第8話 紫音の過去
「もっ…もうダメ…一歩も動けない…」
「これが初日の訓練だなんて…気が遠くなりそう」
夕刻を過ぎ、真っ赤に染まった夕陽が沈みかけようとしていた頃。
1日目の訓練メニューを終えた
あの後、薙のチームはお互いに自分たちの長所を活かしながらお互いに協力をして頂上へ何とか登り詰めた。
「あの鬼教官め〜っ!死に物狂いで頂上まで登り詰めたのに、取りに来た物が飴玉1個だなんて!そんなモン、普段から持ち歩いてるわよ!」
「ええ!?キレるとこ、そこですか!?」
今回の訓練の目的はその『ある物』を取りに行くという内容だったのだが、頂上にあったものというのが、人数分の飴玉だったのだ。
まさか、死に物狂いで登り詰めた頂上にあった『ある物』が、飴玉だとは誰が想像したか。
そんな斜め上のブツを目の当たりにした時の紗月は、まるで一人だけ時が止まってしまったように固まり、その場で真っ白に燃え尽きていた。
「でも、なんとか日が暮れるまでに戻って来れてよかったですね〜」
訓練初日ではありながら、訓練内容は
特に今回、薙と同じグループのメンバーは女性率が高く、その中でも紗月と
もちろん、剛や薙の助力もあり他のものよりも負担は少なかったのは事実なのだが、普段から筋力を付けていないふたりに関してはそんな余裕もなかったのだろう。
「当たり前よ。こんな地獄みたいな特訓でも、夜は美味しいご
疲弊しきって
「よお、お疲れさん」
「あっ、お帰りなさい!薙センパイ、紗月さん」
宿に戻った薙たちを待っていたのは、先に帰って来ていた
ふたりはロビーにあるソファーに座りながら、対面にいる
ロビーにいる者たちの格好を見るに、一足先に温泉で汗と汚れを洗い流し後のようだった。
男性陣は普段着のジャージ姿で、唯一の女性陣である杏里は、旅館の用意してあった白い浴衣姿だった。
「随分と遅かったみてぇじゃねえかよ。どうやら、おめぇのチームが最下位みたいだな、
「ふんっ、まったく口が減らねぇ野郎だな、
神魔使いの麻央が従えている神魔・漏影が麻央の背中から顔を覗かせては剛を見て
そんな漏影の安い挑発に剛は怒るわけでもなく適当に話を反らした。
「そうですね。ようは目的を果たせばいいだけのこと。皆さんも、大した怪我は無さそうで安心しました。ですが、その様子では相当大変だったみたいですね」
漏影の隣に座る麻央が、剛たちの様子を見てホッとした様子で言葉を交わす。
「そんなことねえよ。気合いだけなら俺たちのチームに勝るものはいないだろうな。こいつらのガッツは本物だぜ!」
「それってフォローのつもりなのかしら?でも、今はぐうの音も出ないわ、本当…
「そうですね…私たちは何も言えませんね」
「ハハハ!何度も言うけど、気にすることはねぇよ!チームってのはそう言うモンなんだから」
剛のフォローは、隣にいた紗月と紫音に大きく突き刺さる。
結局のところ、道のりの半分以上は剛の背中に乗っていただけであり、息が整っていざ歩くも体力は限界を振り切っていたため、対して歩くこともできなかったのだ。
「それにしても杏里ちゃんのチームは随分早かったんだね」
「へへーん、そうなんっすよ!私たちのチームは、ここにいる麻央さんと天真さん、それと
杏里は、同じチームになった3人の話を目を輝かせながら話をする。
「おい、鉄砲娘!偉そうに言ってるが、おめぇは何もしてねぇだろうが!」
「なにを言ってんすか!私は銀次さんに言われたとおり、衛生兵としての役を全うしたじゃないっすか」
「なにが衛生兵だよ!そもそもおめぇ、ずっと俺さまの肩に掴まって
「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ!私だって、少しは自力で歩きましたよ…。そう、あんなところで足を滑らせさえしなければ」
あれだけ自慢げに話していた杏里だったが、隠していた怪我のことを漏影に言われてしまい、次第に声が小さくなる。
「杏里ちゃん、怪我したの?」
「こんなの怪我のうちにも入んねぇよ。適当につばでも付けとけば治るっての」
「う〜っ。漏影さんには人の心ってモンがないんっすか!少しくらいは心配してもいいじゃないっすか」
「いや、そもそも俺、神魔だしよ」
「あっ、ですけど、怪我の方は温泉に浸かったら結構よくなったんで問題ないっすよ」
怪我をしたと知って心配をする紫音の横で、神魔の漏影が大雑把に話を流そうとする。
漏影と呼ばれている神魔は、荒々しい口調で喧嘩っ早いような性格で、まさに
「まぁまぁ二人とも。でも、皆さんも大きな怪我もなく無事に帰って来られたのですからいいじゃないですか」
「っけ、おめぇは本当に甘い奴だな」
喧嘩っ早い漏影を止めるように、麻央が漏影をなだめようとする。
常に悪態をつこうとする漏影と何事にも冷静な麻央。お互い正反対な性格ではあるようだが、神魔と神魔使いとしての信頼関係は築けているようだ。
「そんじゃあ、麻央のチームが1着だったのか?」
「いいえ。僕たちは2着でした」
話の流れから、剛は麻央のチームが1着だと思っていたようだが、麻央からは別の返答が返ってくる。
「って言うと?」
「ふふ〜ん、1着はですね。なんと、
「だから、何でてめぇが自慢げなんだよ、鉄砲娘!」
「長尾さんと同じチームって言ったら…」
「ああ、俺っちが一緒のチームだったぜ」
この中で雪那と同じチームだったのが左近だった。
「何よ、そんなにすごかったの?」
「まぁ結果だけ見りゃな。勿論、杏里ちゃんの言っていたとおり、雪那ちゃんのカリスマ性は確かにすごかった。ほとんど初対面のような相手なのによ、素早く俺らのことを把握して適切な指示ができてたと思うよ」
「ふふ〜んっ。当たり前っすよ。何たって、雪那さんはウチの支部じゃ屈指の
「そうなのか?まぁ、そうは言ったけど今回は単に俺らのチームのまとまりが良かっただけだよ。
「左近さん。そこはもっと雪那さんのことを誉め称えるところじゃないんっすかぁ?」
「あっ、いっけね〜!俺っちとしたことが、素で答えちゃったよ。少しは
隣に座っている杏里に
「キモっ…。はぁ、つまりは3着が
そんな左近に、紗月はまるでゴミを見るような目で
紗月は、その結果を聞いて、天音と
朝陽のチームは他に、
竜胆の方は年齢的にも老いが目立つが、服の上からでも分かる若者に劣らぬ肉体と実力者ならではの威圧感のある顔つきは足を引っ張る立場とは到底考えられない。
もう一方の紅葉は、おどおどした性格故頼りない感じもするが、一応は術師であるようなのでこちらも式神の能力によっては戦力に繋がっているかもしれない。
そのため、あのふたりが揉めていること以外に遅くなる要因が見当たらなかった。
「まぁ、積もる話もあるだろうけど、お前たちもさっさと汗流してこいよ。もうすぐ夕飯の支度ができるらしいからよ。折角時間までに戻って来れたんなら全員集まってからでもいいだろ」
「そうだな。そうさせてもらうよ」
「皆さん、本当にご苦労様でした。またお時間がありましたらゆっくり話をしましょう」
最後に麻央が締めるようにそう言葉を交わして一旦、薙たちはその場を後にして浴場に足を運んだ。
「薙さん。では、また後ほど。あっ、等々力さんも、今回はありがとうございました」
解散をする際に、紫音は男性陣の薙と剛に軽く挨拶をしてその場を後にした。
「あ〜、なんて幸せな時間だったのかしら!極上の温泉に新鮮な旬の食材がはいった料理!ずっとこの場所に泊まっていたい気分だわ」
「すごい変わりようだな、さっちゃん。あれだけ死んだような顔していたのによ」
「それはそれ。これはこれよ〜♪」
第4小隊の5人は、満足そうな足取りで民宿の廊下を歩きながら楽しげに話をしながら客間までの歩く。
あの後、最後に宿に着いた薙のチームが温泉を満喫し、そして温泉から上がったあとは大広間にて、中隊のメンバー全員が集まって美味しいご飯に
それは、今まで味わったことのないような絶品の数々であり、新鮮な魚介類をふんだんに使った海鮮料理だったのだ。
もちろん、支部の食堂にこのようなメニューは一切出ないし、外壁区の商業施設でもここまで贅沢な食事ができる場所は少ない。
特に紗月は、先ほどまで死に物狂いで訓練をこなしていて死んだ目をしていたのだが、絶品料理の前に水を得た魚のように生き生きとした目に変わっていた。
「でも、あれだけの料理を目の前にされたら、訓練の話も忘れちゃいそうですね。僕、もっと他の支部の方たちと交流したかったんですが、みなさんもそれどころでは無さそうでしたし」
もちろん、それは第4小隊に限った話ではなく、今回集まった全小隊がもれなく料理の前に今までの疲労を忘れて食事に夢中になっていて、訓練の話をしている者はひとりもいなかった。
「つかぬことをお聞きするのですが、皆さんはこれからどうなさるのです?」
夕飯の話題に花を咲かせている最中、天音がふと疑問に思ったことを口にした。
時刻は夜の8時を回った頃。夕飯を終え、これからは就寝まで時間がある。
「僕、実はこれから麻央さんに呼ばれているんですよ」
「そうなのか?」
そこで一番に口を開けたのは天真であった。
「はい。今朝の訓練で麻央さんと一緒のチームでして、色んな話をしたら意気投合しちゃって。話の続きをしたいと言ったら心良く受け入れてくれたんです」
どうやら天真は、水天支部の流鏑馬麻央とはもう親好を深めていたようだった。
今朝の訓練で同じチームであったこともあり、その好みで親好を深めていたようだった。
天真と麻央は、比較的歳も近く将来の有望株でもある。そのため、何か惹かれ合うものもあるのだろう。
「薙はどうされるのです?」
「俺は…そうだな」
「…?」
薙はそこで、一瞬言葉に詰まった。これから天音の姉である紫音に、天音との過去について話を聞きに行く予定なのだが、それをそのまま口にしてしまっては天音の顔色が変わるのは目に見えていた。
そのため、何か別の良い訳を考えようとするも特に考えがまとまらず、数秒の絶妙な間が空いた。
「そう言う天音ちゃんはどうするんだい?」
薙が回答に渋っていると、左近が間に割って入り、逆に天音のことを聞く。
「
「わ、わたし!?え〜と、そうね〜」
紗月は、薙と話を合わせようと思っていたのだが、薙の返答がないまま天音に誘われてしまい、こちらも考えがまとまっていない様子だった。
「そんなに考えてんなら一緒に付き合ってやりなよ、さっちゃん。たまには女の子同士で語り合うのもいいんじゃないのか?」
そんな紗月をフォローするかのように、隣の左近がアイコンタクトを送りながら妙な提案を持ち出した。
左近のその目は完全に何かを感じ取っている目であり、紗月のたどたどしい言動に勘付いたのだろう。
「ちょっと、何勝手に話進めてるのよ!あたしは…」
「なんだよ?もしかして何か予定でもあったのか?例えば誰かに会いに行くとかさ」
「あ、あんたねぇ…!」
紗月の考えは完全に左近に見透かされていた。誰とは言わないにしろ、大体の予想は付いていてあえて言わないのだろう。
「そうなのですか?」
純粋な天音は、左近の言葉を真に受けているようで、紗月に聞き返す。
「はぁ…別に何もないわよ。いいや、ちょうど今、こいつのせいで予定が無くなったって言ったほうがいいのかしら」
完全に左近のペースに乗せられた紗月は、溜め息をついて天音の予定に付き合うことにした。
「後で覚えてなさいよ…このくそオヤジめ」
紗月は、そんな左近に恨みを向けるように舌を出して睨みつける。
「さぁ俺らも、久しぶりに男同士語りあうとするか〜。まずは、売店にビール売ってたから買いに行こうぜー」
「おい、ちょっと待てよ左近!」
左近の言葉に操られるように、薙も反論する余地のないままその場を離れていく。
「ちょっと待てって!何なんだよ急に」
人の予定を勝手に変えた上に早歩きでその場を離れようとする左近に、苛立ちを感じている薙は少し荒い口調で左近に問いただす。
「ったくよぉ、お前らって本当分かりやすいよな。隠す気あんのかよ?」
そんな薙に対して、左近はゆっくり足を止めると溜め息を付いて呆れる様子で言葉を返す。
「どうせあれだろ?紫音ちゃんに接触して天音ちゃんとの関係でも聞こうって魂胆なんだろ?」
「なっ!?どうしてそう思うんだよ」
完全に考えていることが見透かされているも、薙は敢えて知らん顔を通して左近の言葉を待つ。
「はっ!あんなモン、答え言ってるようなもんだろうよ。今朝の訓練で紫音ちゃんと同じチームのお前らふたりが話を合わせようとしてりゃ大体想像がつくだろうよ。しかも、昨日の天音ちゃんの話を聞いた後なら、尚のこと当の本人にその真偽を問いただしたくなるのは普通だろ。まぁ、俺っちもそう思ってさっちゃんを利用させてもらったんだけどな」
「そこまで読んでたのか。まったく…、やっぱりお前には適わないな」
「伊達にお前とは長い付き合いをしてないからな。ウチの隊長は肝心なところで鈍感だからなぁ。そうと分かれば早速行くとするか」
薙の考えを完全に見抜いていた左近は、そうと分かると急ぎ足で待ち合わせ場所に足を運ぶ。
「ごめんなさい、お待たせしました!」
「大丈夫、こっちもちょうど来たばかりだから」
薙と左近は、旅館の中にある小さな談話室で紫音が来るのを待っていた。
そこは人通りのある通路から少し外れた場所にある和室の個室であり密談をするにはまさにうってつけの場所であった。
「そちらの方は、たしか月影さんと同じ隊の…丸山左近さんですよね。でもどうしてこちらに?」
「おっ、もう名前を覚えてもらえてるなんて。おじさん嬉しいなぁ」
紫音は、まさか薙と紗月以外の人物が来ることを予想しておらず、驚いた表情を見せる。だが、それが薙と同じ隊の者と分かると安心したように胸を撫で下ろした。
「ごめん、紫音さん。本当は隊のみんなにも黙ってるつもりだったんだけど、ちょっと事情があって」
「いいえ。気にしないでください。むしろ、あの子と面識があるのでしたら尚のこと歓迎です」
紫音は、急な来客である左近を快く迎え入れた。
「それじゃあ…」
「はい。分かっています」
軽い挨拶を済ませたところで、薙は早速本題に移ろうと、手短な言葉で紫音に合図を送ると、紫音は小さく頷いて口を開く。
「ちなみにですが、あの子からは何か聞かれましたでしょうか?」
「そうだなぁ…。紫音ちゃんとは血のつながった姉妹で、昔は仲が良かったって言うのと、紫音ちゃんが何も言わないで家を出て行ったことに対して心底憎んでいたことくらいか?」
「そうですか…」
本題に入る前に紫音は、天音から何かを聞いていないかを確認する。そこで左近が昨夜の記憶を辿りながら軽く話すと、紫音は納得したように静かにうなずいて話し始める。
「私と天音は、先ほども仰っていた通り、両親共に同じ血を分けた姉妹に当たります。ですが私は残念なことに神魔使いの血を継ぐことができなかった存在。言わば家からしてみれば不要な人間だったのです。私のような神魔使いの力を継げなかった者は私以外にも多くいて、屋敷では私たちを
薙と左近は、廃神という言葉に驚きを隠せない様子だった。
「廃神か…。神魔使いになれなかったってだけで、そんな悪名をつけられるなんて、神魔使いの家系って言うのはこうも冷酷なのか?」
そもそも神魔使いとは、その力を持った父または母から継承されるものであり、努力などをしてなれるものではなく、天賦の才と言っても過言ではない。
その上、神魔使いの力を継げる確率も極めて低く、その力を継げずに生まれてくる子の方が格段に多いのが現状だ。
「彼らからしてみれば、神魔使いの力を継ぐことこそが最大の目的なので、私たちのような力を持たない者はただただお荷物でしかないのです。特に私と天音の父であり、現在、北御門家の当主である
「天音ちゃんから事前に聞いていたこととは言え、マジで闇が深いんだな」
紫音の話す内容に、薙と左近の顔に不穏な表情が移る。
「話を戻しますね。私と同じ廃神の兄弟姉妹は数多くいるのですが、私たち廃神は、他の者が住まう屋敷とは別の場所に移され、そこで皆で生活をしていました。そこは決して不自由はなく、生きていく上で最低限の生活は保障されているような、そんな場所でした。生活に困ることもなく、壁外のようにアヤカシに怯えながら日々を過ごすなんてこともないのです。これだけ聞けば悪いようにされていないと感じるかと思いますが、私たちには常に先の見えない不安が付きまとっていたのです」
「先の見えない不安ってのは?」
紫音の落ち着いた口調に何やら不穏な空気を感じてしまうが、左近は紫音に詳しい話を聞こうとする。
「先ほども言いましたが、私たちの父は廃神をまるで我が子とすら思っておらず、私たちを離れた施設に隔離するという形で関係を断ち切っていたのです。そして、その施設なのですが、ここにはひとつのルールがありまして、そこは12歳になると屋敷を出なければならないという条件があるのです。ただひとつ問題なのが、誰一人として屋敷を出た後のことを知らないのです。私たちの兄姉が、どこでどんな生活をしているのかすらも」
紫音の話す内容に対して薙と左近は静かに傾聴しているのだが、その愕然とした内容に不穏な表情を隠すことができないでいた。
「周囲の子たちの噂では、防壁区間で住む事になったりアマテラスに入隊していたりなんていう明るいものもあれば、逆に研究所に送られて人体実験のモルモットにされたり、意図的にアヤカシにされて神魔使いの訓練の的にされたり…仕舞いには殺処分なんて良くない噂も耳にしました。むしろそう言ったことの方が耳にすることが多かったように感じましたね」
「それが本当だとしたら正気とは言えないな。人の道に反してやがる」
あまりの衝撃的な真実に、いつもの気怠い感じの左近でさえも言葉に力が入る。
「そうですね。ですが、これも
廃神と呼ばれ忌み嫌われ、関係を断ち切るための別施設での隔離。そこではいくら最低限の生活が保障されているとは言っても、先の見えない未来に何を望めばいいのかなど
「ですが、そんなある日、私に思いもよらない転機が訪れたのです。それは、世話役としてある人の面倒をみるというものでした。そのある人こそ、未来の神魔使いであり、私の実の妹。天音だったのです。これが私とあの子との初めての出会いでした」
ここで、ようやく紫音の口から天音の名前が飛び込んで来た。
「正直、何故このような役につかされたのかは未だに分かっていませんが、退屈で生きている価値を見出せなかった施設の生活から離れることができると思い、承諾をして本家の者たちが住まう屋敷に私は入る事を決めました」
紫音は口調を変えることなく話を続ける。
「天音との初対面は今でもよく覚えています。その当時、私は11歳で、天音はまだ8つでした。その頃はまだ天音も神魔との契約をしておらず、神魔使いになるための訓練を日々行っていたと聞いています。そんな幼い彼女にとって、その訓練というものがどれほど
紫音が言うには、幼い頃の天音は最強の神魔使いになるための訓練を日々行っていたようだった。
その話を聞いた途端、薙は以前、実家で天音に聞いた昔の話をふいに思い出した。
天音の口からは断片的な内容しか聞いてはいなかったが、静かで重たい口調で話す彼女の言葉から、どれだけ辛く厳しいものであったかは容易に想像ができる。
「私はそんな天音と共に過ごして行くことで、今までの施設での暮らしが嘘のように充実した毎日でしたし、天音とも本当の姉として側にいれた気がしました。当時は誰の声も届かないような暗い闇の中に閉じこもっていた彼女でしたが、私といる時だけは違いました。自分で言うのもあれですけど、随分私に懐いてくれていて、私を姉として慕ってくれる姿はまさに姉妹そのものでした」
今まで静かに語っていた紫音であったが、天音との記憶を思い出しながら話す彼女の口元は今までに見た事のない緩んだ表情をしていた。それだけ紫音の中で、天音との過去がどれだけ素晴らしいものだったかが伺える。
「ですが、そんなある日のこと。同じ廃神の仲間から、ある一報が届いたのです。この報せこそ、私たちの関係が狂いだした元凶でした」
どうやら紫音は、天音と同じ屋敷に住み込みでいるようだが、裏では廃神の住む施設ともやり取りがあったようだった。
「その、内容っていうのは?」
その言葉に薙は、恐る恐る紫音に尋ねる。
「はい。その内容というのが、施設にいる廃神のみんなで屋敷を脱走するといった計画内容だったのです」
その言葉を聞いた薙と左近は、一瞬驚いた表情を見せた。
「そして、その報せの中には脱走計画の詳しい内容も記されていて、そこには私への役回りもありました。そう、天音を人質に取って使用人たちに要求を呑ませるというものでした。そこには、最悪の場合、天音の殺害も厭わないとまであったのです」
「なっ!?嘘だろ…?」
衝撃的な一言にふたりは言葉を失った。
「勿論、私にはそんなことをやれる勇気も、あの子を
先ほどまでの落ち着いた口調から、徐々に強い感情がこみ上げているような口調に変わりつつ、紫音は話を進める。
「このことをあの子本人に伝える事もできたかもしれません。ですが、万が一あの子が屋敷の人間に話してしまい、この内容が明るみになれば、ただでは済まないのは目に見えています。私は、あの子に何も言えないまま月日だけが過ぎ、脱走作戦の日も近づいてくるのです」
廃神として長年共に過ごした仲間からの要求か。実妹を護りそばに居たいという意思か。相反する想いが彼女を苦しめていた。
「そんな日々を過ごすこと、1年が過ぎようとしていました。その頃には天音の顔色も大分良くなって軌道に乗り出したような感じはしました。ですが、そんな平穏な日々も長くは続きませんでした。私が12歳を迎える日が近づいて来たこと。そしてそれと同時に、例の作戦が実行される日でもあったのです」
それは先ほど紫音が言っていた、屋敷を出る日であることを薙と左近は察した。
「あれから色々と考えましたが、私は天音を人質に取るようなことは出来ません。ですが一方で廃神の仲間も勿論大切なのは言うまでもありませんが、このふたつを天秤に掛ける事なんて私には出来ません。そこで私は、秘密裏に他の廃神たちが計画を実行している隙に、ひとりで抜け道を作り脱走を試みのです。ちょうどその日は、天音が神魔との契約を行う日ということもあり、屋敷内は常に大急ぎであると同時に、先遣隊として先に神魔の住まう
ここで昨夜、天音が話してくれた内容と合致した。何も知らされることなく、屋敷を出た紫音。そして、何も知らないまま1人残された天音。
紫音の言葉を最後に、まるで時が止まってしまったかのように一帯に静寂が続いた。
薙も左近も、話の内容自体は把握することができたのだが、それを整理するのにあまりにも時間が掛かるような内容に言葉が出なかった。
「私から話せるのはこれだけです。あれからあの子に何があったのかも私は知りません。ですが、あの子が再び心を閉ざしてしまったのはきっと私のせい。でも、私にはこうするしかなかったのです。あの子には辛い思いをさせてしまったようでしたが、これ以上の選択はなかったのです」
「紫音さん…」
紫音の口から発せられた内容に、薙と左近は唖然としてまともな言葉が出て来なかった。
「でも、紫音さんは、このままの関係でいいんですか?天音と、もう一度やり直したいんじゃないんですか?」
「もう一度…天音と…」
薙の言葉に、紫音はぎこちなくも深く考えて言葉を選ぶ。
あの時。もう会うことがないと思っていた妹との再会に浮き足立ってしまい、天音を怒らせてしまった。
だが、それによって歯車は再び動き出したのだ。紫音は過去への不安にかき立てられそうに苦い表情になるも、希望を捨てず立ち上がろうとする。
「もしも、それが許されるのなら、私はもう一度あの子の支えになりたい。あの子を笑顔にしたい!」
「なれる…なれるさ、もう一度!」
「月影さん…」
「事情を聞いちまったんだ。俺たちにも協力させてくれよ。なに、天音ちゃんだって、しっかり事情を説明すれば分かってくれるさ!」
「丸山さんも…あ、ありがとうございます」
ふたりの言葉に勇気をもらった紫音の瞳には大粒の涙が溜まっていて今にもこぼれてしまいそうなほどに。
そして、ふたりの手を取って力強く握った。その手の籠った力で、彼女の想いは薙と左近には大きく伝わった。
「はあ〜。なんだか成るがままに天音に付き合っちゃったけど、何度入っても格別よねぇ」
「成るがままという言葉が少し引っかかりますが、紗月の言う通りですわね。疲れた身体に染み渡るようですわ」
一方その頃。天音と紗月は、旅館の温泉にて、ふたりで肩まで温泉に浸かって緩みきった表情をしていた。
「ねぇ、天音…?天音は、やっぱり今でも紫音さんのこと恨んでるの?」
「なんですの、唐突に?」
天音は紗月の急な問いに、何やら妙な顔をして質問を返した。
「あのね。昨日、天音が話してくれたことが、やっぱり気になっちゃって」
紗月は、天音が今、実の姉である紫音のことをどう思っているのか。それが気になってしまって、直接本人に問いただした。
「紗月がそんな話をしてくるなんて。まぁ、大方想像は付きますが。今日の訓練ではあの方と一緒だったそうですわね?」
「うん。そうだったんだけど…。紫音さんと接していると、そんな悪い人には思えないのよ。天音を置いて逃げたのも、何か理由があるはずだって」
「理由ですか…。先日はあの方にあれだけのことをしておいて、このような事を言うのもおかしな話ですが、
すると天音の口から意外な言葉が返って来た。
あれだけの仕打ちをしたのだが、天音は心の底では紫音のことを気にかけていたのだった。
「なら、どうしてよ?」
「あの人はなにか私に…。いいえ、やっぱり何でもございませんわ。これに関しては私も確信が持てないので」
「…?」
紗月はそこで理由を聞こうとしたが、天音は言葉を濁した。どうやらまだ紫音の思惑に確信が持てないようなのだ。
「ねぇ、天音?もしも、紫音さんが今までのことを全部話したらさ、天音は紫音さんのことを許してあげれるの?」
「どうでしょうね…。正直、今でもまだ頭の中で整理が付いていませんもので。ですが、もしもあの方が本当にすべての真実を話してくれるのでしたら…」
紗月の問いに、天音は戸惑いながらも静かにそう返した。
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