第78話 夕星


 夏至が近いためか、夕星ゆうずつが現れても西の空はまだ明るかった。

 ほのかににじむ夕暮れの気配は淡く、夜はまだ遠いように思える。だが足元の影は次第に伸びてゆき、暗くなるのも時間の問題だった。


 日暮れが遅くなってゆくこの時期に、川辺で光を放つ蛍は桜子も好きだった。しかし『月読』のあるじが、わざわざその蛍火を眺めに、この界隈を訪れているとは思えなかった。

 蛍は夏の前触れに姿を見せる美しい虫ではあるが、川が近い里では毎年見る風物詩に過ぎない。

桂木は五瀬川へ向かう途中に言った。


「狙いは、やはり桜子さんにあるのでしょう。しかし蛍狩りをするというのも、虚言そらごとではないのかもしれません。夏の夜に、蛍を御殿にはなつ遊びもあると聞きますから」


 桜子は、すめらぎとはやはり相容れないとの考えを深くした。そんなことをすれば、蛍はじきに死んでしまうだろう。それでもかまわないと思えるかどうかが、決定的に違うところなのだ。


 ——と、目の前を青白い光が横切り、消えてゆく。 

 草の茂みに隠れるように消えた光の先には、清らかで静かな水の流れがあった。稽古場の裏手にある山沿いの道を渡ってから、それほど経っていない。

 

五瀬川をのぞめる場所までたどり着くと、桜子の胸に浮かぶ光景があった。



「ねえ。ここ、薫と初めて会った場所に似ている」


 ささやかれた声を、聞いていたのだろう。

 その言葉に、薫はうなずいた。


「似ていて当然だよ。だってここが、その場所なんだもの」


 桜子は思わず声を高くした。


「薫は覚えているの?」


「すごく印象に残っているから忘れないよ。この流れが稽古場にある水脈筋の奥まで続いているんだ」


 桜子がそれに何か言おうとしたとき、桂木が素早く二人の腕を引いた。


「誰かがやってきます。早くこちらへ」



 川べりを離れ慌てて桜子が草むらに身を伏せると、狩衣かりぎぬを召した数人の御者や車副くるまぞいとともに、音もなく網代車あじろぐるまが現れた。

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