第2話 ワスレタイ

 愛海の示した液晶画面に、私は真っ先に屋上へ向かった。


壮空そら!」


「み、のりっ?」


 やっぱりここにいた。

 私を見ると、フェンスに背を預けて座っていた壮空がはっと顔を上げ急いで立ち上がる。


「大丈夫っ?」

「大丈夫かっ?」


 重なる声の後で、壮空が私をじっと見つめてくる。今は壮空の肩の高さになった私の顔を必死に覗き込む姿に、少しだけ胸が鳴った。


「少し赤くなっただけで私は大丈夫だから。それより壮空はっ?」


 私の答えを聞くと、壮空がはああと長いため息を吐きながら再び座り込んだ。


「良かった……」


 壮空の呟きに続いて、私も同じように座り込む。


「俺が落ち着いたら行こうと思ってたけど、やっぱ美乃梨にも情報行くよな」


「もうっ、何で先輩にあんなこと。ケガはないのっ?」


 声を荒げる私に壮空が上目遣いで続ける。座ってても真剣な目は変わらない。


「何でって、美乃梨のこと聞いてムカついたから。気付いたら先輩の教室まで走ってた」


 ——何その理由。


「ムカついたからっていきなり後ろから蹴って「あ、蚊がいたんで」って、そんなの通じる訳ないでしょ! もう秋だよっ?」


「秋って、突っ込むとこそこ?」


 ははって笑った直後、口元を押さえ顔をしかめた壮空。口の端に少し血が滲んでる。先輩に許したのはそこか。


「これっ、ワザと殴られたんでしょ」


 小学生の頃、よく男の子たちからからかわれてた私を守る為って中学まで空手を習ってた壮空。もう三年近くやってないとは言え、あんな先輩に簡単に殴られる筈ない。


「痛たっ、いてーって、美乃梨!」


 叫びながら壮空の頰を引っ張る私の手を、壮空が手首を掴んで止めた。その力強さに、鼓動が変に乱れる。壮空と視線がぶつかって、向けられる熱量に顔が熱くなりそうだった。壮空が口を開く。


「男も女も浮気は許せても、手上げるのは無いわ」


「何その持論、浮気はしていいってこと? 最低じゃん」


 トーンダウンして自然を装い顔を背ける私に、壮空の手はさらに力がこもる。


「美乃梨にこんなことすんのはもっと無い。相手が誰だろうと絶対許さない」


 ドキリと封印した筈の音が鳴る。もう壮空の顔は見られない。風になびいて頬から髪が離れないよう、空いた左手で毛先ごと胸に手を当てた。


 ——だから、そういうの要らないから。


「わるい、やっぱまだ気が立ってるわ、俺」


 無言で応じる私から、ぱっと壮空の手が離れた。膝の上に置いた保冷剤の冷たさが分からなくなりそうで、そっと壮空の顔を窺うと、悔しそうな表情を浮かべている。後悔、だろうか。何となくそんな気がした。


「しかも俺には三人掛かりってすげー卑怯。あ、俺も後ろから行ったから同類か。あーっ、くっそ、あいつらと同じとかマジ最悪」


 珍しく感情的になる壮空に、私はまだ熱の冷めない手で保冷剤を取り、差し出した。いつもと違う自分を悟られないよう、笑顔で。


「ほら、とりあえずこれ使って」


「ああ……」


 受け取りかけた壮空の手が、私を見たままピタリと止まった。


「何で泣く?」


「えっ? 泣いてなんて……あれ?」


 パタパタと落ちる涙の音が聞こえる気がする。それ位、自分でも気付かないうちに私から涙が溢れていた。


「ごめ。何これ、違……っ!」


 焦って手で涙を拭った、次の瞬間。



 壮空がいた。


 私の胸の中に、私が、壮空の腕の中に。


 強く抱き締められていて、それを理解した時、心臓止まるくらい驚いた。



「そ、ら……?」


 名前を呼ぶのが精一杯で、身動き一つ出来なくて、どれが私で、どっちが壮空なのか、分からなくなりそうな距離に鼓動だけが反応する。


「言ったろ、気を付けろって」


 壮空の優しい声が右耳から浸透してくる。


「ご、め……っ」


 声が出せない。うまく息も吸えない。

 壮空の顔が見えない。

 壮空は今、どんな……。


「……ふっ。変わんねーなー、美乃梨」


「へっ?」


 突然吹き出して笑う壮空に、何とか首だけ動かして訊く。今度は左側から懐かしそうな壮空の声が胸を通して響いてくる。


「昔さぁ、美乃梨のおじさんが一人で子守してる時、美乃梨が泣き止まないっつって二人でよくうち来たの覚えてる?」


 壮空の言葉に慌てて思考を辿る。

 ぼんやりとだけど、確かに記憶はある。

 たぶん大した理由じゃない。お昼ご飯が可愛くないとか、お父さんの絵本の読み方が下手だとか、その程度なのに伝わらないもどかしさでよく泣いて、お父さんを困らせてたって。

 焦ったお父さんはお隣に行って「壮空君、助けてー」って、三歳とか四歳位の壮空に泣きついてたらしい。


「壮空君がぎゅってしてくれると泣き止むんだよーつって、俺がおやつ食いながらとか適当に抱き締めても、美乃梨は即泣き止んでたよなー。あれ、今でも有効でしたっておじさんに言ってやろ」


「いてて」っと言いつつ笑う壮空に私は腕の中で真っ赤になった。

 今のは、まだ守ってくれるんだって思ったら勝手に涙が出ただけで、急に抱き締めたりするから驚いて泣き止んだだけで。あの頃感じた安心感とは全然違うから!

 ……なんて今更言わないけどっ。


「や、めてよ! お父さんに言ったら怒るよ!」


「はいはい」と今度は頭までポンポンするのも、当時を忠実に再現してる。今の私は力一杯抵抗するけど。


 違ったのは、ここから先。


「美乃梨ならいいのにな」


「何がっ」


「俺の彼女」


「……はっ?」


 思いも寄らない展開に、また鼓動が強くなる。


 ——何、今日の壮空っ? 何か、変。


 次の壮空の言葉に全神経が集中して、身体が固まってしまう。

 そんな筈ないと頭では否定するのに、心が騒ぎ出す。


「美乃梨なら楽なのに。ウザいこと言われないし。帰るとこ一緒だし。何で幼馴染ばっか優先するのとか言って泣かれないし。泣き止む方法も、喜ぶことも、全部知ってんのに」


 ——楽、だから……。


 誰と比べてるの?


 聞かなくても、彼女に決まってる。


 だから嫌なんだ。本気でかけ引きするのも、期待するのも。

 ずっと諦め切れないでいる自分も。

 もう五年も、壮空の一言で揺れ動く決心も。


 その度にあの時の痛みが蘇って、何度も、何度も私を刺す。



 ——彼女、いるくせに。私なんて全然タイプじゃないくせに。


 分かっててこの腕を拒めないでいる私は、もっと最低だ。



 壮空のこと忘れさせてくれるなら、誰でもいい。

 なのに、どうして壮空に似た人を選んでしまうんだろう。


 こんなに冷静でいられなくなるのは壮空だけで。触れられて緊張するのも、熱くなるのも壮空だけで。


 それでも、触れて欲しいのはニセモノじゃない本物の壮空だけなのに。

 いつも考えてしまうのは、この壮空のことだけなのに。


 望んでも空想として終わっていく想いなら、嘘の現実とすり替えて、けて消えて無くなればいい。


 そう思うのに、早く忘れたいと願う程、誰一人として壮空を忘れさせてはくれない。


 だから。


「壮空の彼女には絶対なんないっ」


 そう言って、私は強引に壮空から離れるんだ。

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