第89話 合わせ鏡


 次に気づいたとき、桜子は薄いもやのなかにひとり佇んでいた。

 頭上を、黒い雲が覆っている。その雲にまぎれるように、虹色に散る光の筋が彼方かなたへ伸びていた。


 既視感を覚えたのは、水脈筋で見た景色とよく似ていたからだ。幾度となく導かれて、降りたった黄泉よみの淵。

 水脈筋では、地の底はどこまでも暗く、そばを光る川が流れていた。


 今、はるか天上には渦巻く黒暗の雲がたちこめている。そして、かたわらにはあまの川のような光の筋が、どこまでも遠く流れてゆくのだった。

 まるで地上をさかいに映した、水脈筋の合わせ鏡のように。


 桜子は、闇に呑まれてゆく瑞雲ずいうんに似た光の交錯こうさくを眺めながら、ここがこの世のどこでもない場所だということに、突然気がついた。



 ——私、とうとう死んでしまったのではないかしら。



 妙に冷静な気持ちで、桜子はそう思った。

 見ると、桜子は最後にまとっていたのと同じ、卯の花の白い小袖に深緋こきあけの袴と足結あゆいを身につけている。


剣を振りおろしたときと同じ格好のままでいることが、現実味のある状況としてせまった。


 桜子の体からは、弱い光が途絶えそうに細く伸びている。それは今にも消えそうな光であり、暗雲のなかへ呑みこまれようとしていた。


 ここでは、桜子の存在はどこまでも異質だった。

 はるか遠い幽宮かくれのみやへ続くさかいに、真実立っているように思えたのだ。


 戻るすべは、もう分からなかった。

 それならば仕方ないと、冷めた感慨が心の底に横たわっていた。半ばあきらめに近い、奇妙な気持ちだった。恐れはもう、身の内にはなかった。


 桜子は、自分のもといた場所を思いだそうとして、それができないことに気がついた。

 その頃には、桜子の体は風前の灯に似て、今にも透けてしまいそうな淡い光のなかに包まれていた。




***




 そしてその異変を、誰よりも早く感知した人物がいた。

 それは水脈筋の奥深くから、桜子に呼ばれていらえた——薫だった。



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