第105話 爪痕


 ふたたび桜子が目を覚ましたとき、お宮の外は雲間から差す光に満ちていた。ふすまを透かしても、雨あがりの湿った空気とともに青空がのぞくのが分かる明るさだった。


 桜子はあれから、三日ほど眠っていたらしい。

 夏芽がずっと側にいてくれたのか、桜子が目を覚ましたことを知ると、大慌てで医師くすしを呼びに行った。寝てる間に着替えさせてもらえたらしく、桜子は白い単衣ひとえ姿で横になっていた。

 長く昏倒していたせいもあり、体がだるく端々がしびれたが、じきに良くなるだろうと思える痛みだった。


 清乃が入れてくれた温かい白湯をすすりながら、桜子は、今ここにいる奇跡をひとり噛みしめていた。戻ってこられたのは、撫子の舞いのお陰だということは、しばらく胸に秘めておくつもりだった。

 一方で、清乃は少しうるんだ眼差しをむけて言った。


「あなたがずっと目覚めなかったらと、途方に暮れていたのよ。前にここで、撫子さんのようになれないと言っていたでしょう。それは、違うのよ。

 私も瑞彦さんも、桜子が守り手の血をその身に引き継いでいることを知っていた。力が目覚めれば、必ずその手で異界を開いてしまうと」


「異界を——開く?」


 桜子がつぶやくと、清乃はうなずいた。


「撫子さんが八岐大蛇の分霊を呼び覚まし、水脈の奥深くに行ってしまったことで、それははっきりしたのよ。古来から、そういう力を持つ巫女の血筋はいるの。瑞彦さんは少しずつ、舞いの所作を型のなかへ封じ込めていった。秘められたまま、継承されるように。

 力を開いて、あなたまで、底知れぬ異界へ行ってほしくなかった。でも、あなたはすべてを終わらせて、戻ってこられたのね。恐れて何も見ようとしなかったのは、私たちの方なのかもしれない」


 そんな風に語る清乃のさまを見て、桜子はあらためて何も知らなかったことを痛感した。でも、今はすべてを喜ぶ気持ちにはなれなかった。まだ知らなければいけないことが残っている。



 医師は絶対安静を言い渡したが、起きあがることができるようになると、じっとしていることはできなかった。桜子は小袖と緋袴に着替えると、一度山を降りることにした。


 本当は桂木の見舞いに行きたかったが、安静を言いつけられている手前、大手を振って駆けつけることもできない。

 会わせる顔がない、という暗い後悔もまた、重く胸の底に沈んでいた。桂木を隻腕せきわんにしたのは、大蛇にひるんだ桜子の過失に思えた。


 あのとき桂木が桜子をかばわなければ、本当に死んでいたのかもしれないのだ。今すぐに見舞いに行くことはできなくても、謝辞の表明と償いをしたかった。



 降り続いた雨といかずちは、大きな爪痕つめあとを里に残していた。家屋は押し流され、跡形もなくなってしまったところも少なくない。

 北の方では山の土砂があふれた川を濁らせ、鉄砲水となって流れ込んだという。お宮に避難していた里の人達も、空に晴れ間が見えるようになると、次第に片付けに戻ることが増えていった。


 そんななか、桜子の胸に浮かんだのは、薫のことだった。彼が助かったのか、今どこにいるのか、この目で確かめなければならない——と。



***



 数日後、家族の目を盗んで、桜子はまだ残るぬかるみを避けながら稽古場へ向かった。


 あのとき起こったことが本当のことなのか、思い返しても現実感がなかった。そしてあの、天上の神楽舞い——撫子の姿を、桜子はとうとう目にすることができた。


 薫は、水脈筋の奥深くで。

 桜子は、天の川に見まがう筋のみぎわで。


 そうなるように定められていたのだとしたら、とても不思議だった。合わせ鏡のように、血を分けた異父の姉弟は、撫子にその場所でしか会えなかったのだ。



 天上のもやのなかで、撫子の顔を見た瞬間、桜子にはそれがハッキリと見てとれた。撫子のやわらかな目元も、その面立ちも、薫とよく似ているものだったから。


 今では優がどうしてあれほどの怨恨をもったのか、よく分かった。撫子のことを、本当に愛していたのだ。



 ——たぶん、お父さんはこのことを知らないだろう。


 里にいられなくなった理由を、薫はどこかで知っていたのかもしれない。「薫は、すでにすべてを承知している」 と言った瑞彦の言葉も、同時に思いだした。


 優と瑞彦の仲がとても悪かったのは、ただひとり祖父だけが、真相を知っていたからに違いなかった。

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