第56話 扇


 息を継ぐ間もなく駆けてゆくと、優の言う小山にたどり着いた。この辺りは山からくる水脈に接していると、伊織は言っていた。この山のことだろうか。


 足を踏み入れると木々で月の光が遮られ、自分の体も薄い闇にまぎれるようだった。

 湿った夜気を含んだ風の匂いが強く香ってゆく。

 ——と、押し殺すようなささやき声がした。



「すぐこの近くにいるはずだ。御身に大事ないよう、必ずお連れしろ」


 その声の近さに桜子は青ざめた。

 足音も何も聞こえなかったため、まだ追われていないと思っていたのに。



 ——この人たちは、本物の忍びなんだ。

 足跡も残さず走ることができる。


 それでは見つかるのも時間の問題だった。とても優を待っていることはできない。と、強く握りしめているものの存在に、今さら気づいて桜子は手元を見た。


 ——そうだ、今はお母さんの扇がある。



 これがあれば、薫のところに行けるのではないか——


 もともとそのために妻戸を開けたことを桜子は思いだした。思わぬ事態になってしまったが、あの邸を抜けだした今が好機だった。


 ——たとえ体がもたなくなるにしても、ここでつかまってしまうより良いはずだ。


 桜子が扇を広げると、それは鮮やかなくれないの色に染まった。月の光に吸い込まれるように、手のひらを返して闇を切りひらく。


 最初の型の足拍子をとらえるまでもなかった。

 扇を手に返した桜子は、見えない闇に呑み込まれるように、直後その場から失せて消えてしまった。

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