第82話 黒い渦


 しかしだからこそ、屈してはいけないという思いが湧きあがった。そのためにできることなら、どんなことでもしてみせるという気が。

 桜子は数歩下がると、桂木にむかいささやくように言った。


「桂木さんは、おじいちゃんに伝えて。この場はなんとかおさめてみせるから。私を探すような真似はしないようにと」


「桜子さん、それでは」


 桂木がとがめるような声で狼狽する。

 二人が言葉を交わすのを見てとった桔梗は、目を細めて言った。


「覚悟は決まったか。真に利口なら、拒むことなど端からしないものを」



 桜子は、静かに桔梗の方へ一歩進みでた。

 それを桔梗は承諾の印ととったが、桜子が重心を低くしたのに直後眉根を寄せた。取り囲む者たちの警戒と殺気が、瞬間場に満ちる。


 桜子は深く踏み込んで、虚空に腕を伸ばした。

 大きく転換する。

 無意識に、隠の型に足を運んでいた。

 まるでこの場に、結界を敷くように。


 桜子は、いずれ剣の巫女となる者が、この世とは違う磁場を生むことを知らなかった。

 目の前の風景が溶けてゆくような感覚。

 ただ無心の足運びだけがあり、桜子は集中して流れるままに動いた。


 演武のさなか、桜子は何も意識していなかった。

 桔梗の、まるで射るような眼差しすら。

 『月読』がむける不穏な空気も、桜子の生むこの場には届かない。


 層を切り拓いていく感触があった。

 ちょうど、薫の消えた五瀬川の方角。

 黒い渦が水面にたち始める。



 桜子が動きをとめたのは、異様な気配を先に感じたからだ。それは水面でひと通り渦を巻くと、うねるように川岸に現れた。



「……そなた、今の動きで何を呼んだのじゃ」



 桔梗がわずかに震える声で聞く。

 問われても桜子は答えられなかった。

 目の前に現れたのは、濃い闇のかたまりのような毒々しい気をまとう何かだった。


 ——水脈筋に現れた影のような。


 正体が判然としないものだけに、桔梗も声に恐れをにじませた。桜子もどうしてこの影が出てきたのか、理解できなかった。


 揺らめく影は、川底の濁った臭気を辺りにはなちながら、どんどんその大きさを増してゆく。その揺らぎ方は、さながら長い虫のようだった。



 ——まるで大蛇おろちのようだ。



 桜子が心の隅でそう感じた刹那せつな、それは形を変えて、本当に赤い目と舌をもつ黒いくちなわへと成り変わった。


 大蛇は威嚇いかくするように桜子を一瞥いちべつし、遠い天にむかって咆哮ほうこうをあげる。

 吼えたける声に呼応するように、黒い雲が彼方から湧きあがった。いつのまにか蛍の姿は消え、辺りの闇がいっそう深くなる。

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