り階段で、こちらを向く人影がある。体型から見て、それが男なのは間違いない。直垂を身に纏い、振り返った格好の人影は、能で用いられる翁面に覆われていた。傾いだ好々爺のクシャクシャの笑顔が、こちらを窺う。その姿は薄暗い周辺からボンヤリと浮かび上がるようで、絵美の危機感を仰いだ。感想を求められれば、不気味としか答えられない。画角全体が放つ異様な存在感が、口を噤ませた。

 恐らく、源もそれに中てられたのだろうが、それにしても、今の彼はおかしい。

 緊張感のある場面であればあるほどリラックスしている男が、なぜここまで寡黙になる?


『やっぱり一声掛けるべきかな』


 そう思いいたった時だ。

 傍らの脚が止まるのを感じて、絵美は振り返った。


「源?」

「絵美」


 聞こえて来たのは、聞いたこともないシリアスな色の声。自身の違和感の核心に迫るものを感じて、思わず絵美も声のトーンを落としてしまう。


「なに?」

「お前還れ」


「は?」

「この件からは手を引いてお前は還れ」


「なにを」


 世迷言を!と思った。

 T.T.S.の活動は、前述の通り二人一組ツーマンセルだ。

 時と場合によって違う布陣の場合もあるが、ベーシックな時間跳躍者捕獲任務では基本二人一組ツーマンセルになる。


『それを一人で行かせてくれって?』

「お断りよ」


 出来るだけ間を置かずに、絵美はピシャリと突っ撥ねた。

 実際、未来からのファイルは二人のWITにそれぞれ送られて来た。

 二つは同じ内容で、そうした処置の目的は問うまでもない。それは未来からの“ストレートフラッシュで有島高尾の確保に向かえ”という絶対命令だ。

 時の番人たるT.T.S.の絵美が、ここで退く理由にはならない。

 また源が寝惚けたことを言い出したのだろう、と言葉を重ねた。


「ほら、冗談言ってないで早く」


 だが。


「冗談じゃねぇ!」

「え?」


 騒がしかった虫の合唱が、少しだけ遠退く。


「今回の相手はマジでヤバい!ヤバ過ぎる!!有島がじゃねぇぞ、画像のヤツがだ!!」


 絵美は初めて見た。

 ここまで必死な源の表情を。


「お前も見たろ!?アレは尋常じゃねぇ!異常でもねぇ!異端だ!おかしんだよ存在自体が!人の理を完全に外れてる!人の皮を被った別のなにかだ!あんなんに関わるべきじゃねぇ。あんな、あんなもん、どうにも出来ねぇ」


 詰まるような言葉は苦しそうに萎んでいき、最後には溜息を伴って潰れた。

 それに対して絵美がすべきことは“察する”ことではない。


「知ってるの?あの画像の男を」


 真っ直ぐな問い掛けに、しかし答えはなかった。


「なんで答えないの?」


 これは任務だ。

 私情を挟む余地はなく、気を遣う義理もない。

 だが、建前とは裏腹に、絵美の焦燥と寂寥は募った。

 沈黙が、強固な核シェルターかなにかに思えてならない。

 なぜ源が口を閉ざすのかが、分からない。

 次第に疑念は怒りへと変わり、彼女の肚を炙り出した。


「なんで答えないのよ?私はアンタのバディよ?命を同じ枠にベットしたのに、今更ダンマリ決め込むなんて卑怯じゃない。私独りで泣きをみろっていうの?」

「そぉじゃねぇよ」


「じゃあなにか答えてよ!」

「お前を巻き込みたくねんだよ」


「巻き込みたくない?なにから?」

「今は言えねぇよ」


「なんで?」


 引き下がる気はなかった。源にウザいと思われようと、知ったことではない。

 絵美は源のバディだ。そうある以上、彼女は源を危険に曝すわけにはいかない。

 源は命の恩人でもあるのだから。引き下がれない。一歩も。


「答えて、私に話せない理由はなに?」


 キリキリと弓を引き絞るように、絵美は源に迫る。

 彼女とて、伊達に源のバディを張ってきたわけではなかったからだ。

 彼と出会ったあの日から、絵美はたゆまず努力をしてきた。情報量を増やすためアンテナを拡げ、集中力を研ぐため音速度運転の訓練も積んだ。歯を食い縛って苦難に耐えて、今の場所に立っているつもりだ。


『それなのに、なんでアンタは』

「少しは私を信じ「Neuemenschheitherstellungplan」え?」


 サラリと放たれた異邦の発音に、一瞬絵美の頭は混乱する。

 だが、すぐにかつての記憶が蘇った。


「ドイツ連合国の新人類組成計画?」

「な!なんでお前がそれを知ってる!?」


「え?だって俺が被験者だどうだって」

「お前!!それ誰から聞いた!!」


 目を剥き、頬を強張らせ、源は絵美に掴み掛る。

 その握力は、絵美が体感して来たどんな力よりも強く、熱かった。


「誰から聞いたっつってんだ!?最近なにか起きてねぇか!?」

「いや特になにも……っつ源、痛い」


 繊細な表情で口角泡を吹き出しながら、源は絶叫していた。

 そしてこの時、絵美はある可能性を見出していた。


『あのロンドンで会った源は今より未来の彼?』


 よく考えれば、それは大いに有り得る話だった。

 ビッグ・ベンで出会った源は、絵美の眼前で超人的な力を惜しげもなく見せた。

 もし源が本当に新人類組成計画に関わっており、結果なんらかの力を得ているのだとしたら、それを秘密にしておきたい内は力を見せるような真似はしないだろう。

 だが、開き直る決意をしたらどこまでも開き直るのも源の特徴だ。

 ここで秘密を打ち明けたら、以後の彼は躊躇わず力を使うだろう。

 なにより絵美は、まだあの言葉を源に言った覚えがない。


「あ、あのね源」


 腕の痛みに耐えながら、口を開く。

 打たれ強いさには自信のある彼女の声は震え、笑顔は引き攣った。

 慌てて源は、絵美の腕を放す。


「悪ぃ」

「うん大丈夫、気にしないで」


 頭をフル回転させる。

 なんとかこの場を凌がなければ、任務に障るのは確実だ。


「あのね、アンタが実際に新人類組成計画に関わっていたかどうかは知らないけど、昔タプロイド誌がそんな話題を取り上げていて、そこに被験者のイニシャルが記載されていたの。アンタと同じG・Kだった。でね、昔クリスマスに飲んだことあったじゃない?私とアンタと紗琥耶でさ、覚えている?そこで冗談半分で潰れる寸前のアンタに訊いてみたのよ、“あの記事の被験者って源なんじゃないのぉ?”って、覚えている?」

「いや、全然」


「だろうと思った。その時アンタ大声で言ったのよ、“ハーイ、それは俺です!俺のことですぅぼばば”って」

「わざわざ吐くところまで再現するなよ、いい思い出じゃねぇんだから」


「あはは、だよね。あれからしばらくカップラーメン生活って言っていたものね」


 これは、即席にしては上出来な言いわけだった。と言うのも、実は源、物凄く酒に弱い。グラスビール一杯でフラッフラに酩酊、ジョッキが出た日には「死ぬ」宣言するほど弱い。

 そんな彼に2年前のクリスマス、絵美はT.T.S.No.1ジョーン・紗琥耶・アークと共謀して、ロシアンビールとか適当にぶっこいてウォッカ入りビールを飲ませたことがあった。

 結果源は開始早々自らの反吐に沈み、近隣のホテルに運ばれた挙句、悪乗りした絵美と紗琥耶にコールガールを五人も呼ばれて三百万近い出費を強いられたのだ。

 当然、以降の源は絵美と紗琥耶の二人が揃うことをブラックジャックのバーストみたいに恐れ出し、忘年会のようなオフィシャルな場ですら滅多に顔を出さない。

 今や(絵美たちには)いい思い出である。

 そんなわけで、源にその晩の記憶はほとんどなく、捏造し放題なのだ。

 職務のためとはいえ、その気になった絵美さんはエグイことをする。


「ってことでさ!酔った勢いの戯言だと思っているから大丈夫」

「そぉかよ」


 ニカッと笑う絵美をシゲシゲと見詰め、源は歯切れ悪く頷いた。


「で?どうして私を巻き込みたくないの?」


 唐突に、話題は源が口を閉ざす理由へと戻った。

 このままではバディとしてバラバラになってしまう。

 だからこそ、一旦雑談を挟んでの本丸攻めだ。

 Neuemenschheitherstellungplanという言葉が出た以上、二つの事件に関連性があるのは間違いないのだ。

 真っすぐに向けられる絵美の視線に根負けしたのか、源は一つ溜息を吐いた。


「あぁそぉだ。俺はあの画像の男に面識と因縁がある。だからそんな私怨にお前を巻き込みたくねんだ」

『“画像の男”ねぇ』


 いまだになにかを隠していることは明らかだが、一旦そこで折れておく。

 最優先事項は、あくまで有島高尾の確保だ。


「これだけは言わせて。私はアンタのバディ、パートナーよ。私怨に走ることはもちろん、任務放棄も認めないわ。だから早いとこ有島を確保しましょ。私怨があろうがなんだろうが任務はやらなきゃ」


 浮かぬ表情ではあったが、源は頷く。

 言いたいことは、なんとなく絵美にも分かった。

 電磁銃さえ阻む源が恐れる相手が、果たして死以外での決着を許すだろうか?

 なんにしても、杞憂を膨らます時間は終わりにしなければならない。

 二人は更新されたAR情報を参考に、有島高尾の出現予知座標へと足を速めた。

 

 ストレートフラッシュの二人が走り去ったその場所に、ゆっくりと一対の脚が現れる。

 細くスラリと伸びた長い脚は、しばらくその場でストレートフラッシュを見送り、やがて二人とは異なる方向へと消えた。





 川村マリヤの確保に例を見るように、T.T.S.が時間跳躍者の確保をする時、基本的に銃火器や刃物は用いない。外傷を与えることによる時間跳躍者の血液や、薬莢などの物的証拠を残さないためだ。

 余談だが、古代遺跡などから見つかる時代錯誤遺物オーパーツはその例外で、開発者 緋雅嵯紫音の意向を継いでT.T.S.が設置した跳躍先時間の制限装置だったりする。

 これは人類誕生以前に跳ぶことで想定される災害。例えばかつていた未知のウイルスとの遭遇によるパンデミックなどを避けるために設置されており、考古学者の仮説を基に世界中の古代文明建築に置かれた。

 話を本筋に戻そう。


「ASIより救済の溜息サァイ・ウィズ・レリーフを実行」


 自身のWITに呟いた絵美の手元で、変化が起こった。細い幾束もの管が紐となって手首から扇状に広がり、指先に口を開く。指の骨格に沿って広がる銀色のそれは、さながら指の骨を剥出したようだ。

 これが絵美の使用武器。救済の溜息サァイ・ウィズ・レリーフ。空気中に0.032%の体積比で存在する二酸化炭素を選別吸収し、圧縮、発射する空気銃だ。

大気の中では質量の高い二酸化炭素は、その濃度が3%以上となった際に毒性を顕現させる。

 源の用いる破滅との握手シェイクハンズ・ウィズ・ダムネーションと絵美の用いる救済の溜息サァイ・ウィズ・レリーフ

 物的証拠を残さず時間跳躍者を制圧出来るこの二つの武器は、共にT.T.S.の本質を象徴している。


 もちろん、これにも欠点はある。

 破滅との握手シェイクハンズ・ウィズ・ダムネーションは相手に手が届く範囲まで接近しなければならないし、救済の溜息サァイ・ウィズ・レリーフには外れる可能性はある。

 

 では命中精度を上げるにはどうするか?


 読者諸賢はもうお察しのことだろう。


「「Special Camouflage Processing Version Chameleonを実行」」


 二人の和洋折衷の姿が闇夜に溶け、虫声の中で足音だけが響く。

 人間は普段、七割の情報を視覚で得ている。

 命中精度向上の方法は、光学迷彩カメレオンで違法時間跳躍者の索敵を著しく困難にすることだ。

 だが、これとて完璧ではない。

 光学迷彩カメレオンの装備者が発する音や臭い、熱は消せない上、水が掛かれば一発で効果はなくなる。

 法隆寺近辺は卑湿な土地ではないため、|光学迷彩(カメレオン)を剥ぐ危険性はないが、物理的に肉体は存在するのだ。接敵が絶対に相手に認識されない保証はない。

 よってストレートフラッシュは姿を消してもなお、慎重を重ねる。


「20mほど歩いたところで足元に救済の溜息サァイ・ウィズ・レリーフを撃ち込むから、転倒に合わせて破滅との握手シェイクハンズ・ウィズ・ダムネーションを叩きつけて」

〈了解〉


 手短な通信を終え、絵美は息を殺す。

 有島高尾の出現予定時刻が迫っていた。

 出現予知座標の指す場所は、南大門近くの個人邸宅の蔵だった。

 間違いなく富裕層の物だろう、高さ十数メートルの強固な蔵は、全景を抑えるだけで距離が要る。

 ストレートフラッシュは、敷地前の通りに散って有島を待っていた。

 有島の時間跳躍動機は不明だが、敷地周辺を見れば跳躍後の経路は予想出来た。

 敷地を出て左側が、真っ暗な山道となっていたのだ。

 よって絵美は敷地を出て右手側の商店に立て掛けられた葭簀の陰に、向かいの民家の軒先に源が、それぞれ陣取っていた。

 道路事情と文明発達具合からか人通りもないため、人払いの必要性もない。

 絵美は秋月を見上げる。


『街灯がないことが追い風になるなんて予想外だったわ』


 ボンヤリと月明かりが照らす道はそれでも暗く、眼を開けばそこに掴めそうなくらい濃厚な闇があったが、お蔭で二人の足跡は綺麗サッパリ闇に呑まれていた。

 これは2176年から来た絵美には予想外の利点だった。

 有島がレンジャー経験でもない限り、まず二人を発見することは出来ないだろう。

 対して、こちらの視界はWITの機能で幾らでも補強が効く。


『迎撃体制としては完璧ね』


 そして遂に、その時はやって来た。

 蜂の羽音のような、赤外線投射機の機械音のような、ブーンともジーとも聞こえる、不自然な音。


『来た!』


 絵美の身体に緊張が走り、手が拳を形成した。

 骨伝導音の向こう側でも、同様に息を呑む音が聞こえる。

 耳を澄ませて目を瞑る。


『体制は盤石!』                          


 音が増幅していく。


『気力も充分!』


 それは正に、厚くて重い、蔵の戸が開く音。


『策も隙なし!』                        


 時間の壁が、割れる音。


『さあ、仕事の時間だ』


 唇を軽く舌で湿らせ、絵美は拳を広げた。


 有島が敷地を出る。最初はコソコソと挙動不審に。

 馬鹿みたいに虚空に「誰かいるか?」と問い掛けながら。

 だが、そうして慎重に動くのも最初だけ。

 すぐに有島は人気のなさに胸を撫で下ろして通りを歩き出す。

 それを見て、絵美は葭簀を出る。

 光学迷彩カメレオンでその事実に気づかない有島。

 聖母のように婉然とたたずむ絵美の元に、アホ面で歩を進めて。

 突然、吹き荒れる溜息に脚を掬われる。

 救済の溜息サァイ・ウィズ・レリーフ

 それは、有島がこの時代で感じる唯一の風。

 次の瞬間には、破滅が彼に手を差し伸べる。

 破滅との握手シェイクハンズ・ウィズ・ダムネーションは瞬時に有島の意識を刈り取り、彼を組み伏す。

 結局、有島がこの短い時間旅行で味わえたのは、僅かな空気と土の味だけ。

 ストレートフラッシュはその役の強さを存分に証明して、未来へと帰還する。


 はずだった。


 脳髄に響き渡る高い音がする。

 オレンジをナイフで刺した時のような、手榴弾が爆発する時のような、複数の轟音が、同時に鼓膜を揺さぶった。


「なに?」


 違和感を覚えるより前に、絵美は呟いていた。

 短時間に連続した音が文字通り青天の霹靂で、彼女の思考は完全に止まってしまったのだ。

 だがそれも、ほんの一瞬のこと。

 すぐに彼女は、源の声に耳を揺さぶられる。


〈野郎ぉ!〉

「え?」


〈紫姫音!!急いで赤外線型視覚(I・V)を切れ!!急ぐんだ!!〉


 明確な焦りに染まった呟きの意味を探ることも、葭簀の向こうを駆け抜けていく気配を止めることも出来ずに、彼女はボンヤリと立ちつくすしかない。

 呆然とことの推移を見るしかない絵美の耳が、それでもまた新たな情報を彼女に与える。


「Scheisse!!Mist!!野郎殺りやがった!!」


 それはもう、咆哮と言っても過言ではなかった。

 殺気と怒気の籠もった源の大絶叫が、一帯を裂かんばかりに轟く。

 その段になって、絵美は漸く我に返った。


『マズイ』


 思うが早く、身体が動く。

 葭簀を飛び出ると、ちょうど源が光学迷彩カメレオンを解いて蔵の方へと走って行く場面にぶち当たった。

 一瞬、人払いに回るべきか、と考え、しかし絵美は敷地までの距離を詰めに掛かる。

 彼女の中で、凄まじい勢いで恐怖が膨れていた。

 状況が見えない。

 さっきの音はなんだ?

 回転刃の起動音のような、ナイフを果実に突き立てた様な、爆発音の様な音だった。

 一体源はなにを見た?

 どうしてあんな絶叫を上げた?

 一体なんだ?

 たった十数メートル離れた場所で、なにが起こっている?

 空回りする思考が、それでも必死に足掻く。

 脚が本来のパフォーマンスをしてくれない。

 肺が縮んだのか、呼吸が苦しい。

 頬を伝うのは、汗だろうか?涙だろうか?

 ただ、頭が真っ白なのに、絵美は聞こえてしまっていた。

 少しずつ増えて行く、雨戸を開ける音を。

 それは、現地人達の好奇と興味の音。

 過去と未来にバイバスをこじ開けてしまう、

 世界崩壊の足音。


『ヤメテ、ヤメテ』


 このままでは、見られてしまう。


『ヤメテ見ないで、ヤメテ』


 未来の過ちを。

 過去への裏切りを。

 取り返しのつかない現在を。


『お願いだから』


 吐き気がした。

 声が消えた。

 景色が滲み、匂いが去った。

 T.T.S.であることを、初めて後悔した。


『見ないで、どうか』


 祈るように、媚びるように、そう願うことしか出来ない。

 婉然と微笑む聖母などほど遠い、これでは無力な赤子だ。

 蔵が見えるところまで着くのに、随分と時間が掛かった気がした。


「ウソ」


 口を吐いたのは、阿呆のような言葉。

 月明かりが照らす中、絵美が目にしたのは、どす黒いなにかに塗れた人影と、それを担ぐもう一つの影。

 それは凄惨で、悲惨な光景だった。

 テラテラと月明かりを照り返す血に塗れた有島を、源が引き摺っている。

 引き摺った軌跡を示すヴェールが古臭いCGみたいに虚構的なのに、瀕死を告げる人型が馬鹿に現実的で、信じられない。

 だから反応が遅れた。

 目の前で唸るように呼ぶ、源の声に。


「絵美!!」


 パニック時にドスの利いた声で名前を呼ばれるというのは、思いの外驚く。

 慌てて視線を転じた絵美は、しかし直後に本気で怯える。

 そこに、鬼面を貼りつけたような源の顔があったからだ。


「聞いてんのか!?あの葭簀持ってこいっつってんだ!!」

「はい、はい!!」


 言われるがまま、踵を返す。

 身を隠していた葭簀を抱き上げる。

 一刻も早くと源の元へと舞い戻る。

 頭の中が真っ白だった。


「敷け」


 体が震える。

 手が驚くほど冷たい。

 失敗してしまう。

 許されないのに。

 大変なことになるのに。


「おい絵美、聞いてんのか?敷け」


 世界が、壊れてしまうのに。


「おい!! しっかりしろ!!」


 不意に冷たい手を取られ、目の前で喝を入れる声に意識が引っ張り上げられた。

 視線を上げると、そこに源の顔があった。

 問い質すような真剣味を湛え、縋るような必死さを広げ、それでも励ます強さを持って。


「お前は俺のパートナーだろ!?だから任務放棄は認めねぇんだろ!?だったらしっかりしろ!!これしきで揺らぐな!!」


 その声は、鼓膜のみならず、琴線まで揺らして。


「こうなっちまったもんはしかたねぇんだ!!今更変えられねぇんだよ!!だから考えろ!!なんとかしようと足掻き続けろ!!なんとかして掴むしかねぇだろ!!今を今にし続ける方法を!!ここが未来だろうが過去だろうが、お前がいる場所はいつだって今だろ!!」


 その表情は、絵美の責任感と矜持に火を点けた。

 彼女の頭の中で、明確になにかが切り替わる。


『そうだ』


 過去に起こったことを変えてはならない。

 時間を操ろうとしてはいけない。

 だが、今なにかが出来るならば、それをしなければならない。

 慚愧等後でいくらでもすればいいのだ。

 未来とは、そうして作り出した過去の上にある。


「ごめん」


 漸く出て来たまともな声は、しかし僅かに震えていた。

 それでも、彼女のパートナーは頷く。

 彼は理解しているのだ。

 彼女の心にあり続ける熱意と責任感を。

 だから信じた。

 彼女が必ず、いつもみたいに沈着冷静になることを。

 ゆえに託した。

 彼女が希望を見出す可能性に。

 ならば彼女は、それに応えなければならない。


「こんなのはどう?」


 そのためなら、正岡絵美はなんだってする。





 人気を匂わせる闇の中を、ストレートフラッシュが駆け抜ける。

 和装の上に白衣を纏った二人は、前後で挟む形で人事不省に陥った有島を運んでいた。担架の代わりに源が身を隠していた葭簀を拝借して。

 腹部を貫かれた有島は青白くグッタリとしていて、生気を欠片も感じさせない。

 瀕死状態の身体は、しかし遠い未来の医療技術でならば、全快の見込みがある。

 しかしながら、応急処置を行った源は有島の状態に驚いていた。

 縮んだ胃とくすんだ肝臓。

 その間に胆嚢を避ける形で引かれた創傷の線は、生体を完璧な時限装置に変えていた。

 太い血管を一本だけ切られた彼の身体は、出血量こそ多いものの、内臓諸器官には一切の損傷が見られなかったのだ。


「即死はしねぇが放っときゃ致命的になる状態だな。胃の縮み具合からして飯を食ってる様子もねぇ、体力減衰でタイムリミットの下拵えってわけかよ」


 処置を施した源は業腹な口調で言った。

 いずれにしろ、今優先すべきはこの場を離れることだ。

 有島の容態が危険なため、というのもあるが、それ以上に、この時間に住む者達の関心が怖いからだ。

 蔵の所有者宅には麻酔をかけてあるが、他の人々は違う。

 彼らに悟られた瞬間、最も悪い想定か、それ以上のことが起こる可能性がある。

 そこで絵美が発案し、二人が実行に移したのが、白衣姿での移送だった。

 これは肉眼視認化拡張現実ナナフシという変装技術に頼った案で、視覚誤認情報を発する光学迷彩カメレオンに白衣のフィルターを重ねることで、二人を“患者を医局に移送のために近所の葭簀を拝借した医者と看護婦”に見せている。

 フィルターを外せば、二人の姿はライダースーツのような繋ぎになっている。

 これにより、おおむね二人の行動指針には障害がなくなった。

 しかし、有島の損傷具合は偽りなく危険だ。


「紫姫音、緊急時信号を発信しろ!時間がねぇから急げ!!」

「わかった!」


 D-28地点が視認出来る場所まで来て、先行する源がWPに向かって叫んだ。

 紫姫音も状況を理解しているのか、即応する。

 インジケーターが即座に開き、チャンネル検索を始めた。

 負けじと絵美も適材適所を模索する。


「源、マリヤの運搬は私よりアンタの方が向いている。エリちゃんとの通信は代わって!」

「あいよ、紙園に川村と同じ場所に葭簀置いといていぃか聞ぃといてくれ」


「分かった」

「源!緊急信号送ったよ!20秒後に返信来るって!」


「だとよ、紫姫音ごと渡すから、後ぁ頼んだぞ」


 WITを放った源は、そのまま有島を引き摺って民家に消える。

 乱回転するそれをキャッチし、絵美は頷いた。


「じゃあ繋げ……大丈夫?」

「め、まわった」


「頑張ろう紫姫音ちゃん」


 ウェッと嘔吐寸前の嘆息を吐き、紫姫音は固定化完了を宣言した。


「いけるよ」


 紙園エリの声が流れ出す。


「No.2、なぜ貴方は毎回毎回緊急信号で通信されるのですか?軽挙は慎めと骨身に染みるほど教え込んだのに、なにをやっているんですか貴方は?馬鹿ですか?愚図ですか?白痴ですか?死んでいただけませんか?」

「えと、ごめんねエリちゃん。私、絵美なのだけど、本当に緊急事態なの」


「絵美さん?では、この通信は」

「詳細は後で。ともかくTLJを早急に跳躍させて。重要参考人を確保したのだけど重傷を負っていて、このままでは命があ」「ぶないよねえ」


「え?」

「絵美!!」


 突然、自身の言葉に割り込んだ誰かと紫姫音の声を聞いた。 

 直後。 

 脇腹に受けた信じられない力に呼気と吸気を全て奪われ、絵美の身体が高々と飛んだ。感じたことのない浮遊感はザラザラと巡る視界の中で肩に受けた別の衝撃により逆転。絶望的な落下感に変貌する。

 だが、それも刹那のこと。

 すぐに焼けるような痛みが背中に走り、風が止んだ。

 瞬く間に起こった出来事に、理解はおざなりにされたまま。

 漸く開けた目に、満天の星空が広がる。

 三半規管が狂ったか、未だに浮遊感が拭えない。

 呼吸の仕方が分からない。

 全てが一瞬だったのに、患部が熱に脈動し、現実なのだと糺す。


「ガハッゲホッ」


 咽返りで復活した心肺が、全身の鈍痛を際立たせる。


「うぅ……」


 奥歯を噛んで痛みに耐え、体を起こそうとする。

 だが。


「慌てないで」


 強い力で胸を押さえられ、絵美は再び仰向けに戻された。

 激痛が意識を揺さぶる。


『ヤバい。どこでもいいから動かさなきゃ、意識が飛ぶ』


 気合と根性で手を伸ばす。

 胸の強い圧力を掴み、それが何者かの脚だと分かった。


『誰だコノ!』


 怒りと共に瞼を開く。


“今回の相手はマジでヤバい!ヤバ過ぎる!!”


 ソレを見た瞬間、脳裏に源の言葉がリフレインした。


「はじめまして、だね。彼はどこだい?」


 そこに、金糸で刺繍をあしらった藍地の直垂を纏う翁面があった。





 大きく屋敷が軋んで、源は顔を上げた。

 パラパラと降り注ぐ埃に目を細めると、鼓膜表面の音声出力用自立移動式ナノマシンが震えた。


「源!絵美が!絵美がね?けりとばされちゃった!おなかをね?フットボールみたいにドーンてけられちゃってね、それで」


 ライブ感たっぷりの実に纏まりのない報告ではあったが、それだけで源は全てを悟った。


「紫姫音!!絵美!!」


 引き摺っていた有島を、生体フィルムが破れないギリギリの力加減で使用人部屋の襖に放り投げ、急いで踵を返す。

 嫌でも広がる悪い想像が、源の肺を縮めた。


『クソッたれが!!』


 戦慄く口元を咬合圧で捻じ伏せ、地を蹴る足に力を込める。

 そうして漸く玄関まで辿り着いて、彼は見つけた。

 落ちている自らのWITを。


「絵美!!」

「久しぶり」


 その声は、頭上から降り注いだ。

 わざわざ見上げるまでもない。

 彼にとってその声は、かつて聞き馴染んだ、そして今、最も聞きたくない声なのだから。


「んで今んなって出て来た」


 顔を上げることなく、唸る。

 直視すると、それだけで感情が爆発してしまう。

 そんな気がした。

 実際、源は拳に籠もる力を抑えきれない。

 だから自分を落ち着かせようと、意識的にゆっくりとWITを装着し、電源を入れた。

 途端、紫髪のゴスロリ少女が懸命に喚き出す。


「源!絵美が!絵美がやられちゃった!!!!へんなおめんのひとにドーンって」

「紫姫音」


「え?」

凶運の掴み手ハードラックゲッターだ」


「え?」

凶運の掴み手ハードラックゲッターを起動させろ」


破滅との握手シェイクハンズ・ウィズ・ダムネーションじゃなくて?」

「それは、今はいらねぇ」


「いまは?」

「ああ、今は、な。反撃する余裕なんざねぇ」


 頭上の声が茶々を入れる。


「成長したね源。昔とは大違いだ」

「……るせぇ」


「でも実際、その判断は正しいよ。あの頃も、結局最後まで君は僕に勝てなかったからね」

「うるせぇっつってんだろ!!」


 ギチリ、と音を立てて歯を喰い縛った源の傍らで、事務的な紫姫音の言葉が響く。


「ASIよりHard Luck Getterを検索 該当件数 一件 バグチェックの結果 エラーなし 実行」


 ハッとする源の左腕に、赤と黒で彩られたグローブが現れた。

 夜闇を吸い込んだようなそれを、動作確認と精神安定のために幾度か握って、開く。ほんの少しだけ心に余裕が生まれ、紫姫音と出会った時の記憶が湧き戻った。


『あぁそぉだ。お前を忘れるわけにゃいかねぇよな』


 源は意識的に左袖をそっと撫でた。

 あの日から、いつだって紫姫音がいた場所を。


「ありがとう。紫姫音」


 親愛の情をあえて言葉にし、行動にも反映する。

 少女の額への口づけは、儀式めいた静けさを周囲に強いた。


「源?」


 平時は憎まれ口を叩き合う源がした、余りに意味を持つ行動に、紫姫音は震えた。

 見上げる丸い目に喪失への恐怖を滲ませ、手は縋る様に左袖を必死に掴んでいる。


「イヤだ、しきね、もうひとりはヤだよ」

「大丈夫だ。もぉ一人にしねぇから、ちょっと隠れてろ。な?」


 精一杯の父性を込めた言葉に、得心はしていないのだろうが頷いて、紫姫音はWITに身を隠す。

 頭上の声が感心を乗せてしみじみ響いた。


「聞き分けのいい子だ。小さい頃の君とは大違いだ。やっぱり育ての親より産みの親に似るものなのかい?」


 まともに取り合うつもりはない。

 無視して、大きく深呼吸。


『大丈夫だ。やれる』

「あの頃、君はいつも僕の真似ばかりしていたね」


「いつの話してんだお前?」

「挙句トイレの時間まで合わせ出した時は少しゾッとしたよ」


「そ!それ、今する話じゃねぇだろ」

「その口調、僕が教えた日本語そのものだ。懐かしいなあ」


「聞く気ねぇなぁオイ。まぁいいや、態々過去までお喋りトークしに来たわけじゃねぇんだろ?そろそろ黙れよギルベルト。でねぇとお前」


 源は上体を地に向け、前屈の姿勢を取った。

 直後。

 ズドン!!と腹に響く音がして。


「舌噛むぞ」


 次いで放たれた声は、空き家の屋根の上で響いた。

 翁面は、その場でゆっくりと顧みる。

 釣られて首を巡らせた絵美の視線の先に。


「悪ぃんだけど。俺達忙しぃんだわ。理由はよぉく分かってんだろぉけどよ」


 真っ黒な左目をしたかなはじめ源が立っていた。





「再会を祝う気持ちはないんだね」

「あるかんなもん、気持ち悪ぃ。仮にあったとして、ワインもねぇんじゃ杯も上げられねぇだろ」


「そうか、残念だよDie Haende,um Gott zu fangen。それとも、今は片手間ワンサイドゲーマーと呼ぶべきなのかな?もう、僕の知る君と違うんだね。それにしても君、アルコール飲めるようになったのかい?」

「その通ぉり、中々空気読めんじゃんよBeine,um Gott zu jagen。いやさ、帷子ギルベルト。今は英語式にギルバートって名乗ってんのか?相変わらずアルコールがさっぱりなのは御明察だ。まぁいぃ、T.T.S.のNo.2として告げる。お前の欲しがる俺は土の下だ。墓荒らししてぇならピラミッドでも当たれ」


「……そうか、それならば結構だ」

『帷子ギルバートですって?』


 翁面の男と源の会話を聞きながら、絵美は未来からの資料に隠されていたもう一つのメッセージを理解した。

 業病患者差別史保存委員会副会長、帷子ギルバートは絵美へと面を向ける。


「源の仕事ぶりはどうだい?我が強いから君は気苦労が絶えないんじゃないか?」


 だが、ギルバートは絵美にその返答をさせようとはしなかった。

 さらに強く押しつけられる足が、彼女の呼吸を阻害する。


『この野郎』


 睨みつける絵美を見下ろしながら、ギルバートは直垂の袂に手を突っ込んだ。

 源が身構えるのが、気配で分かる。

 だが、非常に情けないことに、今の絵美には見届ける以外の選択肢がない。

 緊迫するストレートフラッシュを前に、ギルバートが取り出したのは、アンプル付きの注射器だった。

 源が息を呑む。

 バディが二つの可能性を危惧していることを、絵美は理解していた。

 すなわち、投与先がギルバートか絵美か、だ。

 どちらがいいか、なんて選択肢ではない。

 どちらも最悪だ。

 かくして、注射器はギルバート自身に突き刺さった。

 同時に、一オクターブ跳ね上がったギルバートの声が響く。


「でもそれはしかたがないね。彼は昔からそうだったんだ。嘘じゃないよ?僕と彼は年が三つ違うんだけどね、彼は肉が好きで、僕は嫌いなんだ。逆に僕は魚が好きで、でも彼は嫌いでね。ある時彼は言うんだ。“魚ばっか食ってるお前より、肉を食ってる俺の方が強い”ってね、笑っちゃうだろ?彼はそれを本気で言うんだ。一部の隙もなく、自信タップリに、本気でね。」


 ギルバートは饒舌だった。

 面の奥の笑みすら容易に想像出来る。

 両腕を空に広げ、歯切れよく滔々と紡がれる口調そのものを愉しむように、演説をぶち続けた。


「まあそれだけ、僕と彼のつき合いは古いのさ。それでね、彼はいつも言うんだよ。“俺が負けたのは肉を食う量が少なかったからだ”ってね。だから僕はその度彼に言ったさ。“じゃあ次はもっと沢山肉を食べて来ないとね”って。すると彼はこう言うんだよ。“当たり前だ。次は俺もお前が魚を食う以上に肉を食って、必ずお前に勝つ”ってね。本当、笑っちゃうよ。だって毎回そんなやりとりが続くんだよ?でも彼は言い張るんだ。“肉を食う量が足りなかった”って。頑固だろう?呆れるよね」


 でもね、と不意にギルバートの声が急変した。

 まるで恋に落ちた乙女のような、思春期の甘酸っぱい妄想に耽るような、トロリとした妖しさに酔い痴れていた。


「でもそんな彼も普段は可愛らしいんだ。まるで弟みたいに僕の後について来てね。嵐の酷い夜なんて枕を持って僕の部屋まで来て眠るんだよ。可愛らしいだろ?」


 ギルバートの言葉を聞きながら、絵美は思う。

 もし彼の言が真実なら、幼い頃の源は、まるで。


『まるで紫姫音じゃない』


 例えば、大好きな誰かを独占しようとする言動。

 法隆寺でもビック・ベンでも、紫姫音は源と絵美のやりとりにケチをつけた。

 時には悪態を吐きながらも、決して離れようとはしない距離感で、まるで相手の愛情を確かめるように。

 ギルバートの演説は終わらない。


「分かるだろう?僕が彼に魅了されたわけが!源はどこまでも真っすぐに!そして素直に!僕に相対し続けてくれたんだよ!だから!だから僕は、彼が緋雅嵯紫音に会いたいと言った時、全力で彼を手助けしたんだ」


 再び、強い衝撃が絵美を震わせる。

 彼女の中で、少しずつドットがラインを成して行く。


『それじゃあ、あの記事は本当だったの?』


 緋雅嵯紫音という名は、T.T.S.ならずとも世間に知れ渡っていた。

 なぜなら、あの有名なTLJ-4300SHの末尾を飾る《SH》の由来、世界で初めてタイムマシンを開発した人物の名だからだ。“現代のヨハン・フォン・ノイマン”と呼ばれたタイムマシン開発者とかなはじめ源の間に、線が生まれた。

 そして、その線を補強するような、あのタブロイド誌の記事。


“世界初のタイムマシン開発者に隠し子がいた”


 そして亜生インターフェイスFIAI紫姫音。

 思い返せば、マリヤが携わった亜生インターフェイスFIAI開発は緋雅嵯紫音を中心に据えて始まっていた。

 果たしてこれは偶然の一致か、必然の合致か。


『偶然ではない?』


 そうだ、偶然ではない。

 絵美は思う。

 源が気掛かりにしていた帷子ギルバートの口から飛び出た緋雅嵯紫音の名前を考えるに、その繋がりが偶然であるはずがない。

 ギルバートが、ゆっくりと絵美に手を差し出した。


「キミは今の彼のパートナーなんだろう?どうだい?彼の相棒は中々大変だろう?向いていないんだよ」

「止めろギル!!」


 血を吐くような源の声が聞こえるが、絵美はギルバートから目を離せない。


「まったくもって彼らしくないよね、てんで向きじゃない。一緒にやっていてそう思うことが多いんじゃないかい?」


 その言葉は、凪いだ水面のように静かなのに、強く絵美の強迫観念に蔓延った。

 脚力に耐え兼ねて、呻きを漏らしながらも、絵美はギルバートを睨みつける。


「おいおい、そんなに睨まないでくれよ。ただ僕はこう言いたいだけなんだ」


 ギルバートが笑った。ような気がして、圧し潰されそうな絵美の胸に嫌な予感が去来する。


『なによ』

「お前は源の相棒に向いてない。役不足だ」


「絵美!」


 源の声と共に、どこかで聞いた音が絵美の聴覚を揺すり。

 彼女の左肩に、孔が穿たれた。


「うあああああああああああ!!」


 焼ける。

 そう感じた。

 左肩を中心に、身体全体が焼きつくされてしまうと。

 意識がどこかに飛ばされていきそうだ。

 だが、それを遮る急速な血圧低下が、吐き気を呼び込む。

 痛い。消える。気持ちが悪い。熱い。溶ける。寒い。凍える。重い。砕ける。崩れる。痺れてペラペラで、淀んでザラザラで、痛くてジクジクする。 

 ザワザワ五月蠅い五感の全てが、急激に鎮まっていく。

 薄れゆく意識に死を感じた時、その向こう側で、対照的な二つの声が聞こえた。


「酷い歌だ。耳障りで女性らしさが微塵もない。醜悪だな」

「ギルバートォ!!」


 そこから少しの間、正岡絵美は記憶がない。





「お前は源の相棒に向いてない。役不足だ」


 その言葉を聞いた時、源の背中に走ったのは、久しく遠ざかっていた本能の震えだった。


『ヤバい!!』


 心の中で半狂乱になって叫ぶ声に、自然と身体が動く。


「絵美!」


 叫ぶ自身を置き去りにして、真っ直ぐに突っ込む。

 刹那、彼は見た。

 直垂の右袖、袂の部分から迫り出した、細いノズルのような物体。

 そこから、極細の線が伸びる。

 直後、有島の時と同じ音がした。

 ドリルの回転を思わせるモーターに似た音。

 超高圧のなにかが発射される音。

 そして、オレンジに包丁を突き立てたような音。


「ギルバートォ!!」


 頭に血が上り、出口を求めた血気が口から怒号となって吹き出す。

 だが同時に、右脳と左脳が別働するように、彼の冷静な部分は閃きも得ていた。


『そぉか、野郎』


 絵美の絶叫にボルテージを上げる源の中で、有島の創傷と、今得た情報が繋がる。

 冷静に、正確に、確実に、彼は分析した。


『厄介な物持って来やがったな』


 凶運の掴み手ハードラックゲッターの選択は、やはり正解だった。

 ギルバートがアノ獲物を選び、頼れるバディが手負いである以上、今はコレで防衛に徹する他ない。

 普通の人間には無理でも、源には出来る。


『射出速度はマッハ3ってところか』


 即座に、脚に力を加える。

 ギルバートの手が、今度は源に向いた。

 獲物越しに刹那合わさる視線が、かつての記憶を呼びおこす。


『来いよ!』


 そこから先の出来事は、秒を刻むにも満たないやりとりだった。

 ギルバートの袂が、ジャストマッハ3の線を放つ。


 音速越えで伸びる線の正体は、H2O。

 水だ。


 それこそが、ギルバートの武器の正体。

 軍事用の高圧ウォーターカッターだった。

 源の左目は、ノズルから射出された水が線を成すまでの瞬く間を、何百倍にも引き延ばして捉えていた。

 その受容速度は、一秒間に地球十五周分。

 超光速の世界だ。

 リアクションも速い。

 “身体が憶えている”時の脳の運動が、受容時と同速で神経を駆け巡る。

 この時点でもまだ、ウォーターカッターが源に到達するまで音速の半分以上の時間があった。

 その間に、源は信じられない速度で動く。

 共有結合結晶構造を取る新種の金属元素の盾、凶運の掴み手ハードラックゲッターを纏った左腕が、垂直より僅かに傾げた状態で本流の前に立ち塞がった。

 これが防衛策。高圧水流を受けるのではなく、逸らす。

 ウォーターカッター射出より0.7秒後、高圧水流と強運の掌は激突した。

 強い水射音が宵闇の中で響き渡る。

 仮に周囲で誰かが見ていたとしても、なにが起こったか分からなかっただろう。

 それほどの速度。

 常識という概念が、瞬く間に置き去りにされてしまう世界の攻防。

 ゆえに、これだけの状況処理を行っても、源は二歩目を踏み出すところ。

 実質移動距離は3mにも満たない。

 絵美の元へは、まだ多く見積もって15mはある。

 これは応酬の始まりに過ぎない。

 音速域の水流を受けつつ、歩みを進める源は、この時ある確信を持った。


『この水流が止まった瞬間が勝負だな』


 恐らく、次のギルバートのターゲットは絵美だ。

 源の不興を買うことが目的なのは、彼の言動から見て間違いない。

 実際、絵美を傷つけられたことで、源は戦いの舞台に上がった。

 今源がなにを大事にしているかを、ギルバートは知ったのだ。

 挑発を重ねるならば、それは絵美の殺害以外にない。


「その女にこれ以上手ぇ出してみろ、マジで殺すからな」

「妬けるなあ、君はそんなに彼女が大事なのかい?」


 嘲るような声が、水膜の向こう側から聞こえて。

 ついに、その時は訪れた。

 音速の奔流が凪ぎ、源の躰が重い負荷から解放される。

 抗力が行き場を失い、上体がつんのめる。

 しかしまだ、計算の内。

 跳馬を跳ぶ要領で、思い切り左腕で屋根を押した。

 右手は左上腕のポケットを探り、指先に触れた最後の緊急止血用生体膜を摘む。


『間に、合え!』


 一刻でも早く絵美の元へ。

 亜光速の世界で、彼我の距離を測る。

 あと2m弱。

 視界の隅に、天高く跳び上がるギルバートの姿を認めた。

 こちらも、源と同じ亜光速。

 即座に、変化した状況と自身の策を鑑みる。


『ギリッギリだな』


 拮抗する可不可の境界を、凶運の掴み手ハードラックゲッターを必死に伸ばして埋める。

 耳障りな圧縮音が耳朶を打った。

 間一髪、左腕がバディの頭部から水を弾いた。

 万物を砕かんとする水圧に奥歯を喰い縛り、飛沫を頭から被りながら、ガタガタという瓦の軋みを腹に聞く。

 右手に摘むブリスターパックの生体膜を咥え、ピリピリと安っぽい音で剥がれるセロファンを躊躇うことなく飲み込んだ。咽頭に引っ掛かる異物感が不快だった。


『わかってっけど嫌な喉越ししてやがんな!!』


 顰めた表情のまま、絵美の肩に空いた孔にセロファンを突っ込む。

 ビクリと大きく波打った絵美が、絶叫と共に飛び起きた。


「よぉ、コーヒーと紅茶どっちが飲みたい?」


 苛立ちを隠そうともしない絵美に、ドヤ顔で軽口を叩いてみる。

 位置を交換するように源のいた地点に着地したギルバートは、容赦なく追撃を掛けて来た。

 起き上ろうとする絵美の頭に、奔流を走らせる。

 迷わず、源はこれを逸らす。

 その直向きな姿勢を、ギルバートは嘲笑した。


「かっこいいじゃないか源。まるで姫を守る騎士みたいだよ」

「んなら、さながらお前は邪悪な竜だな」


「あははは、そうかも知れないね!」


 再びギルバートは跳躍した。

 ただし、今度は源と絵美の元へと弾丸のように。


『ッベェ!!』


 咄嗟に源は、絵美を抱えて屋根を押した。

 しかし、絵美の体重が加わった今、速度は乗らない。

 あっと言う間に二人に追いついたギルバートが、不格好な落下物に手を伸ばした。


『クッソ、間に合え!!』


 急いで左手を翳したが、僅かに遅かった。

 真正面からマッハ3の水圧を受け止めた勢いと絵美の体重の全てを乗せた衝撃が、源の身体を地面と挟む。


「ゴハッ」


 肺から押し出された空気が逃げ場を求め、源の口をこじ開けた。

 脳の酸素が枯渇し、判断が鈍る。ピンボケの世界で、直垂が飛び回る。キィィィィィィンと言う圧縮音が迫てきていた。


『駄目だ間に合わねぇ』


 源が諦め掛けた。

 その時。


「誰が姫だコラ」


 絵美が武装した腕を上げた。

 派手な音と飛沫を上げて、二酸化炭素の塊が水流を迎撃する。


「待つだけなんて、私退屈過ぎて死ぬわよ」

「さいですか」


 呼吸を取り戻した源はなんとか起き上がり、間髪入れず襲い来る高圧水流を左手で逸らした。

 呼吸の隙を突く完璧な攻撃タイミングに、思わず源も舌を巻く。


「退却だ!!絵美!TLJ呼べ!!」


 フラフラ駆け出す絵美を横目に、源はギルバートに啖呵を切った。


「ってことでよ、こっちの都合で悪ぃけど、還らしてもらうぜ」


 今成すべきは、ギルバートを倒すことではない。

 絵美がTLJ-4300SHを手配する時間を稼ぐことだ。

 地を蹴ったギルバートが亜光速で源に迫る。





「エリちゃん!すぐTLJを送って!急いで!!」


 屋敷の中を駆けながら、絵美はWITに叫ぶ。

 体中の傷みに、否応なしに声は震せていた。

 イレギュラーが相次いだためか、紙園はすんなりと要請を受諾。


『早く!!早くして!!』


 ままならない自身のパフォーマンスと背後から聞こえる断続的な衝突音が嫌な汗と焦燥感を生み、絵美の体感時間を引き延ばした。

 到着寸前の使用人部屋からTLJの音が響き出す。

 二つある襖の東側。

 その前に絵美が到着した時、音は止んだ。

 すぐに襖を開け放つ。

 そこには、無機質極まりない空間が広がっていた。

 読者諸賢は、スーパーカミオカンデⅣをご存じだろうか?

 岐阜県飛騨市に実在するスーパーカミオカンデⅣは、50,000tの超純水を11,200本の光電子倍増管を張り巡らせたタンクに入れ、チェレンコフ効果による発光現象を観測するために作られた国内有数の大型実験装置だ。

 襖を開けた先は、そのスーパーカミオカンデⅣの内部にソックリだった。

 規模こそ一畳ほどに縮小されているものの、ソフトボール大の半球が壁や部屋を埋めつくし、それぞれ透明な樹脂板で覆われている。

 ただその樹脂の中に、スーパーカミオカンデⅣにはない物が二つ、埋め込んであった。

 一つは、環状の超小型ハドロン衝突型加速器。

 欧州原子核研究機構が所有する、LHC大型ハドロン衝突型加速器を小型化した代物だ。

 そしてもう一つが、その環に触れる形で設置された、三角形の黒い板だった。

 これがTLJ-4300SH-吽、世界で初めて作られたタイムマシンの片割だ。

 タイムマシンと聞くと、読者諸賢の中には某ドクが作った生ごみで動く『DMC-12』や、成績不振眼鏡小学生男児の保護者たる実質狸型モデルのロボットが机の引き出しに隠し持つ物を想像される方がいるだろう。

 だがこのタイムマシンは、それらとはまるで異なる仕組みを持っている。

 TLJ-4300SHは、遠隔操作で空間そのものを切り取り、時間跳躍させるのだ。

 ゆえにこのタイムマシンは、遠隔端末たる『阿』と時間跳躍用空間装置の『吽』の二機でセットとなる。

 その関係性は、言うなればリモコンとチャンネルの関係に近い。

 リモコンからの赤外線によってチャンネルが変わるように、遠隔端末からの時間超越電波によって時間が変わるタイムマシン。

 それが、TLJ-4300SHだ。

 一畳ほどの限られた空間に、絵美はまず人事不省に陥った有島を押し込める。

 ボロボロの身体で中年男性を引き摺るのは随分と骨だったが、屋外の源を思うと文句は言っていられない。

 膝を抱く形で有島を押し込み、即座に絵美は踵を返す。

 続けて川村マリヤを運搬しなくてはならない。

 腐敗した畳に幾度も足を取られながら部屋を横断し、一息に襖を引き払う。

 だが、開け放った押入れに、川村マリヤの姿はなかった。


「嘘でしょ?なんで」


 内部を隈なく探してみるが、隠れる余地などまったくない。

 本命を取り逃す、申し開き出来ないミスだ。

 だが、片っ端屋内を探すにしても、有島の身が保ちそうにない。

 外に出るのも、帷子ギルバートの存在が恐ろしい。

 そもそも、マリヤが消えたか手掛かりが一切ない。

 八方は塞り、五里は霧中に包まれた。

 手も足も出たものではない。

 絵美は決断する。


「源!」


 力の限りWITに呼び掛けた、その時だった。

 派手な音を立てて、使用人部屋の襖が吹っ飛び、木材と曇りガラスが刺さった源の身体が転がって来る。

 水切りの石のように二度大きくバウンドしたソレは、土壁に当たってようやく運動を止めた。

 屋敷の骨組みが、嫌な音を立てる。


「源!?源!?しっかりして!!起きて!!」


 慌てて源に駆け寄るも、触れる前に脇腹を撃ち抜かれた。

 再び走った身体を打ち抜かれる痛みに絶叫する。

 それを噛み殺し、立ち上がろうと膝を立てるが、適わない。

 忘れていたわけではないが、彼女の体力はもう、限界だった。

 張りつくような背中の痛みは一向に取れず。その場凌ぎの止血が決壊した肩と脇腹から血が溢れ、人外な力で罅の這入っていた腕が、救済の溜息サァイ・ウィズ・レリーフの射出反動で完全に折れていた。

 それでも、悪魔は足を緩めない。


「白兵戦で僕に勝てた試しなんてなかったのに、そんなことも忘れちゃったのかい?」


 手狭な使用人部屋に、堂々とギルバートが這入って来る。月明かりに照らされた直垂には塵も埃もなく、発する声には息切れを感じさせない。


『化物』


 頭の中に浮かんだ単語は、それだけだった。

 源の言葉が、頭を過る。


“アレは尋常じゃねぇ!異常でもねぇ!異端だ!可笑しんだよ存在自体が!人の理を完全に外れてる!人の皮を被った別のなにかだ!”


 その言葉が、今になって絶望的に染み渡る。

 天と地ほども遠い、実力の差。

 実際、大股で歩くギルバートは絵美に一瞥も寄越さなかった。

 目を向けるまでもないという判断が、絵美の心を砕いていく。


『駄目だ、敵わない』


 自然と、涙が溢れてきた。


『駄目だ。無理だ。どう足掻いたって勝てない』


 悔しさが込み上げて、嗚咽が漏れる。

 一体、自分はなにが出来ると錯覚していたんだろうか?

 ロンドンで出会った頃の源に、追いつけたとでも?だとしたら、それはとんでもない勘違いだ。

 現実はこの体たらくだ。

 光の速さで進行していく事態に、自分は一体なにが出来た?


『なにも、出来ない』


 泣くことしか出来ない現状が恨めしくて、嗚咽が漏れた。

 今日まで続けて来たあらゆる努力が無に帰していくようで、歯痒くて遺憾でしかたがない。

 さめざめと零れていく涙が、視界を霞ませる。

 声も出せずに命運がつきていくのを待つなんて、これほど悔しいことはない。にも拘らず、なにかが出来るとは、到底思えない。

 その手は、金の鎖を握れない。


「絵……美」


 絞り出すように、一人の男の声が聞こえる。

 首を傾け、縋るように転じた視線の先に、血塗れの源の、力強い眼差しがあった。


「立、て……早、く」


 弱々しく血を吐き、動きもしない膝を上げながら、それでも源は手を伸ばす。這って進もうとして、自らの血に滑る。

 憐れみすら感じさせるその光景を、ただただ泣きながら見るしかない。

 そんな自分が恨めしくて、自らの前に立つギルバートを睨むことさえ出来ない。


「そぉだ絵美、さっさと立て」


 だが、そんな絵美の耳に今一度源の声が響いた。

 それは、確かな自信に満ちた強靭な煌きを感じさせ、弱々しさなど微塵もない。かつてロンドンで聞いたような余裕を持った声だった。

 同時に、眼前の死神の姿が消え、使用人部屋の入口が吹き飛んだ。


「行け!バディ!!」


 その声に、絵美の中にあった最後の疑問が解けた。

 Operation Code:G-3864-proto

 追加された作戦名

 そして、紙園エリのあの言葉。


 “ごめんなさい。でも、よろしくお願いしますね。”


 絵美の中に、仄かな希望が燈り、彼女の脚に、最後の力が籠もる。

 地を蹴る。

 新体操で慣らした彼女の身体は、恐ろしく柔らかい。

 限界まで腰を折った姿勢のまま、地面すれすれに脚を漕ぐ。


『イケる!!今なら、まだ!!』


 揺るがない確信が、一気に部屋を狭くした。

 地に伏す血塗れのパートナーに、迷わず手を伸ばす。

 そのまま止まることなくTLJに身体を滑り込ませ、朱に染まる相棒の身体を抱き寄せた。

 すかさず閉じられる襖の奥から、間延びした声がする。


 かなはじめ

「悪ぃ絵美、文句は全部終わったら聞いてやっから」


 涙を流しながら、絵美はWITに叫んだ。


「エリちゃん!跳ばして!!」

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