第43話 伊織( 1 )


 ピチャンと水のしたたる音がする。

 冷たい布で額を拭われた感触がして、桜子は目を開けた。にじんだ風景の先に、手巾しゅきんを持った女性の姿があった。



 ——ここは。


 桜子は身を起こそうとしたが、どういうわけか力が入らなかった。手足がだるく熱を帯びている。

 もう一度水音がして、桜子はそちらに首を動かした。見ると、表面に草花を描いた水差し——半挿はんぞうの隣に、左右にのついた漆塗りの角盥つのだらいがあり、透明な水がたたえられている。



「お目覚めですか」


 ついで、萌葱もえぎと濃い紅梅の小袿をまとった女性が目の端に映り込む。

 もう一度起きあがろうとした桜子を、そのおみなは手で押しとどめた。


「どうぞこのまま休んでいて下さい。まだ少し熱があるのです」


「……ここは、どこ」



 桜子は二畳ほどの薄縁うすべりの上に横たわっていた。平絹ひらぎぬの几帳で仕切られ、外を見ることはできない。

 驚くことに、女は桜子に深くこうべを垂れた。



「どうか先の無礼をお許し下さい。でもあなたをお連れするには、ああするしか方法がなかったのです」


 何も言えずにいると、女は桜子に弱く微笑みかけた。


「あなたのお世話を任された、伊織いおりと申します。どうぞお見知り置きを」



 ——私、さらわれたんではなかったっけ。



 和人におどされて気を散じたことは覚えていた。

 その合間に昔の夢を途切れ途切れ見た気がするが、思いだせない。


「ここは、お方様の所有する屋敷の一角です。ひさしの間を几帳で隔てただけの所ですが、どうぞご寛恕かんじょ下さい」


 伊織はそう言って、傍らの高坏たかつきの上にあるさかずきに、琥珀色こはくいろの液体を注ぎ入れた。


「もう少しすれば起きられるようになるでしょう。薬湯を飲めば、楽になるはずです」



 ——これが、体に負荷がかかるということなの。



 熱を出すなんて、幼い頃以来だった。

 風邪ひとつひいた覚えのない桜子なのだ。そうなると、無防備に横たわる自分が急に頼りなく思えて、桜子は目の前の女性、伊織を見つめた。


 桜子より、少し年上だろうか。

 物腰は柔らかく所作は落ち着いていて、人の世話に慣れている雰囲気が感じられる。腰まで伸ばした髪を背でゆるく束ねているせいか、瓜実うりざねの面立ちはより明るく見えた。

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