第61話 荒屋( 2 )


「そんな小さな頃から、あの場所にひとりで行けたの?」


 黄泉の淵だと、優は言っていた。『月読』のなかでも、彼ひとりしか訪れることができない地層の底。


「そこが特殊な場所だなんて、思いもしなかった。何かに呼ばれている感覚がして、気がついたら足を踏み入れていた。どういうところか知ったのは、桜子さんに会ってからだよ」


「そうだったの……」


 桜子はそっと、吐息をつくように言った。薫はあの闇が広がる場所に、そんなに幼い頃から馴染んでいたのだ。


 ——私だけが特殊なわけじゃない。薫の方がずっと、普通とは違う特別な男の子だった。


 薫は戸口で立ったまま言葉を重ねた。


「あそこに行けるのは、僕の知るうちでも優だけだ。師範も前は隠密だったけど、水脈筋に降りたことはなかった。あの場で影に捕まると、二度と帰ってこられないと聞く」


 桜子は、影と話したことを思いだした。


「あの影はいったい何? 水脈筋でとらわれた魂だったの?」


「そういう言い方も、あるいはできるかもしれない」


 薫は慎重に言った。


「僕は、水脈みおの大蛇の一部なんじゃないかと思ってる。撫子さんは、大蛇の鎮魂たましずめのために舞ったんだ」


 ——そうだ。あの影も同じことを話していた。


 桜子は回想しながら、改めて薫を見た。


「私、お母さんと同じことはできない。なばりの技と神楽舞は違うものだから」



 天地のことわりを正し和合させるのが母の神楽舞なら、桜子のしようとすることは、ただ災禍をもたらすだけかもしれない。そう考えると、恐ろしかった。


 だが、影が桜子に尋ねたのはそういうことなのだ。

剣の力を解き放つことで起こる嵐を、天のいかずちを、その身でどう収めるつもりなのかと。


「でも、それなら真っ向から勝負するしかないという気がするの。誰かに囲われて利用されるなんて、まっぴらだもの」


 桜子がそう強く言い放つと、薫は少し笑ったようだった。再会して初めて見せた、打ち解けた笑みだった。


「ようやく、桜子さんらしくなってきたね」


 思わぬことを言われて桜子は目をしばたく。


「それ、どういう意味?」


「そういう何者にもとらわれないら気概を持っているからこそ、桜子さんなら、剣の力を解放できるという気がするんだ」


 あまりに陰りのない口調だったため、桜子は一瞬二の句が継げなくなった。と同時に、胸の奥にひとつの疑念が浮かんだ。


 ——薫は、おじいちゃんが語った災厄のことを、もしかしたら知らないのかもしれない。


 桜子がそう考えをめぐらせていると、薫の後ろに立つ人影があった。


「いつまで戸口に立っているつもりなんだ。少し休んでおけと言っただろう」

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