第9話 新しいカレシ

 壮空そらの胸の音が聞こえる。

 先週、屋上で聞いた時よりずっと速い。それが私の心に共鳴してるようで、このまま一つになれるんじゃないかって勘違いしそうになる。

 でも、壮空のこの高鳴りは走って助けに来てくれたからで、私と同じじゃないってちゃんと分かってる。


 さっきから壮空は黙ったままで、いくら記憶を辿ってみてもこれまで一度も無かった状況に先が見えない。理由が分からない。

 ただ、壮空が動かないから私も動けない。


 それでも、壮空が頭から力強く包み込んでくれると、やっぱりここが一番いたい場所だって実感する。


「美乃梨」


 急に静かな声で名前を呼ばれ、ドキリと身体が震えた。「え?」と小さく声にならない声が出る。

 壮空の顔を見るのが怖い気がする。


 ——何、言われるんだろう? またからかわれるのかな。


 さらに強くなる鼓動に顔が熱くなる。懲りずに次の言葉を待ってしまう。

 けれど私は、壮空に両肩を押すように離されて、


「帰るぞ」


「あ、う、うん」


 立ち上がりながら顔も見ずにそう言われた。


 ——そう、だよね。今、怒られてたんだし。


 落胆よりも安堵に近い感情が広がって小さく息を吐いた。壮空に気付かれないよう私は顔を伏せて熱を冷ます。


 ——私、今、髪ぐしゃぐしゃだ。汗もすごいし。直したいけど、そんなこと言える雰囲気じゃない。


 壮空が「美乃梨は髪長い方が似合ってる」って言ってから伸ばし続けてるの、壮空は覚えてるのかな。綺麗に伸ばすの大変なのに。


 さっさと階段を降り始める壮空の後に、私は屋上扉の前に置いたままになってたスクールバッグを取って慌てて続く。少しだけ距離を置きながら。


 さっきから私の心臓が鳴り止まないのは、先輩に追い掛けられたせいだと思ってる? 壮空に、抱き締められたせいだって気付いてる?


 振り返らない壮空に聞いてみる。


 すると、それが聞こえたみたいに壮空が不意に立ち止まって、


「遅い」


「……え?」


 真剣な顔で手を引かれた。

 熱が冷めない。胸が鳴り止む暇がない。


 階段を降りてすぐ、手を繋いだまま廊下の隅に投げるように放られたスクールバッグを壮空が拾う。そこで思い出したようにスニーカーを脱いだ壮空は土足のままだった。よく見ると、制服も所々汚れてるように見える。


 その全部が、勘違いじゃなく私の為なんだと思うと、きゅうっと胸が締め付けられた。

 本気で心配してくれた壮空の優しさに、今になって泣きそうになる。

 また怒られるかもしれないけど、そうしたらもう一度抱き締めてくれるのかな。


 だから、私はいつ壮空の手が離れてもいいように、ぐっと唇に手を当て何とか涙だけは堪えた。


 階段も廊下も黙ったまま手を繋いで歩く。

 壮空が常に前なのに早過ぎとも遅過ぎとも感じないこのペースが、すごく懐かしくて心地良い。不思議といつもそう思ってた。最後に手を繋いだのはいつだったっけ?


 昇降口まで来た時、私が下駄箱から靴を取る時も壮空はその手を離してくれない。

 一人、二人、まだ残ってる生徒もいる。

 壮空は見られても平気なの?

 堪らずに震える声で聞いてみる。


「壮空、家までこのままなの……?」


 返って来た答えは。


「美乃梨が嫌ならやめる」


 ——何それ。ずるいよ。


 そんな真剣な顔で言われたら、また勘違いしてしまう。壮空の気持ちは、いっつも全然見えないんだよ。自分から言って傷付くのは怖いのに。分かってよ。


 無言で返す私はもっとずるいんだろうか。でも壮空も、それ以上聞いて来ない。


 少しだけ力を込めてしまった繋ぐ手で、壮空には私の気持ち、気付かれてしまったかもしれないのに。


 ——壮空は?


 繋がれた手と、さっきの言葉の意味を考えてしまう。


 ——今日なら、今なら、もしかして……。


 今までにない壮空の態度に、期待してしまう。



 本当の気持ちを伝えたら、私の欲しかった壮空の想いを聞くことができるの? って。



 靴を履き、歩き出そうとする壮空の横顔をじっと見つめる。ずっと見て来た。誰よりも長く、誰にも譲れない私の場所から。


 もう壮空の姿しか見えない。

 自分の緊張の音で、何も聞こえない。


 壮空。壮空聞いて。

 本当はずっと好きだったの。

 幼馴染じゃなく、彼女として隣にいたい。

 壮空と同じ気持ちで、ずっと一緒にいたいよ。


 壮空は私のこと、少しも好きじゃないの?


「そ……」


 そのまま昇降口を出た所で、私が名前を呼び掛けた時、


「壮空くん?」


 掛けられた別の声に、壮空の手がぱっと離れた。


 いつか壮空とした夏の終わりの線香花火の最後みたいな虚無感が広がって、私はしばらく空いた手をどうしていいか分からなかった。

 あっさりと、何の余韻もなく離れる壮空の、それが答えのように感じられて言わなくて良かったって思い込む。


 だから、痛くなんてない。


 ——期待なんてしちゃダメだ。だって壮空は。壮空には……。


「会えて良かったー。もー、何度も連絡したよ?」


 頰を膨らませながら躊躇なく寄って来る一人の女子生徒。

 軽く巻かれた髪、いつも甘い香りを漂わせて、感情を素直に表に出せる綿菓子みたいな外見の、壮空の好きな、


「彼女置き去りにするなんて酷いよ、壮空くん」


 壮空が好きな彼女がいるから。


「何、で……」


 その彼女が、驚く壮空の前に笑顔で立つ。


「デートの途中で学校戻るから帰れって急に走ってくんだもん。気になって私も来ちゃった。あ、早河さん? 早河さんも今帰るとこなんだー?」


 その笑顔の裏で、何で一緒にいるのって言われてるのが分かる。

 こういう場面、今まで何度あったかな。


「……壮空、私は大丈夫だから、行っていいよ。ごめんね、邪魔して。彼女さんも、ごめんなさい」


「美乃梨、でも……」


 私には今の、少しでも気にしてくれる壮空のその顔だけで十分だ。


「そうだよねー。早河さんみたいな綺麗な幼馴染が一人で帰るって心配だよね。もう暗いし。じゃあ、みんなで帰る? 私、今から壮空くんのお家に行ってもいいよ?」


「おい……」


 目の前で堂々と腕を組む彼女を、壮空が嫌そうにはらう。

 私には、それだけで十分だ。


「何でー? あ、幼馴染の前だと恥ずかしいの? 可愛い、壮空くん」


「だからやめろって」


 これくらい大丈夫。

 慣れてるから。

 だから。


「壮空。言うの忘れてたけど、私、新しい彼氏できたの」


「……は?」


「えー、さすが早河さん! 良かったねー、壮空くん」


「本当はさっき彼を呼びたかったんだけど、出先でスマホの充電切れちゃっててね、思わず壮空に電話しちゃった。まさか来てくれるとは思わなかったから本当にごめんね。たぶんもう連絡つくと思うし、私は彼に迎えに来てもらうから壮空は彼女と帰っていいよ」


 二人の前でも笑える。

 何年も、何回も、そうして来たから。


「ごめんねー、早河さん。ありがとうー。ねぇ、壮空くん、早く行こう? 私、寂しかったんだからぁ」


「それ本当か?」


 なおも食い下がる壮空に、嘘を重ねてく。

 そうだよね。さっきあんなことがあったばかりなのに。


 もう付き合うなって言われたのに。


「今度の彼は面白くてね……優しい人なの。なんか二人見てたら、私も早く会いたくなっちゃったなー」


 壮空が行かないから、演じ続けるしかない。


 ポケットからスマホを取り出して、ロックを解除する。表示される待受画面には、光加工で輝く壮空から貰った屋上の鍵の写真。

 そっと触れて、自嘲する。

 二人からは液晶画面が見えない位置で適当に操作して耳に当てる。どこにも、誰にも繋がっていない、冷たいモバイル機器を。


「……あ、私。うん、学校まで迎えに来て欲しいなって。ホント? 車で来てくれるの? ……うん、嬉しい。じゃあ、また後でね」


 スマホを下ろし、もう一度二人に向き直る。

 笑顔でいられるのもそろそろ限界で、壮空の顔が見られない。


「という訳だから。誤解されたくないし、帰って貰えると助かるかな」


「……分かった。帰る」


 言うなり、一人歩き出す壮空を「あっ、待ってー」と彼女が追う。

 壮空の声は怒ってた?


「車だって、すごいねー。大学生かなー? それとも社会人?」

「知るか」

「あれ、壮空くん妬いちゃった? 嬉しい。好き」


 そんな会話を交わしながら駅方面へと向かう二人に背を向ける。

 隣にいても、私には決してなれない二人の関係。特別な場所。


 本物の壮空とは。


 だから絶対、この髪は巻かない。



 二人が見えなくなった頃、私は一人、正反対の道へ向かって早足で歩き出す。どうしようもなく溢れる出る涙を誰にも見られないよう、下を向いて。


 真っ直ぐ家に帰って、バッグから目的の書類を真っ先に取り出す。


 そのまま新しく登録した連絡先にメッセージを送ると、めちゃくちゃテンションの高い返信があって、私に本当にカレシができた。

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