第8話 救世主

 私たちの通う私立高校は地元では一番の敷地面積を誇る。二年生のクラスが入る第二教室棟の二階から秘密の場所の屋上までは、二階の渡り廊下を通って本館を抜け、また渡り廊下を通った先、図書施設等のある三階建ての建物の一番上。

 この施設棟は来年度から始まる耐震化工事に向けて徐々に準備が進められてて、早くから屋上だけは立入禁止になってた。


 他の校舎の屋上と違い、この施設棟の屋上へ来る生徒は勿論いない。私たちだけの秘密基地みたいな場所。


 その施設棟へ、暗い校舎内を渡り廊下は全力で、本館内では何度も隠れながら走って、私はやっと辿り着いた。

 走り過ぎて息が苦しい。足も辛い。でも壮空そらと約束したから必ず行く。


 所々に雑然と物が置かれた、屋上へと続く最後の階段。今は暗くてよく見えないけど、いつもは壮空が手を引いてくれた。

 だから大丈夫。

 静けさの中を自分の呼吸音と激しく脈打つ音が支配する。それでも今は、目を瞑って壮空の手と言葉だけを思い出す。片手を壁に触れ、一段ずつ確認しながら。


 三段目にはバスケットボールが転がってて。

 五段目には小さなダンボール箱があって。

 八段目にポールがはみ出てて。

 十段目には……


「美乃梨、頼むから話をっ」


「っ!」


 思ったより近くで反響した先輩の声にビクリと体を震わせた瞬間、何かが私の足に触れて甲高い音を立てながら階段を落ちていった。

 静か過ぎる校舎内では足音を消すことはできなくて、結局私は先輩を巻くことはできなかった。


「……そろそろ追いかけっこは終わりにしよう、美乃梨」


 大丈夫。屋上で待っていれば、必ず壮空に会える筈だから。


 自分に言い聞かせ、残り数段は足を取られながら一気に扉まで走った。あとはここで、壮空が来てくれるのを待つだけだ。


 屋上へ出る為の扉に手を掛けた時、私はある事実に硬直した。


 いつもは壮空がこの扉を開けてくれてた。

 壮空から「俺と美乃梨だけの秘密な」って貰った鍵は今、私の部屋にある。

 だって、私が一人でここへ来ることはないから。いつも壮空がいるから。壮空がいてくれるから来てたんだから。


 試しにドアノブを回してみる。


 ——やっぱり開かない。どうしよう。


「逃げないで聞いてくれ、美乃梨」


 先輩が一言発する度に声が近付く。

 ガチャガチャとノブをいくら回してみても、力一杯押してみても、扉は開いてくれない。


 ——どうしよう。怖い。壮空っ!



「上にいるの? 美乃梨」



 階段の下で先輩の声がした。他に逃げ場は無い。


 どうして壮空だと思ったんだろう。

 何であの時、先輩の背中を追ってしまったんだろう。


 どうして私は、こんなに壮空ばかり。



「……そら。壮空ーっ!」



 その場に座り込み、滲む涙と一緒に開かない扉へ向けて追い求める。決して届かない壮空の姿を。



 叫んだ直後、施設棟の階段のみにぱっと明かりが灯った。鈍い音と先輩の声、ドサリと何かが落ちたような音が続いて、


「み、のり……っ、大丈夫かっ!」


 階下から待ち望んでいた声が聞こえた。

 すぐには反応できなかった私の代わりに、障害物をかき分けるようにしてその人が上がって来る。

 息が上がり、胸元を握りしめて苦しそうな表情をした、壮空が。


「そら……」


「ごめっ、美乃梨っ、遅くな……っ」


 壮空が目の前まで来てくれた時、私は膝で立ちながら無我夢中で抱き締めてた。


「そら。壮空っ。壮空ーっっ」


 壮空が上から、きつく抱き締め返してくれる。苦しそうに「怪我は?」って確認してくれる声に、私は勢いよく首を振って答える。


 ——来てくれた。壮空が……っ。


 それだけでもう私は全てが終わったような安心感に包まれていた。けれど。


「……いってー、くそ、何なんだよっ」


 ——先輩っ。


 先輩の声にビクリと私が身体を震わせ、壮空が後ろを振り向く。そして私から離れると、階下を見下ろし私の目の前に手をかざしながら、庇うようにして立ってくれる。

 目の前の壮空の手は、今は震えてはいない。



 小学生の頃、意地悪する男子から守ってくれた時もそうだった。自分より体の大きな子でも、相手が多人数でも、いつだって壮空は私を庇って立っていた。

 空手を習い始める前、力強い言葉とは裏腹に、目の前にある手が震えていたことを私だけは知っている。相手に負けて悔しがる壮空も、怪我をしつつ守り切ってくれた壮空も、私にとっては救世主みたいにいつも光り輝いて見えた。

 中二の夏、私に初めての彼氏ができた後「もう必要ないだろ」って空手をやめたって、おばさんとお母さんが話してるのを聞いた時まで。



「またお前か。一度ならず二度までも」


 腕をさすりながら、先輩がゆっくり階段を上って来る。その先輩に向かって、まだ肩で大きく息をする壮空が対峙する。


「これ以上美乃梨に手を出すなら、俺、先輩だろうと容赦しませんから。あと、美乃梨って呼ぶの、もう止めてもらえませんか」


「壮空っ! 先輩も、もうやめて下さいっ」


 そう煽る壮空は、そんな余裕なんて無いのは一目瞭然だった。ケンカして欲しかった訳じゃない。ただ、壮空に傍にいて欲しかっただけなのに。



「かーっ、これだからイケメンは。いや君ら勝手に盛り上がり過ぎでしょ。言われなくてもこっちは何もする気ないのに」


「……え?」


「あー、やだやだ」と突然緊迫感のない声を上げる先輩に、壮空と私が同時に聞き返す。


「あの時はお前がいきなり後ろから蹴るから俺の友だち二人が「敵襲だー」とかって止めに入って、お前は抵抗するどころか「やれよ」ってイケメンぽく煽るからー。何かそれっぽくやんなきゃダメなのかなって目瞑りながら腕振り回したら当たっただけなのに。そもそも俺が用があるのはその子の持ってる画像だよ」


「……画像?」


 モノマネを混じえて熱演する先輩に、私たちはまた同時に聞き返す。


「そう。この件はお前が「先輩、このことバレたら受験どうなるか分かってますよね?」って決め台詞言って終わりだと思ってたのに、今度はやたらテンション高い女の子が「これ以上みのりんに何かしたら、あの画像ネットで晒すからね」って言って来て。色々考えたけど、ネットで晒すってマコちゃんと俺の画像のことだろ?」


 ——みのりんって……もしかして愛海の言ってた仕返しのこと?


 それについては何も知らない壮空が、確認するように私の顔を見てくる。


「何だよ画像って。あとマコちゃんて誰?」


「し、知らない」


 壮空の問いに、私は首を振る。


「はあ? お前らマコちゃんのこと知らないのかっ。ていうか、そんなに似てるのに? 見ろこれ!」


 憤慨した様子の先輩が私たちにスマホを掲げて見せる。


「俺の心の恋人、百年に一人の逸材、新人アイドルのマコちゃんをっ!」


 鼻高々に片手を腰に当てる先輩を他所に、私は壮空に話し掛けた。


「あ、思い出した。確か私、先輩に時々マコちゃんて呼ばれてて、別の女と間違えてるんだと思ってた……」


「はあ?」と呆れる壮空。多過ぎる情報量にたぶん頭の中で処理が追いついてないのは明らかだ。


「マコちゃんはか弱いから俺が守ってやらないと何もできないんだよね? そのマコちゃんがあんな無表情に冷たく男をフったりしないのに、その子は……。俺動揺して「そんなの違ーう!」って思わず肩を掴もうとしたら偶然頰に当たっただけなのに悪者扱いされて。ねー、マコちゃん、酷いよねー?」


 先輩が時折スマホに向かって語りつつ実に情緒豊かに伝えてくれるけど、今の私にはとりあえず確認したいことが一つ。


「ねぇ壮空、マコちゃんて人間だった? バーチャルだった? 壮空、ゲーム好きじゃん。分かるでしょ?」


「おい、一緒にすんな。人間に見えたけど、自信ねー。……でも美乃梨には超似てた」


「やめてよ!」と言う私に構わず先輩はさらに続ける。


「マコちゃんと俺の関係がバレたら、きっと世間の心ない中傷にマコちゃんのガラスハートが粉々になるに決まってる。俺は勿論マコちゃんのこと全力で守るよ? でもマコちゃんが傷付くことに変わりない。そうでしょ、マコちゃん」


 もうスマホしか見ていない先輩。


「私、今、別の意味で怖いんだけど」


「俺も怖いわ」


 唖然として先輩を見つめる私たち。


「だから画像をっ!」


「持ってない」


「へ?」


「先輩の画像なんて一枚も持ってないです。それ、友だちの嘘だから」


「そ、そうなのか?」


 マコちゃんと一緒に私を窺う先輩に、私は目一杯頷き返す。


「何だー、それを早く言えよ。無駄に走っちゃったじゃん。あっ、もうすぐミュージックバーチャルの時間だ! 行こう、マコちゃん」


 安堵の表情で言い残し、先輩はスキップしながら去って行った。


「何、あれ」


「知るか」


 取り残された私たちは一度顔を見合わせた後、深いため息を吐きながら私はその場へ、壮空は階段に腰掛けるように座り込んだ。本当に何も無くて良かった。緊張から解放されてどっと疲れが襲う。

 たぶん壮空の方が何倍も。


 私はそっと壮空の方を窺う。


「……壮空、ごめん」


「ごめんで済むかっ。久々こんな走ったわ」


 制服のネクタイを荒く緩めて、髪をかき上げる壮空が語気を強めて言う。

 改めて見ると夏でもないのに流れる汗が顎まで伝ってる。心から申し訳なくて胸が痛んだ。自分が情け無い。


「本当にごめんなさいっ」


「付き合う相手はちゃんと選べよっ」


「……う、ん」


 怒る壮空に悪いとは思っても、そこは曖昧にしか頷けなかった。


「後ろ姿に惹かれたとか訳分かんねーこと言って、心配ばっかかけやがってっ」


 それについては何も言えない。合わせる顔が無くて私は黙って下を向く。


「ちゃんと聞いてんのかっ? 自分でまともな相手選べねーならもう付き合うなって言ってんだよっ。ばーかっ」


 言うなり、私は壮空に片腕で抱き寄せられた。


 ——え……?


「ったく、心臓止まるかと思った……」


 私の髪に壮空の声が触れてる。きっとそんな状況じゃないのに、私の意思とは関係なく胸が高鳴り出す。


 怒られてた筈なのに、何で今、抱き締められてるんだろう。自分では答えを見つけられなくて、一応聞いてみる。


「そ、壮空。私、泣いてない、よ」


「知ってるよっ、ばーっか!」


 何故か余計に壮空を怒らせた。

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