第55話 追手



 ——もう、こんなところにはいられない。


 そう強く思ったのと、優がひざまずいたのが同時だった。


「あの塀を越えて行こう。この背にのれ、桜子」


「行かせると思うかい」


 桜子はかまわず優の背に乗った。

 直後、優はふところから鉤縄かぎなわをほうり投げた。

 桜子を抱えたまま、敏捷な動きで檜皮葺ひわたぶきの屋根へ跳びあがる。そのまま東の対屋たいのやへ続く渡殿の上を駆け抜け、同じ入母屋造いりもやづくりの屋根から跳躍し、侍所さぶらいどころの屋根に飛び移ると、築地塀はもう目の前だった。

 そばの庭木を足がかりに登る——と、土塀に鋭く何かが突き刺さる。優は足場を取られ均衡を崩したが、転落することだけはまぬがれた。ガキン! と刺さったのはクナイだった。素早く身を伏せた優は、桜子を背後にかばったまま言った。



「先に行け、桜子。こいつの相手をしたら俺も行く」


 後ろを振り向いている余裕などはなかった。

 月明かりを頼りに目測でおよその距離を推し量ると、桜子はすべるように塀から落下した。

 受け身を取ったがしたたかに背中を打ち、その衝撃を受けて転がると、剣戟けんげきの刃音に混ざり叱咤しったする声がした。


「すぐ裏手に小高い山がある。行くんだ」



 それ以外、言葉を交わす暇はなかった。

 ここでつかまったら、もう二度と外に出られなくなるかもしれない。それを直感し、桜子はもてる限りの力を使って走った。

 やしきの塀から離れれば離れるほど、深くたちこめた霧が晴れるように、頭のなかが澄んでいくような気がした。


 ——あそこにいると、私は私自身ではいられなくなってしまう。そうなるように仕向けられていた。


 もう少しで、誰かに利用されるだけの存在になるところだった。相手がたとえすめらぎと呼ばれる者でも、かごに棲む鳥のように飼われて生きていくのは嫌だった。

 それでは自分自身を失うのと等しい。それがいくら栄誉であろうとも、伊織が言ったのはそういうことなのだ。

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