第三話 隠した想い

 八月に入ったその日、四人だけで集まったいつものメンバー。「早河さんが付き合うなら絶対お前だと思ってたのになー」って驚く三人に「なワケねーだろ」って笑うおれ。堂々とデートを理由に来なかったあいつのことが、美乃梨のことが、片時も頭から離れない。


 今頃二人で手を繋いで笑い合って……そんなことを考える自分に気付く度、ぐしゃぐしゃと頭をかいて炭酸で苛立ちを喉の奥へと押し込める。胸を通過する痛みがキツ過ぎる炭酸のせいなのか他の何かなのか。どうすれば消えるのか分からない。ここ最近ずっと……。


 気分が乗らなくて早めに家路についた夕方の駅前通りで、後ろから大きな声が響いた。


「こらー、真中壮空そらー! 先輩を無視するなー」


「……フルネームで叫ぶのやめてもらっていいですか? あと、先輩って私服も派手なんですね」


「可愛いでしょー? 付き合いたくなっちゃった?」


「いや、全っ然。ていうか、知り合いだと思われたくないんで、失礼します」


「あっ、ちょっと待ちなさいよ」


「おれ、もう家帰るんで」


「私は塾終わったとこだし、どこ遊び行く?」


「その塾大丈夫ですか? 日本語通じてないんですけど」


 何言ってもついて来る先輩をまいて、やっと家まであと少しの距離に来る。後ろを振り返って先輩がいないのを確認してから、汗で張り付く額の髪をかきあげた。視線を前方へと戻す。


「その仕草、ヤバイ! もっかいやって!」


「うわっ! 何でいんだよっ」


 夏休みだからって調子に乗った先輩の金髪ツインテールの向こう、目に入った光景に、おれの足が張り付いたように止まった。


 猛暑だった一日。夕方になったって気温が下がる気配はない。

 なのに、おれの全身からはもう汗の一滴も出そうにないくらい、周りの空気が冷えていた。


「真中壮空?」


 先輩がおれの見ていた先を振り返る。


 瞬間、駆け出しそうになった。美乃梨に何してんだよってそいつを殴りそうになった。


 何より、おれ自身が掴んで殴られたみたいに痛くて。頭が、身体が、胸の真ん中が。



 全部、自分で招いた結果なのに。



 おれの家と隣り合う美乃梨の家。駐車スペースを挟んだ向こう側、門扉越しの二人。これ以上近付きようのない距離に、それがキスなんだって理解するより先に言いようのない怒りが湧いた。


「待ちなさい、よっっ!」


 だけど、おれが一歩目を踏み出すより早く、前から先輩が勢いよく体当たりしてきた。


「な、にすんだよっ!」


 地面についた手に走ったはずの痛みにも気付かない。


「あんたこそ何しようとしてんの」


「何って、美乃梨を……っ!」


「相手、彼氏でしょ。うちの塾の前でも手繋いで歩いてるの最近よく見るし。あの子はしたくてしてんだよ。だったらあんたの出る幕じゃないよね」


 えぐられるような痛みが胸を襲った。


 ——美乃梨が……望んで?


 いつもの仁王立ちの先輩の後ろで、驚いた顔でボーッとそいつを見送る美乃梨がいる。

 上げた髪、制服より短いスカート、プール……バッグ。それは全部、あいつの為? あいつと会いたいから。あいつと遊びたいから。あいつと付き合ってるから。



 あいつが、好きだから。



 不意に口元を押さえ、美乃梨が走って家の中に入って行った。その行動の意味を考えたくない。


 ぐっと掌に滲んだ血ごと、地面に置いた拳を握る。


 ——本当に? 本当に美乃梨はあいつが好きなのか? 何でだよ。どうしておれじゃないんだよっ。


「現実見なよ。あの子はあんたじゃなくてあの彼氏のことが好きなんだよ。あんたに助けて欲しいなんて思ってない。あんたのことなんて好きじゃない」


 先輩の一言一言がいちいち胸を突き刺す。

 何でそれをこの人に言われなきゃならない。


「……だから、何だよ。先輩に関係ねーじゃん。もう帰れよっ」


「関係なくなんかないっ! 私はあんたのことが好きなの!」


「何なんだよっ、今更マジに告られてもおれは先輩のことなんて……」


「いいよ、私。あの子の代わりでも」


 強気な口調で見下ろしてくる先輩を見上げた。美乃梨とは性格も外見も似ても似付かない先輩が、美乃梨の代わりになんてなりようもない。

 そもそも先輩のことなんて、全然好きじゃない。


「は、はあ? 何、言って……」


「目、閉じて」


「意味分かんねー」


「さっさと閉じるっ」


 座り込む先輩に両手で目の前を塞がれて、何も見えなくなった。


「おいっ、いい加減に……っ」


「壮空、好きだよ」


 腕を掴んで引き剥がそうとしたおれの耳元で、先輩が囁いた。明らかに美乃梨の言い方を真似て。


 身体がビクリと震えて、鼓動が速くなる。


「壮空、好き」


「……やめろ」


 嫌悪感で胸が騒つく。

 聞きたいのは、先輩の声じゃない。


「壮空、大好き」


 その言葉は、美乃梨から聞きたかった。


 おれにそれを言っていいのは、美乃梨だけだ。


 おれは、おれは美乃梨がっ。


「壮空……」


「勝手に壮空って、呼ぶなっ!」



 美乃梨が好きだ————!



「泣いていいよ。壮空……」



 蝉しぐれの中、初めて知った胸の痛みと他人の感触は美乃梨となんて比べようもなく、ただ無感動で、全てが無機質で、酷く、惨めで。

 でも、うるさくわめくおれの心と美乃梨の代わりを黙らせるには有効だった。

 例えそれが一時的なものだったとしても。



 誰にも言えない。美乃梨には絶対に知られたくない。ダサくて、幼稚で、今更気付いて後悔して。バカみたいに美乃梨が好きだって泣いてるおれの姿なんて。




「わざわざ来てもらってすみませんっ。真中先輩が誰とも付き合わないって知ってるんですけど、それでも好きなんですっ。だから、あの、今度の花火大会だけでも……っ」


「……いいよ」


「……え?」


「別にいいよ。付き合っても」


 夏休みも終わりに近い毎年恒例の花火大会三日前。おれに初めてのカノジョができた。握り締めた手紙の後輩。

 もう、名前も覚えていない。


 美乃梨とは正反対の女がいい。思い出さずに済むから。別に嫌いってことはない。罪悪感が薄れるから。


 でも、いつも目を閉じると浮かんでくる。

 これが美乃梨だったらって。


 表面上のカノジョに好きなんて言ったことは一度もない。「壮空」って呼ばせたことも一度だってない。


 それだけはいつか、美乃梨に知って欲しい。



 中三の春。俺を避け続ける美乃梨に最後の頼みの綱で「高校どこ行く?」って聞いた時、美乃梨が泣きながら前に俺が適当に挙げた校名を言ってくれたこと。

 本当は抱き締めたくなるくらい嬉しかった。結果嘘ついた形で後輩と付き合った俺を嫌いになったのかと思ってたから。


 高一の春。工事業者の鍵の掛け忘れでたまたま見つけた立入禁止の施設棟の屋上。

 滑り台の上に作った秘密基地を思い出した。ここならすぐに片付けられることはない。

 美乃梨を初めて連れて来た日、口にはできなくても今度こそ間違えないで美乃梨を守るって心で誓った。嬉しそうに笑ってた美乃梨の顔は、今でも忘れられない。


 お互い彼氏彼女がいれば、また一緒にいてもいいんだよな。美乃梨がからかわれなくなって、美乃梨に友だちができた。

 このまま美乃梨のこと、彼氏とは違う立場で守りたい時に守ってもいいんだよな。


 それで満足だった。


 それなのに、元彼との一件でやっぱり他の男には任せておけないって。俺が美乃梨の全部を守りたいって。俺が、美乃梨の彼氏になりたいって思うようになった。


 ふと目が覚めた時に聞こえた「好き」って声に耳を疑って、もう一度聞こえて胸が疼いて、三回目には美乃梨もそうなのかって、いつからだよって、何で言わなかったんだよって叫びそうになって。

「大嫌い」って言葉で動けなくなった。


 美乃梨は俺の何が嫌いなんだ。

 傍にはいてくれる、助けを求めてもくれる。繋いだ手を、離さないでいてくれた。


 知るのは怖い。

 でも、幼馴染としてなら今のままの関係を維持していける。


 迷ってる内にまた大きな変化が訪れた。


 佐和さわ柊二しゅうじ

 今まで美乃梨から名前を聞いたことも、一緒にいるところを見たことだってない。


 そんな佐和と関わり始めてから、美乃梨は少しずつ変わっていった。

 俺が入れない隙間にどんどん入って行く佐和。俺の引き出せない表情を簡単に美乃梨から引き出して行く佐和。


 美乃梨と会って、一年もしないクセに。


 焦って、気になって、苛立って。

 中学の時と同じ状況にいる自分に気付いて決意した。二度と同じ間違いはしない。同じ痛みは味わいたくない。


 約束のその日。今まで生きてきた中で最高に緊張していた俺の元へ、美乃梨が帰って来た。



 美乃梨の『大好き』を手に入れた佐和と一緒に。



 その時、美乃梨と何か言葉を交わした気はするけど、俺は顔赤らめて嬉しそうに笑い合う二人の姿しか覚えていない。


 動けなかった。

 嫉妬もした。

 怒りも、悲しみも、絶望も、抉られるような痛みも全部がごちゃ混ぜになった感情。


 バカみたいに俺の元へ来て欲しくて結んだネクタイを握り締めた。祝福の言葉なんて出て来ない。



 でも、誰かと付き合ってこんなにも幸せそうな顔をする美乃梨を、初めて見た。



 俺は、どうするのが正しい?

 美乃梨を失いたくない。

 でも、美乃梨が望む相手は、俺じゃない。

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