第5話 棄てた心

 壮空そらと同じ高校に入学したのは偶然じゃない。


 私と壮空はお互い初めての彼氏彼女ができた後、しばらく話しもしない時期があった。避けてたのは私の方だけど。

 それでもほぼ毎日顔は見る。家を出る時、学校にいる時、休みの日だって。話し掛けてくれようとする壮空を避ける度に、傷付く壮空の顔に私も傷付いてた。

 こうなりたかったわけじゃないのに、もう後には引けなかった。壮空が、私を見ても素通りしてくようになるまで。


 他人事みたいな同じ毎日を繰り返してても、現実の時間はどんどん進んで、中学生活の折り返し期は追い詰めるように変わることを強要される。何度目かの進路希望調査の紙を見た中三の春、私は壮空と何気なく交わした会話を思い出してた。

 まだ、壮空の気持ちを探ってた頃に聞いた「壮空は高校どこに行くの? それって、私も同じとこ行ってもいいのかな?」に答えてくれた校名。


 たまたま同じタイミングで家を出たある日の朝、いつものように顔を伏せた私に数ヶ月振りに壮空が声を掛けてくれた。

「美乃梨、高校どこ行く?」って。

 驚いたけど久し振りに真っ直ぐ見た壮空の顔に、また壮空から話し掛けてくれたって安心して、高校のこと聞いてくれたって嬉しくて、私はじっと見つめた後、泣きながらその壮空が教えてくれた校名を告げてた。壮空が「じゃあ、受かればまた一緒に行けるな」って笑ってくれて、「行く」って返すのがやっとで、今までごめんねって言葉は心の中でしか言えなかった。


 その日から避けてた時間なんて無かったみたいに私が苦手な理数系と、壮空が苦手な文系科目を補い合いながら合格したのが、私たちの家から一番近いこの高校だった。

 数学は、今の担任なんかより、壮空に教えてもらう方が遥かに分かり易かった。


 合格発表も、卒業式も、隣にいたのはお互い別々の相手だったけれど、合格祝いと卒業祝いだけは壮空と私の二家族合同でしたんだ。




「早河、さん……?」


「来ないで!」


 遅れて帰って来た佐和が、背中越しでもビクリとしたのが分かった。


「す、すみませんっ。でも、僕の鞄……」


 ——鞄?


 この時間、教室にはもう誰も残っていなかった。すでに夕闇が迫りつつある中、机の横に掛けられたスクールバッグは二つだけ。

 私の立っている場所が、たまたま佐和の席の隣だった。


「佐和、モテないでしょ」


「あっ、うん。えっ、何で今?」


「取りなよ」


「え?」


「バッグ、早く取りなよ」


 振り返りもせず言う私の言葉に、佐和が「ごめん」と言いつつ恐る恐るバッグを取る。


「泣いてる、の?」


「……るさい」


「早河さん、泣いてる、よね?」


「うるさいっ」


 さっきまでビクビクしてたクセに、今は私が睨んでも佐和の表情は変わらない。

 泣いてなんかない。

 今は、まだ。


「……もしかして、さっきの?」


 牽制したのに、勝手にズカズカと入ってくる佐和のその無神経さに苛立って、傷付けたくなる。

 佐和も、自分も。


「あんなの、誰とだってできるでしょ」



 見たのは初めてじゃない。

 だから私も、その程度のことなら心を棄てられるようになった。


 そうじゃなきゃ、初めて壮空が彼女とキスするのを見た時、中学生の私は耐えられそうになかった。こんなこと、何でもないことなんだって言い聞かせるしかなかった。



 ——佐和なんて、何も知らないくせに!



「ええっ、さすがに誰ともってことは……」


「私はできる。佐和とだってできるからっ」


「えっ? は、早河さんっ!」


 隣に立つ佐和のブレザーの襟元を掴んだ私の前に、佐和の掲げるバッグで壁ができた。


「……早河、さん?」


 沈黙が訪れた教室にそっと私を窺う佐和の声が小さく響いて、次第に嗚咽が隠せなくなっていく。


「見ないで……っ」


 大粒の涙が一滴乾いたリノリウムの床に落ちて、悲しみの声を上げる。

 初めてじゃないけど、見たのは二度目だ。

 思い出したくない。中二のバレンタイン。あの時の痛みも、苦しみも、バラバラになりそうな心も。


 私は変わったから。

 変わった筈なのに、どうして今、あの日よりも全てが辛く、痛いと感じるんだろう。


 何でもないって言い聞かせても、いつも惨めで虚しくなって、途中で壮空以外とは嫌だと棄てた心の代わりに身体が叫び出してた。

今みたいに。


 結局、変わったつもりでいても何一つ変われてなかったんだ。



「早河さん、もしかして真中君のこと、好きなの……?」


「違う……っ!」


 明らかな嘘に、走って教室を出て行く佐和の足音が遠のく。


 自分でも最低だって分かってる。

 何も知らない佐和にぶつけて、自分だけ楽になりたくて、きっと軽蔑された。

 怒らせたのかもしれない。


 でも、どうしていいか分からない。

 どうやったら自分を保っていられるのか、自分で自分が分からない。


 忘れたい。

 忘れられない。

 忘れさせて欲しい。


 あの日の壮空も拒絶して、別の高校に行けば良かったの?



 しばらく声を殺して泣いた後で、私も教室を後にした。




 ——目、腫れてないといいな……。


 そう思いながら顔を伏せて歩く私が昇降口まで来た時、


「早河さーん!」


 廊下の向こうから叫ぶ佐和の声に呼ばれて驚いた。


「え、佐和? 帰ったんじゃ……」


 気まずくて横を向く私に、走って来た佐和が肩で大きく息をしながら手を差し出す。


「こっ、これ……っ、すっごく、迷った、けどっ、元気、出るかなっ、思っ……」


 これ以上喋ると吐きそうだ。膝に片手を置いて下を向く佐和の顔を上げさせようと、私は思わず声を掛けた。


「と、とりあえず落ち着きなよ。何? ……イチゴみるく?」


 佐和が持っていたのは、学食前の自販機で売ってるパックジュースだった。


「これ、買いに行ってたの? もしかしてその後、教室まで戻った?」


 佐和が息を整えながら、無言でこくこくと頷く。一階の端にある学食から建物の違う二階の教室まで往復してここまで。ずっと走ってたんだとしたら佐和のこの状態も納得できる。


 佐和が一度深呼吸してから、姿勢を直して真剣な顔で私を見た。


「僕、今まで好きな人も、好きになってくれた人もいないから何て言ったらいいか分からないけど。でも、僕はダメだよ」


「え?」


 キッパリと言い切る佐和の真意が掴めなくて聞き返した。


「早河さんせっかくモテるんだから、僕なんかに、あ、あんなこと……僕が得するだけっていうか。あ、いや、その……。だから、もっと自分を大事にしてあげてもいいんじゃないかなって思って。たぶん、本当に誰とでもって思ってる人は、あんな傷付いた顔して泣かない気がするから。……よく、分からないけど」


 本当に同一人物かというくらい、今度は赤くなった顔を両手で隠しながら自信なさげに佐和が続ける。


「あっ、違ってたらごめんねっ。本当に僕、そっち方面は苦手で、たぶん今マニュアルどおりのことしか言えないから、もっと勉強しないと……」


 そこまで聞いて、つい私は吹き出してしまった。


「何、得するって? 佐和、そんなこと考えるんだ? あと、マニュアルとか勉強って……。ごめん、佐和がこんな人だと思ってなかったから、おかしくて」


「えっ、僕も一応高校生男子だし……っじゃなくて。ごめんねっ、僕なんかが偉そうに……」


「あはは。ううん、ありがとう。紅茶の方が良かったけど、これは貰っとく」


 佐和の手からイチゴみるくのパックを受け取りながら、私は何とか笑いを落ち着ける。本当にこのタイミングで笑えるとは思ってなくて、佐和の気遣いに少しだけ心が温まった。

 さっきのこと、きちんと謝ろう。


「ええっ、神様の言うとおりって二回もしてみたんだけど、違った?」


「ふふっ。もう止めて、佐和。私、さっきのこと謝りたいから」


 私の言葉に、佐和がきょとんとした後で柔らかい笑顔を見せる。


「謝られるようなこと、何もされてないよ? 僕の得する話と恋愛相談だけだったし。……僕じゃ役不足だったけど」


「え、でも……」


「あっ、もうこんな時間! 次逃したら一時間待ちだー。早河さん、急いで!」


「えっ、えっ?」


 壁に掛かる時計を見て叫ぶ佐和に追い立てられるように昇降口を出ると、「じゃあ僕、電車だから」ってあっさり正門で別れていく佐和。手に持つジュースと佐和の後ろ姿を交互に見て、私はもう一回吹き出してしまった。

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