第57話 黄泉の影


 見えない層をくぐり抜けたことに、初めのうち桜子は気づかなかった。だがそこが現実とは違う特殊な場所であることは明白だった。

 桜子が手にした扇は光り輝き、ますますその極彩を強くしてゆく。


 ——薫。


 衵扇あこめおうぎを手に、桜子は名前を呼んだ。


 ——いるんでしょう、薫。


 そう叫んだつもりが耳鳴りがして、声の響きを聞き取ることができない。足元が見えないほどの闇はまるでかくり世のよう、手にした扇だけが鮮やかに空を舞った。


 桜子は辺りを見渡す。

 常闇とこやみに包まれて、何も見ることができない。と、背に冷たい気配を感じて桜子は金縛りにあうように身動きがとれなくなった。



『ここは、そなたが来るところではない』


 地底に響くような声だった。

 桜子は背筋が粟立あわだつのを感じた。身じろぎができず、声を出すこともできない。


『この闇に呑まれれば、黄泉の世界の住人になってしまうぞ』


「あなたは……」


 桜子はやっとのことで、それだけを口にした。


『私はここにまう名もなき影。そなたの探している少年は、ここを下ったずっと先にいる。そなたの力では、そこまで辿りつけまい』


 扇は既に桜子の手を離れ、奥深くへ漂おうとしていた。桜子は体を動かそうとしたが、泥土でいどにはまったように両足はその場に縫い付けられていた。


「あなたは何者なの」


 桜子は歯を喰いしばり、もう一度叫ぶようにそう聞いた。どんどん体が、足が沈んでゆく。扇をつかもうとしても、あいにく腕が全然届かなかった。


『私は水脈に眠る影にすぎない。だが、その扇には見覚えがある。そなたの母も、やがて私の一部になるだろう』


「母を知っているの」


 桜子はあえぐように口にした。

 姿のない影の声が響く。


『そなたの母は神楽かぐらを舞うことで水神と和合し、その身をもって大蛇おろちを鎮めたのだ。剣の守り手であるそなたに何ができる。むやみに力を使えば、この地のことわりを乱すことになるぞ』


「分かってる。だからこの力を還すことにしたの」


『もう決めたことか』


 桜子が胸に迫る土塊つちくれから目をそむけながら頷くと、影はおごそかに告げた。


『さすれば災禍さいかを生むぞ。解かれた力は天空で勢いを増し、いかずちを呼び、地を揺るがすだろう。それをどう収めるつもりなのだ』


 桜子は向けられた問いを前に口をつぐむしかなかった。


 ——おじいちゃんが「災いが降る」と言ったのは、そういうことなんだ。それだけの犠牲を承知で、やり遂げなければならないことなんだ。


 桜子は唇を噛み、絞りだすように言った。


「その方法は、まだ分からない。でもきっと、なんとかしてみせる。私をここから出して。薫を探しに行く」


 すでに泥土はあごにまで迫っていた。気丈に振る舞っている桜子も、恐怖に負けたら叫び出しそうだった。

 しばらく影は何も答えなかった。桜子が観念して目をつむると、諦めるようなあざけりの声がした。


『そなたでは辿りつけないと言っただろう。だが、どうやら向こうから来たようだ』


 そこで、影の気配が途切れる感触があった。桜子が言われた意味を測りかねていると、いきなり近くで懐かしい声がした。


「ここにつかまって」


 桜子は一瞬耳を疑った。

 いつのまにか冥暗めいあんの闇は薄らぎ、桜子は腕を動かせることに気づいた。桜子が無我夢中でしがみつくと、足が抜けるような感覚がし——ふたたび体は虚空こくうへ投げ出された。


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