第106話 倒木


 水脈みおの大蛇は、はるか天空に昇り、なばりの型——神楽舞いによって、最後の光を地に貫いたのだ。その光景だけが、おぼろな記憶のなかで目に焼きついていた。


 ようやく稽古場のそばまでたどり着くと、いつも眺めていた桜の木は根元まで大きく裂け、幹の白い生木が露わになっていた。

 そのさまを間近にし、桜子は息を呑む。瑞彦によると、桜の木のそばには砕かれた『水神の剣』が落ちていたという。今は回収され、刀鍛冶かたなかじの手で修復されたのち、また奉納される予定らしい。



 ——この木が、里を守ってくれたんだ。



 それを見た瞬間、あの日のことが鮮やかによみがえった。五瀬川を前に剣を振りおろしたとき、桜子を呼んだ、薫の確かな声も。

 稽古場の辺りに、人の気配はなかった。どれだけ待っても、付近を探しても同じだった。


 ここ数日の豪雨と川の氾濫で、亡くなった人がいないわけではない。片付けの手伝いに来た祖父や父に薫のことを聞いても、あきらめたように首を振るだけだった。


 ——が、断念することはできなかった。

 桜子は、薫の声を確かに聞いたのだ。

 水脈筋の奥から。呼びかける澄んだ声音を。


 と、そのとき物影が動いたような気がして桜子は振り返った。

 そこには葦原で別れたはずの、優が立っていた。韓藍からあいの忍び装束に脚絆をまき、片方だけ手甲を付けている。


「優さん」


 桜子は、意外なものを見た驚きで思わず声をあげた。もう会えない人だと思っていたのだ。

 優も、訪れるつもりはなかったのかもしれない。

 桜子が見つめると、自嘲するような笑みを口元に浮かべて言った。



「桜子。無事でよかった」


 それだけを言うために、ここに来たわけではないことは明らかだった。桜子が口を開く前に、優は言葉を続けた。


「桜子なら、きっと薫を探すだろうと思って。その必要がないことを告げに来た」


 桜子は蒼白になり、景色が遠ざかるような感覚におそわれた。優がわざわざ足を運ぶなら、どういう用件か絞られると思ったのだ。



「それは、薫が——もう死んだということ」


「いや、半分死んだと言うべきか」


 優は言いにくそうに、曖昧に口を濁した。

 どこかで聞いたことのある台詞だ、と桜子はいぶかしむ。その直後、撫子が語った言葉であることに気づいた。天上のもやのなかで、桜子にむけて言いはなった口吻こうふんと同じだと。

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